ガールズちゃんねる

身近な人から聞いた戦争体験

1875コメント2019/09/06(金) 11:28

  • 501. 匿名 2019/08/10(土) 22:54:13 

    祖母の実家がある地域はたくさんの若者が満蒙開拓団に行ったそうで、祖母の姉も夫婦で満州へ行ってた。なんとか帰ってこられたけど、親兄弟には引き揚げの話を一切しなかったらしい。

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  • 502. 匿名 2019/08/10(土) 22:54:25 

    祖父が戦争で中国に渡り、帰国する際に孤児になっていた赤ちゃんを見捨てることが出来ず抱いて帰って来たそうです。
    ずっと遠い親戚のおばさんだと思っていた方が祖父の葬儀の際にその孤児だった方だと知りました。祖父がいなければ今の自分はないと仰ってました。
    お子様はいらっしゃらなかったと思いますがご結婚もされ、日本で幸せに過ごされている姿を見ると祖父の孫で良かったなと誇りに思います。

    私も在日の方たちは国に帰って欲しいと思っていたのですが、戦争の影響で在日になった方もたくさんいるんだなと考えさせられました。

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  • 503. 匿名 2019/08/10(土) 22:54:42 

    じいちゃんに夏休みの宿題で聞いたけど満州に行ってたこと。
    とにかく逃げまくってた話しかしなかった。
    ウサギはごちそうだったよ、とかそんな話ばっかりで。
    大して苦労してないんだ、なんて子供の頃は思ってたけど言えない程辛かったんだろうな。
    じいちゃんに会いたいなぁ。

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  • 504. 匿名 2019/08/10(土) 22:54:44 

    祖父は戦時中満州にいた為、終戦後シベリアに4年間行ってた。
    鼻が取れないようにいつも鼻を擦って温めていたと言っていた。じゃないと鼻が凍ってポロっと取れちゃうんだよーって。あと、飲み物無いからオシッコ飲んでたとか。
    でも、戦時中の話は一切したがらなかった。

    4年間の強制労働を終えて実家に帰ると、親から「何で生きて帰ってきたんだ!」って言われたらしい。
    祖父は3男だったし当時は食料不足だったから迷惑がられたって。
    曽祖父母が自分の子供にそんな事言うなんて…ってかなりショック受けました。

    +157

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  • 505. 匿名 2019/08/10(土) 22:55:38 

    >>59

    憲法改正は戦争を避けるためです。

    +255

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  • 506. 匿名 2019/08/10(土) 22:56:04 

    祖母から聞いた話。今は亡き祖父は、少年だった頃予科練だった。戦争に行く2日前に終戦となり祖父は戦争に行かなくて良くなったけど帰ってきた時に非国民だと言われたと。もし戦争が終わっていなければ、神風特攻隊として敵軍に突っ込み撃墜してくるのが司令で、帰りのガソリンは初めからなかったって。若い健康な男の子は兵士として選ばれ、それは名誉な事だという時代っておかしいと思うけど、戦争は全員をおかしくするんだなと思った。
    次祖母に会ったら戦争の話を忘れないようにもう一度聞かせてもらおう。

    +73

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  • 507. 匿名 2019/08/10(土) 22:56:12 

    アラフォーですが、やはり小学校の宿題で祖父母に戦争体験を聞くというのがありました。
    母方の祖母は石川県の海辺の小さな町に住み太平洋戦争中は小学生で直接空襲には合わなかったようです。金沢あたりの裕福な人が綺麗な着物を持って食べ物と交換してほしいとサツマイモと交換したり、食べ物がなくて海岸に打ち上げられてる海藻や小さな貝を拾って食べたと。
    富山の空襲が海から見えて夜なのに空が真っ赤でとっても明るかったと話していました。

    父方の祖父は海軍のエリートだったようで、戦後総理大臣から表彰されどういう名目かは忘れてしまいましたが、毎年結構な額のお金を国から支給されていたと亡くなってから聞きました。
    本人は何も話さなかったので、辛い思いをたくさんしていたんだろうなぁ。
    東京大空襲で祖父のお姉さんがお風呂の浴槽に蓋をして隠れていたらそのまま燃えて蒸し焼き状態だった話だけはしてくれました。

    聞いた体験談をそれぞれ授業で発表し合うんだけど、かなり生々しい表現のままの体験談をそのまま話す子もいたから、泣き出す子がたくさんいたな…

    +85

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  • 508. 匿名 2019/08/10(土) 22:56:39 

    >>428
    川の話は私も聞いたことがあります。
    戦後74年も経ちますが、実はまだ1世紀も経っていない身近な問題のはずです。
    夏休みはやはり、悲しくてもテレビは戦争を特集し続けて欲しいですね。
    話してくださり、ありがとうございます。

    +75

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  • 509. 匿名 2019/08/10(土) 22:57:46 

    祖父母が子どもの頃。
    祖父は空襲から逃げてて焼夷弾の欠片が足に当たったらしく今でも跡が残っています。
    祖母は防空壕から出る時に後ろを振り返ったら爆弾が。(雨で濡れていたため爆発しなかった)
    毎日生きるか死ぬかの日々だと思うと聞いただけで怖くなる。

    +68

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  • 510. 匿名 2019/08/10(土) 22:57:50 

    私の母の実家は名古屋城が燃えた次の日に、焼け出された。
    家が燃えてしまったので、広島の呉市の親類の家(私から見たら母の祖母にあたる親類の家に)に疎開。
    原爆が落ちた日に広島市に向かって飛んでいくB29がすぐ上を飛んでいたのを見たと。
    その日はいいお天気で朝から空襲警報があって、警報解除で防空壕から出て暫くしてからの時間だったと…解除したのに?
    と、不思議に思って家に戻ってトイレに入って窓から外の様子をチラッと見たときに、何か雷のようなモノが光ったと思ったら大きな音がして広島市の方から大きな煙がもくもくと見えていつもとは何か違うと思いその時はとても怖かったそうです。

    +82

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  • 511. 匿名 2019/08/10(土) 22:58:26 

    「飛行機におっかけられて
    バババって機関銃撃たれたけど
    おばあちゃん
    小さいとき足が速かったから
    助かったんだよ」って
    よく祖母が話してくれましたが
    そんな幼い子にも攻撃してたなんて
    すごく恐ろしいし
    狂ってたんだなと思います。

    +153

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  • 512. 匿名 2019/08/10(土) 22:58:30 

    >>133
    今ならこのクソ教師、懲戒免職もんじゃない?
    生徒のお爺さん達をわざと傷つけるような宿題出してニヤニヤしてたのかね、気色悪い。

    +263

    -3

  • 513. 匿名 2019/08/10(土) 22:59:46 

    実際に戦争に行った親戚はみんな戦死してるから話が聞ける人が羨ましい

    +24

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  • 514. 匿名 2019/08/10(土) 22:59:51 

    戦時中、博多で看護師してた人に話を聞いたことがある。
    満州から船で引き揚げてきた人たち、女性は乱暴されないよう坊主にして顔もわざとすすで真っ黒。だけど、お腹は大きい。
    その病院では引き揚げ者の出産や中絶の手術をしていたそう。取り出した胎児?赤ちゃんはやっぱり外国人の顔して青い目だった(ソ連兵からの乱暴)
    もう聞いただけでぞっとして、満州からの引き揚げが壮絶で。ほんとに、あったことなんだと苦しくなった

    +146

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  • 515. 匿名 2019/08/10(土) 23:00:56 

    祖母は大阪寄りの和歌山の山間に住んでたから比較的空襲などには無縁だったようです。兄弟も皆無事だった。ただ近くの軍需工場は爆撃されたと言ってました。小学校の低学年で終戦。
    遠足のお弁当すらサツマイモだったようで芋嫌いでした。金持ちの家の子はご飯の下?サツマイモの下?に玉子焼きを入れてもらえていたらしく、
    周りから僻まれないように隠して食べていたとか。
    貧しい田舎者で女の子だった祖母は小卒でしたが、読み書きや生活には何の不自由もありませんでした。
    晩年はピザとかスパゲティとかが好きでしたね。
    幼かったからかあまり戦争に対する悲壮感とかは特に持ってなかったように感じます。

    +77

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  • 516. 匿名 2019/08/10(土) 23:01:20 

    亡き祖母の兄は当時役職に就いていたようで、終戦後自分より若い部下達が亡くなったのに自分だけが生き残った事実に耐えられず気が触れてしまったと聞いた。

    +83

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  • 517. 匿名 2019/08/10(土) 23:01:50 

    私が生まれる前に亡くなった曽祖父は軍医として中国の最前線に派遣された。よほど恐ろしい体験をしたのか、死ぬまでその時の話はすることがなかったらしい。

    +73

    -2

  • 518. 匿名 2019/08/10(土) 23:02:03 

    >>465
    深夜番組で、下記の番組の再放送をたまたま見たけれど、筆舌に尽くしがたいとしか言えなかった。

    色々な感情を揺さぶられる内容だから、書き込みしようか迷ったけど、このトピを読んだのも縁と思い…
    戦争の悲劇“特殊婦人”〜NNNドキュメント'16「奥底の悲しみ」(GALAC) - goo ニュース
    戦争の悲劇“特殊婦人”〜NNNドキュメント'16「奥底の悲しみ」(GALAC) - goo ニュースwww.google.co.jp

    ギャラクシー賞月間賞:NNNドキュメント16「奥底の悲しみ」2月21日放送24:55〜25:50山口放送太平洋戦争の敗戦で本土へ引き揚げてきたのは、軍人だけではない。着の身着の...


    宝田明も幼い頃に満州からの引き揚げてきて、当時の体験を語っていたけど、あのテレビで見る陽気な様子からは想像もできないような体験を語っていた。

    今の平和な日本に感謝しかない。

    +87

    -0

  • 519. 匿名 2019/08/10(土) 23:02:48 

    >>322
    貴重なお話し有難うございます。
    また宜しければお時間ありましたらお話し聞かして頂きたいです。

    +69

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  • 520. 匿名 2019/08/10(土) 23:03:14 

    >>478
    知り合いのおじいさんも帰る時に上官を皆で袋叩きにしたとか言ってたなー。散々なことされてきたんだもんね。そういう話って泣きながら終戦迎えたとかより全く美しくなくてリアルだ。

    +78

    -1

  • 521. 匿名 2019/08/10(土) 23:03:46 

    祖父は満州に行ってマラリアにかかったせいで、髪はすべて抜け落ちツルツルだった。出掛けるときはいつも、ヅラを被っていたよ。

    祖母からも焼夷弾を落とされパンパン鳴ったり火が出たり怖かったと聞いたことがあり、山陰の超ド田舎でもそんな事をされていたんだと驚いた。

    +61

    -0

  • 522. 匿名 2019/08/10(土) 23:04:15 

    ばーちゃん(88歳)が小さい頃ソビエトにいたと言ってた

    +15

    -1

  • 523. 匿名 2019/08/10(土) 23:05:12 

    >>215
    世界が驚いたみたいですね。
    大国ロシアを、小国日本が破った!って。

    北欧はロシアにいじめられていて日本応援していた。
    ユダヤ人達も、日本に資金援助をして応援した。(リーマンブラザーズの前身)
    さらに、ロシアは内政不安定な時期で、ガタガタであった。
    長旅でヨレヨレのバルチック艦隊が、予想通り対馬ルートでやってきた。

    色々な良い条件が重なり、ギリギリ勝った。

    +92

    -1

  • 524. 匿名 2019/08/10(土) 23:06:45 

    >>49
    不安も今の時代は生きづらいですが、人間の進化には欠かせない必要不可欠な感情だったというし。

    +70

    -0

  • 525. 匿名 2019/08/10(土) 23:07:05 

    >>504
    ひどい…いくら三男だからって…
    でもお祖父様が生きて帰ってこられたからあなたが生まれたんだよ。立派なお祖父様だ!

    +106

    -0

  • 526. 匿名 2019/08/10(土) 23:07:37 

    親戚のおじさんが幼少時に北方領土から逃げてきて、でも逃げきれなかったお姉さんの為にいまだに支援物資や金銭を送ってます。侵攻の際に女の人は悲惨だったと言ってました。

    +89

    -2

  • 527. 匿名 2019/08/10(土) 23:08:05 

    >>23
    横井庄一さんじゃない⁉️

    +24

    -3

  • 528. 匿名 2019/08/10(土) 23:08:11 

    広島、長崎ほど甚大な被害ではなかったけど祖母の故郷も空襲の被害にあったそうです。祖母の家は無事でしたがよく遊んでいた土手から見下ろした真っ赤に燃えた光景はいまでも思い出されると言っていました。現在認知症になってしまった祖母ですがそのことは忘れたくても忘れられないそうです

    +58

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  • 529. 匿名 2019/08/10(土) 23:09:21 

    NHKEテレで戦争とその後の話をしています

    +9

    -0

  • 530. 匿名 2019/08/10(土) 23:11:44 

    父方の祖父は戦争から帰還してきたと父が話していた。
    『親父は戦争で生き残って帰ってこれた。元々大人しい人で、母の尻に敷かれてばかりだった』と話していた。
    父方、母方ともに祖父は早くに亡くなったから直接話しは聞けなかったけど、自分が看護師になったから患者さんからたくさん話を聞けた。
    空襲で自分の家以外が焼け落ちてしまったおばあさんや、航空隊にいて苦労したじいちゃん、認知症で最近の事は忘れちゃうけど、戦争に行ってた事は覚えていて『自分も生きて帰ってこれるとは思わなかった。戦争はやったらいかん』とぽつりと話すじいちゃんもいて(みんな大正生まれ)貴重な経験をさせてもらったよ。

    +73

    -0

  • 531. 匿名 2019/08/10(土) 23:11:55 

    >>485
    自分はじいちゃん、ばあちゃんが戦争体験してて直接話聞けたけど、これからの子供はそれがなくなっていくんだもんね。よく考えれば自分の実の祖父母が世界大戦経験してるって、特殊というか自分も古い時代の人間になるのかなとか最近考えてる。
     戦争は怖い、絶対だめという危機感が薄れないでほしいな。

    +93

    -1

  • 532. 匿名 2019/08/10(土) 23:11:59 

    今のゆとり世代って、変に戦争描写がどうたら気持ち悪いね…

    直ぐに死ぬし生ぬるいんだよ

    +4

    -16

  • 533. 匿名 2019/08/10(土) 23:12:24 

    アラサーのわたしが子供の頃、おじいちゃんが戦争で満州に行った話とかしてくれてた気がする。銃弾が顔のすぐ横を通っていくくらい銃撃戦が凄かったと。でも子供の頃のわたしは全然話を聞かないでおじいちゃんが戦争に行った話をしだすと「またその話~?もういいよ」って怒ったりしてしまってた。
    年齢を重ねた今はなんてひどいことを言ってしまったんだろうって後悔の気持ちでいっぱいです。

    +100

    -0

  • 534. 匿名 2019/08/10(土) 23:12:44 

    聞いてはないけど写真で見た。
    祖父が兵隊で行ってて上等兵だった事が書かれていたり中国に居たり。
    凄かったのが祖父達兵隊さんの部屋だろうね。
    ベッドが置いてあって後ろに刀だったか銃だったかが立て掛けてあったり祖父が銃を持って立っている写真。
    銃を持って立っている写真は服装や風景から冬に外国で撮影したと思われるやつで衝撃的だった。
    何歳位だろう?
    恐らく20代位かな?
    兵隊さん達の集合写真なんだけど一人だけ違う服装の人が居て帽子も違ってて兵隊さんの中でも恐らく偉い人なんだろうけどこれも衝撃的だったな。
    後鳩兵と言うのもあったみたいで写真の横か下かに書いてあった。

    +46

    -1

  • 535. 匿名 2019/08/10(土) 23:12:53 

    >>224
    家の祖母も同じような事を言ってました。しかも決まって夕立の雷が酷い時に。きっと稲妻の音と空襲の音が被ったんだと思います。でも私は、いつもいつもその話を聞くものだから「もう分かったよ。何回も聞いた。」って疎ましく返してしまって後悔してます。いつもニコニコ優しい眼差しの祖母で、若い時には相当辛い想いをしたと思うのに、そんな素振りはあまり見せませんでした。ただもっと話を聞いてあげたり優しくしてあげれば良かったと悔やんでます。でも私はおばあちゃんに会えて良かった。幸せでした。

    +112

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  • 536. 匿名 2019/08/10(土) 23:12:55 

    昔は毎年火垂るの墓金曜ロードショーやってたのに最近毎年やらないよね?なんでなんだろう。私はアラサーだけどあれでだいぶ戦争について考える機会与えられてたと思う。今の若い世代って祖父母も戦争未体験だろうからむしろこういうの見た方がいいと思うわ。多少残酷でもさ

    +136

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  • 537. 匿名 2019/08/10(土) 23:13:39 

    亡くなった祖父はすごい田舎育ちなのに、女子も頭良いなら進学!今の時代英語は大事!って言ってたんです。女に教育なんて!の正反対。
    どうも祖父は、台湾師範に進学後に学徒動員でサイパンへ。敗戦でアメリカ軍の捕虜になったそうです。
    せっかく受験受かって、田舎出て海を渡って学生生活をエンジョイしてたのに、出征。優秀なのに学徒動員で亡くなった人も多かったでしょう。そりゃ子どもや孫には進学して楽しい学生生活を、って思いますよね。

    +80

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  • 538. 匿名 2019/08/10(土) 23:13:56 

    特攻隊は、現代で言うテロみたいなもの。
    それをバンザイして送り出すなんて、
    おなしな時代だった。
    戦争は、本当に怖い。
    国という上に立つ人たちが戦争を正当化して、そんな環境にして、国民をたくさん死なせた。

    がるちゃんにはお子さんいる方も多いと思いますが、
    子供たちが同じ目に遭うって考えたら、
    どんな気持ちになりますか?

    +17

    -32

  • 539. 匿名 2019/08/10(土) 23:14:03 

    >>520
    こういう話のほうが、戦争のリアルな残酷さを感じますよね。極限状態の人間の怖さがありますね。繰り返されてほしくない。

    +57

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  • 540. 匿名 2019/08/10(土) 23:14:12 

    >>13
    ウチの祖父は衛生兵だったけどワザと体温計をストーブであっためて?熱ある振りして前線行かなかったらしい。セコイ…

    +15

    -155

  • 541. 匿名 2019/08/10(土) 23:14:40 

    香川の高松市が真っ赤に焼けるのをまだ2歳の母が覚えてた。真っ赤で明るかったって。
    お腹空いたと泣く母に、軍人さんがお姉ちゃんと一つずつと言って2つくれたけど、飢えてた母が2つとも食べた。お婆ちゃんになった今も、お姉ちゃんに申し訳ないって話してる。

    祖父が海軍に出たのと同時に祖母が妊娠に気づき手紙を出すが、海軍にはなかなか届かなかったそうです。
    祖父が無事帰ってきた時に、祖父の知らない子供がいるから誰の子だ!と、かなり祖母と伯父を攻めたようようです。
    祖父に顔が似てきて長男と認めたのかな。
    長男の伯父は避難先の馬小屋で誕生した。
    見てない人増えたけど、見てほしいスレだよ。

    +141

    -1

  • 542. 匿名 2019/08/10(土) 23:15:07 

    他界した祖母の話ですが、
    17歳の頃に呉の軍需工場で働いていて、ちょうどその工場の近くに亡くなった人達を集める場所があったらしく、次々と集められた遺体が山となって、作業をしていた2階の窓から覗き込まなくても見えるぐらい遺体だらけだったらしい。

    私が幼い頃にたまたま見つけた祖母の写真、その工場の仲間との集合写真だったんだけど、仲間の半数以上にポツポツと赤いインクで塗られてて、「これどういう意味?」と聞くと、「この子も、この子もこの子も、戦争でやられたんよ」と悲しそうに教えてくれた。

    +97

    -1

  • 543. 匿名 2019/08/10(土) 23:17:37 

    >>413
    体の痛みっていうことに限って言えば、そのちょっとした痛みで検査を受けて癌とかが見つかって治療できるならいいのでは?
    痛みを我慢して、気づいたときにはもう手遅れみたいなのよりはいいと思う

    でもたぶん軍医さんが言いたいのはきっと、辛抱強さが無くなったってことだよね
    精神的に弱くなったってことだと思う

    +89

    -0

  • 544. 匿名 2019/08/10(土) 23:18:13 

    祖父が満州に行ってたんだけど、ロシアの人から食べ物を恵んでもらったらしい。その時本当に数日間何も食べてなかったんだって。祖父もここで死ぬ覚悟してたんだけどロシアの人が食べものくれて、いつか会えるならそのロシア人に会いたいって言ってた。祖父ももう亡くなったから年代的にロシア人もこの世に居ないかもだけど天国で会ってるといいなと思います。

    +127

    -0

  • 545. 匿名 2019/08/10(土) 23:19:20 

    現在50歳です
    私の父を始め、子供の頃は近所に満州引き揚げの方が沢山いました。
    中でも当時40代だった近所のおばさんに聞いた、ロスケの日本人女性狩りの話が衝撃的でした。
    「恐かったよ~」と教えてくれたそのおばさんも、去年80代で他界しました。

    +78

    -3

  • 546. 匿名 2019/08/10(土) 23:19:21 

    死んだ祖父から聞いた話をひとつ。
    北海道に一旦集められ、何組かに分けて順番にソ連に渡ってたんだって。祖父は同郷の幼馴染たちと北海道に向かったんだけど、そこから外地に向かう船で、祖父は後日の便にずらされた。
    先に外地へ向かった部隊はほぼ全滅。祖父は内地で待機のまま、終戦まで結局外地に向かうことはなかった。
    外地に行ってしまった幼馴染たちは、戦死か捕虜となり、重労働や凍傷で死亡。骨すら帰って来なかったと言っていました。

    戦争なんて絶対に必要ない。

    +107

    -0

  • 547. 匿名 2019/08/10(土) 23:19:24 

    >>214
    馬鹿みたいだけど、小学校で学ぶ歴史ってこんなもんだよね。日本が調子のったからアメリカにコテンパンにされたみたいな。

    自分から興味を持たない人たちは本当にこのくらいの認識なんじゃないかなと心配になる。

    +77

    -5

  • 548. 匿名 2019/08/10(土) 23:19:33 

    旦那の祖父は、7人兄弟の末っ子なのに軍事学校卒業の今で言う国立大卒だったらしい。
    実家が地方の豪農?だったらしくかなり裕福だった様子。今も本家はかなりデカイ家。
    何十人も部下がいる役職持ちだったのに終戦まで無傷だったようで、7人兄弟も全員元気に無事。
    皆さんかなり長命でした。たぶん食べ物に苦労しなかったからでしょうね。
    あんな戦争時ですらお金持ちが優遇されていた事実に驚いた記憶。
    いつの時代もコネと金がモノを言うんですね…

    +106

    -1

  • 549. 匿名 2019/08/10(土) 23:20:26 

    >>536
    今年は、8/3にNHKでアニメ「この世界の片隅に」が放映されましたね。
    この作品も沢山の若い人に観て欲しいです。

    +68

    -1

  • 550. 匿名 2019/08/10(土) 23:20:40 

    最近世界情勢が危ないですよね。敗戦国であり、加害者でもあり被害者でもある日本。その後経済的に発展してきた日本。憎むのは戦争です。個人的に9条には限界があると思っています。改正も戦争はしないと明記してほしいですが変更は仕方ないと思っています。全部の国がお花畑ならいいけれど、いろんな国がある。こんなにもどこかの国でなく戦争自体を憎むような教育をしているのは日本だからこそだと思っています。人が人をわがままで殺していいはずがないんです。私もニュースを見たり専売特許を盗まれた過去をみたりいい感情は隣国に持ってないですが、どうか危機感を持った安全でいい意味でお花畑な国であってほしい。子供のためにも。

    +30

    -2

  • 551. 匿名 2019/08/10(土) 23:20:43 

    私の祖父も、戦争の話はしませんでした。父や母からおじいちゃんに戦争の話を聞いてはいけないよ、と言われたのもあり、色んな話をするのが好きな祖父でしたが、戦争のことだけはまさにタブーといった感じで、尋ねたことがありませんでした。

    そんな祖父から唯一聞いた話です。
    少し観点が違う話になりますが、祖父は勉強して試験に合格して軍隊に入ったそうです。
    軍隊では夜、自分の布団をかぶって、布団の中で懐中電灯を点けて勉強したと言っていました。
    消灯時間(ロウソクだったのか?)を過ぎているのに、電気を無駄にして勉強など何事か!!と怒られるため、布団をかぶり灯りが漏れないように必死に勉強したのだと。

    だから、私が幼い頃から、勉強ができることは幸せなことなんだ、一生懸命頑張りなさいと話してくれました。
    平和な世の中で、子供達は当然に義務教育が受けられて、望む勉強ができる、戦時下にはそれが当たり前ではなかったんですよね。

    社会人になっても、様々な勉強が必要だったり自己研鑽が必要だと、いつも祖父を思いだし、もっともっと頑張らねばと思うんです。

    +141

    -0

  • 552. 匿名 2019/08/10(土) 23:20:48 

    母親のお兄さんが当時、アメリカの大学教授をしていたそうで。戦時中〜戦後にかけてアメリカから食料をたくさん送ってくれて、チョコやキャンディーなどを近所に分けて食べていた。(ちなみに住んでいたのは北海道)

    というお話を仕事先の85歳のお爺さんがしてくださいした。戦争というと悲惨なエピソードしかないと思っていたし、アメリカから日本へ物資を送ることなんて不可能だと考えていたので、とても意外でした。
    当時、在米日本人はどういう立場だったのか気になりますね。この話を聞いて複雑な気持ちになりました。

    +90

    -0

  • 553. 匿名 2019/08/10(土) 23:21:10 

    夫の祖父は、戦地で亡くなったけど
    遺骨すらまともに戻ってこなかった。
    戦友が、遺骨がわりに?亡くなった場所の
    石を持ってきてくれたみたいです。
    祖母は戦争の事は一言も言わないけど
    岸壁の母をよく歌ってだそうです。

    +60

    -0

  • 554. 匿名 2019/08/10(土) 23:21:10 

    広島出身で祖父と祖母から被爆体験を聞いた事がある。大学当時、アメリカに留学中だった私はショートフィルムを撮影・監督している先生に出会う。私が広島出身と分かると、ぜひ祖父と祖母の被爆体験を聞かせて欲しいと言われ、日本にいる父にお願いして祖父と祖母から話を聞いてもらった。2人とも認知症の症状が出ていた為、曖昧な部分もあったが、祖母の妹は女学院に通っており被爆し死亡、祖父はケロイド?持ちで、当時は差別があり出兵されなかったらしい。戦争の話をする時はいつもの祖父母の様子ではなかったとか。2人とも広島市から離れた所にいたから助かり、今の私がある。直接聴くことが出来なかったが、今考えると父には申し訳ないお願いをしたなと思っている…

    +66

    -0

  • 555. 匿名 2019/08/10(土) 23:21:49 

    >>40
    うちの祖母は祖父が帰って来た時あら帰って来たばいと思ったそうです。子供だった私達はかけよって涙を流し感動の再会をするもんだと思ってたけどこの違いは何なんだ?と思いました

    +103

    -1

  • 556. 匿名 2019/08/10(土) 23:21:49 

    >>10
    私の祖父も熊本ですが、同じことを言ってました!
    長崎から熊本の距離って相当ですよね。
    原爆の怖さを感じた、貴重な体験談です。

    +171

    -1

  • 557. 匿名 2019/08/10(土) 23:21:56 

    戦争に行かなかった男性もつらかったと思う。
    田舎出身なのですが、私が子供の頃「あのおじいさんは体が弱くて戦争に行かなかった人だよ」とよく聞かされた。そのおじいさんは地域の集まりにも参加してなかった。疎外感があったのだろう。

    +148

    -0

  • 558. 匿名 2019/08/10(土) 23:22:39 

    >>16
    一年後でこんなおしゃれできるんだ。遠くから来た人なのかな。

    +224

    -1

  • 559. 匿名 2019/08/10(土) 23:22:53 

    祖母は防空壕に逃げなかったと言ってた。
    逃げても死ぬときは死ぬからって。
    でも殆んど戦争のことは喋りたがらなかったから、そのくらいしか覚えてない。
    祖父は小柄だったから、馬に隠れて敵から見えなかったから、生き延びれたとか言ってた。
    よく満州が満州がって言ってて、体験を話す訳じゃなく、満州にいたんだって言うだけだったけど、亡くなる前に突っ込んで聞いておけばよかったかな。。
    亡くなる前、意識がまだあるときにお見舞いに行ったんだけど、また来るねって言ってバイバイしたら、力強い顔で敬礼してくれたのが何だか忘れられません。

    +113

    -2

  • 560. 匿名 2019/08/10(土) 23:22:54 

    徴兵されて、中国だったかに行っていた祖父が、相当お酒に酔った時にだけ話をしてくれました
    一番印象に残ってるのは、餓死した仲間を焼いて食べた話
    それだけでも壮絶だったんだろうなと察して、あんまり掘り下げて聞けなかったけど、相当色んな体験をしたんだと思います
    先日亡くなってしまったのでもう話は聞けないけど、あちらの世界で穏やかに過ごしていて欲しい

    +95

    -0

  • 561. 匿名 2019/08/10(土) 23:23:50 

    田んぼの中に、
    爆弾で吹き飛ばされて死んだ人達がたくさんささっていたって聞いたことある。

    +38

    -0

  • 562. 匿名 2019/08/10(土) 23:24:32 

    戦争未体験の母(59歳)からつい先日聞いた話では母が子供の頃はよく大阪の天王寺動物園や都会に兵隊の帽子を被って片腕でアコーディオン弾いて小銭を恵んでもらう傷痍軍人が沢山いたそうです。
    お国のために戦って奇跡的に帰って来れたのに家や家族をなくしてしまった軍人さん達の事を思うととても胸が痛みました。終戦で全て終わって全てが元通りと言う訳にはいかないんです

    +127

    -0

  • 563. 匿名 2019/08/10(土) 23:24:34 

    >>471
    極端ではなく事実です。

    +28

    -3

  • 564. 匿名 2019/08/10(土) 23:25:33 

    >>513
    戦争だから、そういう方もいらっしゃいますよね。
    なんと言ったらいいか…心よりお悔やみ申し上げます。

    +20

    -1

  • 565. 匿名 2019/08/10(土) 23:26:14 

    義母の父親が満州(他の国かも?)に行って地下トンネル掘りさせられたそうだ。
    胸まで水に使ってとても寒かったらしい。
    気がついたら朝一緒にご飯を食べた仲間が、隣で立ったまま亡くなってたらしい。
    不衛生、栄養不足、寒さ、疲労でほとんど亡くなったそう。

    +97

    -0

  • 566. 匿名 2019/08/10(土) 23:26:58 

    もう亡くなって15年以上経つけど、優しかったおじいちゃん。戦争の時は陸軍にいて、フィリピンの方で飛行機からパラシュート着けて銃持って、敵の陣地に飛び降りて、奇襲をかける落下傘部隊にいたんだって。よく生きて帰ってきたと思う。生きてなかったら、私含め家族親戚みんな存在すらしなかったんだから。

    +85

    -0

  • 567. 匿名 2019/08/10(土) 23:28:25 

    50代の私の母80歳の話し。
    田舎の農家の子だったから、一応食べ物は有って
    あまりお腹を空かせてた記憶はないそうです。皆食べ物に苦労したと思ってたので
    意外でした。

    +53

    -0

  • 568. 匿名 2019/08/10(土) 23:28:25 

    おばあちゃんにこの間聞いた。目の前で仲良くしてくれた年上の女の子が死ぬのを見たんだって。
    その話を聞いて朝から大号泣した。
    戦争は誰も幸せになれないんだよ。当時のアメリカに勝てるわけがない。って言ってた。

    +79

    -0

  • 569. 匿名 2019/08/10(土) 23:30:11 

    >>562
    その人達は偽者だよ。お金をもらうためにそのような格好で現れていた。

    +3

    -9

  • 570. 匿名 2019/08/10(土) 23:30:17 

    うちのじいちゃん、馬賊だったから満州へ蒋介石の首を取りに行ったよ
    蒋介石の首に懸賞金がかけられてたんだって

    +46

    -1

  • 571. 匿名 2019/08/10(土) 23:31:02 

    小さい頃亡くなった祖父。
    ほとんど戦争の話は聞かせてもらえなかったけど、1つ印象に残ってるのが、祖父が働いていた銃弾とか砲弾を作る工場の話。
    みんなボロボロになって働いてて事故も沢山あって、でも戦争のために作らなくちゃいけなくて、ある時溶けた鉄の中に祖父の隣にいた人が落ちちゃって…という話。
    今でも夢に見る、と、存命中話していました。
    戦争は戦場に出た人も、国内にいた人もみんな辛くて悲しい大変な思いをしていたんですよね。
    もう二度と繰り返してはいけないと心から思います。

    +93

    -1

  • 572. 匿名 2019/08/10(土) 23:31:19 

    >>59
    本当に頭お花畑で馬鹿だね 憲法改正はそんな世論ではない こういう馬鹿が中韓に利用されるんだね

    +211

    -17

  • 573. 匿名 2019/08/10(土) 23:32:01 

    >>562
    私53歳だけど、私が
    低学年のころにもまだ居ました。
    田舎県の地方都市です。
    義足で街角に立ってましたね、、、

    +64

    -0

  • 574. 匿名 2019/08/10(土) 23:32:09 

    祖父母はみんな山口に住んでいました。
    祖父母(80代前半)もその親にあたる曽祖父母、祖父母の兄弟も誰も亡くなっていないし、戦争に行った人もいないそうです。なので、昔の話を聞いても、ただただ空腹だった、ってことだけ。
    赤紙が来るのも来ないのも地域的なものがあったのでしょうか?

    +6

    -1

  • 575. 匿名 2019/08/10(土) 23:32:12 

    私の母方の祖父母も田舎だし小学生と中学生くらいだったからそこまで誰が亡くなったとかのエピソードもないしご飯も食べれていたらしい。工場には行ってたみたいだけど。だから本当に地域差があるんだなって思った。
    父方の祖父は満洲に行ってて勲章らしきものも残ってるけど私が産まれる前に亡くなってるし父も戦争の話は聞かされなかったらしい。

    +34

    -0

  • 576. 匿名 2019/08/10(土) 23:33:30 

    >>168
    私のおばあちゃんも言ってたことあった。戦後アメリカ人がたくさんいて、お菓子たくさんもらってたって。日本は何も食べる物が無くてみんな飢えてたのに、アメリカにはこんなに美味しい物ばかりまだあるのか、そりゃ勝てるわけないわ、と。

    +148

    -0

  • 577. 匿名 2019/08/10(土) 23:34:13 

    硫黄島の最高指揮官、栗林中将はアメリカに何年も留学してたから日本と戦争する時初めから負けると分かっていたってね。日本とは経済力が違うと分かってたからこそ、戦力や火力では勝てないから洞窟を何メートルもアリの巣状態に作ってそこに潜伏させた。アメリカ兵は上陸して数々ある穴からモグラ叩き状態で日本人が撃って来るから恐怖だったと書いてあった。その時のアメリカの最高指揮官があの策を考えた日本の指揮官は天才、この島は5日で落ちると計算していたが1ヶ月以上持ちこたえた。しかも我が軍に多大なる被害を与えたと。
    日本軍の執念は怖い。あの硫黄島の地下なんて灼熱でとても耐えられない。空気もない地獄の中潜んでいた。恐ろしいと述べている。通信兵の秋草さんの著書には紙を燃やした墨を食らって生き延びたと書いてた。どれほど過酷か想像できない。

    +134

    -0

  • 578. 匿名 2019/08/10(土) 23:34:16 

    日本の場合は
    軍国主義がダメだったらしい。

    軍がめちゃくちゃで
    若い子は自殺しちゃう子多かったって。
    竹刀や木刀ボコボコにされたり
    とにかく精神論 根性 お国のためにって。

    軍の近くでまかない?やってたおばあさんが
    言ってた。
    あとキチ〇イになる人も多かったって。

    アメリカ軍はJeepでガーッときて。
    物資は豊富。
    腹ぺこでゲートル巻いて鉄砲担いで
    そりゃ日本の兵隊さん可哀想だって。



    +83

    -3

  • 579. 匿名 2019/08/10(土) 23:34:19 

    >>569
    母も「中にはそれを悪用する人もいたみたい」と言ってたけど全員が全員ではないと思います。実際焼け出された人や身体欠損で生活立て直せなくなり行き倒れになった方々も多く居ると思います。

    +58

    -0

  • 580. 匿名 2019/08/10(土) 23:35:04 

    90になる祖母の話。当時地元の駅で働いていて、勤務中に駅に機銃掃射されて、反射的にベンチの下に潜り込んだから助かった。でも、周りは怪我したり死んだ人が沢山いて、そのまま救護活動に当たった。
    あと、広島に原爆が落ちたとき大竹駅にいて、そこからキノコ雲を見たらしい。
    戦後に祖母と結婚した祖父は、かなり良い家の長男坊だったけど、元々体が弱く、戦争には取られなかった。でも、精神的にくらったダメージが大きく酒浸りになって、給料も一銭も家に入れず、祖母とは離婚。その後40代半ばでお酒が原因で体を悪くして亡くなった。
    祖母はとても逞しい人だけど、戦争のことはあまり話したがらない。祖父は、会ったこともないけれど、母曰く「娘の私には、とても穏やかで優しい父だった。戦争がなければ、病んで早死にすることもなかったのでは」と。
    祖母も祖父も、それから戦時中には生まれていなかった母も、戦争の被害者だと思う。誰も前線で戦ってはいないけど、それでも被害者だと思う。

    +81

    -1

  • 581. 匿名 2019/08/10(土) 23:35:16 

    祖父が子供の頃の話ですが、友達の手を引っ張って空襲から逃げていたら、その子の近くに爆弾が落ちたらしいです。
    急に引っ張っていた手が重くなったので見てみると、下半身が無くなってしまって死んでしまっていたと聞いてショックでした。

    +105

    -2

  • 582. 匿名 2019/08/10(土) 23:37:36 

    奈良出身だけど目立った戦禍が無いからか、小学校のときに「おじいちゃん・おばあちゃんに戦争の話を聞いてきましょう」っていう宿題があったけど、ほとんどの人が戦争中らしい話は無かった
    空襲の話も、食べ物無くて困ったとかも無かったみたい

    1人だけ戦時中らしい話の人がいたから、先生がその子のおうちに行っておばあちゃんの話録音してもらったのをみんなで聞いた

    うちのおばあちゃんにも声がかかったんだけど、おばあちゃん「戦争中のことなんか覚えてないなぁ」って言って本で調べて「女子挺身隊として働き・・」とか適当にでっち上げた話で宿題終わらせてくれてたんだよね笑
    大正生まれだから20代くらいのはずなのに覚えてないって戦前の日常とほぼ変わらなかったんだと思う

    そんな適当な話だけど他がたぶん正直に平和な話しかしてない中で戦争中らしさがあったから先生に注目されちゃったんだけど、「先生が詳しく話聞かせてほしいって」っておばあちゃんに伝えたら「えーっ!本で調べただけだから無理だよ!何も覚えてないのに・・」って困ってた笑
    それで「他人に話すのは辛いそうです」って理由で先生には断った

    +11

    -16

  • 583. 匿名 2019/08/10(土) 23:38:35 

    >>562
    その正体は多くがあちらの国の人のようです。お金欲しさに。
    それとは別だけど、やはり戦争を経験した人は本当にあちらの国の人を嫌っている。何があったのか知りたい。

    +63

    -6

  • 584. 匿名 2019/08/10(土) 23:38:39 

    >>449
    ジョバンニの島なら月曜日の深夜に放送しますよ!

    +7

    -0

  • 585. 匿名 2019/08/10(土) 23:39:05 

    >>59
    憲法改正をあなたみたいな安易な考え方で解釈しちゃうのが一番怖い。

    やっつけるためじゃなくて、防備する為、戦争しないためだよ。

    戦争やっちゃいけないのは誰だって思ってるよ。

    +238

    -11

  • 586. 匿名 2019/08/10(土) 23:40:02 

    中国地方の、日本海側の街の話です。

    戦後、大勢の朝鮮の人たちが、川沿いに小屋を建てて、豚を飼いながら暮らしていたそうですが、
    どういうわけか、ある時を境に、みんな、いなくなったそうです。

    大阪など大都市に流れていったのか、北朝鮮に戻っていったのか、理由は全くわかりませんが
    突然消えるような感じだったそうです。

    +31

    -0

  • 587. 匿名 2019/08/10(土) 23:41:39 

    >>427
    戦争を軽んじている議員がいたり、けしかける様な人間が少なからずいる時代だと言う事だと思います。
    いつの時代も向き合うのは正しいです。
    また、今の時代だからこそ、というのは正しいと思います。

    +71

    -2

  • 588. 匿名 2019/08/10(土) 23:43:46 

    祖母から小学生の頃に聞いた話。
    女学生で、海軍の基地が近かったために怪我をした兵隊さんの看病してたって聞いた。 あと近所の工場みたいな大きな建物が空襲で燃えるのを見たとも言っていた。

    +30

    -0

  • 589. 匿名 2019/08/10(土) 23:44:21 

    サイパンで何十年と終戦を知らされずに潜伏していた横井さんの話昨日テレビで見ました。晩年はカタツムリとネズミの夢にうなされてた。なくなる直前、奥さんにネズミとカタツムリのお墓を建ててくれ、あいつらには助けられたと言っていて悲しくなりました。それが主食だったらしい。

    +125

    -0

  • 590. 匿名 2019/08/10(土) 23:44:43 

    >>568だけど、おばあちゃん死なないで本当によかった。おばあちゃんがいなかったら私のお父さんを産むことがないからありがとうって言ったらその言葉だけでおばあちゃんはまだ死ねない。ありがとうって逆に言われた。

    +48

    -0

  • 591. 匿名 2019/08/10(土) 23:47:42 

    >>543
    アメリカの思惑通りなんだろうね。
    大和魂を怖れて日本人を骨抜きにしたかった。

    +59

    -2

  • 592. 匿名 2019/08/10(土) 23:48:15 

    >>59
    >戦争は絶対にやっちゃいけない
    色々返信が付いているけれど、あなたの意見は正しいよ。
    「もちろん戦争はやっちゃいけないけど~~~」云々言う人は、結局戦争反対をしていない。
    お花畑でも何でも、戦争はしてはいけない。
    日本人が一番主張するべきことだと思う。

    +27

    -50

  • 593. 匿名 2019/08/10(土) 23:49:11 

    祖母の実家が広島との県境の村で、原爆投下後に逃げてきた人がかなりいたようです。

    それから、日本ではありませんが、数年前にカンボジアへ旅行した際、40代くらいの現地ガイドさんが、内戦時のケガの後遺症で難聴があると話してくれました。地雷があるため立入禁止の場所も多く、まだ戦争が生々しく感じられました。

    「犠牲のお陰で平和がある」という考え方は、何で犠牲を出してしまったのか根本について考えることを避けている気がします。
    何が正義かは立場により変わってしまうけれど、せめて「二度と犠牲を出さないよう冷静に知恵を絞ること」をしたい。
    隣国との関係も、武器後ろ手に牽制し合う必要がないのが理想だけど、それが叶わないのが悲しいです。

    +62

    -1

  • 594. 匿名 2019/08/10(土) 23:49:31 

    ひいお婆ちゃんから。空襲の時、アメリカの戦闘機がかなり近いところまで来てて、その戦闘機に乗ってる白人さんと目があったから本当に本当に死ぬかと思ったって言ってた。

    +63

    -0

  • 595. 匿名 2019/08/10(土) 23:49:34 

    >>529
    この『ひろしま』って映画知らなかったな。
    途中から観てあまりにリアルで本物かと思った。
    色々な背景もあるし観てみたい。

    +31

    -0

  • 596. 匿名 2019/08/10(土) 23:49:44 

    >>59
    そんな世論あったんか…
    少なくとも、攻撃されたときのためにも、きちんと国を守れる態勢にしておこうっていう意味での改憲論は聞いたことあるけど、中朝韓が調子乗ってるからこっちから攻撃してやるために改憲しよーや、みたいな世論は聞いたことなかった。

    +165

    -8

  • 597. 匿名 2019/08/10(土) 23:49:49 

    高校の同級生のおじいさんが戦争行っていた。

    どういう状況かは知らないけど、隠れてアメリカ兵と酒飲んでいたらしい。

    鉄砲で撃たれて痛かった、
    戦争に行っていたから国からお金貰っている
    とか、戦争の話しをしていたわけじゃないが、会話の流れで聞きました。

    +19

    -0

  • 598. 匿名 2019/08/10(土) 23:50:18 

    >>585
    防衛する為の設備を持ったら攻撃対象とみなすと思うけど。
    丸腰だからこそ、攻撃対象から免れているんじゃないの?

    +8

    -36

  • 599. 匿名 2019/08/10(土) 23:51:17 

    >>422
    防空頭巾とかもんぺとか、泣きたくなるくらいダサいもんね
    大正時代のモガとかなら今見てもかわいいけど
    防空頭巾の「中」ってあたり、外側につけると「この非常時に!」って怒られるからなんだろうな
    オシャレしたい気持ちは今と変わらないのに、それが許されないのは辛いよね

    +78

    -0

  • 600. 匿名 2019/08/10(土) 23:51:30 

    >>276
    空からの爆撃で、
    主砲の40サンチ砲は、一度も撃つことはなく海に沈んだ。

    +26

    -1

  • 601. 匿名 2019/08/10(土) 23:51:50 

    祖母は満州にいました。朝鮮の方々を虐めたりだとかあったそうです。今思えば、可哀想なことをしたと語ってくれました。今の二国間の問題は現在の私たち同士の話ですから許せないことは許せません。ですが過去の加害者としての日本のことも事実であることは事実として受け止めたいと私は思います。現代を生きる私たちや朝鮮の若い世代に戦争やら賠償やら語る資格はありません。過去はどうだったかなんて本人たちしか知らないんですから。だから昔みんなが戦争を新しい話としていた時に賠償を行ったんです。祖母は敗戦記念日が誕生日です。誕生日のお祝いをしていたら敗戦が伝えられたそうです。そしたらみんな日本人はこのまま殺されるぞと焦り出して、みんなで急いで汽車に乗り込んで逃げたそうです。乗ると書きましたが、乗るというよりも祖母はしがみ付いていたそうです。過去の写真を見たら女優並みに綺麗な祖母ですが、ずっと苦労を重ねたせいか私が生まれた頃にはもうシワのあるおばあちゃんでした。今年も誕生日をお祝いして、ぽつぽつと語ってくれる戦争を聞こうと思います。

    +76

    -3

  • 602. 匿名 2019/08/10(土) 23:52:45 

    今年97歳の祖父は戦時中、フィリピンに行ってた。
    祖父は衛生兵だったようで、怪我をした兵隊の治療の手伝いをしてたんだって。麻酔無しで脚を切断してたり、縫ったりとかしてた。潜水艦に乗っていたとか、沢山の人が亡くなったと私が小学生の頃の宿題で聞いた。
    祖父が70代の頃に個人的にフィリピンへ慰霊に行ってた。
    祖母は今年の5月に92歳で亡くなったんだけど、祖母からは戦争の話を聞かなかったな。
    祖父も認知症が入ってきてるし、もっと話を聞いておけばよかった。

    +60

    -0

  • 603. 匿名 2019/08/10(土) 23:54:00 

    私の大伯母さんは戦争未亡人になり
    姑の命令で夫の弟と結婚して、
    だがその新しく結婚した相手も病気で亡くし、、、
    また、新しい夫を親戚から迎え、、、
    結局三人の夫と結婚した。
    戦後、そういう戦争未亡人は多かった、

    +88

    -1

  • 604. 匿名 2019/08/10(土) 23:56:03 

    >>558
    火垂るの墓のラストに出てくるお屋敷のお嬢さん達もおしゃれしていたよね。

    映画を例えに出すなって感じだけど。

    空襲されなかった地域の裕福な人とか?

    +133

    -1

  • 605. 匿名 2019/08/10(土) 23:56:24 

    祖父は戦車で人を轢き殺したことがあると祖母から聞きました
    帰国できたが酒に溺れ家族に暴力を振るうようになったそうです
    今で言うPTSDだったのなぁと思います
    紛争地域に派遣された自衛隊員もおかしくなる人がいるようです
    戦争に行ったことない人が気軽に戦争を肯定する風潮怖いです
    戦争は今の私たちには想像できないほど悲惨なものだと思います


    +108

    -0

  • 606. 匿名 2019/08/10(土) 23:56:28 

    こういう話題、絶対ネトウヨのガル男が混じってんだろうなw

    +0

    -14

  • 607. 匿名 2019/08/10(土) 23:57:16 

    おじいちゃんは、満州にいたけど逃げてきたらしい。
    満州に住んでる人がかくまってくれたって言ってた

    +60

    -0

  • 608. 匿名 2019/08/10(土) 23:58:42 

    近所の男性(35歳くらい)のおじいちゃんが、広島長崎の原爆で被爆したみたいだけど、
    その孫である35歳くらいの男性は、
    知的?障害あるし
    足の指が6本だったみたい。

    福島の件より、ずっと前から
    放射線の影響あるんだなと思ってた。

    +25

    -9

  • 609. 匿名 2019/08/10(土) 23:59:18 

    >>574
    山口にいた頃に学校のおばあちゃん先生がよく戦時中の話をしてくれたよ。学校から帰ってる途中に戦闘機が飛んできて撃たれそうになったけど、慌てて草むらに飛び込んで当たらずに済んだんだよ、とても恐ろしかったんだよって、授業中だったけど涙ながらに話してた。
    場所によるかもしれないけど、下関の戦争被害は中国地方では広島に次ぐ大きなものだったと聞いてる。大空襲で焼け野原になって、死者数も未だに明らかにはなってないって。

    +56

    -1

  • 610. 匿名 2019/08/10(土) 23:59:36 

    >>598
    甘い!
    中国は虎視眈々と尖閣諸島狙ってる。

    そもそも、「中華思想」って聞いたことある?
    世界は元々中国のもので、これから少しずつ取り戻そうって
    本気で考えてる。

    黄河や長江から流れ出た砂が、海底にあるので、
    ここは中国の領土で良い?って言うような奴ら。

    そんな国が、丸腰だから狙わない??甘い!

    +115

    -8

  • 611. 匿名 2019/08/11(日) 00:00:03 

    母方の祖母の妹さん、戦争で中国に行かされて(行かされた理由は詳しく聞いていない)、中国のとうもろこし畑で日本兵に中国人と間違えられて斧で頭を割られた。
    頭が血まみれで倒れていたら中国人に助けられて、そのまま助けてくれた人と結婚して中国に永住した。
    一度だけ会ったことがあるけど、脳に障がいが残っているようで大きな傷も残っていた。
    とっくの昔に亡くなったけど、その話は本当に恐くて衝撃だった。
    中国人に良いイメージを持っていないのに祖母の妹さんの命の恩人で、日本兵がそんなことをするというショックで頭が混乱して余計に恐ろしかった。

    +129

    -0

  • 612. 匿名 2019/08/11(日) 00:00:13 

    >>59
    攻められても防衛しないで無抵抗って事ね?
    やっちゃいけないから
    だったらあなた一人で勝手に殺されてな

    +76

    -17

  • 613. 匿名 2019/08/11(日) 00:00:19 

    義母が空襲で入ろうと思った防空壕、入る前にどうしても尿を済ませておきたくて皆よりも少し遅れてその防空壕に行ってみたら、爆撃をもろに受けて破壊されて先に逃げ込んでいた人達が皆焼け死んでいたそうです。あの時尿意を我慢していたら死んでたって。
    また別の日には空襲で飛んできたアメリカ兵の飛行機は低空飛行しながら民間人とかお構い無しに銃撃してきて搭乗アメリカ兵と目が合うこともあったと。
    空襲が激しかった地域は生き残れるか運次第でしたよね。

    +95

    -0

  • 614. 匿名 2019/08/11(日) 00:00:23 

    >>213
    ごめんなさい!寝落ちしそうになってマイナスに触れてしまいました( ; ; )申し訳ないです!

    +36

    -1

  • 615. 匿名 2019/08/11(日) 00:01:54 

    祖父は終戦のとき東大医学部の三年生で構内の寮に下宿してました。先生方は片足を引きずっていたり指が飛んでいたり元軍医さんが沢山いたそうです。勉強しに東大に入ったのに、構内でかぼちゃやさつまいもを作っていて忙しかったそうです。当時は軍医が足りなくて、必修科目から小児科や産婦人科を削っていたそうです。当時校内では、敗戦後東大が占領軍の指令本部になるから爆弾が落ちないと噂が流れていて、空襲の度に近所の人を避難させたそうです。東京大空襲のときは構内足の踏み場がないほど、怪我人だらけになったそうです。手当しようにも道具がないので、火傷に新聞紙を焼いた灰をつけたそうです。その際教授から医者の1番大切な仕事は患者を安心させることだ、必ず助かる、もう大丈夫だ、と力強く声をかけなさいと指導され、一昼夜ぶっ通しで声を掛けてまわったそうです。
    医学部は徴兵が一番後回しらしく、祖父は徴兵されませんでしたが、官僚になるはずの法学部の学生が出征していくのを見て、この国はもう亡ぶと思ったそうです。

    +136

    -0

  • 616. 匿名 2019/08/11(日) 00:02:43 

    田舎住まいだけど、
    ばあちゃんは
    戦争の時は食べ物がなくて
    さつまいもとさつまいもの葉っぱばっかり
    食べてたんだって。

    だから今、スイートポテトとかいもようかんを食べたくないらしい。
    「もう、わかいころに一生ぶん食べた」って言ってた。
    戦争思い出して嫌なんだろうなと思った。

    +81

    -1

  • 617. 匿名 2019/08/11(日) 00:04:00 

    >>429
    こんな未来とはいうけど、70年戦争をせずに平和を守りながら、他国が驚くような発展を遂げた
    社会福祉も整って、飢え死にしたり、一家の貧しさのために売られたりする人もいない

    たしかにパリピとかインスタ蝿とか、くだらないことに時間を費やしてる若者もいるし、渋谷で8月6日が何の日か聞いたら答えられない人の方が多いらしいけど、それでも平和で個人の自由が認められている国であることは誇っていいと思う

    +163

    -1

  • 618. 匿名 2019/08/11(日) 00:04:07 

    介護の仕事をしていた時に出会った2名の方。
    一人は当時101歳、もう一人の方は98歳
    認知も入っていて詳しい話は聞けなかったですが、101歳の方はあちこちの国へ出撃されていたようで、色んな国の言葉を話せるんだ!と言い「バニャバニャ バグース」「テレマカシー」「グッジョブ」など、ルー大柴的な感じで会話の端々で使ってました(笑)
    98歳の方はマジシャンのお仕事をされていた為、しょっちゅうマジックを披露してくださいましたね〜。「背が高かったから零戦には乗れなくて、違うやつに(名前忘れてしまいました)乗っていったんだ」と勇ましい表情で話してました。ラバウルの戦いから帰ってこられた方でした。
    お二人とも、とってもユニークでダンディな方でした。語彙力がないため上手く表現できませんが"実際に戦い、帰ってきた男は違うな"と接していて感じました…!

    +75

    -0

  • 619. 匿名 2019/08/11(日) 00:04:14 

    >>602
    人によるのと、認知症にもよりますが、
    認知症の方でも、戦時中のことは、詳しく語り出すことがありますよ。

    +29

    -0

  • 620. 匿名 2019/08/11(日) 00:04:16 

    >>578
    戦前の日本は軍国主義ではありません。
    仮に戦前の日本が軍国主義だと言うならヨーロッパもアメリカも中華民国もすべて軍国主義です。

    +20

    -2

  • 621. 匿名 2019/08/11(日) 00:05:16 

    >>203
    かたや今は生活保護を不正受給する輩まで居る…日本人じゃないかもしれないけどね

    +89

    -3

  • 622. 匿名 2019/08/11(日) 00:07:25 

    お父さんが戦争行ったお父さん(おじいちゃん)に育てられた話を聞いた

    戦争は、戦争に行った人の子供が死んで、それから初めて戦後だ。まだ戦後だとは思えない。
    眠っていると夜中蹴っ飛ばされて起こされ、
    すぐに立ち上がらないとそんなんじゃアメリカやロシアに勝てないって殴られた。
    お父さんはまた戦争があると思っていた。
    友達がみんな死んで自分だけ生きてることに苦しんで、お酒飲まない人が飲みびたりになった。
    最後は酔っ払って交通事故で死んだ。
    戦争は戦争に行った人の人格を大きく歪めるし、
    戦争に行った人だけじゃないその次の世代も苦しめる

    って言ってた

    +85

    -0

  • 623. 匿名 2019/08/11(日) 00:07:40 

    国民学校(今の小学校?)にB29の射撃があって、教室の窓から身を乗り出して運動場にいる子供達に避難を呼びかけてた先生が撃たれて亡くなったと聞いた。

    +44

    -2

  • 624. 匿名 2019/08/11(日) 00:07:59 

    戦争の話じゃないのかもしれないけど…
    東日本大震災の時、スーパーで働いてました。ずっと営業はしてたんですが、物流が震災前のように安定するまで一カ月くらいかかりました。
    年配のご夫婦が買い物に来られて「牛乳はありますか?」と聞かれて在庫がないこと、次の納品がいつになるかもわからないと謝りました。
    そうしたらその方が「昔、戦争をしてたころはもっとなんにもなかった。そんな時でも大丈夫だったんだから牛乳なんてなくても大丈夫だよ。そんなことで謝らなくていいから。あなたはあなたのするべきことがあるよね。仕事頑張ってね」と言われてバックルーム戻って泣きました…。

    その当時は品切れしていることにマジギレする人が多くって、卵がないとうちは死んじゃうんだけど!って怒鳴ってくる人とかもいて疲弊してました。
    長文になってごめんなさい。あのときのご夫婦の言葉を思い出して辛い時でも頑張れました。
    辛い経験をした人ほど、同じように辛い思いをしてる人に優しくできるんだなって思った経験でした。

    +263

    -0

  • 625. 匿名 2019/08/11(日) 00:08:26 

    父の兄が戦死しました。
    私は46才です。
    実家の墓石には
    3才と1才の父の妹の名前があります。
    栄養失調で亡くなったそうです。

    母の弟は、夜中に防空壕に逃げる為に
    起こす時、
    死んでもいいから寝ていたい

    と毎回駄々をこねていたそうです。
    祖父が戦争に行ってる間
    祖母は1人で、5人の子どもを
    守っていました。

    +79

    -0

  • 626. 匿名 2019/08/11(日) 00:08:27 

    >>616
    ちなみに、干しいもは今も食べる
    なぜ?笑

    +20

    -0

  • 627. 匿名 2019/08/11(日) 00:10:01 

    わたしのひいじいちゃんは 広島の呉にいた時に広島の方がいきなりピカッとものすごく光ってキノコ雲が見えたって言ってました。
    またひいじいちゃん自身も海兵?で 大和船を作ったりしていたらしいです。

    +46

    -0

  • 628. 匿名 2019/08/11(日) 00:11:04 

    祖母からの話でよく覚えてるのは、戦艦大和を作るために家にある鉄製のものはピン留めも全て捧げたと。日本の船を作り上げる技術はすごい。だから南極物語で最初に氷を割って、あんなところまで進める船は日本しかいなかった。なんせ戦艦大和を作った人が南極に行く船を指揮監督したんだからと。本当に同じ人なのかな?

    +34

    -0

  • 629. 匿名 2019/08/11(日) 00:11:19 

    >>598
    それ、共産党と同じ思考

    +23

    -2

  • 630. 匿名 2019/08/11(日) 00:11:20 

    うちの亡くなった祖母は大きな農家で食べ物に全く困らなかったそうです。白いご飯をたくさん敷き詰めたお弁当だって持っていくことはできたけれど、みんなにバレないように質素に見える工夫をしていたそうです。また、戦地にもならなかった場所だったそうです。ですが祖父は特攻部隊でその日に出るときに終戦の放送があったので助かったらしいです。ですが最期まで戦争の英雄たちに様をつけていたなぁ。そして香川県にもかかわらず、広島の原爆のキノコ雲が見えたそうです。

    +68

    -0

  • 631. 匿名 2019/08/11(日) 00:12:25 

    陸軍大学校卒の未来のエリートさんが、新任の時に、周りの妬みから来る嫌がらせを受けているのを祖父が庇っていたんだって。
    数年後、いざ、南方へ送られる事が決まって、「もうすぐ子どもが生まれる(うちの母)、行きたくない。」って話したら、そのエリートさんの采配で、リストから外されたそう。
    しかし祖父はその時点でフィリピンから帰還してたし、通信兵だったから、また普通の兵隊さんとは違う立場だったのかな。

    +70

    -0

  • 632. 匿名 2019/08/11(日) 00:12:37 

    沖縄、広島、長崎などの戦跡や記念館に行きましたが、舞鶴の引揚記念館が忘れられない
    ある年の冬の日、私以外来館者がおらず、引揚者の娘さんがマンツーマンで説明してくださって、気付いたら2人で泣いていました
    待っていてくれた高齢のタクシーの運転手さんも予定時間を20分もオーバーして出てきたのに私を見て「あなたは優しい人だね」と言って咎めることもなく「岸壁の母」の舞台となった場所などを案内してくださった
    東日本から行くのは難しい場所ですができるだけ多くの方々に訪れていただきたいです

    +95

    -0

  • 633. 匿名 2019/08/11(日) 00:13:32 

    『勝ってくるぞと勇ましく勇んでで国を出たからは手柄たてずに死なれよか』

    明治生まれの祖母が口ずさんでたのなんとなく覚えてる。
    軍歌だと知ったのはずいぶん後になってから。

    +42

    -0

  • 634. 匿名 2019/08/11(日) 00:16:04 

    広島に行った時におじいさんから聞いた話。

    妹をおんぶして、爆撃から走って逃げている時に原爆が落とされて…妹をみたら死んでて、自分はほっぺの内側の肉がちぎれかけてたんだって。

    でも必死だし、邪魔だから畑に伏せながら
    その肉を引きちぎったらしい。

    怖かった。

    +87

    -0

  • 635. 匿名 2019/08/11(日) 00:16:23 

    >>67
    うちの祖母は、一列連覇破裂してー
    日露戦争始まったー
    と、歌ってお手玉してた。
    地方によるのかな。

    +35

    -0

  • 636. 匿名 2019/08/11(日) 00:17:16 

    >>628
    戦艦大和建造と鍋釜供出は時代が違うよ。
    大和建造は昭和17年、金属類回収令は昭和18年から。

    +2

    -3

  • 637. 匿名 2019/08/11(日) 00:18:07 

    >>432
    それであんなに写真や映像がたくさん残ってるんだね・・
    小学校のときに広島に修学旅行に行く前に、はだしのゲンのアニメ映画と、広島で被爆した人達の写真や映像を集めた資料みたいな動画を見せられた

    はだしのゲンもグロかったけど結局は絵に過ぎなくて、実際の写真もホント言葉にできないくらい酷かった
    そんな写真を被爆者の人達はよく撮らせたな、原爆の悲惨さを伝えたかったのかな?なんて当時は思ってたけど、騙して撮影していたのだとしたら許しがたいわ

    でもその資料の動画によればアメリカ兵も核実験でたくさん被爆してるんだよね
    人が隠れられるくらいに掘った溝にたくさん兵隊入れといて、それでミニ原爆みたいなの使って効果を調べてた
    日本人のことを同じ人間として捉えてなかったのはもちろん、同じアメリカ人でも一兵卒なら実験台でしかないっていうのが恐ろしかった

    +114

    -1

  • 638. 匿名 2019/08/11(日) 00:18:36 

    ひいばあちゃんの家が 広島市から少し外れた所にあり、原爆が投下された日は灰が沢山飛んできたそうです。
    またその何日か後に、ひどいやけどや傷を負って今にも死にそうな見知らぬ兄弟が家を訪ね食べ物をくださいと言ってきたらしく、食べ物を与えて怪我の処置をするも その日に亡くなってしまい、火葬したそうです。その兄弟はおそらく被爆者だったと思います。

    +59

    -0

  • 639. 匿名 2019/08/11(日) 00:19:37 

    >>610
    >>629
    うん。
    甘いだのお花畑だの言われても、戦争は絶対にしてはいけない。
    ちなみに、甘いって言うけど、戦争が起ったらどうなるか本当に分かって言っているのかな。
    それこそ何こそ、甘いと思うけど。
    自分や自分の大事な人を失ってでも戦争しなきゃ!って思うのかな。

    +12

    -35

  • 640. 匿名 2019/08/11(日) 00:19:43 

    祖母の妹がフィリピンに看護婦として従軍しました。
    薬も危惧も食料もなく、次々に兵隊さんが倒れて隊を離脱していって、肩を貸して連れて行ってやれないどころか上官から「倒れた奴の装備を全て剥がしてこい」と言われて、「水筒まで奪ったら死んでしまいます、私は人を助けにきたんです!」と逆らって銃剣で斬られそうになったと。

    フィリピンと日本が陸続きなら、どんな遠くても逃げ帰っていた、って言っていました。

    なんとか日本に帰国して、その後も看護師として働き、総合病院の婦長を勤め上げました。

    +107

    -1

  • 641. 匿名 2019/08/11(日) 00:20:32 

    クラスメイトのお爺ちゃんは、終戦間近に特攻隊に抜擢されて、関東から鹿児島に向かう列車に乗っていたけど、列車が途中脱線してしまい、足止めを食らっている間に、終戦を迎えたそうです。

    +75

    -0

  • 642. 匿名 2019/08/11(日) 00:20:46 

    終戦の日に祖母が学徒動員で行っていた軍需工場の
    ラジオで玉音放送を聞いたそうです
    天皇陛下の話は難しくて意味がわからなかった、
    でも周りの男の人はみんな泣いていて
    明日からはもう来なくて良いと言われたから何が起きたのかは分からなかったけど
    とても嬉しくて友達と一緒に走って帰ったと話していました。
    テレビなんかで流れる玉音放送を聞いても今でもさっぱり意味がわからないと笑って話してくれます。
    田舎だから大きな被害はなかった、もっともっと大変な事がたくさんあったから自分は恵まれていたと、
    悲惨な話ではなく、いつも明るく話してくれます。
    しかし、祖母のお兄さんは海軍で戦死しているし、祖母自身も戦争のために学徒動員で鉄砲を作らされていたそうです、その話は祖母本人からは聞いた事がありません。話したくないことがたくさんあるのだろうなと思います

    +61

    -0

  • 643. 匿名 2019/08/11(日) 00:21:14 

    >>54
    アルキメデスの戦争でそのへんがテーマになってたね。
    いつの時代でも過去の栄光に取り憑かれた客観的になれない老害が若者を殺すんだね。

    +81

    -0

  • 644. 匿名 2019/08/11(日) 00:21:31 

    知覧にある知覧特攻平和会館に足を運んでほしいです。
    大勢の10代、20代半ばの子達が死ぬ為に飛んでいきお母さんお母さんと泣きながら散っていった。
    家族に宛てた手紙が多数保管されており読む度に胸が痛かったです。
    戦争なんて誰も幸せにならない。2度としてはいけない。

    +93

    -1

  • 645. 匿名 2019/08/11(日) 00:21:44 

    今日戦艦武蔵見入った

    +4

    -0

  • 646. 匿名 2019/08/11(日) 00:21:47 

    私はアラフィフです。一昨年亡くなった父は「火垂るの墓」の清太と同年代。戦時中都内近郊に住んでいて、本当に食べ物が亡くて辛かったと言っていました。その頃、ある地方まで「買い出し」に行ったけれど、何一つ売ってくれなかったと言って恨んでいました。今の私達の想像を遥かに越える厳しい時代。
    家庭を顧みない酷い父親でしたが、戦中戦後を生き抜いてきた、あの時代の人達ならではの強さがあったと今にして思います。その父の叔父にあたる方は、靖国神社に眠っているそうです。長文失礼致しました。

    +63

    -0

  • 647. 匿名 2019/08/11(日) 00:21:48 

    このスレ見てるとほんの70年ちょっも前に起きてた抗いようのない苦しみが伝わってきて泣けてくる

    +67

    -0

  • 648. 匿名 2019/08/11(日) 00:22:30 

    >>492
    北方は、中国本土から米軍の爆撃機が飛んできました。

    +5

    -0

  • 649. 匿名 2019/08/11(日) 00:22:35 

    戦争真っ只中に曽祖父は結婚式を帝国ホテルであげて、空襲警報が鳴ってご馳走が食べれなかった話、ずーっと聞かされて育ちました。
    ホテルでは外食出来たみたいです。

    +42

    -1

  • 650. 匿名 2019/08/11(日) 00:22:42 

    >>59
    曲がりなりにも先進国なのに、無抵抗で攻撃されるって有り得ないと思うんですけど。
    無抵抗で攻撃されるのは米国の庇護に入っていない後進国でしょ。

    +44

    -0

  • 651. 匿名 2019/08/11(日) 00:23:03 

    細身の祖父が戦争に行ってた頃
    脇腹の1センチ横を銃弾が通り抜けていったそうです。
    「俺が太っていたら死んでたよ」
    と少し笑いながら言っていましたが、相当怖かっただろうと思います。

    +68

    -1

  • 652. 匿名 2019/08/11(日) 00:23:32 

    >>41
    わたしの祖父も満州へ行ってました。祖父の友達はシベリアへ。

    +84

    -1

  • 653. 匿名 2019/08/11(日) 00:24:56 

    戦争で他国を従わせようとする国は大馬鹿者だ。

    +42

    -0

  • 654. 匿名 2019/08/11(日) 00:24:57 

    中東出身の知人がいます。
    戦争が身近な国の方ほど、日本への信頼感は平和憲法と密接に関係しているように思います。

    憲法を変えるなら、内容は本当に慎重に吟味する必要がありますよね。
    周辺国との話だけでなく、海外派遣の自衛隊員や在外邦人を今以上の危険に曝す危険性も含めて考えないと。
    民間人が武器を持つ前提が今のところない日本だからこそ、売り言葉に買い言葉になることなく、冷静な想像力と判断力が必要だと思います。

    +41

    -0

  • 655. 匿名 2019/08/11(日) 00:25:05 

    >>612
    曲がりなりにも先進国なのに、無抵抗で攻撃されるって有り得ないと思うんですけど。
    無抵抗で攻撃されるのは米国の庇護に入っていない後進国でしょ。

    アンカ間違えちゃった。
    >>59さんごめん

    +4

    -7

  • 656. 匿名 2019/08/11(日) 00:26:05 

    もう亡くなった祖父の話です。

    シベリアに捕虜として行ったそうですが、あまりの寒さに仲間が次々亡くなられたそう。
    身体が丈夫な祖父は何とか生き残り、帰って来れたそうです。
    かたいパンなどしか食べれずほんとに悲惨な日々だった、、と話してくれました。
    シベリアにいた時に使っていたアルミ製のスプーンが形見としてあります。
    とても立派で尊敬できる優しい祖父でした。

    +90

    -0

  • 657. 匿名 2019/08/11(日) 00:26:52 

    >>639
    このトピのどこにも、
    「戦争をしなきゃ」とコメントしている人はいませんよ

    +52

    -3

  • 658. 匿名 2019/08/11(日) 00:27:10 

    ひいじいちゃんは内地?という所に行く寸前に空襲に遭い 左目を失い背中に大きな傷を負ったことで 戦争に行くことは免れたそうです。
    この傷を負っていなかったら もしかしたら自分は今ここにはいないのかと考えると 複雑な気持ちになります。

    +49

    -0

  • 659. 匿名 2019/08/11(日) 00:27:50 

    祖父は兄二人を戦争で亡くしていて、どんどん酷くなる空襲に、赤紙が来るのは次は自分だと毎日怯えていたと言ってた。
    遂に赤紙が来て戦地に向かうことになったあの恐怖は忘れられないって言ってた。
    後、戦時中の歌で「嫌じゃあーりませんか戦争は〜」って歌を小さい頃から教えてくれて、今でも私は歌える。ホントは歌詞が戦争じゃなくて軍隊らしいけど「軍隊は命かけて死んだやつも大勢いるから俺は悪く言えねぇ」って自分で変えたって言ってた。
    この歌聴くとみんなちゃんと戦争が嫌だって思ってたんだなってしみじみ思った。

    +68

    -1

  • 660. 匿名 2019/08/11(日) 00:29:02 

    昔、祖母から東京大空襲の話をききました。
    隅田川も橋も道も死体だらけだったそうです。小さい頃に聞いたのをいまでも覚えてる。

    +41

    -0

  • 661. 匿名 2019/08/11(日) 00:29:08 

    みんなが何も食べるものがない時に
    お寺の住職さんだったひいおじいちゃんがおはぎをくれて、
    幼心に、人からお金をもらって自分はおはぎを食べてるなんて
    宗教は嘘っぱちだって思ったって言ってた

    +21

    -2

  • 662. 匿名 2019/08/11(日) 00:29:18 

    母方の曽祖父がニューギニアで戦死してます。
    軍服を着た遺影の顔は凛々しくて清廉な戦前の青年といった感じだけど、曽祖母が大人しい人で祖母が明るくお話好きな人だったので、実は曽祖父もお喋りが好きな人だったのかなあ、どんな人だったんだろうと亡くなった時の曽祖父の年齢に自分も近づき思いを馳せます。
    幼い時に結婚式の写真?を曽祖母が照れ臭そうに見せてくれたのを思い出します。
    ですが、曽祖母は曽祖父の話、戦争の話はせずいつも静かに優しく微笑んでくれる大和撫子でした。
    お国の為に立派に戦った曽祖父も強かったと思いますが、その後、女手一つで祖母たちを育てた曽祖母も本当に強い人だったと思います。

    +68

    -0

  • 663. 匿名 2019/08/11(日) 00:29:35 

    >>656
    シベリアの話、昔テレビでやってました。死ぬまで働かされて、寒くて、硬いパンを食べさせられて、656さんのおじいさん帰ってきてくれてよかったです。
    わたしの祖父の友達もシベリアへ行った後無事帰ってきました。

    +58

    -0

  • 664. 匿名 2019/08/11(日) 00:29:39 

    >>435
    高校の日本史で先生がそういうことを教えてくれたときは泣けた
    小学校や中学校の教科書には「戦争中、日本はとっても悪いことをしました」としか書いてなかったから
    授業中に感動してこっそり泣いた
    明治維新からずっと、欧米列強に屈せず日本人は日本人としての誇りを守ってきたんだよね

    +99

    -2

  • 665. 匿名 2019/08/11(日) 00:29:41 

    >>604
    そうなんだよね。
    戦争で被害を受けるのはやはり下々の者で、お屋敷のお嬢さんみたいな上級国民は無事なのよね。

    +109

    -2

  • 666. 匿名 2019/08/11(日) 00:29:57 

    祖父が満州で警察官だったって話よく聞くし、うちの祖父もそうなんだけど、よく聞きすぎてどんだけ大量に満州に日本の警察官いたんだよって思う。
    なんでこんな多いの?

    +11

    -0

  • 667. 匿名 2019/08/11(日) 00:30:24 

    うちのじいちゃんは戦争の話を一切してくれなかった
    ええ事なんて何もないよって優しく言うだけで何も語ってくれなかった
    航空隊のマスクが物置にあったので
    想像だけど特攻隊に関わっていたのかもしれない

    重すぎて何も言えない

    +53

    -0

  • 668. 匿名 2019/08/11(日) 00:30:49 

    >>639
    戦争が起こらないように、
    改憲をしっかり話し合おうとしているのです。

    +40

    -2

  • 669. 匿名 2019/08/11(日) 00:31:28 

    祖母は高校からの帰り道、ドンッと音が鳴って音がなった方を見たら長崎のキノコ雲を見たらしい。
    95の祖父は、船で戦場にいたけど、友達は皆特攻隊で亡くなったと。鹿屋の資料館に行ったら友達がたくさん飾られてるから毎回涙を流して頭を下げてる。

    +59

    -1

  • 670. 匿名 2019/08/11(日) 00:32:10 

    >>661
    え!?
    幼心の某君はおはぎを貰ったんでしょう?
    それとも「宗教は嘘っぱち!!」と言って拒否したの?

    +9

    -2

  • 671. 匿名 2019/08/11(日) 00:32:48 

    私達にとって、第二次世界対戦は振り替えれる程、教科書に載って試験に出る歴史になったけど、今まさに、がるちゃんに呑気に書き込みしてるこの瞬間にも争いで多くの人が亡くなっているんだろうと思うと冷める自分がいる。
    しかも、より無秩序になって。
    日本が過去を教訓に生きても世の中、何もかわらない。虚しいよ。

    +20

    -1

  • 672. 匿名 2019/08/11(日) 00:33:03 

    不謹慎だけどすみません。立派な人の話ばかりだけど、戦時中にダメっぷりだった人の話も知りたい。

    +13

    -5

  • 673. 匿名 2019/08/11(日) 00:33:12 

    わたしの祖父は南方の戦地に配属されたそうです。
    その島で日本軍は全員玉砕したそうです。
    その知らせを受けて祖父の葬儀が行われたそうです
    遺骨も遺灰も何もない戦死の知らせだけが届いたそうです。

    でも祖父は生きて帰ってきました
    自分の仏壇と遺影を見て驚いたそうです
    何があって、どのようにして生きて帰って来たのかは亡くなるまで話してくれなかったので私には分かりません
    生きて帰ってきてくれたから今ここに私がいるんだな


    +77

    -0

  • 674. 匿名 2019/08/11(日) 00:33:32 

    大空襲を経験した祖母。
    サイレンがなって学校の校庭に赤ちゃんを抱き抱えて逃げていたら、落ちてきた焼夷弾の破片が身体のどこかに当たって気絶してしまったそうです。
    赤ちゃんは無事で、私のおじにあたります。
    祖母は生前この時期になると必ずこの話をしてくれました。当時は怖かったけど、戦時中の話というのはやはり語り継がれるべきだと思いました。
    とても想像を絶するような恐ろしい体験をしたんですよね、、😢
    戦争の恐ろしさ、愚かさを絶対忘れてはいけないと改めて思います。

    +59

    -0

  • 675. 匿名 2019/08/11(日) 00:33:41 

    私の地元は戦時中アメリカ領土だった。
    方言を話すと非国民扱いされて、私は方言を話した非国民ですと書いた板を首からぶら下げられたって聞きました。

    +44

    -0

  • 676. 匿名 2019/08/11(日) 00:34:14 

    私の祖父はビルマで戦死しましたがそれ以外のことはあまり知りません。
    なんとなく祖母からも聞けなかったなー。
    でもビルマで戦死した人ってあまり聞かない気がします。

    +26

    -0

  • 677. 匿名 2019/08/11(日) 00:34:21 

    >>661
    勝手な想像ですが、
    秋のお彼岸の時期だったから、おはぎがお寺にあったのでは?
    貴重な食べ物を、ひ孫に食べさせたかったのかも。

    +24

    -4

  • 678. 匿名 2019/08/11(日) 00:34:50 

    祖母は東京から呉に嫁いだのですが夫(祖父)の家族と折り合いが悪くてまるで下宿人か下働き扱いされていたそうですが、原爆投下の二週間後からまだ十代後半そこらの歳の女一人で夫の広島の親戚の家へ様子を見に行かされたり見舞品を持って行かされたりしていたそうです。まだまだ沢山の黒焦げ遺体があちこちに放置されたままで、はじめのうちはその遺骸を跨いだり避けたりしながら親戚の家へ通ったそう。その後も数年に渡って母を妊娠中にも通っていたので、医者からは無事に五体満足の子供が生まれるかはわからない、将来子孫にどんな影響があるかわからないと言われていたと。母は五体満足では生まれましたが中学生になるまではとても病弱な女の子で被爆の影響を疑って心配したそうです。母も私も弟も今のところ特に先天的病などはありませんが、被爆の影響の真実って国や科学者の見解を私は今でも信用しきれず怖いんです。祖母は高齢になって乳癌と大腸癌を患いました。

    +85

    -0

  • 679. 匿名 2019/08/11(日) 00:35:17 

    >>53

    私のおじいちゃんもです。
    ただ、おばあちゃんは、草を食べてたとか言ってたので、芋たべれたのは裕福な方だったのかな、、?

    +43

    -0

  • 680. 匿名 2019/08/11(日) 00:35:18 

    祖父が亡くなる前、インドネシアの最前線での戦争体験を記して、自費出版の本を作りました。父はそれを読んで泣いていました。私はまだその本を読む勇気がありません。いづれは市に寄贈したいと思います。

    +65

    -0

  • 681. 匿名 2019/08/11(日) 00:36:16 

    >>618
    わたしの亡くなった曽祖父もラバウルから帰ってきました!
    もしかしたら同僚だったかもしれません。
    激戦地で帰ってきた人少なかったはず。
    横をみたら
    同僚がサメに食べられてたって言ってたな。

    +61

    -1

  • 682. 匿名 2019/08/11(日) 00:36:52 

    17日0時~
    「ひろしま」という映画がEテレであります。
    原爆の悲惨さが描かれています。
    忘れない為にも観てみようと思います。

    +45

    -0

  • 683. 匿名 2019/08/11(日) 00:37:12 

    うちの実家は歴史的建造物が多い土地で、空襲はほとんどなかったそうですが、それでも祖母が田んぼで作業をしていると、敵機が気まぐれに降りてきて爆撃されたことがあるそうです。
    みんな田んぼに飛び込んで稲の間に隠れたと言っていました。

    +37

    -0

  • 684. 匿名 2019/08/11(日) 00:37:34 

    小学生の時に戦争体験をおじいちゃんおばあちゃんに聞こうっていう宿題が出たからおじいちゃんに聞いたよ。
    おじいちゃんは当時19歳で、どこかの島で敵を待ち構えていたらしいけど、来なくてそのまま帰ってきたらしい。
    聞いたのはもう25年くらい前かなあ。鮮明に覚えてるわ。この宿題出した先生GJ。
    おじいちゃんは7年前に亡くなってしまった。

    +24

    -4

  • 685. 匿名 2019/08/11(日) 00:38:33 

    >>657
    でも、自衛等で戦力を確保し、必要なら戦争も辞さないと言うお考えなのではないですか?
    違うならごめんだけど。
    積極的に戦争を推進しなければセーフではなく、
    絶対に戦争をしてはいけない、という意思が大事だと言う事を言っています。

    +13

    -11

  • 686. 匿名 2019/08/11(日) 00:40:24 

    祖父は北朝鮮で捕虜になった。身ぐるみ剥がされてボロボロになりながら帰って来た。必死だったらしい。

    +41

    -1

  • 687. 匿名 2019/08/11(日) 00:40:58 

    祖父が90超えてるけど、従軍慰安婦なんていなかったと言ってた。普通に職を求めてお金もらって働いてる人達だったと。
    あと南京大虐殺もなかったけど、口を濁しながら中国人に悪いことはしていたと言ってた。当時は国民党の中国人だから、気の良いやつが多かったと。
    今の共産中国の中国人とは全然違ったらしい。

    +87

    -5

  • 688. 匿名 2019/08/11(日) 00:41:16 

    私は今30代で、親は共働きだったから祖父母によく面倒みて貰ってたんだけど、お爺ちゃんが歌ってくれる歌とか手遊びとか結構軍歌が多かったw

    +22

    -0

  • 689. 匿名 2019/08/11(日) 00:41:26 

    >>672
    ダメかどうかわからないけど、
    アメリカ兵の捕虜施設で医療従事者として働いていた祖父は、
    チョコレートとか肉とか食べたり、アメリカ兵と仲良くしてたらしいです。写真が残ってます。
    戦犯にもギリギリかけられませんでした。

    +60

    -0

  • 690. 匿名 2019/08/11(日) 00:43:12 

    >>506
    私の祖父も予科練で終戦の数日後に特攻予定だったと聞きました。あなたのお祖父さんともしかして顔見知りだったかもしれませんね。
    私の祖父も今は亡くなってしまったけれど大変な時代を生き抜いていたのだと思います。

    +42

    -0

  • 691. 匿名 2019/08/11(日) 00:43:13 

    >>466
    今の海自も似たようなもん。
    殺すことはないけど死ぬまで追い詰めるからね

    +11

    -0

  • 692. 匿名 2019/08/11(日) 00:44:18 

    >>672
    ちょっと違うかもしれないけど、あるおじいちゃんの話。当時は独身の青年だね。
    終戦後自宅に戻らず、大好きだった女性の家に真っ先に向かったんだって。その後結婚したんだって。こんなに心配して待っていたのに!と自分の親にはひどく怒られたらしい。

    +84

    -0

  • 693. 匿名 2019/08/11(日) 00:44:21 

    >>677
    そうですね、そのおはぎも貴重だったと思います。
    当時はみんな食べるものがない中
    自分だけ甘いおはぎを食べることがずるをしているようで嫌だったんだと思います。
    時代がそういう思想にさせていましたからね。
    深く聞かなかったので、当時お寺の人が優遇されていたのかされていなかったのかさえわかりませんが‥

    +8

    -0

  • 694. 匿名 2019/08/11(日) 00:44:58 

    身内じゃないけど、広島への修学旅行のときに被爆者の方の話を聞かせて頂いた
    普通のシャンとしたおばあさんで、被爆したなんてパッと見には分からない方だった

    原爆投下後、逃げる途中で足を火傷してたから皮がむけてたんだけど、座り込んでたおばさんが軟膏みたいな油みたいなものを取り出して足に塗ってくれたそう

    そのおばさんはどうなったのかは分からない
    その後数日したら頭皮が膨らんできて、みるみるうちにブヨブヨに
    カミソリで切っては水を出すんだけど、薬もないからキュウリの絞り汁をつけて治したって言ってたのが印象的だった

    担任の先生は学校に帰ってきた後「キュウリの絞り汁で治すなんて昔の人の知恵はスゴいねぇ」なんて言っててクラスの子もその意見に引っ張られて昔の人の知恵はすごい!って感じになってたけど「薬が無くてどうしようも無かったっていうのを1番に言いたかったのでは?」と思ってた

    +111

    -2

  • 695. 匿名 2019/08/11(日) 00:44:58 

    >>657
    戦力を保持していなければ現実には国際社会でモノが言えないですよね。
    すぐに戦争が!軍靴が!って、北朝鮮に洗脳されてる人がいるんやね…

    +32

    -4

  • 696. 匿名 2019/08/11(日) 00:45:15 

    祖父も祖母も戦争経験者だったけど、戦時中の事はほとんど話さなかったなあ。
    3.11の地震の時に計画停電があって、私達はアワアワしてたけど、祖母は「戦時中は空襲警報中は真っ暗にしていたから慣れてるのよ」って言ったのが印象的だった。
    日常に戦争があったんだなあって。

    +68

    -1

  • 697. 匿名 2019/08/11(日) 00:45:52 

    フィリピンに従軍した看護師の話、もう少しさせてください。
    他の部隊の人に「馬の肉」と、塩か何か貴重なもの(何か忘れました)を交換してほしいと言われ、交換した肉を早速焼いたら臭すぎて誰かが「人肉だ!」と気付いて、危うく人肉を食べるところだったそうです。
    人間の肉が焼ける匂いは独特で、形容のしようがない臭さだと言っていました。

    +91

    -0

  • 698. 匿名 2019/08/11(日) 00:45:54 

    祖父はインドネシアのジャワで8人敵兵を殺しています。そしてもうひとり、戦線のなかで親友と思い、常に励まし合っていた同じ部隊の男性に泣く泣くとどめを刺さなければなりませんでした。

    彼が重症を負い、殺してくれ早く殺してくれ!と泣きながら頼んできたからだったそうですが、その時は自分も人間としての正常な判断を完全になくしており、血がぶくぶく噴き上がってくる彼の心臓を一気に突いて、最後を見届けたと。

    祖父は17年前に84歳で亡くなりました。優しい人で、特に初孫の私には格別で、直に会えなくてもいつも気持ちを寄せてくれているのが伝わってくるような人。声楽家を目指し、まさに未来が開けそうなときに召集。

    そんな人殺しと無縁であるはずの穏和な人が、意思に反して友人の命まで自分の裁量で決めてしまう…祖父は死ぬまで後悔し続けていました。可哀想で仕方なかったです。祖父の墓を訪れるとき、いつも彼の無念を思い、涙が溢れてしまいます。

    +120

    -0

  • 699. 匿名 2019/08/11(日) 00:46:13 

    >>660
    で、焼け野原になって区分がわからなくなって、
    新人類のチョン公が土地を奪っていったんだよね。
    女子供しか残ってないから、土地奪われて出ていくしかなかったって。
    韓国に対する年寄りの嫌悪感って
    この時のがかなり強いよ。

    +120

    -2

  • 700. 匿名 2019/08/11(日) 00:46:24 

    >>59
    前半2行と、後半2行を、分けて投稿して欲しかったな。
    判定に迷うコメントだ。

    前半部分は、「やっつけちゃえ??」
    そんな世論聞いたことがないから「マイナス」

    戦争は絶対やっちゃいけないは、その意見に賛成だから「プラス」

    +66

    -1

  • 701. 匿名 2019/08/11(日) 00:48:06 

    >>25
    そのお話、昨日ヤフーニュースになってたのと似てる。もしかしてお孫さん?

    +145

    -1

  • 702. 匿名 2019/08/11(日) 00:48:10 

    私の母と母方の祖父が戦時中に東南海地震にあいました。
    学徒動員で軍需工場(飛行機関係)から帰ってきてすぐに地震が来たそうで、留守番していた小学生の弟と遊びに来ていた友達を咄嗟に抱えて飛び跳ねるようにしてにげたそうです。(揺れが激しくて地に足をついてると倒れてしまうと思ったからだそう)
    祖父(飛行機の技術者の仕事をしていたので戦地に行くのは免れていた)はその時、飛行機の工場にいましたがなんとか逃げて無事でしたが、災害のあと行方不明になった方を探すのが大変だったそうです。
    地震があったことも秘密にされてましたのでその頃は被害がどうとか詳しくわからなかったので知り合いの安否などわからなかったでしょうね。

    +33

    -0

  • 703. 匿名 2019/08/11(日) 00:48:46 

    >>41
    うちの祖父シベリア行きました

    +63

    -1

  • 704. 匿名 2019/08/11(日) 00:49:19 

    親戚にすごく偏屈な爺さんがいて煙たかったんだけど、祖母が「戦争に行く前は優しい人だった。帰ってきた後に「俺は人を殺してきた」って言ってたことがある」と言っていた。
    爺さんのその後の人生にはずっと影が付いて回ってたのかと思うととても悲しい。

    +103

    -0

  • 705. 匿名 2019/08/11(日) 00:49:54 

    >>558
    見学?観光?に来た感じなのか?

    +5

    -3

  • 706. 匿名 2019/08/11(日) 00:52:05 

    お身内がシベリアに行かれた方、多いですね。
    以前「収容所から来た遺書」という、シベリアに抑留されて強制労働させられた日本兵のノンフィクションを読みました。
    思い出すたびに苦しく悲しいです。

    +62

    -0

  • 707. 匿名 2019/08/11(日) 00:54:58 

    >>685
    "必要なら戦争も辞さないと言うお考えなのではないですか?"
    はいそうです。
    万が一、自分の子供達に手をかけようものなら相手が誰でも私1人でも戦います。
    丸腰だなんてとんでもない話。
    そして、そんな事になって欲しくない、考えたくもないから皆で真剣に考えて全うな憲法になって欲しいと思います。

    +38

    -9

  • 708. 匿名 2019/08/11(日) 00:55:31 

    >>665
    敵国ではあるけど、
    アメリカ人の友達と連絡取ったりしても大丈夫だったって言ってた。
    曽祖父はドイツから戻って軍の馬事訓練施設で働いてました。アメリカ人もいたみたいですよ。

    +40

    -2

  • 709. 匿名 2019/08/11(日) 00:55:47 

    >>447
    ならなんで憲法改正は9条だけでなく、様々は条項が変えられるわけ?
    憲法は権力を縛るものだよ 国民を守る為のものではないよ
    だから政治家にとって都合がいいように変えられるていないかを国民はチェックしなきゃだめ
    あなたこそちゃんとみて 必要のないとこが変えられていないか ネットで簡単に自民党の改憲草案見れるんだから

    +10

    -13

  • 710. 匿名 2019/08/11(日) 00:56:06 

    もうとっくに亡くなってる大好きだったおじいちゃん。母と数年前にシベリアで捕虜になった話を描いたテレビ?(記憶が曖昧ですみません)を観ていた時におじいちゃんもこういう所にいて常に死と隣り合わせだったみたいよと母がポロっと言っていたのにすごく衝撃を受けたのを覚えている。食べる物がないけど、食べないと寒すぎて死ぬから石を食べてたくらいの話しか母も知らないらしい。

    おじいちゃんが生きていた頃は子どもながら、年齢的に戦争を経験してるのかな?と思いながらもいつもニコニコして優しさで溢れていて、戦争の話なんて一切聞いたことがなかった。悲惨すぎて話したくなかったんだろうね。

    でも、忘れちゃいけない。戦争は起きてはいけない。

    +75

    -0

  • 711. 匿名 2019/08/11(日) 00:57:02 

    ここを読んでいると、今悩んでることなんてちっぽけで何の問題もないことなんだと思えてきた。

    +85

    -0

  • 712. 匿名 2019/08/11(日) 00:57:14 

    憲法を変えることに戦争で苦労した祖母は大反対しています。ですが、憲法を改正することが戦争につながるのではなく、守らないといけないからだと私は思います。不思議ですよね。結局は極端な人は置いておいて大半が反対派も肯定派も戦争を起こさないようにと声を上げてます。戦時中を思うと、声高に賛成も反対も叫べるのは幸せなことですよね。ここでも言い合いはありますがみんな平和を愛しているからこその意見ですよね。平和のために議論できるのは日本が戦後教育をしっかりとしてきた証だと思います。女性である私たちも、自分や家族の幸せのために平和な社会づくりしていきましょう!

    +11

    -5

  • 713. 匿名 2019/08/11(日) 00:57:35 

    戦争体験とは少し違うかもしれませんが、戦時中に祖母が京都駅の喫茶店で給仕をしていた時に、若い兵隊さんから「お茶を運ぶ少女の微笑みがこの国を救う」というような内容の走り書きをもらったそうです。
    微笑ましいようで切ないなんとも言えない気持ちになります。

    +91

    -0

  • 714. 匿名 2019/08/11(日) 00:58:15 

    祖母から話を聞きました。

    川で泳いでいて溺れてしまったところを農業の手伝いで雇っていた朝鮮人に助けてもらった。その人の名前は未だに覚えている。家族想いで、優しい人だった。近所の人には石を投げられたり暴言をはかれたり差別されてばかりで、本当に可哀想だった。と涙ながらに語っていました。

    +70

    -4

  • 715. 匿名 2019/08/11(日) 00:58:19 

    敵を殺してしまった人もずーっとずーっとその時の顔とか景色とか感触とか頭から消えなくて、苦しんだだろうと思うと辛いね。
    戦争なので仕方なかったけど、人を殺したくて殺したわけでもないから、何年たっても死ぬまでその事を思い出したり、人には言いにくい話だし自分の中でずーっと何十年も苦しんでるんだろうね。

    +55

    -0

  • 716. 匿名 2019/08/11(日) 00:58:51 

    >>704
    悲しい…。
    優しい人だからこそ、自分の行いが耐えられなかったんでしょうね。
    (耐えられた人は優しくない非道な人とい言いたい訳ではないです)
    戦争は本当に多くの人の人生を根こそぎ変えてしまったんだろうな。

    +59

    -0

  • 717. 匿名 2019/08/11(日) 00:59:07 

    祖母は戦争経験者だけど、話しても戦後のことと朝鮮人、中国人、アメリカ人は嫌いとしか言わないのでこのスレ見ると話したくない気持ちがわかりました

    +55

    -2

  • 718. 匿名 2019/08/11(日) 00:59:33 

    戦時中でさえ裕福な家や
    スレに出てきたけど農家の一部の家は食べるものに困らなかったんだね
    その点では格差は今も昔も同じだね

    +46

    -0

  • 719. 匿名 2019/08/11(日) 01:00:25 

    20年前に修学旅行で沖縄に行って以来、強く強く戦争は何があっても繰り返してはならないと思っています。

    +45

    -0

  • 720. 匿名 2019/08/11(日) 01:01:03 

    >>714
    あの戦争の被害者は日本人だけでは無いですよね。
    当たり前のことですが、朝鮮の人だって良い人は沢山いて、その人たちも犠牲になったんだ。

    +74

    -2

  • 721. 匿名 2019/08/11(日) 01:03:57 

    戦争はしてはいけない、というか、どんなに挑発されたりしても絶対にこちらから先に手を出してはいけない。そして大切な人を守る為に、守りの武装は絶対に必要。なぜなら、ここに書いてある先人達が命をかけて守ってくれたのが今の自分達だから。無駄にしてはいけない。

    +52

    -2

  • 722. 匿名 2019/08/11(日) 01:05:25 

    >>712
    きもい。
    現代の日本人女性とは思えない。
    ネトウヨのガル男さんですよね?

    +2

    -9

  • 723. 匿名 2019/08/11(日) 01:05:28 

    祖母がソウルで教師をしていました。しかし終戦直後、2年間ためたお金を朝鮮人に奪われて身ぐるみ剥がされて日本に帰って来たと、言っていました。
    日本人も被害に遭ってるのにただの売春婦を慰安婦などと言って賠償金をいつまでも要求する朝鮮人は許せない。

    +135

    -2

  • 724. 匿名 2019/08/11(日) 01:05:58 

    祖母が大地主の娘で、戦争時代も食べる物に困らなかったと言ってた。子供一人一人に使用人がいたと。
    食料との物々交換の為に都心から着物を持って歩いてくる人とかいたらしいよ。

    +35

    -1

  • 725. 匿名 2019/08/11(日) 01:07:43 

    だいぶ前に亡くなった祖母のお父さんが小学校の校長先生だった。
    戦争中空襲でその校庭の真上で小さな日本の戦闘機がアメリカの戦闘機に特攻してバラバラになって爆発したらしい。アメリカの方は無傷。
    校庭には残骸が落ちてて、その中にパイロットの方の地肌のかけらがあったらしい。
    それを集めて生徒たちがみんなで供養したって聞きました。

    +66

    -1

  • 726. 匿名 2019/08/11(日) 01:07:46 

    >>718
    裕福な家庭はお金があって、どうにか食べ物を手に入れたのかな?

    田舎の農家は、戦前も戦時中も自給自足して食べていた。
    格差は当てはまらないと思いますよ。

    あと何人かいるけど、「スレ」と書く人は、2ちゃんねるのクセかな?
    ここでは「トピ」とよぶ。

    +44

    -4

  • 727. 匿名 2019/08/11(日) 01:07:46 

    >>202
    何も広島と長崎以外は普通の日ってわけではなと思うけど、、

    +42

    -3

  • 728. 匿名 2019/08/11(日) 01:08:28 

    >>718
    格差はあったのかもしれない。
    うちは農村で田畑しかなかったから、町から食料を買いに来る人がたくさんいたし、その人たちに分けても飢えるほどには困らなかったそうです。ただ、芋の蔓や根も食べたし、砂糖、塩などは手に入りにくく苦労したと聞いています。

    +21

    -0

  • 729. 匿名 2019/08/11(日) 01:11:59 

    >>709
    間違えた
    権力の暴走から国民を守るものが憲法です
    権力のある政治家が憲法を変えようと言ったとき、まずはそういう人たちにとって都合が良いものに変えられていないか疑ってみなければダメだよ
    盲信的に日本を守るために憲法を変えるなんて考えるのは浅はかすぎる
    時代にあってないから変えるという議論があることを反対はしませんが

    +2

    -5

  • 730. 匿名 2019/08/11(日) 01:12:16 

    >>133
    極左っちゅうか、ただのクズやん……。
    「極」が付くのは右も左も頭おかしいのな。
    子供になんてこと聞かせるんだよ!

    +139

    -0

  • 731. 匿名 2019/08/11(日) 01:13:45 

    母方の祖父は「俺たちは中国で本当にひどいことをしたんだ」と言っていたと母から聞いたことがあります。
    それ以上の詳しいことは一切教えてくれなかった、と。
    南京大虐殺とか戦争で日本軍が非道な事をしたという中国の主張は全部嘘!!というネットの意見を見るたびに、それを思い出す。

    +48

    -4

  • 732. 匿名 2019/08/11(日) 01:14:13 

    近所の河原にB29が墜落した時、村人がクワとか武器を持って総出で走って行って、機体から乗員を引きずり出してボコボコにした話を聞いたことがあります。
    お巡りさんが村人を制止して連行したらしいですが、見ていた祖母には、外国の兵隊さんは赤い顔で鬼のように見えたそうです。

    +61

    -0

  • 733. 匿名 2019/08/11(日) 01:14:53 

    実家は田舎で家のまわりに小さな山とかあるんだけど、その山の側面に穴みたいのがあって、小さいとき祖母に「この穴なに?」って聞いたことがある。
    祖母は防空壕だよって教えてくれたけど、本当に穴も小さいし、ここに皆で隠れていたのかなと思うと、なんだか変な感じで戦争ってこんなに身近にあるんだと思った。
    今もまだそのままの形で実家にあります。

    +37

    -1

  • 734. 匿名 2019/08/11(日) 01:16:17 

    >>729
    まさしく、70数年前に作られた憲法を、
    現代に合ったものにしようと、話し合おうとしている。

    70数年前と、現在の周辺諸国の状況が全然違う。

    +53

    -3

  • 735. 匿名 2019/08/11(日) 01:17:19 

    私の祖父はフィリピン→満州、そしてニューギニアで終戦を迎えました。
    カエルや蛇を食べていたらしい。
    一番記憶に残っているのは、ニューギニアには人食いがいると言っていました。
    小さい頃はそういう人種がいるのかと恐怖だったのですが、今思うと食料がなくて人を食べている人がいたのかなと思います。
    ニューギニアは激戦地だったので。

    +70

    -1

  • 736. 匿名 2019/08/11(日) 01:17:48 

    >>144
    同世代の人の辛い経験を笑うなんて酷い。
    自分も空襲を経験しているならまだしも、経験ないのに聞こえるわけないと決めつけて笑うなんて、お母様方のお祖父様悔しかっただろうね。

    +109

    -1

  • 737. 匿名 2019/08/11(日) 01:18:06 

    曽祖父が旧ソ連軍に捕まりあちらで約1年捕虜生活を送っていたらしい。
    自伝に書き留めていたけど生々しくてまだ全部読めてない。
    そんな曽祖父は凍傷で視力も片手も失ってた。幼い私には手がないという事がよく分からなかったけど、戦争によるものだったらしい。

    +51

    -1

  • 738. 匿名 2019/08/11(日) 01:18:38 

    うちのひいおばあちゃんは息子達(おじいちゃん達)に、食べ物が何も無いから自分の太もも削いで焼いて食べさせたらしい

    +32

    -3

  • 739. 匿名 2019/08/11(日) 01:20:31 

    >>734
    それで自民党の改憲草案は全部読んでみましたか?

    +6

    -3

  • 740. 匿名 2019/08/11(日) 01:22:23 

    沖縄戦で、赤ん坊の泣き声で敵に見つかるからと防空壕から出された母子の話を思い出すたびに胸が詰まる。

    +55

    -0

  • 741. 匿名 2019/08/11(日) 01:22:31 

    >>57
    青山繁晴さんという方をご存じですか?その方の番組などでもよくお話がありますが、硫黄島で戦ってくれた人たちのお陰で本土の人達が守られた、なのにまだ硫黄島ではたくさんの遺骨が埋もれたままになっていると。現在は改善されている状況になっているようですが、時々ですが私も硫黄の方角に向けてお水を入れたコップをお祀りしています。
    本土を護ってくださりありがとうございます。

    +118

    -0

  • 742. 匿名 2019/08/11(日) 01:23:24 

    ふとネットで特攻隊の動画を見つけました。
    自分よりも年下のまだあどけない10代の子供や青年達がお国のためと戦った有志、出撃前の遺書を読み涙がとまりません。今の世の中からは考えられない世界がほんの70年前にあった事なんだと考えさせられました。

    +47

    -1

  • 743. 匿名 2019/08/11(日) 01:23:47 

    うちのボケたおばあちゃんが、人肉はまずいと時々言ってくる。

    +19

    -1

  • 744. 匿名 2019/08/11(日) 01:24:12 

    19年後には新幹線が開通して東京五輪を成功させたなんて日本はスゴイ

    +103

    -1

  • 745. 匿名 2019/08/11(日) 01:25:07 

    >>707
    一人で竹槍持って戦ってそう

    +6

    -15

  • 746. 匿名 2019/08/11(日) 01:26:50 

    >>740
    飼っていたわんちゃん達も吠えるからと殺されたみたいですね。

    わんちゃん達にも赤紙が配られ、何十万頭と戦地に送り込まれ爆弾を背負わされて戦車の下まで走らされわんちゃんもろとも爆発させられたそうです。心が痛みます。

    +105

    -0

  • 747. 匿名 2019/08/11(日) 01:26:55 

    今の時代に生きれて幸せだな。
    新生児の息子が居るからしんどいなと思ってたけど...なんて私はワガママだったのだろうか。
    しんどいけど幸せだわ。しんどい幸せだわ

    +86

    -3

  • 748. 匿名 2019/08/11(日) 01:26:55 

    この良トピに出会えて、みなさんの貴重なお話をたくさん聞かせていただけて本当に良かった
    ありがとうございます

    +69

    -0

  • 749. 匿名 2019/08/11(日) 01:26:57 

    もう何年も前に亡くなった祖父が東南アジアとか中国の方まで歩兵として戦争に行ってた。
    子どもの時に祖父の脇腹にある真っ黒い傷痕が何なのか気になって尋ねたら、銃で撃たれた痕だって教えてくれた。
    「祖父ちゃんを撃った相手が下手くそで助かったよ。もし命中してたらお前も生まれてなかったんだもんな」って冗談のように言ってたけど大きな傷痕だったし、お祖父ちゃんはきっと怖かったし痛かっただろうって考えたら悲しくなって大泣きしちゃった。
    お祖父ちゃんは、「自分を撃った相手はとどめを刺す事も出来たはずだったのに振り返りもせず慌てて逃げて行った。その人もきっと怖かったんだろうね」って話してて、戦いたくない人間同士が殺し合いをしなきゃいけなかったなんて…ってますます戦争の怖さを知った。

    +109

    -0

  • 750. 匿名 2019/08/11(日) 01:26:58 

    >>743
    南方でジャングルで食料がなく、人肉を食べた兵隊がいた
    というの聞いたことがあるのですが、
    女性が人肉を食べた状況って、想像がつきません……。

    +33

    -0

  • 751. 匿名 2019/08/11(日) 01:28:21 

    >>18
    この時代麻薬、大麻などの薬物が違法ではなく軍人のために、今ではかなり危険で中毒性、禁断症状の強い薬物を吸ったりしてたらしい

    それで痛みに鈍感になってたのかなとふと考えた

    +105

    -2

  • 752. 匿名 2019/08/11(日) 01:29:29 

    亡くなった祖父はよく戦場の話をしてくれた。
    小指を骨折したけど治療なんかして貰えず曲がったままくっついちゃって有り得ない方向むいてたなー
    あと、本当か分からないけど頭に銃弾が当たって入ったままだって言ってた。
    いつも冗談交えて戦争の話をしてくれた。
    すごく辛い体験だから笑いながら話してたのかなと思う。

    +37

    -1

  • 753. 匿名 2019/08/11(日) 01:29:51 

    せいやーっ
    せいやーっ

    うちのばーちゃん未だに放棄振り回してるよ毎日

    +13

    -2

  • 754. 匿名 2019/08/11(日) 01:31:57 

    >>459
    ベトナム戦争から帰還したアメリカ兵はPTSDで苦しんでるって聞いたことあるけど
    ゲリラ戦に相当参らされたんだとか

    +54

    -0

  • 755. 匿名 2019/08/11(日) 01:34:26 

    亡くなった曽祖父が戦時中海軍にいたらしく、よく曽祖母から「おじいさんは船に乗ってアメリカさんと戦ったんやでー」と聞かされました。戦争から生きて帰ってきてくれたおかげで父や私が存在すると思うと不思議でなりません。

    +46

    -0

  • 756. 匿名 2019/08/11(日) 01:35:26 

    戦争なんてなくなればいい。日本で今起こっていないだけで、紛争は現在も起こっている。そして、罪のない人たちが巻き込まれている。

    +69

    -1

  • 757. 匿名 2019/08/11(日) 01:36:43 

    母方の祖父は戦争中にたまたま腕を撃たれて帰還させてもらえたので、二度目に戦争に行ったときは自分で銃撃って怪我して帰ってきたらしい。
    父方の祖父は、乗ってた船が爆撃されて皆んな亡くなったけど、1人だけ助かったんだと。
    ズル賢いか強運かでないと戦争から帰ってこれなかったんだろうな。父方の祖父のクラスで生き残れた男子は2人だけだったらしい。

    +63

    -2

  • 758. 匿名 2019/08/11(日) 01:36:54 

    >>93
    それを中身を教えてほしい‼

    +72

    -2

  • 759. 匿名 2019/08/11(日) 01:37:29 

    旦那の祖父が戦艦大和に乗っていたそう。
    たまたま乗り合わせていなかった時に沈没したので、今旦那がいて、子供たちもいる。
    戦争が無かったら、亡くなった人にも本当は家族、子孫がいたはずなのにな〜と思うと本当に今生きてるのが奇跡ですよね。
    そして、私の母方の祖母は戦争中に曾祖母と妹とはぐれてしまい、弟と2人で川辺で生活していて、曾祖母は噂で子供達だけで生活してると聞いて駆けつけ再開したそうです。
    戦争によって凄く苦労した方、皆居なくなって当時の話も聞く事が出来なくなってきたので、子供達にも知ってもらいたく、興味を持つようにわかりやすい漫画など家に置いてます。

    +64

    -1

  • 760. 匿名 2019/08/11(日) 01:37:38 

    祖父から聞いた話。
    学童疎開をしていたらしいけど、山で蛇を大人と捕まえてそれを食べていたこと。
    イナゴはその時ご馳走で美味しかったこと。
    お腹の中に虫が湧いて、普通に使ってる農薬を飲んでお腹の虫を殺したこと。
    壮絶すぎる人生歩んできたなぁと思います。
    祖父は、いつか話す人がいなくなるから語り継ぐべき歴史だ。と話していました。
    祖父は強くて、尊敬しています。

    +82

    -1

  • 761. 匿名 2019/08/11(日) 01:38:27 

    昔の方って本当に強かったんだなと思います。子供から大人まで..

    戦争という辛い歴史の上で今の私たちが暮らしているんだなと思うと感謝とも悲しみとも言い得ぬ複雑な気持ちになります..

    +69

    -1

  • 762. 匿名 2019/08/11(日) 01:38:27 

    祖母の姉が爆弾を作る施設で学徒動員で働かされていて、戦争が終わる前日の8月14日にそこが集中的に空襲で爆撃されてたくさんの学生さんが亡くなったと聞きました、祖母の姉は奇跡的に助かって、翌日真っ黒な顔して帰ってきたみたいです。
    広島、長崎に原爆が落とされてからも、戦争が終わる前日まで各地で空襲があってたくさんの人が亡くなったらしいです。もっと早く終わっていたら無くならない命もあったはずです。

    +65

    -0

  • 763. 匿名 2019/08/11(日) 01:38:34 

    もう亡くなってしまったけど、祖父が蓮根だけは食べなかった。

    子供の頃は「いい大人が好き嫌いして」と思っていたけど、10代の食べ盛りの頃に戦争があり、本当に食べるものがなくて、毎日、ドブ川に生えてた蓮根を食料にしていた話を祖母から聞いた。
    毎晩お風呂上がりに嬉しそうにアイスを食べていた祖父の姿を夏になると思い出す。

    +120

    -0

  • 764. 匿名 2019/08/11(日) 01:38:55 

    >>464
    ノモンハンかもしれませんね
    宮崎駿監督の「風立ちぬ」のラストシーンの草原はノモンハンがモデルだそうです

    +18

    -0

  • 765. 匿名 2019/08/11(日) 01:39:17 

    >>18
    私も子供の頃頭の怪我をして麻酔なしで縫われた。押さえつけられて死ぬかと思ったわ。
    トピずれ?ごめんね。

    +89

    -0

  • 766. 匿名 2019/08/11(日) 01:41:07 

    汚い話ですので苦手な方はスクロールをお願いします



    お腹を空かせていた祖父達日本兵が
    アメリカ兵が捨てたコーヒーの豆カスをみんなで食べたそうです

    するとお腹が痛くなり、でも便が詰まり出てこないという大変な事態に

    みんなで四つん這いでお尻突き出し輪になって
    お尻の穴をほじくったそうです

    しばらくほじくるとブシャーッと勢いよく出て
    それぞれの顔に便がかかったんだ
    わっはっはっはっ!
    と笑っていました

    なんでアメリカ兵がいたんだろ。おじいちゃん捕虜になってたのかな?
    小学2年生の時なので戦争に興味がなく詳しく聞きませんでした

    祖父は戦争の話をすると私は眠くなっていつも聞いていなかったので
    怒っていました

    今なら聞きたいいろんなこと
    おじいちゃんごめんね

    +61

    -3

  • 767. 匿名 2019/08/11(日) 01:41:53 

    >>762
    本当ですね。
    終戦前日に特攻へ行き命を落とされた方もおります。

    あと一日、あと一日でも早く戦争が終わっていたら特攻のような亡くなり方をしなくていい若者達がいただろうにと思います。あと一日で戦争が終わるよだから特攻に行かないでと教えてあげたいです!!

    +63

    -0

  • 768. 匿名 2019/08/11(日) 01:43:32 

    お国の為に子供を犠牲にはできない!!
    低学年と3歳の息子3人いてるけど、大事な子供に頑張ってと戦争送り出せない😭😭
    当時からそんな親いないですよね。
    考えただけでも辛い。
    遺骨があっても無くても辛い

    +68

    -8

  • 769. 匿名 2019/08/11(日) 01:43:37 

    おばあちゃんはひまわり畑で誰かの視線を感じ振り向いたらやっぱりひまわりで
    それでもやっぱり見られてる気がすると振り向いたら爆撃に吹っ飛ばされた首だったそうです

    +84

    -0

  • 770. 匿名 2019/08/11(日) 01:43:43 

    祖父は戦争中、撃たれて帰国したらしい。帰路が原爆の被害に遭っていてさらに大変だったそう。
    5年前に亡くなってしまったけど、亡くなるまで鉄砲の弾は心臓の真横に残ったまま。取る事が困難でそのままになってしまったとの事でした。往年まで 検診などでレントゲンを撮ると、お医者さんから「ご苦労なさったんですね」と察してもらっていたと話を聞きました。

    +88

    -0

  • 771. 匿名 2019/08/11(日) 01:44:39 

    代々魚屋さんだった祖父
    私にとっては店で、魚を捌くおじいちゃん。



    今で言う中学生くらいの年齢の時、自ら志願して予科練生になり戦闘機乗りの訓練生だったみたい。
    特攻隊の話も聞いたことがある。
    いざ、戦争に向かうという時に終戦を迎えて戦争に行くことはなかったみたいです。


    もし、おじいちゃんが戦争に行っていたら私は今存在していないかもしれないこと。
    命を顧みず、志願して訓練生になったこと。
    亡くなる前にもっともっと話をきいておけばよかったこと。

    今になって思う所がたくさんあります。
    おじいちゃんありがとう。
    おじいちゃんに恥じない生き方をしなければ。

    +53

    -0

  • 772. 匿名 2019/08/11(日) 01:44:44 

    >>714
    この時代は朝鮮人じゃなくても外国人が珍しいから差別に合うよね。
    うちの祖母が台湾とのハーフだけど、あいのこってやっぱり言われることあったらしい。

    +55

    -1

  • 773. 匿名 2019/08/11(日) 01:44:46 

    私は40歳なんだけど、母が40歳の時の子どもだから母が戦争体験してるんです
    母がB29を見たり防空壕に避難したらしいよっていうと、お前いくつだよ!と引かれます
    母自身は田舎の庄屋育ちで裕福だったので、都会から綺麗な着物と引き換えに食料をもらいにくる奥さんがきたりする方で、戦後は進駐軍相手に商売をして貧しい生活は送らなかったみたいです


    +55

    -0

  • 774. 匿名 2019/08/11(日) 01:45:45 

    >>45
    火炎放射器じゃ無いですか?

    +112

    -1

  • 775. 匿名 2019/08/11(日) 01:46:52 

    大阪大空襲で京橋駅周りが大打撃を受けたのは8/14。
    翌日の朝には玉音放送があって終戦。
    もう敗戦決定してたのに。失わなくて良い何百人の民間人が犠牲になったのが悔しい。

    +83

    -0

  • 776. 匿名 2019/08/11(日) 01:46:59 

    >>41
    私の祖父も、シベリア行きでした。なまじ語学習得が得意だったから通訳に抜擢されてしまい長々帰ってこれなかったそうです。
    全体的に捕虜の生活はひどく、冬場は横で寝ていた人が凍死してし舞うのが珍しくなかったそうです。
    私が幼い頃になくなってしまったので、もっとお話聞きたかった。

    +127

    -0

  • 777. 匿名 2019/08/11(日) 01:49:31 

    子供の頃、上野へ行くと
    軍服着たおじさんが
    物乞い(募金要請)していたのを見た微かな記憶。

    腕を吊っていたような、足は片足膝下がなかったような。そこら辺は曖昧な記憶。

    40代後半です。

    +56

    -1

  • 778. 匿名 2019/08/11(日) 01:49:54 

    >>144
    いえ、それは、経験の有無ではなく、人間性の問題かと思います…。
    有り得ない発言です。
    お父様方の親戚の方々は控えめに言ってもド屑だと思います。

    +94

    -1

  • 779. 匿名 2019/08/11(日) 01:51:24 

    祖父が潜水艦特攻隊でした。
    死ぬ気で行くので片道分の燃料しか積まず、
    覚悟の上で出るタイミングで終戦。

    10年以上前に亡くなった祖父ですが
    もっと話しを聞いておけば良かったと思います。

    +49

    -0

  • 780. 匿名 2019/08/11(日) 01:51:26 

    強姦が当たり前なんて酷たらしくて凄惨だと思った
    埋もれた戦争の性被害 ~老医師の告白~|けさのクローズアップ|NHKニュース おはよう日本
    埋もれた戦争の性被害 ~老医師の告白~|けさのクローズアップ|NHKニュース おはよう日本www.nhk.or.jp

    朝のニュース、情報番組として放送しているNHKニュース おはよう日本の番組公式サイトです。放送で取り上げた情報をご覧いただけます。

    +25

    -6

  • 781. 匿名 2019/08/11(日) 01:51:32 

    >>563
    でも途中から左に寄り過ぎてるとは言われてるよね
    掲載媒体がジャンプから他の雑誌に移ったせいらしいけど

    +21

    -0

  • 782. 匿名 2019/08/11(日) 01:52:07 

    祖父がグアム島の激戦に行ってた。捕虜になって、沖縄で米軍に銃を向けられて手を挙げて他の日本兵達と横一列に並んでいる祖父の写真が戦争の資料をまとめた本に掲載されてる。今も図書館とかにある。祖父の親族は、終戦後も捕虜になっていたので、祖父が戦死したと思いお葬式まで出していたみたい。ちなみに祖父は衛生兵だったから、守られていたみたいだけど、銃痕が残っていた。心臓を狙われたけど、祖父は内臓逆位なので運良く助かったみたい。
    数年前、95歳の老衰で亡くなりました。
    火葬した後、当時の取り除けなかった弾丸らしきものがお骨の中に混ざっていました。
    葬儀場の方とお坊さんが教えてくれました。
    遺品整理で祖父がとっていた赤紙も初めて見ました。

    +71

    -1

  • 783. 匿名 2019/08/11(日) 01:52:12 

    >>763
    >>348ですが私の祖父もお風呂上がりに今でもコンビニで売っている「みぞれ」をそれはそれは美味しそうに食べていたのを思い出しました
    がんで亡くなる直前も「みぞれ」は口にしていました
    お盆だから久しぶりに買って食べてみようかな
    思い出させてくださってありがとうこざいます

    +74

    -1

  • 784. 匿名 2019/08/11(日) 01:52:25 

    頼んで一族の誰にも紙がこないように手配した、という人がいた。
    その人は食事にも全く困らなかったと話していた。
    こういう人の存在が一番伏せられやすいと思う。



    +70

    -0

  • 785. 匿名 2019/08/11(日) 01:53:17 

    >>766

    続きです。
    別のシーンでは
    おじいちゃんは負傷し逃げていました。小屋があったので身を潜めようとすると
    そこには先客の日本兵が潜伏してました。2人で隠れていたのですが
    アメリカ兵が小屋に近づいてきました
    別体絶命のピンチです
    おじいちゃんは怪我をしていたので先にいた日本兵が
    お前はここに隠れていろ、俺が行ってくると

    しかしその兵士は打たれて死んでしまいました。
    おじいちゃんの身代わりになってくれたのです
    おじいちゃんはその兵士の親指と髪を切り布に包み形見として大事に持っていたそうです
    その話の最中私は寝てしまったのでわかりません

    でも、その時助けてくれなかったら今頃私は産まれたいないんですよね

    +62

    -0

  • 786. 匿名 2019/08/11(日) 01:53:49 

    >>133
    何人殺したかまでは聞かされなかったけど、私も戦争の話をおじいちゃんおばあちゃんから聞こうっていう宿題出た
    けど話したがらなかった
    なんで話したくないのか当時は不思議だったけど、今ならわかる

    +109

    -0

  • 787. 匿名 2019/08/11(日) 01:55:10 

    >>751
    もしかしたら結構多くの兵隊さんが麻薬に頼っていたのかも。
    そうでもしなきゃ、戦争なんて耐えられないと思う。

    +86

    -1

  • 788. 匿名 2019/08/11(日) 01:56:26 

    >>780
    NHKの日本を貶める系は反日プロパガンダだから話半分に聞いた方がいいですよ。


    捏造。

    +5

    -13

  • 789. 匿名 2019/08/11(日) 01:57:10 

    祖母と父がソウルからの引き上げ者です。
    当時、長年勤めてくれた韓国の人に会社をお願いし、再会の約束をして帰ってきました。
    その韓国の人は、当時日本人へ対する反感(もっと激しいもの)から守ってくれたそうです。
    そして、今でも年賀状のやりとりや、留学に来られた際には遊びに来てくれたりこちらが行くときには案内してくれたりと、交流は続いています。
    だから、いまの日韓の情勢が悲しいです。

    +81

    -1

  • 790. 匿名 2019/08/11(日) 01:58:18 

    >>586
    北野武主演の映画「血と骨」思い出す

    +9

    -0

  • 791. 匿名 2019/08/11(日) 01:59:53 

    >>787
    麻薬とかは下っ端までに回らなかったと思う。
    自決用の毒さえ行き渡らなかったと聞いたことがある。

    +58

    -0

  • 792. 匿名 2019/08/11(日) 02:00:03 

    >>785
    まだまだ続きます。
    私の覚えている限りを

    爆撃機が飛んできて防空壕?縦穴?に入ったのですが
    そーっと頭をあげると隣を見ると仲の良い兵士もちょうど穴から頭を出したその時
    一瞬にして爆撃で頭が吹っ飛ぶ瞬間をみたそうです
    おじいちゃんは運が良かったなぁ

    小学二年生のうろ覚えの話ですが
    上の兄姉ならもっと詳しく聞いているかも
    集まった時にでも聞いてみます

    +48

    -3

  • 793. 匿名 2019/08/11(日) 02:01:19 

    知り合いの年配女性から聞いた話。
    その人は兄弟姉妹の中で末っ子(戦後生まれ)なんだけど、
    兄と姉の次の子供(男?)さんが生まれた当時、ものすごい食糧難で
    栄養失調で育たなくて亡くなった。
    母乳が出ず、赤ちゃんには白湯しか飲ませられなかったらしい。
    現代だったら粉ミルクがあるし、普通に助かるのに気の毒な事だ。

    +56

    -0

  • 794. 匿名 2019/08/11(日) 02:03:17 

    >>493
    最後雑用を押し付ける社長って感じでちょっと笑ってしまったけど、平和な時代の社員にも戦争とはどういうものかっていうのを知ってもらうきっかけにしたかったんじゃないのかな?

    遺骨は見つからなくて、全然関係ない石だけ持って帰ってきてるけど、そうでもしないと気が済まない気持ちを分かってほしかったのかも
    石を磨くっていう単純作業をしながら、そこに思いを馳せてほしかったのかな

    +62

    -1

  • 795. 匿名 2019/08/11(日) 02:03:39 

    亡くなった義父が終戦のその日、小学生で近所で防空壕掘ってたそーな

    今は平和な時代だからこんな風に気軽に書けるけど、もし自分ならたまったもんじゃないよ
    頼んでもない戦争始めて女や子供にまでそんなん作らせて反発すれば「非国民」ってめちゃくちゃ

    +32

    -2

  • 796. 匿名 2019/08/11(日) 02:03:57 

    沖縄出身の母から聞いた話。
    英語が少し話せる学校の先生をスパイと思い、家にいる時に日本兵がやってきていきなり日本刀で首を切断。首の無い体はその場で三歩歩いたって。
    沖縄人にとっては米兵も日本兵も両方恐ろしかったそう。

    +76

    -4

  • 797. 匿名 2019/08/11(日) 02:05:23 

    >>639
    絶対戦争反対っていう人がいてもいいしそういう人がいないとダメだよ。
    戦争経験者が戦争反対と言うと言葉に重みが出て誰も否定できないのに、なぜか戦争経験してない人がいうと甘いだの言われてしまうよね。
    戦後70年じゃなくて戦前70年だと思ってる。

    +25

    -4

  • 798. 匿名 2019/08/11(日) 02:06:11 

    >>348
    お役に立てて嬉しいです^ ^

    +7

    -0

  • 799. 匿名 2019/08/11(日) 02:07:07 

    亡くなった祖父の弟は終戦後手榴弾とは知らずに遊んでいて左手首から先が吹っ飛んでありませんでした。
    結婚式の写真も手首が隠れるように写っていたのを覚えています。
    顔はダンディでバンナムな方でした。

    +50

    -2

  • 800. 匿名 2019/08/11(日) 02:07:28 

    >>782
    の続きで運命を感じた話なんだけど、グアム島の戦地で仲良くなった兵士がいて、その日は激戦になるであろうからと衛生兵で見送る祖父は、その友人から「自分が亡くなったらこれを家族に」と御守りを預かったみたい。その後、友人の安否もわからぬまま捕虜に。御守りを生きていたら本人に返したいけど◯○県出身と名前しかわからないので、渡せないでいたよう。十数年後、息子(私の父)がたまたまその友人の出身地に住み、そこで結婚。息子が義兄に何気なくその話をしたら、近所に同姓同名の似た経歴の人がいると。確認したら偶然にもその友人ご本人。大喜びの祖父は、こちらに飛行機で来て、待ち合わせの観光ホテルのロビーで再開と御守りを返すことができました。
    私も小学生ながら一緒に行ったので覚えています。
    祖父は御守りのおかげで、反対側の心臓を狙われたので助かったと感謝していました。

    +93

    -0

  • 801. 匿名 2019/08/11(日) 02:07:41 

    戦争に行っていた曾祖父が戦死したと知らせが届いて一緒に骨のような物も受け取ったのでお墓を建てたら数年後、満州から無事に帰ってきたそうです。
    誰の骨か分からないですが先祖のお墓に入ってます。

    +87

    -0

  • 802. 匿名 2019/08/11(日) 02:07:54 

    我が家は戦時中、男手がなく(祖母の父は足が悪く出征できず、祖母は女3姉妹)兵隊に誰も出せなかったから村で相当肩身が狭かったそうな。

    終戦後も男性が戦地から帰って来ず、結婚できなくて余ってる女性がたくさんいて、これまた戦争に行けなかった体が不自由な男性と、子供を作る目的だけで無理やり結婚させられたりしたみたい。

    話題に上がらないけど、戦地に行かなかった女性も相当の苦労があったんだよね。

    +114

    -0

  • 803. 匿名 2019/08/11(日) 02:10:20 

    このトピ見てたら亡くなった人達や
    自分の祖父のととか思い出して
    泣けてきた
    命がつながって自分がいることが不思議

    +87

    -2

  • 804. 匿名 2019/08/11(日) 02:14:54 

    もう亡くなったけど、祖母に大阪大空襲の話を聞いたことがあります。
    爆弾の中、一才の父を背負って逃げたこと、一緒に逃げた方が亡くなったこと、全て焼けてなくなったこと。
    祖母が亡くなる3年位前に空襲以前の町の地図が復元されて(すごい細かいもの)自分の家も載ってる!近所のお店も載ってるって嬉しそうでした。

    +80

    -0

  • 805. 匿名 2019/08/11(日) 02:18:57 

    トピずれだったらすみません。
    戦争を題材にした映画見てると、やっぱ軍事力が上回る国と戦争になったら勝ち目ないし、9条改正反対の人いると思うんだけど戦争したくないからこそ軍事力は持っていたほうが牽制になるんじゃないかなと考えたりしました。
    それと、最近の香港デモを見て、中国はいずれ香港と台湾を正式に中国に取り込んで、もしかしたら日本も取り込もうとするかもしれない、
    もし日本共産党が覇権を握ったら日本も中国化するかもしれないし、民主党になったら韓国寄りになってしまっていずれ日本がまた危機に晒されるんじゃないかと思ったりして危機感を感じました。
    先人たちの覚悟や死を無駄にしたくないと改めて思います。

    +91

    -9

  • 806. 匿名 2019/08/11(日) 02:19:08 

    自分が親になった今、子供にもしっかり戦争の悲惨さを伝えていかないとと思います。
    直接戦争を経験した世代がどんどんいなくなり、リアリティが薄れるのが怖い。

    +72

    -1

  • 807. 匿名 2019/08/11(日) 02:21:17 

    >>600
    大和型は46サンチ砲ですよ

    +9

    -0

  • 808. 匿名 2019/08/11(日) 02:22:50 

    うちの祖父は学徒動員かは詳しくは知らないが
    中学生くらいのときに都市部の工場で働いていたそうだ。
    そこの班長さんは嫁さんもいて家庭があるのに
    昼間にいつも豆ごはんをくれたんだって。
    周りには内緒で。周りには「またあいつ班長に叱られてるぜ」って思われてた。そういうふうに呼び出してはこっそりといい思いさせてもらっていたそうだ。
    友達もたくさんいたみたいでニコニコしながらいろんな名前が出ていた。
    だからか、大空襲前までが本当に幸せだったと言っていた。
    みな焼けて…って一言でお話は当時終わった。続きはもう聞けない。
    田舎に戻ってからは戦争で孤児だった妹たちができて、死ぬまで身内に稼いだ金を盗られて過ごしてた。
    祖父が亡くなった後でも祖父の子どもや私ら孫にたかろうと必死に試行錯誤してくる祖父の妹たち…申し訳ないが本当の親と一緒に消えてりゃよかったんだ。自分の子どもや孫に縁切られてるからお前らが養えって言ってきたときはさすがにね…いや、私なんか顔知らんし義理ないわ…ってガチャ切りしといた。

    +64

    -2

  • 809. 匿名 2019/08/11(日) 02:22:57 

    >>746
    正直、読まなきゃ良かった知らなければよかったと思うくらい可哀想な話だと思いました。人間以外の動物なんて戦争ってものを知らないんですから。人間のエゴで自分の命まで奪われて、こんな悲惨な事はないです。私は違うスレを見て初めて知ったんですけど。空襲の為、動物園のゾウを処分する為に毒入りのリンゴをあげても、ゾウが気付いてしまい。ちゃんとした餌を貰う為に、ゾウが飼育員の前で一生懸命芸を披露してたって話に胸が詰まりました。

    +103

    -3

  • 810. 匿名 2019/08/11(日) 02:23:09 

    このトピ見て調べてたら伊33って潜水艦の話が出て来て出口のない海を思い出した
    画像出て来るので苦手な方検索しないでね

    +10

    -0

  • 811. 匿名 2019/08/11(日) 02:24:53 

    祖母は鹿児島出身で、よく出発する特攻隊の方々に手を振りに行ったそうです。飛行機が飛び立つ時、学校のみんなで特攻隊の方々へお歌を歌って励ましたそう。
    その時どんな気持ちだったの?と聞いたら
    この方達が守ってくれる、カッコイイ、頑張れ!とひたすら思ったと。
    今思えば、まだまだ大人とは言えない子達がお国のために死ににゆくのに
    可哀想と思わずカッコイイと思うのはおかしいわね。でもね、あの当時はお国にそう教育されていたのよ。戦争がおかしいなんてこれっぽっちも思わなかったわ.と言っていました。

    +67

    -1

  • 812. 匿名 2019/08/11(日) 02:28:27 

    4年前、私が高2の時
    修学旅行のテーマは平和学習でした
    その年は終戦してからちょうど70年が経ったときで
    戦争について知っておきたいと思い
    おじいちゃんが年上の方から聞いた
    色んな話を聞きました

    一番心に残っているのは

    日本兵とアメリカ兵が空で戦闘機で戦った末
    日本兵がアメリカ兵を撃ち
    アメリカ兵の戦闘機は火だるまになりました
    アメリカ兵は空中に脱出しましたが
    もはや助かる余地はありませんでした
    しかし彼は日本兵にグッドサイン👍をしながら
    落ちていったそうです
    俺は最後まで国のために生きてここで終わる、
    お前は生きて帰って家族に会いに行くんだ。

    戦争の間は国を守ることを共有され
    心を鬼にして相手を殺めなければいけないが
    死に際くらいは人間らしくいたいんだろうな
    とおじいちゃんが言っていました

    数多くある戦争を舞台とした映画などで
    いっときの休戦の間
    前線にいた敵同士がそのときだけは
    タバコなどを分け合ったりするシーンがありますが
    そーゆーのを見ると人間捨てたもんじゃない
    と思いますね

    +92

    -0

  • 813. 匿名 2019/08/11(日) 02:31:33 

    >>53
    戦時中を思い出すんだろうね

    +11

    -0

  • 814. 匿名 2019/08/11(日) 02:34:30 

    >>10
    熊本は海側だったら障害物無く長崎見えますよね…

    +52

    -3

  • 815. 匿名 2019/08/11(日) 02:38:47 

    >>521
    満州でマラリア・・?
    マラリアは熱帯地方特有のハマダラカっていう蚊が媒介するの病気だから、中国よりさらに北の満州でマラリアっていうのはちょっと信じがたい
    日本にマラリアが無いのと一緒
    マラリアでハゲるっていうのも聞いたことないし

    秋山好古がチフスのせいでハゲたらしいけど、チフスの間違いでは?
    アンネ・フランクも収容所の劣悪な環境でチフスで亡くなってるし

    +23

    -2

  • 816. 匿名 2019/08/11(日) 02:39:58 

    >>310

    非国民扱いするムードを作っていた、または是認していたのも国民だから、やはり戦争に加担した責任はあるんだよ

    その結果、苦しんで亡くなった方もいるし、生き残って今でも苦しんでいる方もいる

    戦後生まれた私たちは、間接的にその業を引き継いでいると思うし、その反省から二度と戦争を起こしてはいけない

    もちろん、大戦に参加した各国の国民もその子孫も同様








    +37

    -0

  • 817. 匿名 2019/08/11(日) 02:45:23 

    #あちこちのすずさんの放送を観ていたら、私が最も尊敬する幼少時に亡くなってしまった、戦時中苦労し続けたおばあ様の事を思い出して涙が止まらなくなってしまった。あの時代は婦女子や子供たちばかりが理不尽に苦しめられてきた忌むべき時代なので猶更・・・ NHKさんはこういう反戦放送のところだけはしっかりしてるんだから、全くもう・・・

    +9

    -0

  • 818. 匿名 2019/08/11(日) 02:45:34 

    >>525
    実の子によくそんなことが言えたな、って現代の感覚では思うけど「口減らし」なんて言葉もあったくらいだからね

    実の子ですらそんな酷い言葉を投げかけられるのだから、ましてや親戚に引き取られた戦災孤児なんて「親と一緒に死ねばよかったのに」と言われたり、様々な虐待を受けたりしていたそう
    でもゴハンを食べさせてもらえないのより、殴る蹴るの暴行を受けるのより、冷たい言葉が何よりこたえたんだとか

    +81

    -1

  • 819. 匿名 2019/08/11(日) 02:48:22 

    >>293
    その方はお名前の通り生涯大丈夫だったのですね。
    お父様お母様の気持ちが名前からすごく伝わります。
    その方のご冥福をお祈りします。

    +44

    -0

  • 820. 匿名 2019/08/11(日) 02:50:14 

    祖父が戦争経験者です
    簡易な舟に乗って命からがら逃げようとしたところ、祖父の乗っていた舟の両隣の舟が攻撃を受けて沈んでいったそうです
    逃げ延びる事ができたのは祖父の舟だけだったそうです

    +35

    -0

  • 821. 匿名 2019/08/11(日) 02:53:58 

    >>1
    弟が亡くなってしまって焼き場に立っている少年。

    とても心に突き刺さる。
    この少年は舌唇噛み悲しみを堪えていたそうです。

    この立ち振る舞いに日本男児って小さい頃から凄かったんだなと思いました。
    身近な人から聞いた戦争体験

    +109

    -3

  • 822. 匿名 2019/08/11(日) 02:59:57 

    祖母の話。満鉄勤務の父がいたので満州うまれ満州育ち。引き揚げの時、当時14歳だった祖母は無事に帰ってこれたが、祖母の姉は成人していて独身だったことから引き揚げの優先度がかなり低かった。既婚女性なら優先的に引き揚げてもらえる対象になるとのことで終戦間近に満州で知り合った日本人と結婚。無事に既婚女性となり引き揚げてくることができた。

    +63

    -0

  • 823. 匿名 2019/08/11(日) 03:04:36 

    在米の日本人は収容所に入れられたって聞いたけど
    草彅剛主演でドラマにもなってたはず
    大学教授くらいエラいと対象外だったのかな?

    +9

    -0

  • 824. 匿名 2019/08/11(日) 03:05:15 

    >>781
    私広島出身だから小さいころから身近に原爆や戦争の話があった
    だから親が教えなければ戦争の話題に触れることができないのは驚く
    小学低学年のころには折り鶴のさだこさんの本を読んだ記憶あるし千羽鶴も学校で作った
    原爆から入らせたくないとかそんなに選ばなきゃいけないことなの
    戦争の話から何を学んでほしいのか、自分の考えがあるのは逆にすごい

    +34

    -1

  • 825. 匿名 2019/08/11(日) 03:05:27 

    父の胸に火傷の痕があった。
    東京大空襲で火種が胸に落ちたとの事。
    その時の事はあまり覚えていないみたいでしたが、晩年、狭い所をひどく怖がっていた。
    防空壕の体験をしてきたからなんだと思う。
    そんな父も亡くなりました。

    +57

    -1

  • 826. 匿名 2019/08/11(日) 03:14:20 

    >>665
    全く同じことを宮崎駿も言ってた
    「結局死ぬのは貧乏人」って

    火垂るの墓で清太達が飢え死にするのはありえないらしい
    当時の海軍っていうのは強烈なムラ社会だから、海軍大佐の家族なら仲間達が助けるのが当たり前なのだそう
    「実際には清太は死なない、野坂昭如(火垂るの墓の原作者)が死ななかったように」って言ってた
    事実、海軍から野坂昭如にめちゃくちゃ抗議があったらしいよ、「我々は仲間の家族をむざむざ死なせたりしない!」って

    +144

    -1

  • 827. 匿名 2019/08/11(日) 03:15:52 

    曾祖父がシベリアに抑留された。身体が弱り、おしっこが自力で出せなくなって「いよいよダメか」と死を覚悟した時、「お前のことは助けてやる」と声がした。見上げるとそこにはお狐様が。今際の際で幻でも見たかと思ったが、ふと足元を見るとブージ(尿道に挿す管みたいなもの)が落ちており、それで助かった。曽祖父は熱心にお稲荷様を祀っていたので、それでお稲荷様が出てきて下さったと言っていた。生きて帰り、益々感謝して祀るようになったらしい。

    子供の頃聞いた話だけど、凄く不思議で何だか怖くて良く覚えている。

    +93

    -1

  • 828. 匿名 2019/08/11(日) 03:22:34 

    祖父に小学生の頃「おじいちゃん戦争ってどんなだったの?」と聞いたら、悲しい顔をして何も話してくれなかった。
    耳がすごく遠くて、家に来た時に私が耳掃除をしてたけどいつも痛がってちゃんと綺麗にできなかった。腰が曲がった祖父と幼い私は背丈が近かったから、出かける時は私が手を繋いで一緒に歩いてた。気が弱いけど祖母が大好きで優しい人だった。

    亡くなってから、戦時中に中国に行かされて前線には出なかったけどどうやら上官に殴られたせいで耳が遠くなったらしいと知った。多分、孫の私に聞かせたくない苛烈な経験だったんだと思う。柔和だった祖父をそこまで殴りつけた上官も、何十年経っても祖父に悲しい顔をさせ口を噤ませた戦争も許せない。

    +104

    -0

  • 829. 匿名 2019/08/11(日) 03:25:47 

    祖母のお兄さん(次男)は特攻隊になるはずだったけど特攻する前に空襲で亡くなったらしい。
    休日だったのか訓練中だったのか詳しい事はわからなかったけど亡くなったって報せが届いて祖母の一番上のお兄さんは「飛べなくて、さぞ無念だっただろう」って泣いたんだって。
    特攻隊は悲劇だけど、当時は名誉な事だったんだろう、と改めて感じたよ。

    祖母は神戸で空襲にあってて今でも焼夷弾が降る中、逃げ回ったのは忘れられないって言ってた。
    ひどい怪我はなかったけど火傷の痕は見せてくれた。
    たった70年ちょっと前に起こった事とは思えないよね。でも忘れちゃいけない事だよね。

    +58

    -0

  • 830. 匿名 2019/08/11(日) 03:26:59 

    >>824
    原爆を最初のきっかけにするのが悪いって話じゃなくて、漫画のはだしのゲンは途中から政治色が強くなって、原爆や戦争の悲惨さを伝えるための平和学習としては向いてないんじゃないかって話

    関西住みだけど、佐々木禎子さんのお話は道徳の教科書に載ってたよ
    薬包紙で千羽鶴折ってたって
    そういうお話なら全然問題ないし、アニメ映画のはだしのゲンも大丈夫だけど、途中から反日プロパガンダのような左翼の話が混じっている漫画のはだしのゲンなら、日本史知る前にはむしろ有害になりかねないよ

    +28

    -1

  • 831. 匿名 2019/08/11(日) 03:30:36 

    >>821
    この少年、結局今も誰だかわかってないんだっけ?

    +40

    -0

  • 832. 匿名 2019/08/11(日) 03:31:36 

    >>824
    広島出身なのに漫画のはだしのゲンの評価を知らないのはびっくり

    +8

    -6

  • 833. 匿名 2019/08/11(日) 03:39:07 

    >>51
    勘がいいとかじゃなく当時は子供のおもちゃまで武器作るために回収されてたから

    +56

    -3

  • 834. 匿名 2019/08/11(日) 03:40:33 

    なくなった祖母が小学生の時に戦争体験してました。

    戦争中には常に腹ペコでジャガイモやすいとんしかたべれなかったとよく言ってました。
    私(孫)にはそんな思いさせたくないとよく言って美味しいご飯を沢山作ってくれました。

    とにかく食べ物を粗末にするなとよく言われたのを覚えめます。

    +47

    -2

  • 835. 匿名 2019/08/11(日) 03:43:21 

    >>14
    私も中学の修学旅行で長崎の原爆資料館に行って夜は原爆の被害にあわれた方の話を聞いたよ。資料館では写真を直視出来ずにいたし、原爆の被害者の方の話は「可哀想」としか思えなかった。
    当時の私は馬鹿だったと思う。

    大人になって行った広島の原爆資料館も辛い写真はあったけど考えさせられたよ。

    +86

    -0

  • 836. 匿名 2019/08/11(日) 03:44:57 

    >>567
    うちも田舎だけどやっぱり食べ物に困るっていうのは無かったらしい

    戦時中に堀辰雄(風立ちぬの作者)が結核で長野で療養してたときも、奥さんがせっせとじゃがいもとか色々作ってて、東京にいる作家友達に「ごちそうします」って連絡してるエピソード読んだことあるよ

    1944年の時点での話だけど、太宰治が故郷の津軽の友達の家に行ったときも、カニ食べたり、お酒もビールかりんご酒か選べたりして、もてなしてもらった話書いてた

    +35

    -0

  • 837. 匿名 2019/08/11(日) 03:47:42 

    >>116
    知り合いのおばあさんが
    16で姉と共に日本に連れられ、お母さん、兄に会えなく毎日川を眺めながら泣いてたらしい。

    +5

    -11

  • 838. 匿名 2019/08/11(日) 03:54:24 

    戦時中はみんなが必死に生きようとした時代なのに、現在は自ら死を選ぶ人が多い時代。どっちが幸せかと言えば現在に決まってるけど、うまく調和できる平和な時代が来ないかな

    +53

    -1

  • 839. 匿名 2019/08/11(日) 03:56:13 

    >>810
    みて今吐いた

    +2

    -0

  • 840. 匿名 2019/08/11(日) 03:57:12 

    >>34
    うちの祖母は学童疎開?で田舎に居たから食べ物には困らなかった方だって言ってた。
    ジャガイモや山菜、根菜類はよく食べたって。

    近所のお兄さんがたまにトマトをくれたらしいけど、川にトマトを投げて、子供達が一斉に取りに行ってて祖母もトマト欲しさに川に入って溺れてからトマトは嫌いって言ってた。
    でもジャガイモや根菜類は今もよく食べてる。

    +71

    -1

  • 841. 匿名 2019/08/11(日) 04:00:33 

    >>601
    国家間での賠償は1965年の日韓基本条約で「完全かつ最終的に」解決されたんだよ
    なのにまだしつこくたかってきてるのが韓国

    +52

    -3

  • 842. 匿名 2019/08/11(日) 04:00:45 

    亡くなった祖父が大正とか昭和初期までは豊かな暮らしで平和だったって言ってたな
    今の日本があるのは戦争の教訓とか反動の影響もあるかもしれないけど第二次世界大戦がなかったらどうなってたんだろう
    考えても仕方ないけど今より発展してたのかそれともどこかに侵略されてたりするのかな


    +28

    -0

  • 843. 匿名 2019/08/11(日) 04:09:14 

    >>830
    インパクトがあるから原爆の話から入るのは違う

    と書かれてるから間違ってないと思うよ。

    +0

    -1

  • 844. 匿名 2019/08/11(日) 04:09:25 

    祖母はサツマイモを抱えて逃げていたそうです
    大きな衝撃があり気絶した後、粉々に砕けたサツマイモがあったそうです
    正直まだ生存している人がそんな壮絶な体験をしているなんて不思議ですよね、、、
    とりあえず、サツマイモに感謝です

    +61

    -0

  • 845. 匿名 2019/08/11(日) 04:14:24 

    >>837
    日本は戦時中に東南アジアを白人の植民地から開放させたから英雄だ!って良い印象があるけど。軍国主義の時代、実際その場にいないと分からない事もあるよね。このトピックでもお祖父ちゃんがフィリピン人を殺めたとか。以前、ドキュメンタリーで戦時中の話を語った人が、東南アジアのどこかの国に赴任された時に色々手伝ってくれた現地の部族?(記録映像見た限り部族の人に見えた)の人達を最終的には上官から、スパイかもしれないから全員殺めろって命令されたって言われたとか。当時の大統領と軍の最高指令官が同じだったのもあるかもしれないけど、結構ワンマンで厳しい印象がある、自国民に対しても。美輪さんの話聞いてると、耳背けたくなるような話があるし(探せば出てくる)

    +5

    -1

  • 846. 匿名 2019/08/11(日) 04:26:56 

    現在90過ぎの祖父、北方領土の国後島生まれ。
    曽祖父が病で早くに亡くなり、第二次世界大戦前に本土に移住したそう。曽祖母、子供である祖父達は大変苦労したそうですが、早くに島を離れたので、戦後のソ連・日本国境の混乱から逃れられている。祖父も病弱で、召集されなかったそうです。運命の不思議を感じます。

    真岡郵便電信局事件、占守島の戦い で検索して見てください。真岡ではソ連兵に蹂躙されることを恐れ、若い女性達が集団自決する悲しい事件が起き、占守島では終戦を無視してソ連軍が侵攻、それを阻止するために決死の戦いがありました。

    ソ連は北海道を占領し、アメリカと分割統治をしたかったようです…。占守島で食い止められなければ大変なことになっていた。多くの方に知ってほしい史実です。

    曽祖父の遺骨は分骨し、一部はまだ国後島に眠っていると聞かされました。孫の私がお墓参りに行きたい。交流事業、パスポートで入国ではなく、堂々と日本の領土として行きたいです。

    新雪を踏み分ける美しい仔鹿、鮭はお腹に沢山のイクラを抱えていてとても美味しかった。ニシンの良い漁場があるから、ソ連は中々手放したくないだろうと祖父は語っていましたが、私たち日本人の大切な島です。北方領土を返して。

    +90

    -2

  • 847. 匿名 2019/08/11(日) 04:31:18 

    広島で育ったので、小中学校の頃は学校に被爆者の方が来られて話を聞く機会が多かったのですが
    話を聞くだけで怖くて、想像すると耐えられなくて、
    毎回、仮病で保健室に逃げていました。
    毎年、はだしのゲンや火垂るの墓も観るのですが、耐えられませんでした。
    被爆者の方の話してくださったことも怖くて内容は覚えていません。
    今となれば、聞いておくべきだったとは思います。

    +46

    -1

  • 848. 匿名 2019/08/11(日) 04:33:40 

    曽祖父が戦地で病死しています。曽祖父の遺影は若く、軍服にたくさんの勲章をつけています。その隣に100歳まで生きた曽祖母の遺影があります。

    +58

    -0

  • 849. 匿名 2019/08/11(日) 04:47:44 

    祖父たちは両方とも戦地にいったし、祖母や叔母は空襲体験者
    でも、全員そのことを話そうとしなかったね
    戦争の番組になると悲しそうにチャンネル変えてた
    戦争は誰も幸せにしないね

    +25

    -0

  • 850. 匿名 2019/08/11(日) 04:48:38 

    >>202
    私も広島生まれ広島育ちです。
    平和教育すごかったですよね。

    広島を離れて関西に来て十数年経ちます
    広島にいた頃8月6日はどのチャンネルも戦争の番組でしたが、こちらはそうではありません。

    今の広島はどんな感じですか?
    8月6日ははどのチャンネルも戦争の番組ですか?
    平和教育は今も昔のようにされていますか?

    +36

    -2

  • 851. 匿名 2019/08/11(日) 04:49:53 

    戦争に行った方々って、ご存命だとお幾つくらいなんだろう。私の祖父は昭和6年生まれで生きてたら88歳になるけど、終戦当時は14歳だから出征してない。

    大正生まれの方は終戦時、30代前半〜10代後半ってことになるよね?そうなると大正生まれほぼ全員が兵隊さんになっていたのかな、、、

    +43

    -0

  • 852. 匿名 2019/08/11(日) 04:54:47 

    誰かわかる人がいたら、教えて下さい。
    昭和元年生まれで、戦争中に、満州にいった話はよく聞いたんだけど、少ない水で体洗った話とか、そっち系の話ばかりを聞かされてました。かなり若い人が戦争中に満州にいって、何をしたのかな?聞きたいけど生きてない。

    +21

    -0

  • 853. 匿名 2019/08/11(日) 05:04:40 

    >>852
    かなり前に戦争特別ドラマで、常盤貴子と竹野内豊が夫婦役で戦時中の満州での波乱を描いた内容のドラマがやってた気がする。流転の王妃って奴。

    +23

    -3

  • 854. 匿名 2019/08/11(日) 05:04:43 

    >>851
    大正でも最後の年に生まれたら、15歳から20歳までが戦時中になるし、初期生まれだと30歳から35歳までが戦時中になるから、幅は広いね。

    +25

    -0

  • 855. 匿名 2019/08/11(日) 05:06:01 

    ひいおじいちゃんは目と足が悪かったから徴兵されなかったんだけど、当時は本気でお国のためになれなくて悔しかったって言ってた

    +37

    -1

  • 856. 匿名 2019/08/11(日) 05:07:48 

    >>116


    吉田 清治(よしだ せいじ)

    は福岡県出身とされる文筆家。

    (1913年10月15日 - 2000年7月30日)、本名:吉田 雄兎(よしだ ゆうと)は、1980年代に、太平洋戦争中に軍の命令により朝鮮で若い女性を慰安婦にするために自身が強制連行したとする証言を数多く行い、自らそれについての出版物を出した人物。

    その証言の大半が吉田清治の虚偽・創作であったにも関わらず、主に朝日新聞がこの「吉田証言」を真実として頻繁に記事にしたため、後の日韓外交問題(慰安婦問題)の大きな原因となった。

    1995年になって吉田自らが証言は主張を織り交ぜた創作であることを認め、朝日新聞も非難されたため2014年に記事を取り消し謝罪した。

    吉田は、1998年頃を最後に消息が長らく不明だったが、2014年になって2000年7月に既に死去していたことが判明した。彼の出自や経歴については不明な点が多い。

    (ウィキペディアより)

    身近な人から聞いた戦争体験

    +45

    -1

  • 857. 匿名 2019/08/11(日) 05:11:39 

    >>796
    それは嘘だよ

    頚椎切断するには村正ても達人でもそんなにはきれないから

    +11

    -2

  • 858. 匿名 2019/08/11(日) 05:17:59 

    >>842
    大正時代はそうかもしれないし、昭和初期でもおじいちゃんのところは裕福だったかもしれないけど
    昭和4年に世界大恐慌が起こって、日本では東北が凶作に、倒産する銀行が相次いで取り付け騒ぎも起きてた
    大根丸かじりにしてる東北の子供の写真、教科書に載ってたけど見たことない?

    日本国内ではどうしようもなくなって、活路を見出したのが満州で「満州は日本の生命線」と呼ばれた
    アメリカやイギリス、フランスみたいに植民地があればまだ良かったけど、日本はそうじゃなかったから

    +19

    -2

  • 859. 匿名 2019/08/11(日) 05:20:04 

    >>846
    美輪さん嘘つきで有名らしいからあんま信用できないよ
    特に三島由紀夫は死んでるのいいことに自分に都合のいい話ばっかして遺族が怒ってるとか

    +35

    -4

  • 860. 匿名 2019/08/11(日) 05:22:45 

    >>846
    真岡の話はドラマになってたね
    女王の教室に出てた子(志田未来じゃない子)が主役だった
    その子はソ連兵にレ◯プされてボロボロになってたよ

    +27

    -0

  • 861. 匿名 2019/08/11(日) 05:23:34 

    >>837
    可哀想だけど、売ったのはご両親なんだろうな…

    +47

    -0

  • 862. 匿名 2019/08/11(日) 05:27:56 

    父方の祖父がマレーシア、シンガポールに戦争に行った。とは言ってもまだ15歳で船の中でご飯作る係りだったみたい。何も話したくないと死ぬまで何も語らなかった。私の父がマレーシアに長期赴任になり遊びに来ないかと誘っても思い出すから行きたくないと来なかった。きっと人が死んだり戦いを目の当たりにしたんだと思う。
    母方の祖父母はまだ10歳でサイレンが鳴る日防空壕に隠れた話しはしてくれてマレーシアにも遊びにきてた。

    +41

    -0

  • 863. 匿名 2019/08/11(日) 05:28:13 

    >>852
    世界大恐慌を受けて日本国内が貧しくなってたから、国が満州に行って開拓するのを勧めてたはず
    国民も満州に行けば豊かになれると思って渡ったらしい
    農業やったり商売やったりして儲けた人もいたはずだよ

    赤い月っていう作品にも出てきてた

    +39

    -2

  • 864. 匿名 2019/08/11(日) 05:31:17 

    あと群馬のおじさんが東京大空襲の時は東京方面の空が昼間のように明るくて遠くからでも東京が燃えているのを見ている事しかできなかったと言ってた。

    +44

    -0

  • 865. 匿名 2019/08/11(日) 05:35:41 

    祖母から聞いた話。祖父がシベリア抑留されてたと。戦後何年かして帰ってきたけど、その事について一切話さなかったとの事。きっと壮絶な経験をしたのだろうな。

    +42

    -0

  • 866. 匿名 2019/08/11(日) 05:36:50 

    >>859
    美輪明宏が語る原爆体験 - YouTube
    美輪明宏が語る原爆体験 - YouTubeyoutu.be

    流れる涙は悲しみか。絶望か。言い知れぬ怒りか。

    +5

    -1

  • 867. 匿名 2019/08/11(日) 05:38:38 

    父が3歳の頃に戦争があって、逃げる時に母親におんぶされて逃げたんだけど、真後ろに爆弾が落ちた。
    幸い不発弾だったから無事でした。

    もし不発弾でなかったら、私は今こうしてスマホでコメント入力出来てないのよね。

    +53

    -1

  • 868. 匿名 2019/08/11(日) 05:39:22 

    私の祖母の家は超ド田舎の地主で畑や田んぼたくさん持ってて戦争中も何一つ苦労しなかったと言っていたが屋敷に都市部からお米や野菜を盗みに来る人が居たと言っていた
    そんな祖母の家も戦後はGHQに畑も田んぼもたくさんあった蔵も取り上げられ、その財で戦後の復興したと聞いた

    +25

    -0

  • 869. 匿名 2019/08/11(日) 05:47:17 

    >>863
    それなのかな。一応、日本の地元の高校は卒業している。それまでは日本にいたのかな。祖父二人ともなんだけど、満州の話ばかりしてた。自慢話というのか、なんというのか、水が少ないとか、与えられてた環境が大変だったっていう話ばかりだった。戦時中だけど、戦争とは関係なくいってたのかな。

    +15

    -0

  • 870. 匿名 2019/08/11(日) 05:49:48 

    >>514
    ロシア人のレイプは有名
    ロシア人によるベルリンレイプでは
    ドイツ人の産婦人科医が詳細な記録を残し、
    女はレイプされると妊娠しやすいことが
    初めて学術的に証明された

    +51

    -1

  • 871. 匿名 2019/08/11(日) 05:51:54 

    >>863
    戦争中もってこと?

    +1

    -0

  • 872. 匿名 2019/08/11(日) 05:54:07 

    >>858
    >>昭和4年に世界大恐慌が起こって

    でも、戦争って15年からだよね?

    +1

    -4

  • 873. 匿名 2019/08/11(日) 05:57:36 

    >>870
    日本の女性も犠牲になったよね。去年のニュース23の特集でやってた気がする。

    +28

    -0

  • 874. 匿名 2019/08/11(日) 05:58:26 

    >>871
    だよね。>>863さんの話でいくと、>>852さんの昭和元年生まれの人は、大恐慌の開拓民でいくには、子供過ぎるし、>>869によれば日本の高校卒業みたいだし、終戦までの1~2年、満州に何をしに行ってたのかって話だと思うけど、開拓民なのかな?

    +0

    -0

  • 875. 匿名 2019/08/11(日) 06:03:52 

    食べ物が無い
    空襲の恐怖
    夫や息子が戦争に行かされ戦死
    目の前で家族が焼き殺されたり
    死体が町中に転がってたり
    目の前で娘、母親が敵に強姦されたり
    異常な世界だよね。


    +81

    -0

  • 876. 匿名 2019/08/11(日) 06:04:26 

    >>874
    Wikiで調べりゃあいいんじゃない?

    +1

    -2

  • 877. 匿名 2019/08/11(日) 06:04:46 

    去年、地元にブルーインパルスがきたんだけど
    近所の坂の上でみてたら隣にいたおばぁちゃんが
    この音聞いたら戦争の大空襲を思い出すってこわいこわいってゆうから
    何歳になったか聞いたら93歳だった!
    今でも現役で働いててとても90越えてると思わなかったからびっくりした

    +63

    -0

  • 878. 匿名 2019/08/11(日) 06:08:32 

    旦那のお爺さんから聞いた話です。
    お爺さんは フィリピンの島へ派兵されていっていたそうですが 食べ物が無くて困っていた時に 何人かの兵士がキノコを食べて 一日中陽気に歌を歌ったり 騒いでいたが 翌日亡くなったと言ってました。
    お爺さんは 山の人だから 怪しいキノコは食べなかったと言ってました。

    +78

    -0

  • 879. 匿名 2019/08/11(日) 06:10:04 

    盛岡に住んでた祖母から聞いた話。
    校庭に女の人たちが集められ、ヤーってかけ声かけながら、米兵を竹やりで突く練習したって言ってた。
    祖母も赤ちゃんをおんぶしながらやったって。

    すぐ隣にある川にわざと沿って、飛行機で焼夷弾を何発も落として威嚇してきたとも言ってた。

    +29

    -0

  • 880. 匿名 2019/08/11(日) 06:11:12 

    私、アラフィフ、いっぱい聞いてます
    横浜生まれの母は空襲にあったときにお兄さんが生き埋めになって亡くなったって言ってました
    近くに爆弾を落とされてあたり一帯がふっとばされてそのときに埋まったお兄さんが死んだんですって
    もう一人のお兄さんも土に埋まったけど、うまいこと顔が地上に出ている感じになって助かったって

    東京生まれの父は学童疎開に行って食べ物がなくってガリガリになったって。
    あと父が言っていたのが小学校の先生には終戦の前の日までは
    アメリカことをほめることを言うとぶん殴られたって。
    しかし終戦の日以降、先生の態度がコロッと変わったって。

    だから父は”教師”というものが大嫌いで私が大学で教員免許とったときに
    「おまえはあんなどうしようもない商売につきたいのか?」
    って言われたわよ

    +62

    -1

  • 881. 匿名 2019/08/11(日) 06:12:38 

    こんなことが日本で本当にあったんだよね。
    この事実を、悲惨さを知らなきゃいけない。忘れちゃいけないよね

    +28

    -0

  • 882. 匿名 2019/08/11(日) 06:14:13 

    祖母のお友達が子供のときの話。
    静岡駅前で大きな空襲があって、焼け野原になったそう。
    たくさんの遺体がゴロゴロしていて、その遺体の上を踏んづけて必死に逃げ出そうです。
    その後、近くにある安倍川で遺体を焼いたって聞いた。

    +40

    -0

  • 883. 匿名 2019/08/11(日) 06:15:35 

    >>876
    >>874ではなくて、>>852だけど、調べてもわからないから質問してるのよ。本人亡くなってるし。戦争の体験談として、満州にいった話を聞かされていたけど、戦争の話ではなくて、規律や厳しい環境の話がメインだったし、今考えると、あれ?、15歳から20歳まで戦争で、日本の高校卒業してるし、あれ!?って。知りたいけどわからん。

    +4

    -0

  • 884. 匿名 2019/08/11(日) 06:19:39 

    >>874
    ありがとう。それが知りたい。

    +2

    -1

  • 885. 匿名 2019/08/11(日) 06:20:42 

    母方の伯父から聞いた話です(もう他界しました)。

    伯父は南方の戦線へ行ったらしく、彼らの小隊がジャングルを敗走したらしいです。食べるものがなかったのですが、歩いていると、ちょっとひらけた地点に出て、その場所に果樹が生えていた。何かの珍しい南方の果物が生っていて、伯父たち小隊はさっそく食物にしようと思ったんですね。

    でも、その樹のまわりは他の小隊が先に陣取っていて、「これは、俺たちが見つけたんだから、お前らには渡せん」と。伯父たちは何とか分けてもらえないかと懇願したらしいのですが、分けてもらえず、しかたなくまたジャングルの奥へ入って行ったんですね。で、一週間くらい経って、伯父の小隊はまたその場所へ巡ってきたのですが、なんとそこに陣取っていた例の隊は全滅。果物には毒があったらしいんです。

    +78

    -0

  • 886. 匿名 2019/08/11(日) 06:22:09 

    反戦をとなえた親戚が捕まったって父親にきいてます。
    うちの父は戦時中は米国よりも日本側にひどい目にあったという感想です。

    母は空襲に毎日脅かされる地域にいたって。
    母の実家が軍需工場の下請けの工場を経営していて毎日徹夜で部品を作らされて過労で工員さんが病気になったり死んでしまう人もいたって

    +29

    -3

  • 887. 匿名 2019/08/11(日) 06:24:40 

    私のおばあさんの妹が日本人従軍慰安婦で、18歳の時に口減らしのために軍に売られました。
    各戦地をたらい回しにされてたくさんの兵隊に慰み者にされたそうです。
    日本人や朝鮮人の慰安婦がたくさん殺されてもう自分も死ぬのかなって時にフィリピンあたりで重い病気にかかって投げ捨てられましたが、運良く現地の人に助けられたそうです。
    戦争が終わって、現地の日本人の妾になってなんとか帰国できて元の家族にも会えましたが、病気のせいですぐ亡くなりました。
    私が祖母からこの話を聞かされたのが中学生くらいの時で世間では「慰安婦なんて居なかった」と言う風潮に変わりつつあるときでしたが、実際に親等内に居たので私は「なんで世間はそんなことを言うんだろう?」って思っていました。



    +53

    -15

  • 888. 匿名 2019/08/11(日) 06:25:10 

    アラフィフなんだけど私は親から市民レベルのたくさん悲惨な戦争体験きいているけど
    私より少し年上のママ友と話しても親から戦争経験をきいたことがない人ってたくさんいるのね
    地域によるのかしら
    辛すぎて語れないのか、比較的被害がなかったからなのかはわからないけど。

    +29

    -0

  • 889. 匿名 2019/08/11(日) 06:25:36 

    祖父は戦争行ってます
    おばは疎開してます

    +5

    -0

  • 890. 匿名 2019/08/11(日) 06:27:46 

    >>883
    似たような体験談を聞いた人がいて、教えてくれるといいね。

    +4

    -0

  • 891. 匿名 2019/08/11(日) 06:28:45 

    >>872
    戦時中だろ

    +1

    -0

  • 892. 匿名 2019/08/11(日) 06:30:33 

    >>809
    知りたくなかった。涙が止まらない
    でも知らなきゃいけないことだよね

    +25

    -2

  • 893. 匿名 2019/08/11(日) 06:33:49 

    うちの祖母はいよいよ今年100歳。
    昔から聞くと当時の話よくしてくれました。祖母は終戦時26歳で、子供育てるのに必死だったと。頭の上をアメリカの戦闘機が飛んできて、それが結構な低空飛行だった。自分の命より子供を守らなきゃと思って必死だったと。祖母は満州に渡り、次男を栄養失調で亡くしました。本当なら私には叔父さんがもうひとりいたんだと思うと、なんとも切ないです。もう物忘れが激しくて昨日の記憶でさえ怪しい祖母ですが、戦争当時の事は本当によく覚えています。そして私に子供が生まれてひ孫を見る度、「こんな恵まれた時代に産まれて良かったね」とよく言っていました。何があっても挫けたらいかん。必死で子供を守りなさい。とよく私にも言いました。自分の子を亡くしてるからこその言葉は深いなと思いました。

    +91

    -0

  • 894. 匿名 2019/08/11(日) 06:34:21 

    東京大空襲
    東京でも父の育ったところ(葛飾区)は東京大空襲の被害をあまり受けていないみたい。
    父にきいたのは疎開のときの食べ物がなくてお腹が空いてしょうがなかった思い出。

    横浜育ちの母は毎日、襲にあってサイレンが鳴ると防空頭巾をかぶって防空壕に逃げたって。

    私が大人になってから東京の江東区で営業の仕事をしてたら得意先のご老人から聞いたのはここらあたりまる焼けになったって。
    墨田区の方まで焼野原でだったので錦糸町まで見えたって

    +30

    -0

  • 895. 匿名 2019/08/11(日) 06:42:27 

    >>1
    あなたよいトピたてました

    +70

    -1

  • 896. 匿名 2019/08/11(日) 06:45:34 

    これも伯父の話です。

    三八式歩兵銃というのは、日本人の体格からして不自然なほど長大なサイズなのですが、あれを肩に担いで行進する映像はよくご存じの方も多いと思います。当時ひろく付与された単発式のライフル銃です。

    なんでああも長いのかというと、銃剣道というのか、日本軍はいざとなるとあれの先にナイフを付けて突撃せよと教えられていたらしいです。で、この銃は自害するときにちょうどいい寸法なんですね。木の根方に座って、あの銃口を口にくわえると、ちょうど引き金のところを足の親指で引けるようになっている、と。

    +39

    -0

  • 897. 匿名 2019/08/11(日) 07:00:41 

    じいちゃんが35歳で亡くなってるのを最近お墓参りに行って気がついた。
    おおばばと祖母で父親と叔父さんを育てたけど食料は十分にないし、まだ薪で色々と苦労したと言っていた。 子供の頃は考えなかったけど、35歳で子供を置いて行かなければいけないって哀しすぎる。

    +46

    -0

  • 898. 匿名 2019/08/11(日) 07:00:56 

    軍が抱えてた慰安婦が暴行や病気で全滅しちゃったんで、お婆ちゃんの居た女学校に軍が来て女生徒を集団でさらっていったと言う話も聞きました
    お婆ちゃんは偶然一緒に居た校長先生にかくまわれて難を逃れたそうです

    +53

    -3

  • 899. 匿名 2019/08/11(日) 07:04:46 

    祖父は聞いても満州鉄道にいたとしか教えてくれなかった。でも生前はまだ生きとるか?と毎年のように遠方の当時の仲間から連絡が来てたよ。そんな祖父も数年前になくなった。
    母方祖父は東南アジアの方の戦地に行ってて、太腿撃たれて未だに足に玉入ってると見せてくれた。

    +36

    -0

  • 900. 匿名 2019/08/11(日) 07:05:56 

    今は亡き祖父
    南の島の方で
    船に乗っているときに
    撃沈して
    海の中3日間
    漂流していたそうです。
    他の船が助けに来てくれたそうですが、
    助かる人しか、差し出された木の棒で
    掴めないと、助けてくれなかったそうです。
    そんな目に遭いながらも
    広島へ帰ったら
    原爆に遭い
    それでも助かった。
    どんな目にあおうが
    祖父の生き運が
    すごいとしか言えませんが
    子供心に衝撃的でした。

    +69

    -0

  • 901. 匿名 2019/08/11(日) 07:10:17 

    子供の頃、祖父の家の鴨居のところに少年の遺影が飾ってあるのが不思議だった。
    遺影の写真ってお年寄りしか見たことなかったから。
    出征して戦死した祖父の弟だった。

    広島の祖母は原爆体験者。
    爆心地から離れていたから直接の被害は受けなかったけど、爆風で障子が外れて、ただ事じゃないと思ったらしい。
    数日たって、何か手伝えることはないかと爆心地付近に行こうとしたけど、原爆に巻き込まれて亡くなった人の焼け焦げた死体がトラックの荷台に山積みにされているのを見て、怖くなって行けなかったと。

    +64

    -2

  • 902. 匿名 2019/08/11(日) 07:11:42 

    >>437
    満州って中国だけど...

    +1

    -20

  • 903. 匿名 2019/08/11(日) 07:15:40 

    原爆投下後、祖父は片足を折っていたけど歩いて死体の中を広島市内から家へ帰って来た
    祖母からは何度も戦時中の日常生活を詳しく聞いた(小学校での課題だったので)
    まるで何のことはない世間話のような感じで話してくれてたので話がすんなり入ってきてよく覚えてる
    今思うと、当然だけど物凄い時代を逞しく生き抜いてきて凄く凄く尊敬する

    防空壕の中の事や、あまりにも空襲警報が頻繁に鳴るから「どうせ今回も大丈夫じゃ。お腹すくじゃろ。」と言って食事を優先して庭でのんびりしてた親戚を叱り飛ばして防空壕に連れて行ってた話とか
    空から見えないよう家の白壁に炭を塗ってたとか、原爆投下後は川に死体が溢れていて、近所の人が見に行こうって誘って来たけど怖くて行かなかったとか、闇市ではどんな物があったとか、その他諸々、そういう大小の生活の話が聞けたのは大きいと思ってる

    +67

    -0

  • 904. 匿名 2019/08/11(日) 07:16:41 

    終戦時14歳だった祖母。
    東広島にいた祖母は、原爆の日の数日後、看護で入市し、被曝しています。
    おなかに大きな穴があいてね、うじがいっぱいわいて死んどる人をみたんよ。
    祖母から聞かされたのはそれだけ。他には何も語りたくなかったんでしょう。
    亡くなった祖母が過ごした子供時代は戦争真っ只中。どんな思いで過ごしてきたのか聞けませんでしたが、紙パックに入ってストローをさすだけで飲めるジュースを飲みながら、
    今の時代は、便利でおいしいもんがあるねぇとニコニコしていたのが忘れられません。

    +86

    -1

  • 905. 匿名 2019/08/11(日) 07:17:57 

    祖父もシベリア抑留されてた。
    体が弱ってだんだん重症者のベッドへ移っていき、最後は最も重傷者の部屋に移った。
    その時仲間が、これ食え、って言って一欠片のパンをくれた。自分もほんの少しのパンと岩塩しかもらえないのに。
    それを食べたらなぜか元気になっていき、最後は日本に帰ってきた。

    でも空腹とキツイ労働でおかしくなったりもちろん亡くなった人もたくさんいたらしい。

    +83

    -0

  • 906. 匿名 2019/08/11(日) 07:18:39 

    祖母の兄が呉で被爆した
    物凄い光を感じで咄嗟に建物の中に逃げたそう
    のちにそれが原爆だったとわかった
    戦争が終わり子供4人設けたけど、2人は小児白血病で亡くなったって。
    自身も甲状腺異常に苦しんで一昨年亡くなった

    +73

    -0

  • 907. 匿名 2019/08/11(日) 07:19:02 

    終戦後、満州から逃れるために日本行きの船を目指していたおじいさんは、ソ連軍戦闘機の機銃で一緒に走っていた母親と弟を失いました
    何とか船についても、親が居ないと身元もわからないからと船には乗せて貰えませんでしたが、別の家族の子供のふりをして密航みたいな感じで日本に帰国しました

    +61

    -0

  • 908. 匿名 2019/08/11(日) 07:19:45 

    >>437
    うちのおばあちゃんはずっと広島にいたけどやはり朝鮮人には嫌な思いしかなく、ずっと毛嫌いしてた
    戦後のドサクサで他人の土地奪ったり好き放題してたらしいね

    +102

    -4

  • 909. 匿名 2019/08/11(日) 07:22:26 

    亡くなった祖父は、戦争で南方に行き、行きて帰ってくれたから今のわたしたちの命があります。乗っていた船が二度と爆撃にあい、泳ぎがとても得意だったから海に投げ出されても行きて帰ることができたと。泳ぎが得意でない友達は皆死んだと話していたそうです。戦後すぐ生まれのわたしの父曰く、戦争を体験した人は、あまり多くは語りたがらなかったと言っています。

    +52

    -0

  • 910. 匿名 2019/08/11(日) 07:23:41 

    高校生のとき、修学旅行で戦争体験を聞く機会があったんだけど、60分間ほぼずっと政府批判だった。
    もちろん、現代のね。

    +35

    -1

  • 911. 匿名 2019/08/11(日) 07:24:51 

    >>44

    現代は言論の自由が保証されてるのに、増税されても仲間内で騒ぐ程度。なんだかなあ

    +4

    -4

  • 912. 匿名 2019/08/11(日) 07:25:39 

    >>616
    私の母82歳は、田舎の農家の娘だったので
    食べる物には一応困った事もなく
    戦時中も芋やかぼちゃばかり食べさせられた事もなく、米を食べてたせいか
    カボチャ、サツマイモが大好きです。
    同年代の方々には昔そればかり
    食べさせられて嫌いになったから
    今更、そんなモノ食べたくない!
    って人と意見分かれますよね。
    田舎へ都会の人が高い?着物などを持ってきて、米と物々交換したらしいと言ってました。

    +36

    -0

  • 913. 匿名 2019/08/11(日) 07:27:02 

    祖父からは
    戦争の時隣の市が空襲受けて自分ですんでるとこまで赤い、炎見えてたんだぞと、よく聞いてました。
    田舎に住んでますがこんな田舎にも空襲あったんだなと思っていました。

     戦争は大変だなぁ位の感覚でいたんですけど以前TVの、特集かなんかで
    おばあさんが戦時中の話をしていて、ある日公園に飼い猫、飼い犬を連れてこいと命令があって連れていくと軍人さんが
    その場で撲殺していて、おばあさんは恐ろしいし飼い猫を殺されたくなくてひきかえそうとしたら
    そんなことをしたら非国民であるぞと言われ結局愛猫も目の前で撲殺されたようです。
    ずいぶん前に見た話なのですが強烈で忘れられません
    その場にいた人もトラウマですよね。。

    戦争は二度と起こりませんように

    +78

    -0

  • 914. 匿名 2019/08/11(日) 07:29:58 

    数年前、クリニックに勤めていたときに患者さんだった90代のおばあちゃま。
    往診でご自宅にお邪魔したとき、私の年齢を聞き、「戦争のことは知ってるかしら?」と話してくれた。あかちゃんをおんぶして逃げたこと、そのあかちゃんが栄養失調で亡くなったこと。今でも背中にいるような気がして、あおむけで寝られないと言っていた。
    「戦時中は食べ物がなくてね。今はなんでもある。食べられる時にたくさん食べなきゃね」と、いつも果物やアイス、お菓子を出してくれた。仕事上、患者さんから物はいただいてはいけないのだけれど、この時ばかりは断れず、お話を聞きながら一緒にお菓子をいただきました。
    ご存命であれば90代後半。お元気でありますように。

    +118

    -1

  • 915. 匿名 2019/08/11(日) 07:31:10 

    もう亡くなった祖父の話。
    祖父は戦友と戦艦に乗ってる際に敵からの襲撃を受けてしまいました。
    沈没しつつ船に泳げる仲間は次々と海へと飛び込んでいき、祖父は泳げなかったためイカリにしがみ付いていたそうです。
    海に飛び込んだ仲間はそのまま行方不明になり亡くなり、泳げなかった祖父だけは助かりました。
    戦争の話はこれだけしか話してくれませんでしたがとても記憶に残っています。

    +53

    -0

  • 916. 匿名 2019/08/11(日) 07:31:48 

    つい先日、高校生の娘が戦争体験者90歳近い人の話を聞く会に参加してきて
    色々聞いてきたそうです。
    悲惨な事が沢山あり過ぎて、一時間くらいだったけど足りない感じだったと。
    晩年は旅行に沢山行ったりして楽しく過ごしてるらしいが、身内が亡くなった
    フィリピンに行った時は辛かったと。

    +46

    -0

  • 917. 匿名 2019/08/11(日) 07:34:27 

    >>44
    マシだけど幸せとは違うような

    +82

    -4

  • 918. 匿名 2019/08/11(日) 07:36:53 

    >>836

    うちの祖父も農家だったので、食べ物には困らなかったと言っていました。
    同世代(ゆとり)でも珍しいレベルの好き嫌いの多さでしたよ(笑)
    都市部の人が物と食べ物の交換をお願いしに来ていたようで、そのときようやく本物のグローブが手に入った、それまでは牛乳パックで作ったもので代用してたからな〜と言っていました。(牛乳パックが当時あったの!?と驚きました。)

    私たち孫にも好きなだけ食べろ食べろと言ってくれる祖父で、遊びに行くと私の大好きなケンタッキーフライドチキンをたくさん食べさせてくれました。

    戦時中はただ単に食料が不足していただけじゃなく、流通網も整っておらず、食べられる人と食べられない人に偏りができていたんでしょうね。
    現代のフランチャイズやチェーンのように同じような味を全国で食べれるのは実は奇跡的なことなんでしょうね。

    +66

    -2

  • 919. 匿名 2019/08/11(日) 07:42:03 

    結婚して2ヶ月で、祖父と弟に赤紙が来て戦争に行ってしまった。
    弟はグアム戦死してしまい、祖父はなんとか生き残った。
    結婚して2ヶ月程度だったし、姑も厳しい人だから、なんの情もなく実家に帰ってしまっているだろう。
    と思っていたら、祖母はキチンと待っていてくれた!
    それが凄く凄く嬉しかったって。

    だからずっと大切にしてきたと祖父が話していた。
    二人とも大人しくて穏やかな素敵な夫婦でした。

    +115

    -0

  • 920. 匿名 2019/08/11(日) 07:48:07 

    >>4
    終戦70年記念で戦争体験者さんにインタビューしたら時に
    零戦に乗った人が、相手の戦闘機パイロットの顔を見て
    いたたまれなくなったけど
    撃墜しないとやられるから
    撃墜して、落ちていくパイロットが恨めしい顔をしていて
    今でも思い出すって言ってたのが苦しかった

    +162

    -0

  • 921. 匿名 2019/08/11(日) 07:50:23 

    どうして体験談にマイナスが付くんだろう?
    絶対日本人じゃないよね

    +52

    -5

  • 922. 匿名 2019/08/11(日) 07:50:39 

    >>568
    当時のアメリカに勝てるわけないっていっても、庶民レベルの知識だと、あくまで結果論でしかないんだけどね。
    それに、戦争してなかったとしても、あの当時の状況だと列強に侵略されて一方的に蹂躙されて終わり。
    日本って国は昭和の初めで終わってしまってただろうね。

    +18

    -1

  • 923. 匿名 2019/08/11(日) 07:53:20 

    >>56
    祖父母も再婚です。
    最初のご主人との間に子供は居ませんでしたが、軍隊のお偉いさんだった為墓場には銅像があり、再婚した祖父は婿養子となり銅像となった方の名字を受け継いでいます。

    +50

    -1

  • 924. 匿名 2019/08/11(日) 07:53:56 

    祖父がB29に命を狙われて
    何発か銃で撃たれたけど
    当たるわけ無いと思って逃げまくったらしい

    B29は独特の音が出るから
    また来た!って思うと怖かったらしい
    祖父は人が死んだところを見なくて済んだらしいけど
    兄が空母に乗っていて海で撃墜されて死んだ

    会社の人が90なんだけど
    山梨県で、大空襲があった時
    妹をおんぶして川に逃げ込んだらしい
    街に戻ると黒焦げになった人が沢山死んでいて、
    その中には赤ちゃんとお母さんがいて
    赤ちゃんを守ろうと水槽に赤ちゃんをいれたまま死んでる姿を見たらしい
    今でもそれが忘れられない
    戦争なんかしちゃいけないって言ってた

    +68

    -1

  • 925. 匿名 2019/08/11(日) 07:59:02 

    >>922
    祖父もアメリカに勝てるわけないって4月くらいの段階で思っていたし
    周りも負けるわみたいな空気だったよう
    でも、決して口に出してはいけない空気だったらしい

    原爆落とされても
    遠くの話だから分からなかったらしい

    +39

    -0

  • 926. 匿名 2019/08/11(日) 08:00:36 

    >>574
    大規模な空襲は、戦略的に重要な都市ばかりで、田舎の何もないような場所はほとんど対象にされなかったからね。
    山口県だと、軍の要所は下関・宇部。あとは航空基地のあった岩国ぐらいかな?
    それから、赤紙のくるこないも、兵役検査で甲がついた人だけに来るようになってた。あとは、次男坊以下から優先して前線に送られていた。
    そもそも、今ではあまり知っている人がいないけど、一般からの徴兵は10年近く続いた戦争のうち、最後の1年ちょっとの話でしかない。実際に戦争に行って亡くなったのは、自分の意思で軍に入隊した人が大半だったんだよ。
    だから、農村で今まで通り普通に働いてたような人が、戦争末期に徴兵されることは実はそんなに多いことではなかった。

    +51

    -0

  • 927. 匿名 2019/08/11(日) 08:02:13 

    小学校の宿題で「戦争について」家族に聞いてきましょう。みたいなのがあって

    当時祖父に聞いたけど「食べ物なくて大変だったんだよ~」って、あまり話したくない感じもしたんだよね。

    祖父が亡くなってから実家に集まって飲む機会があって父親から「爺さんは海に投げ出された時海の中で浮遊物に捕まる仲間を蹴り落としながら浮き物に捕まって助かった」って。

    当時祖父母の部屋に飾ってある祖父の写真が兵隊みたいな格好をしていたから海で作業する人だったのかな。
    祖父の腕?肩?かな。何かの印な刺青がひとつあったんだよね。

    祖父は思い出したくない、語りたくもない程の事があったのかな…。

    +42

    -1

  • 928. 匿名 2019/08/11(日) 08:02:41 

    アラフォーだから小学生の宿題に戦争体験を聞いて書く。というのがあったけど、明治生まれの祖母達は「大した話は無い。」と言っていた。
    着物をモンペに縫い直す事で農家から米を貰ってたから食べ物に困ってなかったとか、女学校教師だった祖母は竹槍の練習を生徒にさせてたけど、「バカバカしい、これでアメリカ人に勝てる訳ない。」と内心思ってたとか、祖父に預金を下ろして山を買っておこうと散々言ったのに、国の為にとしてくれなかった。戦後はやっぱり紙切れになってしまった。おじいさんは本当に馬鹿だったー!なんて愚痴話で終わった。。
    田舎だから食糧難では無かったとはいえ、飛行機の製作所があったので空襲も受けてたり、戦中に満州居た時期もあるんだけど、最後は金の話かい、、と(笑)
    うちの祖母達は賢く逞しい。と思いました。

    +49

    -2

  • 929. 匿名 2019/08/11(日) 08:05:55 

    今生きてるのは父方の祖母だけ
    聞いてみたいけど耳が遠すぎて会話が難しい
    祖父が戦争の話するとまた始まった〜みたいな反応してた私達孫は馬鹿でした。

    +47

    -0

  • 930. 匿名 2019/08/11(日) 08:09:16 

    おばあちゃんの兄。
    戦争に行って、帰ってきたら結核になり
    入院中に自●したと言ってた。
    昔は結核は死の病だった。

    軽い認知入ったおばあちゃんの話だから真実は不明だけど
    毎回その話をするから、本当だと思う。

    +41

    -1

  • 931. 匿名 2019/08/11(日) 08:10:05 

    >>928
    愚痴も言いたくなるよ
    お祖母様は賢かったんだね
    男が勝手に戦争始めて馬鹿だよ

    +42

    -0

  • 932. 匿名 2019/08/11(日) 08:14:32 

    語り部みたいな方のはなしは苦手だった
    「大変だったのよ~平和は大切よ~」に、なんていうかな…演技とか大げさというか。わたしの話を聞いて!すごいでしょ!みたいな感じが苦手だった

    なんでもないおじいさんとかおばあさんが、ふとしたときにもらす戦争体験のほうがズシンときた

    まあ、くわしく話をしてくれる語り部も大事なんでしょうけど

    +13

    -28

  • 933. 匿名 2019/08/11(日) 08:15:42 

    祖母が満州で幼稚園に通っていたときの写真(昭和17年)
    みんな日本人でこの頃に幼稚園に通ってる子供は少なかったって言ってた
    身近な人から聞いた戦争体験

    +86

    -0

  • 934. 匿名 2019/08/11(日) 08:15:44 

    日本が負けたと知った時、アメリカ兵に手のひらに穴を開けられロープを通し街中を引きずられるという噂が流れ、私の祖父母は家に火を付けて一家5人で死のうと話し合ったと教えてくれました。噂で良かった。生きていてくれてありがとう。

    +78

    -1

  • 935. 匿名 2019/08/11(日) 08:16:42 

    広島の被ばく者の方(男性)が、駅構内で背中にケロイドを受けたことを戦争体験として話してました。それを聞いた時、私は高2の修学旅行生でした。
    原子爆弾の光は一瞬だったけど、苦痛は生涯や死後を通しても消えず癒えないものだと思います。
    原爆ドームは物産館系統のデパートだったそうです

    +61

    -1

  • 936. 匿名 2019/08/11(日) 08:16:46 

    >>34
    海の近くにいた人はまだ食べ物あったのかな。

    +26

    -0

  • 937. 匿名 2019/08/11(日) 08:19:11 

    広島県民です。
    近所のおばぁちゃんが被爆者で、私が小さな頃に聞きました。
    原爆で焼けて目玉が飛び出てブラーンと垂れ下がってる人をたくさん見たそうです。
    「人の目玉って大きいのよ〜」って言ってた。
    よく絵や「はだしのゲン」で見るヤツをリアルに見てたって事に衝撃を受けました。

    +68

    -1

  • 938. 匿名 2019/08/11(日) 08:20:21 

    がるちゃんって、こういう話ができるのが良いと思う。
    世代を越えて話聞けるのが私は嬉しい。
    もう母も祖母もいないから、
    親戚集まってるみたいで。
    昔の話聞くのが好きと言ったらいけないけど
    みんなの話もっと聞きたい。

    +86

    -0

  • 939. 匿名 2019/08/11(日) 08:21:02 

    >>905
    すごいね。生きて帰って来られて命をつなげられて良かった

    +41

    -0

  • 940. 匿名 2019/08/11(日) 08:21:11 

    グロいのは表現をオブラートに包んで欲しいです。

    +1

    -37

  • 941. 匿名 2019/08/11(日) 08:22:32 

    >>2
    聞いたことある方教えてくださいトピなのに、聞いたことないですって即コメントする人ってなんなの

    +72

    -1

  • 942. 匿名 2019/08/11(日) 08:22:40 

    戦争でたくさんの方が亡くなってしまった時代に、幸運にも生き残れたおじいちゃんやおばあちゃんがいてくれたから今私達は生きられてるんだね
    当たり前のことで忘れちゃうけど本当にすごいことだ…

    +39

    -0

  • 943. 匿名 2019/08/11(日) 08:23:47 

    355です。

    思い出したので連投します。

    祖父のお兄さんはルソン島で戦死しました。
    遺骨はありません。代わりに切った爪、使っていたメガネ等が遺品だったそうです。
    先日、お墓掃除に行ったんだけど

    「南方ルソン島ニ於イテ戦死ス。」と刻まれています。

    見るたびに切なくなります・・・。
    生きて帰って来たかっただろうな。と。
    今もルソン島で祖父の兄は眠っているんです。
    祖父は亡くなる前に「兄貴の行った島に行きたいなぁ・・・。」と病床で何度も言っていました。

    滅多に戦争の事を話さなかった祖母が

    米兵さんが「海から上がって来たらこうやって殺せ!!」と
    近くの小学校の校庭で練習したそうです。
    練習内容は先を尖らせた竹やりで刺す練習を何度もしたと。

    +43

    -1

  • 944. 匿名 2019/08/11(日) 08:24:55 

    祖父は戦地へ行き父がまだ幼い頃、上空からB29が飛んできて撃ってきたらしい
    その時父の兄(叔父)も一緒にいて、死に物狂いで畑の中へ隠れたそうだ
    父と叔父からこの話は何度も聞かされたが
    もしあの時、父が撃たれて死んでたら今私はここにいない…


    +31

    -0

  • 945. 匿名 2019/08/11(日) 08:25:03 

    私の祖父は満州に行っていたそうです。当時送り出してくれた人々の寄せ書きのような布をとってありました。
    大好きなおじいちゃん、90歳まで生きました。
    遺品の中にその布が見当たらないので叔父が勝手に寄贈してしまって残念に思いましたが、沢山の人に見てもらえるほうがいいのかと考え直しました。九段下の昭和館に飾られてます。

    +73

    -0

  • 946. 匿名 2019/08/11(日) 08:25:25 

    >>6
    わかりにくい文章

    +53

    -155

  • 947. 匿名 2019/08/11(日) 08:25:31 

    >>902
    朝鮮人はどこにでもいたらしいよ。
    陸続きだから当たり前だよね。
    当時は日本人気取り、終戦になるや否や中国人気取り。

    叔父がシベリア抑留から解放されて日本に帰る途中、
    満州の山間部で親切な朝鮮人一家がもてなしてくれたけど、
    就寝中に嫌な気配感じて目を覚ましたら、
    朝鮮人一家の主人が日本兵の残党狩りの中国人に、
    お金貰って叔父たちの眠る小屋を指差してるのを見て、慌てて仲間を起こして命からがら逃げ出してきた、て話してくれた。

    まんが日本むかし話みたいな、ほんとの話。

    +95

    -3

  • 948. 匿名 2019/08/11(日) 08:25:32 

    母から聞かされた祖母の話です。

    神戸に住んでいた当時10歳の祖母は 空襲に遭い 5つ年上の姉と逃げ回る運命に。町中の家々は燃え上がり風で炎や火の粉が飛び空からは爆弾や炎で舞い上がった色々な物が降って来る。道には 見るも無残な死体がゴロゴロ。高架下?に身を隠そうと向かっていると入口に着弾 炎が上がり風で炎が高架下に入り中にいた沢山の人達が 火あぶりに。 火がついた人達が転げ回り動かなくなっていく。姉と祖母は 逃げ惑う中 ドブ川にたどりつき ドブを頭からかぶり 身を潜め 空襲が終わるのを待ったという。
    この世の物ではない光景を思い出すと息苦しく頭痛がしてくるので あまり話そうとはしなかったようですが 戦争だけはしてはダメだと母に言っていたようです。

    +57

    -1

  • 949. 匿名 2019/08/11(日) 08:27:04 

    >>935
    広島出身ですが、傷のあとが引き攣れて爛れたような跡になることを、ケロイドといいます。
    また、原爆ドームは産業奨励館(更に遡ると物産陳列館)といい、デパートではなく、主に業者に向けた地元製品の販路開拓のための施設でした。

    +42

    -2

  • 950. 匿名 2019/08/11(日) 08:29:38 

    教員だった祖母は、子どもたちに「お国のために死になさい」と教えるのが嫌で嫌で、教員を続けられなかったそうです。
    もしそこで、大きな声で反論していたら、何かしらの刑を受けていたのだろうかと思います。
    また、私の母を妊娠中、大きなお腹を抱えて爆撃から逃げていた話も聞きました。
    晩年はのほほんと、毎日気楽そうにしていたおばあちゃんだけど、かつて祖母には祖母の戦いがあり、生き抜いてくれたんだなと。命をつないでくれたことに感謝です。

    +71

    -0

  • 951. 匿名 2019/08/11(日) 08:30:07 

    祖父が招集されて樺太に行って、祖母は生まれたての長女(母の姉)と家に残っていたけど、近くに飛行機工場があったので空襲がすごかったと。防空壕に入るのも本家の人が優先で、いじわるされてなかなか入れてもらえなかったと。無事戻ってきた祖父からは何も聞いたことがない。居間の目立つところに日の丸と昭和天皇御一家の写真が飾ってあった。

    +45

    -1

  • 952. 匿名 2019/08/11(日) 08:32:43 

    ここ読んでて平和の大切さを痛感した。
    二度とこのような戦争をおこしてはいけない。

    +58

    -0

  • 953. 匿名 2019/08/11(日) 08:33:20 

    >>284
    ご指摘ありがとうございます
    駐屯地という言葉が出てこなく自衛隊になってしまいました
    戦前戦後年一二回のお祭りがみんな楽しみだったそうです

    +12

    -0

  • 954. 匿名 2019/08/11(日) 08:34:13 

    祖母が亡くなったときに、相続で戸籍謄本とったけど
    戸籍の中に祖母の弟たちが、フィリピン○○県沖にて死亡、沖縄島○○村にて死亡と記載されていた

    戦争については語らなかった祖母だけど、祖父が亡くなったときに火葬したら銃弾2発出てきたのははなして話してたな

    +55

    -0

  • 955. 匿名 2019/08/11(日) 08:34:25 

    こういった話を、もっと積極的にテレビで流してもらいたい。原爆が投下された日、終戦記念日、昔はもっと頻繁に観た気がする。体験していない私達なりにも、恐怖や悲しさを子供に伝えていかないとと思っている。

    +96

    -0

  • 956. 匿名 2019/08/11(日) 08:35:14 

    昨年亡くなった祖母は、青春と結婚の時期をほとんど戦争と共に過ごした人でした。終戦は村の集会所のラジオで聴いたそうです。
    祖父は復員・帰国を果たしましたが、家では戦争については語りたがらなかったそうです。
    (部隊仲間同士では語り合ってたそうです。)
    家には今でも、祖父が戦場に持っていった水筒があります。

    +34

    -1

  • 957. 匿名 2019/08/11(日) 08:35:56 

    >>905
    分からないけど、胸に込み上げてくるものがある。涙が出そう。

    +27

    -1

  • 958. 匿名 2019/08/11(日) 08:36:13 

    うちの祖父、特攻隊の志願兵だった。
    出撃予定日の数日前に終戦したとか。
    生きていてくれてよかった。

    まあ、酒飲みで武勇伝とか語りがちなじいさんだったから、話盛ってる可能性はあるw

    +58

    -1

  • 959. 匿名 2019/08/11(日) 08:36:17 

    焼夷弾の雨をくぐってやっと助かったと思ったら、背中にしょった赤ちゃんの首がなくなっていた。

    +16

    -0

  • 960. 匿名 2019/08/11(日) 08:36:31 

    91歳の祖母から聞いた話だと、
    徴兵されたお兄さんが戦地で亡くなった時、お兄さんのギターや持ち物を、家族みんなで崖から海に向かって投げたそうです。
    あると思い出して辛いから、と。

    泣きながら話されるから、聞いていても辛かったです。

    +67

    -0

  • 961. 匿名 2019/08/11(日) 08:39:47 

    お城の池に何人も飛び込んだって聞いたことある。田舎だけど壮絶すぎる。

    +20

    -0

  • 962. 匿名 2019/08/11(日) 08:41:19 

    小学生の卒業間近の時に校長先生と給食を食べる日があった。当時定年間際の校長先生だから昭和一桁代生まれかな。給食を残す子が多いけど戦争中は白いお米なんて食べられなかった、から始まって兄弟がたくさんいたからご飯がたらなくて、母親と長男の自分が我慢して、母親が栄養失調で倒れてしまったこと。お腹いっぱいって幸せなことなんだよ、みたいなことを話していたのをおぼえてる。

    +73

    -0

  • 963. 匿名 2019/08/11(日) 08:41:23 

    >>913
    テレビのエピは「日本軍は悪!残酷!!だから日本人はひどい民族!!」て刷り込み目的があるからなぁ…
    もちろん一部憲兵たちがやりたい放題、
    ひどいことやってた話は残ってるけれど、
    飼い犬殺してたのは、吠え声を出させない目的だったから、悲しい時代だよね。

    私がばあちゃんから聞いた憲兵さんの話は、
    近所の家がこっそり犬を飼ってたのを見つけて、
    「こいつは我々が連れて行く!」
    と犬連れて山の方へと消えていったから、
    てっきり殺されるんだ、と嫌な気持ちになったら、
    終戦後すぐ、その犬がなんと家に戻ってきてた話。
    隣同士で見張り合ったり、密告したりな世の中だったから、その家が二度と目を付けられないよう、
    憲兵さんたちが配慮したんだろうね、
    と、ばあちゃんは言ってた。

    犬の殺処分を嬉々としてやってた憲兵さんは、
    娘に奇形児が産まれたり、奥さんは自殺、
    本人は頭がおかしくなって、最期はある日食うに困った強盗に襲われ惨殺されたらしい。

    +69

    -0

  • 964. 匿名 2019/08/11(日) 08:45:06 

    >>949
    ご指摘ありがとうございます。
    原爆ドームは、産業奨励館であって、デパートではないのですね。

    +20

    -1

  • 965. 匿名 2019/08/11(日) 08:45:32 

    祖父がまだまだ幼い頃の話らしいんだけど、当時すごい田舎の農村に住んでいたから、戦争中に日本軍が食料を取りに来たって。根こそぎ取られてしまうと自分たちの生活ができなくなるし、なんとか自分たちの生活できるくらいには天井や床の裏に食べ物を隠していたらしい。

    食べ物を無駄にしたらいけないなと思います。

    +45

    -0

  • 966. 匿名 2019/08/11(日) 08:46:03 

    子どもの夏休みに平和登校日があって学校で戦争や原爆の話を学んできたので今まさに子どもが戦争のことを色々聞いてくる。
    まだ低学年だからアメリカって怖いと感想文を書いた子どもに対し、先生のコメント「日本も同じような事をしていたのだからお互い様なのですよ」と書かれていた。
    更に私が「そもそも日本が先に喧嘩ふっかけて戦争になったんだよ」と言うと子どもはショック受けてた。
    詳しく話すのも複雑…😞

    +7

    -39

  • 967. 匿名 2019/08/11(日) 08:47:39 

    スーパーでバイトしていた時にパンを並べていたら、おじいちゃんに捕まって話し込まれた。今のパンは柔らかくて美味しいね。私は退役軍人?で今の北朝鮮からシベリアまでいって、その時のパンが固くて、という話をされてたのだが、仕事も中断できず、お客様だからむげにもできず、30分くらい固いパンの話を聞き続けたら、孫は誰もこんな話を聞いてくれないんだありがとうと、泣かれた。

    +157

    -0

  • 968. 匿名 2019/08/11(日) 08:50:43 

    終戦前、祖父母が満州にいました。
    祖父が学校の先生でした。

    威張り散らす日本人が多い中、
    祖父は国籍関係なく親切で
    満州の方に慕われていたそうです。

    終戦後、日本に帰る船が不定期で、
    皆、戦々恐々としていたそうですが
    満州の方に「今、船が出るから、急いで!先生!!」
    と、教えてもらい、逃げるように帰国したそうです。

    情けは人の為ならず、だと思いました。

    +84

    -1

  • 969. 匿名 2019/08/11(日) 08:50:53 

    父が広島出身で疎開先からキノコ雲を見たらしい
    叔母は被爆者手帳を持っている
    それよりも私が衝撃を受けたのは母方(母はずっと大阪で私も生まれ育ちは大阪)が父とお見合いする時に父が被爆していないかどうか調べたという話
    被爆していないことが判明したので結婚して私が生まれたのだけどもとても悲しい話だと思った
    戦争は後々まで爪痕を残す、本当に恐ろしい

    +52

    -2

  • 970. 匿名 2019/08/11(日) 08:51:05 

    私の大正生まれの祖父(既に他界)は、二十歳くらいの時に兵隊として、サイパン島に行き、終戦を迎えた。
    弾がかすめたり、隣で仲間が死んだり、生き残ったのはただ運が良かっただけ、当時100人くらいの部隊のうち、生き残って帰って来られたのは6人だったらしいと父に聞いた。
    今だったら大学行ったりして1番楽しい時期を戦争に奪われた祖父。夜寝てる時うなされたり、激戦の記憶に死ぬまで苦しんでたそうだ。
    祖父があの時生き残ってくれなかったら、その後生まれた父や私、妹、弟、子供や甥っ子姪っ子は今存在してないんだよね。
    戦争ほど悲しいものはないよ。

    +40

    -1

  • 971. 匿名 2019/08/11(日) 08:54:12 

    >>966
    「日本が先に喧嘩をふっかけた」の一言で子供に第二次世界大戦の話をしないで欲しいな。

    +76

    -2

  • 972. 匿名 2019/08/11(日) 08:56:00 

    私は岡山の出身で、子供の頃は岡山市にある天満屋(百貨店)に行く機会が結構ありました。
    幼い私にとっては楽しい、キラキラした場所でしかなかったのですが、小学校の時に「岡山空襲で、天満屋の地下に逃げ込んだ人たちが沢山いた。結局火が広がって、蒸されて苦しみながら亡くなった」と講演会で聞きました。
    衝撃を受けるとともに、今の自分たちの平和で豊かな生活は、かつての戦争の犠牲の上に成り立っていることを痛感しました。その犠牲を、忘れてはいけないと思います。

    +44

    -1

  • 973. 匿名 2019/08/11(日) 08:56:09 

    父方の実家は大きな農家だったから、男手は連れて行かれてもそれなりに食べられて、近所の人に食料分けて犬まで飼ってたらしい。
    ある日繋がれた犬がいないから大叔母が探し回ったら、近所の人の玄関先でその犬が毛皮だけになってたらしい。
    「肉が食べたかったんだろうねぇ」と。
    皆さんの戦争体験に比べたらあれだけど、お腹いっぱいに食べられる時代に感謝だよね。

    +48

    -1

  • 974. 匿名 2019/08/11(日) 08:57:23 

    >>676
    「ビルマの竪琴」を思い出しました。
    今のミャンマーですね。

    +18

    -0

  • 975. 匿名 2019/08/11(日) 08:57:53 

    >>902
    そもそも朝鮮半島と中国が繋がってるから。

    +10

    -2

  • 976. 匿名 2019/08/11(日) 08:58:11 

    戦争はいけないけど当時は世界全体が戦争する戦国時代でした。日本も追いつめられ石油と軍艦のあるうちに戦おうという空気だったと祖父が言ってましたよサムライの気質が残っていた当時はそういうものだったみたいです。だいたい空襲なんて民間人の住んでる所に爆弾落とすとか戦争にもルールがあるのにムチャクチャです。
    軍人同士が戦うのが国際法なのに。やっぱり平和はありがたいです。
    靖国神社には感謝して手を合わせに行きます。

    +51

    -3

  • 977. 匿名 2019/08/11(日) 08:58:25 

    祖父には姉が3人いたが、広島市内に働きにでており、8月6日に原爆でなくなりました。3人とも、まだ10代。祖父の母が何日もかけて探しにいきましたが、みつからなかった。戦争は2度と起こしてはいけない。口癖のように言っていました。

    +44

    -1

  • 978. 匿名 2019/08/11(日) 09:01:04 

    わたしのおじいちゃんの話です。徴兵に取られたくなくて身体検査の前夜に醤油を一升飲んだそうです。ものしごく具合悪くなって苦しんだらしいけど、結局戦争には行っています。

    +60

    -1

  • 979. 匿名 2019/08/11(日) 09:01:28 

    地元北九州は広島の次に原爆が落とされる予定だったと聞いた

    +13

    -0

  • 980. 匿名 2019/08/11(日) 09:02:07 

    >>883

    Wikiからだけど
    「満洲国は国際法上の交戦国とはならず、満洲国軍が日本軍に協力して南方や太平洋方面に進出するということも無かった。」

    「1931年(昭和6年)から1932年(昭和7年)の満洲には59万人の日本人(朝鮮・台湾籍を含む)が居住し、うち10万人は農民だった。営口では人口の25%が日本人だったという。

    満洲国の成立以降、日本政府は国内における貧困農村の集落住民や都市部の農業就業希望者を中心に、「満蒙開拓団」と称する満蒙開拓移民を募集した。さらに日本政府は1936年(昭和11年)から1956年(昭和31年)の間に、500万人の日本人の移住を計画していた。結局は、1945年(昭和20年)のポツダム宣言受諾での日本の降伏により満州国は消滅したために、この計画は頓挫に終わった。1938年(昭和13年)から1942年(昭和17年)の間には20万人の農業青年を、1936年(昭和11年)には2万人の家族移住者を送り込んだ。

    しかし、内地からの移住計画はきわめて低調で満洲への移住者の過半が朝鮮籍日本人であり、内地から満洲に移住した家族の大半は軍関係者あるいは南満洲鉄道および附属企業関係者とその家族であった。満洲で逐次開設されていった小学校の日本人教員の募集は内地の給与の7割から17割5分増しで募集された。」

    「日本の敗色が濃くなった1944年の後半に入ると、同年7月29日に鞍山の昭和製鋼所(鞍山製鉄所)など重要な工業基地が連合軍、特にイギリス領インド帝国のイギリス軍基地内に展開したアメリカ軍のボーイングB29爆撃機の盛んな空襲を受け、工場の稼働率は全般に「等しい低下を示し」(1944年当時の稼動状況記録文書より)たとしている。特に、奉天の東郊外にある「満洲飛行機」では、1944年6月には平均で70%だった従業員の工場への出勤率が、鞍山の空襲から1週間後の8月5日には26%まで低下した。次の標的になるのではという従業員の強い不安感から、稼働率の極端な下落を招くことになった。」

    まとめると、
    ①満州は日本の傀儡国家と呼ばれたように、日本領ではなく独立国家だった、だから交戦国ではなかった

    ②日本の計画では1956年まで開拓民を国内から送る予定だったが、実際移住した中心は軍・満州鉄道の関係者とその家族だった

    ③軍需工場が建設されてそこで働く人もいた、小学校の教師として行く人もいた

    だから、戦争に関係ない感じなんだったら、軍関係ではないだろうから、開拓民・満州鉄道・軍需工場や教師その他で働きに行ってたって感じなんじゃない?

    +5

    -3

  • 981. 匿名 2019/08/11(日) 09:02:15 

    >>946え、どこがわかりにくいのか教えてほしい。

    +36

    -9

  • 982. 匿名 2019/08/11(日) 09:06:27 

    祖母の話。
    敵機が電車に爆弾を落としたようで、線路から離れたところにいたそうですが、バリバリバリバリーっという物凄い轟音が聞こえ、あのときの音は未だに忘れられないと言っています。
    祖母自身も空襲で敵機に執拗に追い回されたことがあり、落とされた爆弾があと1mずれていたら死んでいたそうです。
    敵機が接近してきたため、相手の顔が見えたそうです。
    あれは、人を殺す顔じゃなかった、楽しみながら虫ケラでも殺すかのような憎たらしい顔だったよ、日本人のことなんて、アメリカ人は人間とも思ってないんだろうねと言っていました。
    私がアメリカに短期留学するときには、アメリカ人のイケメンのボーイフレンドを作っておいでん!(笑)と言っていましたが、最後にけど、日本人のことを心のどこかでは見下してるかもしれないよねえ…と。
    (ちなみにアメリカ人のボーイフレンドはできませんでした…)
    それから、戦時中に三河地震に遭い、それもすごく恐ろしかったそうですが、戦時中ということで、それほど大事として扱われなかったそうです。
    「あとかたの街」という名古屋大空襲がテーマの漫画で「ジシンノツギハナニヲオミマイシマショウカ」というビラを米軍が撒いていたことを知りました。

    そんなこんなで45年の春頃は恐ろしい思いをたくさんしたそうです。
    祖父の話も興味深かったので、別のコメントにて失礼します。

    +54

    -0

  • 983. 匿名 2019/08/11(日) 09:06:33 

    言える事。
    戦争体験した年代の人たち亡くなってきて
    直に伝えれる人が少なくなってきた。
    現代では、戦地で戦った人ももうあまり生きてない。
    だから悲惨さを語り継いでいくのは必要。
    戦争なんてしちゃダメ。

    +34

    -1

  • 984. 匿名 2019/08/11(日) 09:07:10 

    第二次世界大戦って世界恐慌も関わってるっていうような事を聞いたけど。いまいち調べても分からない。誰か世界恐慌ってものが何なのか、何故、世界恐慌から戦争になったのか分かりやすく教えて下さい。

    +4

    -0

  • 985. 匿名 2019/08/11(日) 09:07:36 

    満州に行った103歳のおじいちゃんの話。やらなきゃやられるから嫌でも殺した、目の前で親友が首を切られ噴水のように血が吹き出した光景が今でも忘れられないって言ってます。

    +43

    -1

  • 986. 匿名 2019/08/11(日) 09:09:15 

    >>868
    それ農地改革じゃない?
    地主と小作人の関係だと小作人が搾取されがちだから、地主から土地を安く買い上げて、小作人に売り渡したってやつ

    歴史の教科書にも出てきてたと思うけど
    土地取り上げてそのお金で復興したって言うのはちょっと違うと思う

    +7

    -2

  • 987. 匿名 2019/08/11(日) 09:11:20 

    老人ホームで働いていた時に聞きました。
    その方は飛行機が好きで空軍パイロットになったそうです。
    飛行機乗りたくて頑張ったのにいざ自分の番になったら戦争が終わってしまい残念だったといってました。
    また、関西の兵隊と関東の兵隊では意識が違う、関西の人達は命大事に!と言う感じだったと。

    +41

    -0

  • 988. 匿名 2019/08/11(日) 09:11:31 

    >>981
    横だけど死去の主語がないのと改行がおかしいので読みにくいと思うよ。
    まあ、分かるけどね。

    +29

    -5

  • 989. 匿名 2019/08/11(日) 09:13:22 

    これだけ戦争の恐ろしさを聞いていても、キングダムを読むと面白いと思ってしまう…
    一瞬で犠牲になる歩兵の1人でも1人の人間としてのドラマがあるはずだよね。

    +34

    -1

  • 990. 匿名 2019/08/11(日) 09:13:43 

    母、今、90代。戦争中、中国に疎開。敗戦し、日本に帰ってくる時、船が定員オーバー。数人のお母さんが、小さい子供を海に投げ落としてたと(自分が船に乗りたい為)。あの頃は毎日地獄のようだったと言ってました。

    +63

    -2

  • 991. 匿名 2019/08/11(日) 09:13:49 

    >>54
    遅れてないよ。
    世界で一番最初に空母を効率良く使ったのは日本(山本五十六)。
    真珠湾。
    それを見てアメリカも空母主力に切り替えていった。
    戦後レジームから脱却出来てない人は書き込むな。

    +24

    -6

  • 992. 匿名 2019/08/11(日) 09:15:51 

    ここ読んでると、ロシア人の女性に対する
    執着がすごいけど、何故だろ?
    アメリカは沖縄とかグアムとかサイパンでも日本人と戦って、民間日本人とも敵対したけど、そんなこと聞かないよね?
    民族的に違うのかな
    ロシア人とアメリカ人

    +17

    -0

  • 993. 匿名 2019/08/11(日) 09:16:47 

    >>826
    なにそれ!教えてくれてありがとう

    +59

    -1

  • 994. 匿名 2019/08/11(日) 09:17:41 

    >>60
    子ども目がけてミサイル撃つなんて鬼畜。

    +70

    -0

  • 995. 匿名 2019/08/11(日) 09:18:17 

    >>914
    > 背中にいるような気がして、
    > あおむけで寝られない

    ああせつない涙が止まらない

    +52

    -2

  • 996. 匿名 2019/08/11(日) 09:18:57 

    祖父がビルマに行ってたって話を聞いた。
    ドリアンが本当に美味しかったって。
    重い荷物を持って鉄砲持って、ずーっと歩いたのが辛かったなーって言ってたけど、それ以上の話はしなかったな。思い出すのも辛かったのかなって思う。
    足の指と腕に銃弾が通った跡があった。
    祖父が生きて帰ってきたのは本当に奇跡だったんだと感じた。

    +24

    -0

  • 997. 匿名 2019/08/11(日) 09:21:02 

    兵士として海外に行った時 上官からコンドームを支給され遊んでこい!ていわれたらしい。

    +24

    -0

  • 998. 匿名 2019/08/11(日) 09:21:58 

    >>971
    子供ってなんで戦争が始まったん?ってストレートに聞いてくるから難しいんですよねー。

    +13

    -5

  • 999. 匿名 2019/08/11(日) 09:22:18 

    >>6
    >>981
    わかりますよ私は。
    身近な人の戦争体験談を
    聞かせてくれてありがとうございます。

    +117

    -4

  • 1000. 匿名 2019/08/11(日) 09:23:10 

    私が子供の頃、祖父に「おじいちゃん、戦争で何人の人を殺したの?」って聞いたことがある。

    どれだけ酷い質問をしたのか、今でも本当に後悔しています。

    +49

    -0

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