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超古代文明について!

804コメント2016/04/29(金) 10:13

  • 501. 匿名 2016/04/05(火) 18:50:15 

    【イラン】

    イラン神話にも龍・牡牛・月が登場する。


    ササン朝期の中世ペルシア語文献によれば、イランの歴史的時間は一万二千年よりなり、これはさらに善神オフルマズド(アフラ・マズダの中世語形)と悪神アフリマンとの戦いの様相によって、四つの時期に等分される。
    1.第一の三千年紀は、オフルマズドの上方の光明界とアフリマンの下方の暗黒界とは、虚空によって完全に分離されて存在していた。
    2.第二の三千年紀にオフルマズドはアフリマンの攻撃に勝利すべく物質世界の創造に着手する。
    3.第三の三千年紀にアフリマンがその軍勢を率いて、光明界への攻撃を開始する。
    彼らは天空を破って侵入に成功し、その結果水は塩水となり、地上はアフリマンの創造物である爬虫類でいっぱいになる。
    ここに善と悪、光と闇が混合し、混在することとなった。
    アフリマンはまず「原初の牛」を殺害する。
    その死体より植物が生じ、その精液は月に集められ、月光で清められて種々の益獣を生じた。
    次に地上に倒れた原人の身体より金属が生じ、その精液は太陽の光で清められ、三分の一は地上に落ちて、大黄が生じた。
    やがてこの植物はイランのアダムとイブである、マシュエとマシュヤーネに変質する。
    この三千年紀はさらに三つに区切られ、 1.最初の千年はイマ・フシャエータ(インド神話のヤマ、仏教の閻魔、現代ペルシア語ジャムシード)の支配する人類の黄金時代である。

    2.次の千年間は悪龍アジ・ダハーカの時代。

    3.最後の千年は、スラエータオナが悪龍を破って、王権の象徴たる光輪を回復する時代である。


    4.そして最後の三千年紀はゾロアスターの誕生で始まり、彼の出生後三千年にして人間の歴史は終焉する。


    アーリア人はかつて中央アジアで遊牧生活をおこなっていたが、前二千年紀に入ると南に移動し、インドとイランに定住する。
    インド最古の文献『リグ・ヴェーダ』と、イランのゾロアスターの聖典『アヴェスタ』の最古層とは、言語のうえできわめて類似し、音の変化には一定の法則が見られ、宗教・文化に関する共通のことばが多いが、それぞれ先住民と融合して独自の宗教と文化を発達させたため、インドとイラン両民族間の相違は大きくなったと言われる。
    しかし、「原初の牛」を殺したアフリマンや、龍であるアジ・ダハーカが悪神とされることに、インド神話との共通性を見ることができる。また、「原初の牛」の精液が月に集められて益獣が生まれるなど、牡牛と月が創生に関係していることが興味深い。

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  • 502. 匿名 2016/04/05(火) 18:54:54 

    製鉄と龍

    邪悪な力の象徴

    鉄は邪悪な力の象徴とされ、古代エジプトではオシリスの殺害者セトの持物であった。
    ギリシア神話でゼウスを襲う怪物テュフォンは、その骨が鉄でできていたといわれる。
    そのためにギリシアやイスラエルの神殿では鉄を持ち込むことが禁忌とされた。
    セトやテュフォンは龍であり、ヤハウェやゼウスは牡牛であることを考え併せると非常に面白い。




    製鉄の歴史

    今までは、製鉄の開始は青銅器に比べて遅いと言われていた。
    その理由の一つとして、鉄の融点が約1540℃と高温であって、銅の約1085℃よりも高いこと挙げられる。
    しかし、ベックは、鉄の還元が銅の溶融よりも低い温度で始まることを指摘し、製鉄の起源を青銅器時代に先行すると主張した。
    また、ゴーランドによれば、
    1.鉄鉱石から鉄を抽出する方法は、銅の抽出よりも簡単である。

    2.鉄鉱石は溶解しなくても700~800℃で可鍛鉄が得られる。

    3.鉄の抽出には特定の送風装置を必要としない、

    という。
    人造鉄の存在が、従来考えられていたより古い時代に遡ることは確かである。


    メソポタミアでは前五千年ころのサーマッラー出土の鉄器があり、人造鉄とみなされている。
    これに対して前4600頃―前4100頃のイランのテペ・シアルク遺跡第2期の小さな鉄球研磨器は隕鉄で、現存の資料だけでは人造鉄と隕鉄のどちらの利用が先行したかを判断を下すことは難しいという。
    前三千年紀に入ると、メソポタミア、アナトリア、エジプトに出土地の分布が広がる。
    ウルのジッグラト付近には溶鉱遺跡が発見されている。
    この時期は人造鉄と隕鉄が相半ばしている。


    前20~前19世紀のアッシリアとアナトリア東部の交易を伝える「キュルテペ文書」に数種の鉄の名称がみられるが、そのうちの一つであるアムートゥムは金の八倍以上の価値を有していた。
    まさに「金の王哉」である。
    前三千年紀、アラジャホユックのハッティ人の王墓から出土した鉄剣は、人造鉄による大型の器具として最古のものである。
    前二千年紀にアナトリアに入ってきたヒッタイト人は、「鉄」を意味するハッティ語の「ハパルキ」とともに、土着の優れた製鉄技術を受け継いだ。
    ヒッタイトには他国が羨む高度の製鉄技術と厳重な鉄の国家統制、技術の国外流出に対する強い警戒心があったとされる。


    アッシリアは鉄を国内の建設事業に使用するとともに、軍隊の鉄器武装化に努めて最初の世界帝国を実現させた。
    対照的にエジプトの鉄器使用は先史時代までさかのぼるにもかかわらず、その後十分な発達をみることがなかった。
    龍と考えられる邪神セトの持ち物である鉄、その受容を長く拒んだためであろうか。

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  • 503. 匿名 2016/04/05(火) 18:56:42 

    続き

    古代では東洋、ことに中国とインドで、早くから製鉄技術が高い水準に達し、西洋をはるかに凌駕していたと言われている。
    中国では、すでに紀元前から鋳鉄が製造されており、鋳鉄を精錬して脱炭し錬鉄に変える二段階法(間接法)が発展した。
    また炭素の多い鋳鉄に炭素の少ない錬鉄を溶け合わせて鋼にする技術も生まれた。
    一方ヨーロッパで二段階法が始まったのは十五、六世紀で、高炉法の出現により初めて実現したことを考えれば、こうした中国、インドの製鉄技術は驚くべき先進性をもっていることが分かる。
    龍一族が通った場所と、優れた製鉄技術を有する場所が一致する。

    日本でも、自然風による露天蹈鞴という方法で弥生中期から古墳時代中期まで製鉄が行われていたと考えられているが、こういう原始的な方法では遺構は残らないので証明が難しい。
    神話と製鉄の関係を見ると、『日本書紀』の天石窟(あまのいわや)の段の一書にアマノハブキという手鞴(てふいご)が出てくる。
    真弓常忠氏はこの天石窟の話を、銅鐸による祭祀が行われなくなり、鏡による招祷儀礼の行われた時代の反映であると考え、三世紀のことと推定している。

    製鉄と龍蛇伝説

    龍蛇にまつわる伝説が多く残されている出雲・三輪・諏訪・常陸はいずれも製鉄と関係が深い。

    出雲は砂鉄の豊富な地で、『出雲国風土記』で大国主命の説話が多く語られる地域は、出雲でも最も砂鉄の多い所である。
    特に須佐之男が降臨した鳥髪山は出雲最大の産鉄地である。
    遺跡から、出雲では弥生時代中後期には製鉄が始まっていたと考えられている。

    大国主命の子の阿遅志貴高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)が、名の通り鋤(すき)を象徴していること、大国主命の別名・大穴持の「穴」を、砂鉄を含む「鉄穴(かな)山」と考え、大国主命を製鉄の神とする説もある。

    三輪山麓の金屋遺跡の発掘によって、弥生時代にここで製鉄が行われたのは確かである。
    『古事記』の大物主の丹塗矢(にぬりや)型神婚説話に出てくる勢夜陀多良比売(せやたたらひめ)と娘の富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ)の名前に「蹈鞴(たたら)」が含まれていることも多くの研究者が指摘する事である。

    建御名方神は、別名南方刀美(みなかたとみ)とも言い、諏訪神社は古くより南宮と呼ばれる。
    『梁塵秘抄』に「南宮の本山は、信濃国とぞ承る。さぞ申す。美濃には中の宮。伊賀国には稚き児の宮」とある。
    美濃の仲山金山彦神社と伊賀の敢国神社の「南宮」に共通するのは、製鉄の神を祀るということであり、南宮とは、製鉄炉を取り囲む四本の押し立て柱のうちで南方の柱を最も神聖視することによるのではないかという。

    松本平一帯は砂鉄の豊穣な産出地であり、ミシャグチ神を降ろす「湛(たたえ)神事」の御宝は「鉄鐸」である。
    また『諏方大明神画詞』で「洩矢は鉄輪を持してあらそひ、明神は藤の枝を取りて是を伏し給ふ」とあり、洩矢神が鉄器を用いていた。(吉野裕子氏によれば「藤」は蛇を象徴するという)
    もともとの洩矢神も製鉄の神で、砂鉄の豊富な諏訪に、また製鉄技術を持つ建御名方神が出雲から入ってきたのであろう。

    『常陸国風土記』には、若松の浜の鉄を採って剣を造ったとし、ここは鹿島の神の山で禁足地であると記す。
    若松の浦は、製鉄を行った遺跡がいくつか発見されている。

    以上より、龍一族とは製鉄の一族であることが言えよう。

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  • 504. 匿名 2016/04/06(水) 00:27:05 

    >>493~興味深く読ませてもらいました(^o^)
    お疲れさまです

    気になっていた事が少しだけ見えてきました
    ヤマトやティアマト…どこかで言葉を区切ったら正体が見えるかもと思っていたのです
    YAM-ATUM(ヤマト)
    ヤマとは閻魔であり、死者の王。目が4つずつある二頭の犬を飼っていて、死者が通る道の番をしている。

    ヤム王子ってヤマト?しかも天地図ではサハリンや北方領土に猟犬座(二匹)がいる…死者達はそこを全速力で通り抜けねばならないらしい。火山が有るみたいなので急がなきゃいけないかも。
    >>498
    北欧神話ではアースガルズ(アース神国)に行くには虹の橋を渡るとされているが、このあたりの事だと思います。アースガルズの中心には“イザヴェル(出雲?)”と呼ばれる平原があるらしいです。

    アトゥムはエジプト神話の天地創造の神で、最も原初に近い生物として認識されていた「蛇」の姿で誕生した。後に太陽神ラーと習合し、「ラー・アトゥム」となった。
    つながりが見えてきたような気がします

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  • 505. 匿名 2016/04/06(水) 01:26:28 

    >>504
    徐々に見えてきましたね(^^)/
    楽しみです。

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  • 506. 匿名 2016/04/06(水) 15:40:03 

    >>505
    そうですね(^∀^)いつも教えていただき感謝してます

    >>491
    牡牛(TAU)の上の文字の中に『北』があるのが気になります
    ちなみにTAUとは原カナン文字の最後の文字なので、かな文字の“ん”にあたります

    TAUの文字は“十”…十字架ですね(汗…「署名」を意味し、フトマニ文字の“〇に×”と似ているので起源を同じく(しかも近い)するものと思われます。原カナン文字の最初はAで「雄牛」を意味します
    ヒエログリフを祖とし、ワディ・エル・ホル文字と原シナイ文字と関係が深く、西はアラビア文字、ギリシア文字、ヘブライ文字、ラテン文字、キリル文字、ティフナグ文字(ベルベル語の文字) から、東はモンゴル文字、一説によるとパスパ文字を経由してハングルにいたるまで、今日用いられているほぼすべてのアルファベットの原型です

    このAT(アリフ・タウ)はAΩ(アルファ・オメガ)であり、阿吽(あうん)・アンと意味を同じくし、「最初から最後まで」・全て・永遠・「宇宙の始まりと終わり」を表す言葉です
    新約聖書の「ヨハネの黙示録」に、主の言葉「私はアルファであり、オメガである」「最初であり、最後である」として現れます
    また対となる物を表す用語としても使用され、特に狛犬や仁王・沖縄のシーサーなど一対で存在する宗教的な像のモチーフとされました
    また、オウムはオメガで「終わり」を示しています。ロシアで国外退去処分されましたが、プラズマ兵器と関係あるのでしょうか…

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  • 507. 匿名 2016/04/06(水) 17:22:13 

    >>506つづき
    『阿』という文字
    阝…列島
    丁…海洋の対岸
    口…統べる存在(超古代文明)
    ↑太平洋か大西洋…または両方を表した文字。そんな気がしませんか?フトマニでは“◎”ですが、これも同じ意味ですね

    『阝』偏(なんと読むかわからないけど)の付く文字にも注目してほしい

    隗(険しいの意)
    際( もう少しで別の物になる、その物のすぐそば、すれすれのところ、ある事のすぐ前の時)
    陘(山脈の途切れた所)
    陰( かくれたところ、人に知れないもの、内にこもって目立たないこと)
    随(したがえるの意)
    隁(つつみの意)
    阞(地脈・3分の1の意)
    阡(あぜ道、南北に通じる道)
    陣(朝廷において六衛府の武官が整列する場所。近衛府・兵衛府・衛門府が陣座、杖座とも呼ばれる…フトマニ図や杖カドゥケウスを連想させる)
    険(悪い企みがある)
    陗(険しく高い)
    陮(危うい)
    隈(奥まってかくれた所・すみっこ)
    隯(読みは”タウ”・発音はトウ、大陸の面積より小さく、四方を水域に囲まれた陸地…日本列島ですね)
    陟(上へすすむ・よい方、高い方へ移る…ノアの洪水を連想させる)

    日本列島の地形や政治・歴史を表しているような気がします。

    『吽』という文字
    口…環太平洋を統べる存在(ムー=アトランティス?)
    牛…アメリカ大陸と言いたい所ですが、天地図で牡牛座はアフリカ大陸を示します

    牛がアメリカ大陸だとしたら超古代文明は太平洋の真ん中ハワイ諸島。
    牛がアフリカ大陸だとしたら超古代文明はアゾレス諸島、又はアンティル諸島(バミューダ・トライアングルが近い)もあるかもしれない。

    皆さんはどう思われますか?

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  • 508. 匿名 2016/04/06(水) 20:57:24 

    >>507
    なるほど。
    深いですね。
    アフリカ大陸ですか・・・・

    鉄で栄えた古代のアフリカ黒人文明の都市『メロウェ』

    かつてアフリカ大陸の四分の一にも及ぶ強大な王国を築いた古代クシュ王国。その繁栄のあとは現在のスーダン北部に多く残されています。

    メロウェは、現在のスーダンの首都・ハルツームの北東に繁栄した都市。古代クシュ王国が紀元前6世紀にここへ遷都し、紀元後4世紀にエチオピアのアクスム王国に滅ぼされるまで繁栄しました。

    メロウェは鉄鉱石や樹木が豊富で、アフリカ黒人の歴史上最初の鉄器製造の中心地として栄えました。今に残るその遺跡群に、当時の繁栄の面影を見ることができます。

    メロウェ遺跡は大きく分けて2つの部分で構成されています。北・南ピラミッド群のある「ベグラウィア」と、アモン神殿と王宮跡の残る「ロイヤル・シティー」です。

    「ベグラウィア」のピラミッドは王の墓として建てられたことがわかっており、紀元前3世紀頃からの王が眠っていましたが、全て盗掘・破壊されてしまっています。
    エジプトの文化的影響を色濃く受けたこの古代文明ですが、ピラミッドの角度はエジプトのものが52~53度なのに対し、ここでは65~68度となっていて、見た目でもより鋭角な形をしているのがわかります。

    「ロイヤル・シティー」には、その名の通り王宮跡、アモン神殿、浴場跡、城壁、居住区などが残されています。ここで出土した、紀元前後に破壊されたと見られるアウグスゥスの像の頭部は、大英博物館に保管されています

    ただしこのアモンはヨーロッパの伝承あるいは悪魔学に登場する悪魔の1体とされています。
    悪魔や精霊に関して記述した文献や、魔術に関して記したグリモワールと総称される書物などにその名が見られます。
    悪魔の君主の中で最も強靭であるとされています。
    口元から炎を吐き出しヘビの尾を持つ狼の姿で現れますが、魔術師が人間の姿を取ることを命じると、口元から犬の牙を覗かせたワタリガラスまたはゴイサギの頭を持つ男性の姿を採るといいます。
    コラン・ド・プランシーの『地獄の辞典』の挿絵ではフクロウの頭と狼の胴と前足、蛇の尾を持つ姿が描かれています。

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  • 509. 匿名 2016/04/07(木) 00:34:53 

    >>508
    「ベグラウィア」のピラミッドは見るとドキドキして、なぜか懐かしい気持ちになりました。

    アモン神はアメン神と同じですよね(・∀・;)
    アメン神とは古代エジプトの太陽神。アモン(Ammon)・アムン(Amun)と表記されることもあり、「隠されたもの」を意味する。

    >口元から炎を吐き出しヘビの尾を持つ狼の姿で現れます→天地図ニュージーランド付近
    >魔術師が人間の姿を取ることを命じると、口元から犬の牙を覗かせたワタリガラスまたはゴイサギの頭を持つ男性の姿を採る→天地図カラス:オーストラリア、ゴイサギ(鶴):南米南端部(フエゴ島付近)
    >コラン・ド・プランシーの『地獄の辞典』の挿絵ではフクロウの頭と狼の胴と前足、蛇の尾を持つ姿…ふくろう座(ジェミーソン星図うみへび座の尻尾とてんびん座の間に設けた星座で現在の88星座には含まれない)→ニュージーランド

    どうやらアモン神はオーストラリアから南米にかけて存在したみたいですね
    それについて気になる事があります
    ゼウスは乳児期に「クレーテー島のディクテオン洞窟で雌山羊のアマルテイアの乳を飲み、ニュムペーに育てられた」とされます
    天地図の山羊座は南米ペルー・チリの太平洋沖ですが…南米諸国の国章を見ると(画像が張り付かないのでわかりにくいですが)

    ・ペルー…コルヌー・コピアイ( 豊穣の角、アマルテイアの角、収穫の円錐)
    ・チリ…(第二国章)ジェド柱?(ゼウスの武器はキュクロープスの作った雷霆(ケラウノス)。その威力はオリュンポス最強と謳われるほど強大なもので、この雷霆をゼウスが使えば世界を一撃で熔解させ、全宇宙を焼き尽くすことができる)
    非常に怪しいであります
    他にも南米にはゼウスに関係するデザイン(豊穣の角・羊・牛・双子・蟹・かくれんぼしている太陽・杖ケーリュケイオン・ピラミッド)の国章が多いです
    印象的なのは、フリジア帽(サンタクロースの帽子のような…)で、古代ローマに起源を持つ奴隷の被り物らしい。もしかしたらサンタクロースって、”セイント・クローズ(隠された聖人)”ではないかと思います
    あとコスタリカとニカラグアの男性の左腕…なぜに?と思いましたが…神々の最終戦争で怪物テューポーンと戦ったゼウスは手足の腱を切り落とされ、デルポイ近くのコーリュキオンと呼ばれる洞窟(ベナド洞窟?ココ島?)へ閉じ込め、ゼウスの腱は隠されました

    考察結果:ゼウスはアモン神。乳児期をメキシコで過ごし、南太平洋で育った(1人の人生ではなく、氏族の歴史かもしれない)

    デルポイはメキシコやアンティル諸島近辺だということになります

    毎回、濃い内容ですみません(汗

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  • 510. 匿名 2016/04/07(木) 00:52:35 

    >>509
    中々濃い考察ですね。
    どんどん創造が広がってますね。
    非常に考えさせられます。

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  • 511. 匿名 2016/04/07(木) 10:03:18 

    日本の神話

    龍を受け入れない大和政権

    記紀の成立以前、既に中国の龍が日本に伝えられていたにも関わらず、記紀には「龍」と名のつく神は登場せず、龍の語が使われる事も少ない。
    雄略紀に見られる龍の語句は『文選』からの借用であり、わずかに見られる龍が、豊玉姫が「産まむとし、竜に化為(な)りぬ」と記すのと、推古紀の船史竜(ふねのふびとたつ)という人名、、斉明紀の「空中(おほそらのなか)に竜に乗れる者有り」である。
    八俣大蛇も三輪山の蛇も龍的な蛇と解釈されるのに、記紀には龍とは記されない。

    日本では中国の皇帝ように龍が天皇ののシンボルとはならなかった。
    天皇の朝服には龍の模様は使われず、御所にも龍の絵は見当たらない。
    一方琉球王朝の首里城では龍が多く飾られる。
    また、中国では龍の元号が多く使われているのに、日本で元号に龍の文字が使われたことが一度もなかった。
    雨を呼ぶには龍に頼らなければいけないが、後述する水神に雨を祈願した。
    平安京造営の際に東南に龍の棲む神泉苑を設けたが、宮中には龍を入れなかった。
    荒川紘は、中国を模倣しながら独自性と正当性を主張するために龍を排除したこともあるだろうが、龍・蛇を信仰していた旧勢力に対して、大和政権が土着の龍を受け入れなかったことも見逃してはならないと指摘する。

    日本では龍はしばしば蛇神と混交され、水神としての性格を帯びる。
    日本の龍を探るためには、まず水神と蛇について見てみる。

    水神

    「龍」の神は存在しないが、旱魃や長雨の際に必ず祈願の奉幣がなされたのは、大和の丹生川上神社と貴船神社であった。
    この二社の祭神とされるのは水神オカミとミズハである。
    火の神である迦具土神(かぐつちのかみ)を産んだあと、瀕死の状態の伊邪那美(いざなみ)の尿から水の女神の弥都波能売神(みつはのめのかみ)(紀では水神罔象女(みつはのめ))が生まれ、伊邪那岐(いざなぎ)が迦具土神の首を斬った折に、その剣の柄に集まった血が手の指の股から洩れ出て生まれたのが、闇淤加美(くらおかみ)(紀では闇オカミ)。
    紀の一書には高オカミと闇御津羽神(くらみつはのかみ)(紀では闇罔象(くらみつは))である。
    「闇」は谷あい、「高」は山峰を意味する。


    「オカミ」とは雨を呼ぶ龍のことで、松岡静雄氏はオカミとは「大神」の転訛であるとする。
    さらに『常陸国風土記』の逸文に「駅家(うまや)、名を大神(おほかみ)と曰ふ。
    然(しか)称(い)ふ所以は大蛇(おほかみ)多(さは)に住める。
    因りて駅家に名(なづ)く」とある。
    大蛇は龍であり大神なのである。
    「罔象(みつは)」は、『淮南子(えなんじ)』の「水、罔象を生ず」の注に「水の精なり」、『史記』には「水の怪は龍罔象」とあり、仁徳紀のミズチと同じ語源と考えられる。
    葛上郡にある鴨都波八重事代主神社の「都波(つは)」も、もともとは「弥都波(みつは)」であったと言われ、後述するようにカモも事代主も水神と関係がある。


    水神は豊穣をもたらす神であり、田の神と同一視される。
    また山中の水源地に祀られる場合は、山の神と同一視される。
    したがって水神は、田の神や山の神と一体化している。
    龍や蛇などの地霊が、水神として水脈だけでなく、山の神として地脈や鉱脈とも深く関係するのである。

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  • 512. 匿名 2016/04/07(木) 10:05:26 



    『古語拾遺』に「古語に大蛇を羽羽(はは)といふ」とある。
    『日本書紀』一書の天蝿斫之剣(あまのははきりのつるぎ)の「ハハ」は大蛇のことと考えられている。

    吉野裕子氏は「ハハ」を、クナド→フナド、コケ→フケと同じように、「カカ」の子音転換と見て、「カカ」を「ハハ」以前の大蛇名と考える。
    そして、蛇を象徴するものとして、鏡、酸漿、蔓性植物(藤も)、少彦名、案山子、光、梶、注連縄などを挙げている。
    また「ナガ」や「ナギ」も蛇の古語としている。

    富来隆氏は蛇神「トビ」の詳しい論証を行い、澤田洋太郎氏によれば、豊後その他の地域で言われる「トミ」や「ナガ」は蛇のことであるという。

    蛇と虹

    『大漢和辞典』には「虹。古へは竜の一種とし、雄を虹、雌をゲイという」とある。
    「ナギ」は蛇の古語であるが、沖縄では虹を「ナギ」と呼び、蛇と虹の関連を証する。

    雄略紀には栲幡(たくはた)皇女の話を載せる。
    皇女は冤罪をかけられ、神鏡を埋めて自殺した。
    天皇が闇夜に皇女を探していたところ「虹の見ゆること蛇(をろち)の如く」して、虹のかかった場所を掘ると鏡があり、少し行くと皇女の遺骸があったという。
    虹と蛇の同一視を物語るものである。
    吉野裕子氏は、虹を媒介にして鏡と蛇が関連し合っているという。



    落雷は古代人には神の怒りの表現として恐れられ、早くから雷は崇拝の対象とされていた。
    中国の上帝、ギリシアのゼウス、ローマのユピテル、いずれも天空の最高神として崇拝されているが、その神性を雷電をもって表わしていた。
    雷神は武器として石斧を利用しているが、この雷斧の信仰も世界各国に共通である。

    中国では土地神の誕生日が二月二日とされているが、この日は「龍擡頭(たいとう)」と呼ばれ、龍が昇天する日ともされている。
    土地によっては、この日に最初の雷鳴があると伝える土地もあり、神と龍と雷が関係する。

    日本では、雷は、雨、水、蛇と結びつけられて、荒ぶる神として恐れられる反面、神としてあがめられた。
    雷を方言でカンダチといっているが、これは「神の示現」という意味であり、落雷をアマルというのも「アモル(天降る)」の意味だとされている。
    これらはいずれも雷を神とする考えを示すもので、かつては神が紫電金線の光をもってこの世に下るものと考えられていたのである。

    記紀には火神・迦具土神(かぐつちのかみ)が切られたとき生まれた八雷神(やくさのいかづちのかみ)が登場する。
    また、出雲系の神には荒ぶる神の性格を持つ雷神が多い。

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  • 513. 匿名 2016/04/07(木) 10:07:08 

    雷と蛇

    雷は、『万葉集』巻三に「伊加土(いかづち)」という用語例があり、「イカ」は「厳」を意味する形容詞の語根で、「ツ」は助詞、「チ」はおろち大蛇・蛟(みづち)の「チ」である。
    蛇の精霊の表現であるという。
    雷が蛇の形をもって出現することは、『日本書紀』雄略天皇条の少子部(ちいさこべの)スガルが三諸岳(みもろのおか・三輪山)の神を捕らえよとの命により、大蛇を捕らえたという話によっても明らかである。
    捕らえられた大蛇は、雷音を轟かせ、まなこ眼を「赫赫(かかや)」かせた。


    小子部スガルは養蚕とも関係がある。
    大蛇の話の直前に、蚕(こ)を集めよとの命を受けたのに誤って子(こ=嬰児)を集めたため小子部連の姓を賜ったという話を記す。
    『姓氏録』には小子部雷(スガルの改名)が秦氏を召集し、その秦氏が養蚕を行ったこともみえる。


    桑に関する伝承では、六月一日は「衣(きぬ)脱ぎ朔日(ついたち)」といわれ、桑の木で蛇や人が脱皮するので、桑の木の下に行ってはならないという地方が多く、桑と蛇との関連がみられる。
    さらに桑は雷とも関係する。
    雷除けの呪言である「くわばらくわばら」の由来は一般的に、京都の桑原という所はむかし菅原道真の邸のあった所で一度も雷の災を受けなかったためであるとされる。
    しかし、雷が桑の木に落ちない由来を説いた昔話や、『捜神記』に桑樹のもとで雷をとらえた話が記されており、古く中国から伝わったものと考えられている。
    古代の雷神信仰と蛇と養蚕との深い関係を伺わせる。
    雷と龍蛇に関係すると言えば、賀茂伝説と『常陸国風土記』のクレフシ山伝説で、どちらも三輪山伝説型の伝承である。

    『釈日本紀』所引の『山城国風土記』逸文に、賀茂伝説が記されている。
    山城の賀茂建角身命(たけつのみのみこと)の娘の玉依毘売(たまよりひめ)が瀬見の小川(賀茂川の異称)のほとりに遊ぶとき丹塗矢(にぬりや)が川上より流れ下り、これを取って床の辺に挿し置くうちについにはらんで男子を産んだ。
    長ずるに及び七日七夜の宴を張り、建角身がこの子に「汝が父と思はむ人に此の酒を飲ましめよ」と言ったところ酒杯をささげて天に向かって祭りをなし、屋根を突き破って昇天した。
    これが上賀茂社に祭る賀茂別雷命(わけいかずちのみこと)であり、下鴨社には玉依毘売と建角身をまつる。
    社家の賀茂県主(あがたぬし)氏は玉依毘売の兄玉依日子の後裔だという。
    この伝説は賀茂神社の御阿礼(みあれ)神事と関連がある。
    賀茂川上流の貴船の神(闇オカミ=龍)を賀茂社裏の神山に招き降ろして若神の誕生を迎え豊穣を祈る祭りで、良く古態を保存して伝承していると言われる。

    +2

    -0

  • 514. 匿名 2016/04/07(木) 10:08:58 

    続き

    『常陸国風土記』のクレフシ山伝説では、ヌカヒコ・ヌカヒメという兄妹がおり、夜な夜な妹のもとに通う男がいた。
    男の正体がわからずに妹はみごもり、小さい蛇を産んだ。
    蛇は異常に成長し、とても養育できないので父の所に行くようにというヌカヒメに対し、子は泣きながら、自分を助けてくれる子供一人を付き添わせてくれるように頼んだ。
    母が拒否したので、子は別れる時に怒りに耐えられなくて伯父のヌカヒコを雷の力で殺し、天に昇ろうとした。
    ヌカヒメが驚いて投げた素焼きの盆が子に触れて、子は力を失って昇る事ができなくなり、峰に留まったという。


    他に雷と蛇に関する伝承としては『日本霊異記』の道場法師の話がある。
    農夫が田に水を引くときに童形の雷が落ちて来た。
    金杖で打とうとしたところ、雷は命を乞い、子を授けることを約束し、竹の葉を浮かべた楠の水槽(プール?)によって昇天した。
    農夫には頭に蛇を巻いた男子が生まれた。
    その子は十余歳で朝廷の力王と力を競べて勝ち、後に寺の田に水を引くのを妨げた諸王を懲らしめたという。
    雷が雨を伴うので雷神は古くから水神の属性をもっており、この話は水神としての雷と蛇の密接な関係を示している。
    『打聞集(うちぎきしゅう)』には、この時落ちた雷が桑をたよりとして昇天したとも記し、これも雷と養蚕との関係を伺わせるものである。
    また、道場法師が石を投げるときに三寸の深さに足跡がついたともいい、さらに『台記』には、石山寺に道場法師が爪で掻いて水を出した井や彼の足跡が残されていることを記す。
    巨人説話的なダイダラボッチの伝承の反映と考えられている。
    日本の各地の龍蛇――出雲

    八俣大蛇以外にも、出雲には龍蛇との関わりあいが多く見られる。


    出雲地方では十一月中旬ごろに季節風に乗って海岸に漂着するセグロウミヘビをホンダワラを敷いた三方に乗せ、龍神として神社に奉納する習わしがある。

    出雲大社の御神体は国造であっても見ることは許されない。
    無理に開けさせた松江城主松平直政によると、御神体は大きな「九穴のあわび」で、そのあわびがたちまち十尋の大蛇になった」という。

    また出雲大社の背後の八雲山は古くは蛇山と呼ばれていた。
    大国主神の子として国譲りの誓約を行った事代主神(ことしろぬしのかみ)は、『日本書紀』では、八尋(やひろ)の熊鰐(わに)となって三嶋ミゾクイ姫と結婚し、生まれた姫が神武天皇の后となったという。
    ワニに熊の字が用いられているが、これは三品彰英氏によれば、熊を水神であるする観念によるという。


    『古事記』に記す本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)の話も出雲と蛇の関係を示す。
    彼は垂仁天皇の皇子で、長じても唖であった。
    天皇の夢に出雲大神が現れ、本牟智和気が物が言えないのは出雲大神の祟りであるという。
    天皇は曙立王(あけたつのみこ)に「倭者師木登美豊朝倉曙立王(やまとしきのとみのとよあさくらのあけたつのみこ)」と名を与えて介添えとし、本牟智和気御子を出雲大神に参拝させた。
    その後彼は肥河の水上に滞在して、ようやく言葉の自在を得たという。
    ここで肥長姫(ひながひめ)と婚するが、姫が実は蛇体であることを知って、怖くなって逃げる。
    すると肥長姫は海原を照らして船で追ってきたので、本牟智和気は山の鞍部から船を引いて逃走した。

    曙立王に与えた名前に、蛇を意味する「トミ」が含まれ、肥長姫の「ナガ」も蛇のこととされる。
    さらに「海原を照ら」すことや、「山の鞍部から船を引いて」いるなど、興味深い話である。

    +4

    -0

  • 515. 匿名 2016/04/07(木) 10:10:04 

    続き
    また、後に述べるように三輪は蛇と密接な繋がりがあるが、この三輪と出雲も多くの点で結びつく。


    大国主は、三輪山の大物主と同一であるとされ、三輪伝説にみられるように大物主は蛇である。
    『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)』にも、大国主が己の和魂(にぎたま)として大物主を三輪山に居させたとある。


    少彦名が海の向こうに帰った後、途方にくれた大国主の前に現れたのが幸魂、奇魂である。
    この魂が自分を祀るべき場所として指定したのも三輪山であった。
    少彦名の乗り物の天之羅摩船(あめのかがみぶね)の「カガ」と大蛇の古語である「カガチ」との関連を指摘する研究者も多い。


    日本の各地の龍蛇――三輪

    『古事記』崇神天皇の条にによると、陶津耳命(すえつみみのみこと)の娘、活玉依毘売(いくたまよりひめ)には夜な夜な通う男があってついに身ごもる。
    父母が怪しんで男の正体をつきとめるために、糸巻きに巻いた糸を針に通して男の衣の裾に刺すように娘に教えた。
    翌朝見ると糸は戸のかぎ穴から抜け出ており、糸巻きには三巻きだけ残っていた。
    そこで糸をたよりに訪ねて行くと美和(みわ)山の神の社にたどりついた。
    かくて男は美和山の神であり、生まれた子はその神の子であることがわかった。
    そして残った三勾(みわ)の糸にちなんでその地を「ミワ」と名づけた。
    この子が神(みわ)氏(三輪氏)と鴨氏の祖である意富多多泥古(おおたたねこ)であり、三輪山の神・大物主神を斎(いつ)き祭ったという。
    この説話は『日本書紀』では箸墓伝説(倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと))として記され、男の正体は三輪山の蛇とされる。
    大物主を祭る神社が大神(おおみわ)神社で、ここでも蛇=大神の図式がみられる。


    大神神社の祭神である大物主の「モノ」は魔物をいい、「ヌシ」は頭領の意である。
    崇神天皇の代にこの神のたたりで疫病がはやり人民が飢え苦しんだので、その子孫の意富多多泥古に祭らせたところ、天下は安定したという。
    魔物の頭目として大和地方で最も土着性の強い国津神の一つである。
    大物主は意富美和之大神(おおみわのおおかみ)とも記されるが、名前に「富美(とみ)」が含まれているというのは考えすぎであろうか。


    また、『古事記』には大物主にまつわる丹塗矢(にぬりや)型の神婚説話がある。
    大物主は勢夜陀多良比売(せやたたらひめ)に思いをかけ、その用便中に丹塗矢と化して陰部(ほと)を突いた。
    生まれたのが富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ)で神武天皇の皇后となった。
    吉野裕子氏によれば、丹塗矢とは赤蛇のことである。

    +2

    -0

  • 516. 匿名 2016/04/07(木) 10:11:16 

    日本の各地の龍蛇――諏訪

    諏訪大社は、建御名方神(たけみなかたのかみ)とその妃神である八坂刀売(やさかとめ)をまつる。
    建御名方神は『日本書紀』や『出雲風土記』には登場しない神で、『古事記』によると大国主神の子とされる。
    天孫降臨に先立ち、大国主神に国土献上を問われたとき、大国主の子、事代主神(ことしろぬしのかみ)はすぐ承知したのに対し、建御名方神は反抗、追われて信濃国諏訪まで逃げたとある。


    建御名方神は、またの名を建御名方富命、南方刀美神といい、「トミ」が含まれていることに既に気が付いておいでだろう。
    八坂刀売神はその妃神で、「八坂」とは長くうねっている様で、蛇のことであるともいう。
    建御名方神が蛇であることは、甲賀三郎説話などや雨乞いの習俗などに伺うことができる。
    諏訪明神が姿をあらわす場合に巨大な蛇体という形をとることは中世の『諏方大明神画詞(すわだいみょうじんえことば)』にもみえている。
    また、神無月には日本中の神々が出雲大社に集まるという伝えがあるが、諏訪大社には、「神の本体が蛇なので出雲に行かない」という伝えがある。
    御神渡りにも蛇体御渡りという信仰が存在するという。


    『諏方大明神画詞』によると、昔、諏訪は洩矢神(もれやのかみ)が治めて平和だった。
    そこに建御名方が出雲族をひきつれて侵入し、洩矢神はそれを迎え討ったが敗れた。
    建御名方は諏訪氏に憑依し、大祝(おおはふり)は現人神となったという。
    先住民の神・洩矢神の裔である守矢氏は神長(じんちょう)官として大祝を助けて祭りを行う。
    守矢氏は土俗神「ミシャクチ」を降ろし、それを大祝に憑けて託宣が行われるのである。
    御室神事では十二月二十二日に縄文時代そのままの竪穴住居を掘り、藁で作った蛇神を翌年三月まで据えておく。
    大晦日の夜、大祝と神長はこの中でミシャクチの神を勧請して託宣を聞くという。
    諏訪ではミシャクチのご神体は石棒であるとされる。
    ミシャクチの祭祀場所は縄文中期から弥生の遺跡と一致し、そこには大樹があり石棒が祀られていることから、ミシャクチは樹を伝って下り、石棒につく精霊であると考えられている。
    吉野裕子氏は『祭りの原理』で「神木―蛇―男根―石棒」の図式を示し、『蛇』の中で、ミシャグチとは敬称である「ミ」と「シャク」(赤)と「チ」(蛇)であり、「赤蛇」のことであると解いた。
    神蛇が丹塗矢に化する伝承も多く、大物主や賀茂伝説には、神が人間の女性に通うときの姿として丹塗矢が登場することを指摘している。


    諏訪は土着の神ミシャグチも建御名方も共に蛇神と考えられる。

    +5

    -0

  • 517. 匿名 2016/04/07(木) 10:13:01 

    日本の各地の龍蛇――常陸

    『常陸国風土記』には、クレフシ山伝説以外にも蛇に関する伝承が多く記されている。


    『常陸国風土記』行方(なめかた)郡の段には、夜刀神という角のある蛇神が登場する。
    「ヤト」「ヤツ」は谷あいの低湿地のことで、継体天皇の時代に箭括麻多智(やはずのまたち)が西の谷の葦原の開墾を始めたが、夜刀神の群に妨害された。
    激怒した麻多智は神々を打ち殺し追い払った。
    柱を立てて境界を設定し、「な祟りそ、な恨みそ」と言い、自ら祝(はふり)となって夜刀神を祀った。
    征服者は土着の神々の祟りを恐れ、その神々を畏怖するがゆえに崇めもした。
    しかし、時代が下ると、神を無条件に怖れる時代ではなくなる。
    孝徳天皇の時代に、同じ谷に池堤を築こうとした壬生連麻呂(みぶのむらじまろ)は、妨害する夜刀神を恐れる人々に、憚り怖れることなく打ち殺せと言い、神蛇は椎井の池に身を隠した。
    「椎井」は「強(しい)」(強制)を暗示するものという。


    夜刀神同様に角のある蛇は、角折れ浜の伝承にも見える。
    古(いにしえ)に大蛇がいて、東の海に出ようと浜を掘って穴を作ったところ、蛇の角が折れてしまったという。
    茨城県では蛇の頭部を取っ手とする縄文中期の土器が発見されており、「角のある蛇」ではないかと思われるような突起が頭上にあるものもある。


    また、常陸と言えば、鹿島神宮について考えなければならない。
    鹿島神宮の祭神は建御雷(たけみかづち)である。
    この神は、イザナギが火神・迦具土神(かぐつちのかみ)を斬った際に剣に着いた血が岩群に走りつきて成ったとされる。
    建御雷は、天鳥船神とともに出雲に天降り、十掬剣(とつかのつるぎ)を波に逆さに突き立て、その剣の先にあぐらをかいて大国主神に国譲りをさせた。


    また神武東征にも登場する。
    熊野で難渋していた東征中の神武天皇に、高倉下を代理として建御雷の剣が降し与えられる。
    この剣をフツノミタマという。


    建御雷の名の「タケ」は猛だけしい、「ミカ」はいかめ厳しいの意味で、「ツ」は助詞、「チ」は雷(いかづち)、蛇(おろち)とされている。


    今まで蛇=先住民の神という図式を見てきたが、建御雷は天孫族となっており、一見矛盾するように思える。
    しかし、『古事記』には、国津神系のタケミカヅチをも載せる。
    三輪氏の子孫である意富多多泥古の系譜を、大物主―櫛御方―飯肩巣見―建甕槌―意富多多泥古と記しているのである。

    +4

    -0

  • 518. 匿名 2016/04/07(木) 10:13:52 

    続き
    もともとタケミカヅチは国津神であったと考えられている。
    常陸には、和邇氏の支族である春日氏や大氏が住んでおり、鹿島の大神として建甕槌を祀っていた。
    大氏は意富多多泥古の一族でもある。
    大和岩雄氏によると、藤原氏の台頭によって、小忌の中臣氏が大忌になりあがり、大忌である、春日氏や大氏の祀っていた鹿島や春日の神を自家の氏神として取り込み、天孫系の建御雷を新たに創作したという。
    『古事記』に意富多多泥古の系譜としてわずかに建甕槌が残るのは、『古事記』を選上した太安万侶が大氏であったためという。


    中臣氏の祖神は、天の岩戸や天孫降臨の記紀神話に登場し、春日神社などに祀られる天孫族の天児屋命(あめのこやねのみこと)である。
    にも関わらずなぜ国津神である建御雷までもを藤原氏が氏神として取り込み、しかも春日大社の祭神の筆頭に挙げたのかという疑問に関し、中臣氏の嫡流が途中で途絶えたことと、鎌足が常陸の出であったという『大鏡』の伝承が関係するのではないだろうか。
    「延喜本系」の『日本書紀』では、欽明朝の鎌子(後の鎌子とは別人)や敏達・用明朝の勝海らと、それ以後の黒田以下の系譜上の関係に触れない。
    勝美は仏教受容に反対し物部氏とともに蘇我氏らに討たれている。
    中臣の嫡流は勝海で絶え、常陸の鹿島から来た中臣(遠祖は大鹿嶋)が後を継いで、鎌足はその系譜だとの説があるのである。

    +3

    -0

  • 519. 匿名 2016/04/07(木) 10:48:03 

    日本のレイライン

    夏至の日のレインライン

    【 夏至の日に鹿島神宮より日の出が起こると見える場所 】
    東より

    ■鹿島神宮:日本の皇紀と同じ創建。格別の神宮。
    ■皇居:江戸城跡地。一番気の集まる場所として選ばれた地。
    ■明治神宮:明治天皇と皇后をお祀りする神社。龍脈が合流する強力なパワースポット。
    ■富士山:日本一の龍脈(大地のエネルギー)の発生地。世界屈指の霊山とされる。
    ■伊勢神宮:日本最大のパワースポット。神道の中心地。
    ■吉野山:修験道の本山。金峰山寺が存在し、吉野桜がご神木。古くから霊場とされる。
    ■剣山:徳島県の最高峰。失われたアークが隠されているともいわれる?!
    ■高千穂:日本神話にて、天孫降臨の地とされる。

    日本各地強力なパワースポットとされる場所が直線状に並ぶ?!
    単なる偶然でしょうか・・・

    浮かび上がる五芒星

    近畿地方の相互に関連する聖地を結ぶと現われる五芒星。五角形の一辺は約110kmでそれに内接する五芒星の一辺は約180km。

     五角形の上辺は、「御来光の道」の一部を成し、五芒星の中心では、富士山‐伊弉諾神社、出雲大社‐伊勢内宮を結んだそれぞれ約350kmのライン、そして熊野本宮‐明日香京‐平城京‐平安京ラインが交差するのです。

     いったい、誰がこんな「設計図」を引いたのでしょうか?

    +6

    -0

  • 520. 匿名 2016/04/07(木) 11:22:48 

    ペルーで発見された「パラカスの頭蓋骨」

    ■頭蓋骨発見の経緯

    1928年、ペルー南岸部ピスコ近郊の砂漠地帯、パラカス。考古学者フリオ・テーヨ(1880~1974年)は、
    この観光地にある巨大な墓地遺跡から、奇妙な頭蓋骨を数多く発見する。3000年ほど前の人間のものと
    思われたその頭蓋骨は、縦方向に長く引き伸ばされた形をしているのでした。

    その後、実に300以上も出土したこの奇妙な頭蓋骨の調査は、謎が謎を呼ぶ展開を見せ、考古学者たちを困惑させることとなります。そもそも考古学者にとって、変形した頭蓋骨自体はそれほど珍しいものではないのです。
    頭部を縛り上げたり木片で挟むなどして変形させる風習は、「頭蓋変形」として古代から世界各地に存在することが判明しています。むしろ謎は頭部の外形以外にあったのです。
    通常、幼少期より頭部を縛り上げられた人間の頭部は、それを受けない場合と同じ体積と重量のまま、形状のみに変化が表れます。しかしパラカスで発見された細長い頭蓋骨の体積は、通常の頭蓋骨より25%大きく、60%程度も重かったのです。そのため人為的に頭部が変形された可能性に疑問が生じてしまいます。
    さらに謎は頭蓋骨の構造にもありました。通常、左右に1対ずつあって結合しているはずの頭頂骨(頭頂から後頭部までを形成する骨)が、大きなひとつの骨となっていたのです。当時の考古学者たちはこれらの謎を解明することができず、結果として、パラカスの頭蓋骨はその後数十年にわたり放置されるという運命を辿るのです。

    +8

    -0

  • 521. 匿名 2016/04/07(木) 11:28:04 

    続き
    その謎に再び光を当てようと試みる男が現れました。パラカスの歴史博物館で働き、頭蓋骨の謎を研究する傍ら、書籍の執筆やツアー会社の経営にも取り組んできたブライアン・フォースター氏です。

    ■DNA解析の結果……!?

    フォースター氏は、パラカス歴史博物館のジュアン・ナヴァロ館長から、謎に満ちた頭蓋骨をDNA解析にかけるためにサンプルを採取する許可を得ます。彼が採取した5つのサンプルには、毛根が残った髪の毛や歯、そして皮膚の一部も含まれていたといいます。そしてそのうち3つのサンプルが遺伝学者に宛てて送られ、現代の技術をもって調査されることとなったのです。
    ちなみに、遺伝学者たちのあらゆる事前予想と先入観を排除するため、送ったサンプルに関する情報は一切明らかにしなかったそうです。

    その後、、1つのサンプルのDNA解析が完了し、フォースター氏によってその結果の一端が明かされ、大きな驚きを呼んでいます。
    彼によると、サンプルの解析で得られた遺伝情報が、現生人類のものと一致しなかったというのです。その差異は、現生人類との間で異種交配が起こった可能性すら考えられないほどに大きなものであったといいます。さらに「今までに出現したネアンデルタール人やデニソワ人、またそれ以外のあらゆる動物にも見られない未知の遺伝情報」であるため、パラカスの細長い頭蓋骨は、エイリアンか未知の生物のものであるかもしれないとしているのです。他にも、異常なほどの背の高さや赤茶色の髪の毛も、この地方の古代人の特徴とは異なっており、彼の推測を補強する材料となるというのです。

    +8

    -0

  • 522. 匿名 2016/04/07(木) 17:12:05 

    >>521
    やっぱり宇宙人はいるのか~(>_<)
    >>516
    蛇の神は竜骨のある赤い帆船に乗って移動したんじゃないかしら…赤蛇(アカカガシ)はキール(竜骨)を持つ蛇だから
    >>512
    北欧神話でアースガルズへは虹の橋を渡って行くとされるので、蛇の国なのかもしれないですね
    虹の橋の候補

    >>509の考察結果について
    Googleマップで確認したら、エクアドル太平洋沖1000km付近に“イサベラ島”があり、その近くに“サンタ・クルス島”“サンタ・マリア島”がありました。やはりゼウスとキリストは関係があり、一族は南米で育ったのだと思います
    ここは天地図でM2(メシエ2)というみずがめ座の球状星団があります…意味がありそうです

    +5

    -0

  • 523. 匿名 2016/04/07(木) 21:17:34 

    >>522
    調べがいがありますね。
    頑張って調べますね。

    +4

    -0

  • 524. 匿名 2016/04/07(木) 21:53:59 

    ここでもう一度オリエント文明をまとめてみますね。

    オリエントとはどういう意味でしょう?

    これは、ずっと後の時代に、古代ローマ人が、ラテン語で自分たちの住むイタリア半島から見て東方の地域を指した「日の昇るところ」という意味の言葉です。

    場所で言えば、エジプト、メソポタミア、地中海の東岸、アナトリア(現在のトルコ)、イランといった地域です。

    メソポタミア文明

    古代オリエントで最初に興った文明が、メソポタミア文明です。

    現在のイラクに当たる地域には、ティグリス川とユーフラテス川という2つの大河があり、非常に豊かな土壌が広がっていました。メソポタミアはギリシア語で「川の間の地域」という意味です。

    (緑色の地域がメソポタミア)

    ☆このメソポタミアからシリアやパレスチナなどの地中海東岸の地域を「肥沃な三角地帯」といいます。アメリカの考古学者ブレステッドが名づけました。

    土地が豊かだと、農作物がたくさん収穫できるので、人々が集まり定住していきますね。
    ここには文明がおこり、その後もさまざまな王国が支配をめぐって争います。

    シュメール人の登場

    メソポタミアで世界最古の文明を作ったのが、シュメール人です。

    シュメール人は、ティグリス・ユーフラテス川流域の豊かな土地で灌漑農業を始め、紀元前3500年ころから、多くの大村落ができました。

    大村落には神殿が作られ、神権政治が行われていて、銅や青銅器、文字が発明されます。シュメール人が作った文字を楔形文字といいます。

    (楔形文字)

    ☆神権政治とは、神官などが神の代理人として神の権威を利用して行った政治のことです。楔形文字は、粘土板に葦の茎や金属の先端で押し付けるようにして書かれた文字です。くさびの形をしており、神官や書記に用いられ、歴史書や法律がこの文字を使って書かれました。

    紀元前3000年ころになると、農業でたくさん野菜や果物が収穫できるようになったので、農業に従事しない神官、商人、職人、戦士など農民以外の職業がうまれてきました。

    こうして時代とともに大村落は都市国家(ウル)に変化し、ウル、ウルク、ラガシュといった都市国家が次々に作られます。

    この都市国家の間に、だんだん政治的なつながりが出来てきます。これをウル第一王朝といいます。

    ウル第一王朝の時代、各地の都市国家にはジッグラトという巨大な神殿が建てられ、城壁に囲まれた都市文化が繁栄していきます。

    (ジッグラト)

    +5

    -0

  • 525. 匿名 2016/04/07(木) 22:01:40 

    続き

    アッカド王国によるメソポタミア統一

    ウル第一王朝は次第に衰退していき、代わりにアッカド人という民族が作ったアッカド王国が勢力を増していきます。

    ☆アッカド人の民族系統はセム語族(セム系)です。民族系統はよく聞かれるのですが、古代オリエントではヒッタイト、リディア、アケメネス朝ペルシアがインド=ヨーロッパ語族(印欧語族)で、残りはセム語族です。覚えておきましょう!

    紀元前24世紀ころ、アッカド王国のサルゴン1世という王様が、メソポタミア初の統一を果たしました。

    このアッカド王国のメソポタミア統一も長くは続かず、その後シュメール人が再び作ったウル第3王朝(紀元前2113頃~紀元前2006頃)では世界最古のウルナンム法典が作られるなど文化的に発展しましたが、最後はエラム人によって滅亡します。

    バビロン第1王朝(古バビロニア王国)

    ウル第3王朝の滅亡後、セム系の遊牧民アムル(アモリ)人がメソポタミアの侵入して、ユーフラテス川中流域にバビロンという都市を作り、バビロン第1王朝(紀元前1894頃~1595頃)を建国します。

    ☆バビロンを都にした王朝は10ほどあるのですが、バビロン第1王朝を古バビロニア王国、バビロン第10王朝を新バビロニア王国といいます。

    紀元前18世紀になると、第6代のハンムラビ王が即位し、全メソポタミアを統一後、さまざまな功績を残します。

    ハンムラビ王は、運河の工事や灌漑設備を整えるなど、国内政策を進める一方で、ハンムラビ法典を作ります。

    (ハンムラビ法典:上部左がハンムラビ王、右が太陽神シャマシュ)

    ハンムラビ法典は、シュメール人の作った法律を継承して、新たに282条の成文法にしたものです。

    ☆ハンムラビ法典の特徴は、「目には目を、歯には歯を」という復讐法と、身分によって判決が異なる身分法でした。

    ヒッタイト・カッシート・ミタンニの活動

    繁栄を誇った古バビロニア王国でしたが、次第にインド=ヨーロッパ語族の侵入によって衰えていきます。

    インド=ヨーロッパ語族の代表例がヒッタイトです。

    ヒッタイトは、紀元前18世紀頃に、小アジア(アナトリア地方)にハットゥシャ(現在のボアズキョイ)を都にした王国を作ります。

    彼らは、馬と戦車、鉄製武器を初めて使用し、強力な軍事力をもって、紀元前16世紀に古バビロニア王国を滅亡させます。

    新王国時代のエジプトとカデシュの戦いなどをくり広げ、最盛期を迎えますが、その後紀元前12世紀に「海の民」によって衰退し、紀元前8世紀アッシリアによって滅ぼされます。

    ☆ヒッタイトの衰退後、彼らの持っていた製鉄技術が各地にひろまり、新しい技術として使われ始めます。

    ヒッタイト以外では、カッシート人がメソポタミアに侵入し、紀元前16世紀から紀元前12世紀にかけてカッシート王国としてメソポタミア南部を支配しました。カッシートは、同時代のエジプトやミタンニ、ヒッタイトと抗争し、最終的に紀元前12世紀にエラム人により滅ぼされます。

    ミタンニ人は紀元前17世紀から紀元前14世紀にかけてメソポタミア北部からシリアにかけてミタンニ王国を作ります。ミタンニはエジプトやヒッタイトと抗争し、紀元前14世紀にヒッタイトに敗れた後衰退し、最終的にアッシリアによって併合されます。

    +3

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  • 526. 匿名 2016/04/07(木) 22:11:27 

    メソポタミア文明とエジプト文明の比較

    古代オリエントの歴史を語る上で、メソポタミア文明と並び重要なのが、古代エジプト文明です。

    メソポタミアではティグリス・ユーフラテスという2つの川が重要な役割を果たしましたが、エジプトでもナイル川が文明発祥に大きな影響を与えました。

    この2つの文明はよく比較されるのですが、メソポタミアは地形的に様々な民族が抗争しながら土地を奪い合ったので、複雑な歴史と悲観的な文化が特徴です。一方、エジプトは地形的に外敵の侵入が難しかったので、同じ系統の民族の統治が長く続き、比較的単調な歴史と明るく楽観的な文化が特徴となりました。

    古代エジプト人と王朝の成立

    古代エジプト人はハム語系の民族で、ヴィクトリア湖を水源とするナイル川のほとりに住む人々でした。

    ナイル川は、水源地帯に季節的に豪雨が降り、7月から11月にかけて、定期的な氾濫を起こす川でした。氾濫が終わったあと、下流のエジプトの大地には川が運んできた肥沃な土が残されました。

    ☆この様子を、のちの古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは「エジプトはナイルのたまもの」と表現しました。

    そのため、エジプトの農地は非常に生産性が豊かな土地で、次第に人々が集まってノモスという集落ができてきます。
    ノモスは、ナイル川中流域の上エジプトに22、ナイル川下流域の下エジプトに20ほど成立します。

    ☆ ナイル川の水源は南部のエチオピアで、北の地中海に向かって流れています。なので、南を上エジプト、北を下エジプトと呼びます。

    やがて、ノモスの間に政治的なつながりができ、紀元前3000年ころ、上エジプトの王メネス(ナルメル)が下エジプトを征服して、統一国家をつくります。

    古代エジプトに君臨した王をファラオといいます。メソポタミアの王が神の代理人だったのに対し、古代エジプトの王は神の化身、つまり神そのものでした。

    古代エジプトは多神教の社会でしたが、ファラオは太陽神ラーの子として、強力な神権政治でエジプトを統治しました。

    (太陽神ラー)
    紀元前3000年のメネスの統一から、紀元前332年のアレクサンドロス大王の征服まで、エジプトには30の王朝ができますが、時代ごとに古王国・中王国・新王国にわかれます。

    各時代ごとに、ナイル川流域には様々な都市が栄えます。下の地図で場所を確認してみましょう。

    (ナイル川と重要な都市)

    古王国時代(紀元前27世紀~紀元前22世紀)

    第3王朝から第6王朝までの時代を古王国時代といいます。
    メネスが作ったとされるメンフィスに首都が置かれ、第4王朝の時代にはギザにピラミッドが作られます。
    最大のものは第4王朝のクフ王の大ピラミッドで、この時代を別名ピラミッド時代ともいいます。

    (左からカウラー王、カフラー王、クフ王のピラミッド)

    第6王朝のあと、次第にファラオの権力が衰え各地で独立がすすみ、エジプト統一は一度失われます。





    +3

    -0

  • 527. 匿名 2016/04/07(木) 22:16:50 

    続き

    中王国時代(紀元前21世紀~紀元前18世紀)

    紀元前21世紀になると、上エジプトのテーベという都を中心に新しく王家ができ、再びエジプト全土を統一し、中王国時代がはじまります。第11・第12王朝のことです。

    中王国時代には、官僚制が整備され中央集権化が進みましたが、紀元前17世紀に、セム語系の遊牧民族ヒクソスがエジプトに侵入し、中王国時代は終わります。

    ヒクソスは、第15・第16王朝をエジプトにたて、支配したので、この時代、ヒクソスのもっていた馬や戦車がエジプトに伝わりました。

    新王国時代(紀元前1567~紀元前1085)

    ヒクソスの支配も長くは続かず、エジプトの王朝は彼らを追放し、新しく新王国時代がはじまります。第18・第20王朝です。

    首都は中王国時代と同じくテーベに置かれました。

    第18王朝のハトシェプスト女王(在位紀元前1503頃~紀元前1482頃)は海外との交易をすすめ、その後のトトメス3世(在位紀元前1504頃~紀元前1450頃)はシリアやヌビア(現在のスーダン)へ積極的な征服活動を行いました。

    トトメス3世ののち、アメンホテプ4世(在位紀元前1379頃~1362頃)というファラオが即位すると、王はさまざまな改革を行いました。

    改革のきっかけは、宗教の問題でした。
    この時代、首都テーベの守護神アモン(アメン)を信仰する神官たちが、神の化身であるファラオの権力を抑えるほどの勢力になっていました。

    この状況をよく思っていなかったアメンホテプ4世は、政治介入をする神官たちの神を否定するため、首都をテーベからテル=エル=アマルナに遷都し、新しく唯一神アトンを信仰するように迫りました。

    (アトンを信仰するアメンホテプ4世と家族)

    アメンホテプ4世自身もイクナートン(「アトンに愛されるもの」)に改名し、都では自由で写実的なアマルナ美術が栄えました。

    (アマルナ美術の代表作:王妃ネフェルティティの胸像)

    アメンホテプ4世の死後、次のツタンカーメンの時代になると、改革は衰退しアモン神信仰が復活、メンフィスに一時的に遷都したあと再びテーベが首都になります。

    第19王朝のラムセス2世(在位紀元前1304頃~紀元前1237頃)はシリアの領有をめぐってヒッタイトと戦い、カデシュの戦いに勝利します。

    ☆カデシュの戦いは世界最古の国際条約が結ばれた戦いでもあります。

    このように、新王国はさまざまな面で発展していきますが、第21王朝は衰退王朝といわれ、以後はアッシリアやアケメネス朝ペルシアなどの外敵により衰退し、最終的に紀元前332年アレクサンドロス大王の征服によって古代エジプトは滅亡します。


    +4

    -0

  • 528. 匿名 2016/04/07(木) 22:23:43 

    地中海東岸とは

    地中海の東側の奥まったところを地中海東岸といいます。

    現在のイスラエルやレバノンがこの地域にあたりますが、古代オリエントでもシリア・パレスチナ地域として歴史上大きな役割を果たした土地でした。

    この地域は、砂漠や海に囲まれているので狭く、一方でメソポタミア、エジプト、アナトリア半島など、古代オリエントの各地域ををつなぐ交通の要所でした。このような地理的条件によって、この地域では、さまざまな文明や文化が混ざり合い、新しい文化がうまれます。

    紀元前3000年ころから、セム語系の人々がこの地で生活していましたが、紀元前1200年頃まで、新王国時代のエジプトと、小アジアのヒッタイトが、この地域の支配をめぐって争っていました。

    しかし、紀元前12世紀以降、突如現れた海の民という正体不明の諸部族がこの一帯に侵入し、ヒッタイトは滅亡、エジプトも弱体化します。

    こうして地中海東岸は空白地帯となり、新たにアラム人、フェニキア人、ヘブライ人というセム語系の三民族がこの地で活動するようになりました。


    アラム人

    アラム人は、もともとシリアやメソポタミアの遊牧民でしたが、紀元前10世紀ころに、ダマスクスという町を作り、ここを中心に内陸中継交易で栄えました。

    商業活動を盛んに行ったアラム人達は、さまざまな場所で利益をあげます。また、彼らの用いたアラム語は、オリエント世界の国際共通語になります。今の英語のような言語だったんですね。

    ☆同じようにアラム文字は各地に伝わり、ヘブライ文字、アラビア文字、ソグト文字、突厥文字、ウイグル文字、モンゴル文字、満州文字の母体になりました。

    アラム人は、オリエント世界に様々な影響を与えましたが、最終的に紀元前8世紀にアッシリアに征服されてしまいました。


    フェニキア人

    セム語系のカナーン人の一派から派生した民族で、陸上交易のアラム人に対し、地中海の海上交易で栄えた人々です。
    彼らは、現在のレバノンの海岸地帯に、多くの港湾都市を作りました。
    代表的な都市が、べトリス(現在のレバノンの首都ベイルート)、シドン、ティルスなどです。

    ☆この中でもティルスは、紀元前814年頃、北アフリカにカルタゴという植民市を建設します。カルタゴはその後、地中海の覇権をめぐって、ローマとポエニ戦争を起こします。

    フェニキア人も商業活動をつうじて様々な文化と交流し、新しい文字を作りました。

    エジプトの象形文字から発達したシナイ文字を更に簡略化して、フェニキア文字という表音文字を作り、これをギリシア人に伝えました。これがのちにアルファベットになっていきます。
    (フェニキア文字)

    ☆表音文字というのは、象形文字のように意味を表すのではなく、発音だけを表す文字のことです。フェニキア文字はその後ギリシア文字、ラテン文字(ローマ字)へと発展していきます。

    +3

    -0

  • 529. 匿名 2016/04/07(木) 22:28:26 

    続き

    ヘブライ人

    ヘブライ人は、セム語系の民族で、もともとメソポタミアの遊牧民でした。

    紀元前1500年ころに、地中海東岸のカナーン人を服属させパレスチナに定住し、その後一部が新王国時代のエジプトに移住します。

    ☆ヘブライ人は外国人からの呼び名で、彼らは自分たちのことをイスラエル人と呼びました。また、のちのバビロン捕囚後にはユダヤ人と呼ばれるようになります。

    紀元前13世紀ころになると、新王国時代のエジプトに移住したヘブライ人は圧政に苦しむようになります。
    そんな中、ヘブライ人の預言者モーセが現れ、彼らをパレスチナに導いた「出エジプト」が行われます。
    モーセは旅の途中、シナイ山で唯一神ヤハウェから十戒を授かり、これがヘブライ人の守るべき掟になります。

    (預言者モーセ)
    パレスチナに着いたヘブライ人は、サウル王を中心に紀元前1000年ころにヘブライ王国を建国します。

    ヘブライ王国は第二代ダヴィデ王(在位紀元前1000年頃~紀元前960年頃)の時代に首都イェルサレムが建設され、繁栄します。

    次の第三代ソロモン王(在位紀元前960年頃~紀元前922頃)は交易を活発にし、ヤハウェを祀るソロモン神殿を建てました。

    ダビデ・ソロモン両王によりヘブライ王国は発展しますが、神殿や宮殿の建設や、軍隊を維持するために重税が課せられるようになり、国民は疲弊していきました。

    そしてソロモン王の死後、ヘブライ王国は北のイスラエル王国、南のユダ王国に分裂してしまいます。

    (青がイスラエル王国、黄色がユダ王国)

    この両国は次第に争うようになり、最終的にイスラエル王国は紀元前722年アッシリアのサルゴン2世に、ユダ王国は紀元前586年新バビロニア(カルデア)のネブカドネザル2世によって滅ぼされてしまいます。

    ネブカドネザル2世は、ユダ王国のヘブライ人を、首都バビロニアに強制移住させました。

    これをバビロン捕囚といいます。

    (バビロン捕囚)

    ☆バビロン捕囚により、ユダヤ人(ヘブライ人)は故郷パレスチナへの帰還を待ち望むようになります。これを開放したのが、のちのアケメネス朝ペルシアのキュロス2世です。バビロンへの強制移住により、メソポタミアの伝説や神話がのちのユダヤ教に影響をあたえることとなりました。

    バビロン捕囚は紀元前586年から紀元前538年まで続きました。
    その後開放されたユダヤ人は故郷に帰ったあと、イェルサレムに神殿を再建し、ユダヤ教が成立します。

    ユダヤ教の特色は、ヤハウェのみを信じる一神教、神の形を表現する偶像崇拝の禁止、ヤハウェとの契約を守るユダヤ人のみが救われるとする選民思想、救世主(メシア)が現れ、ユダヤ人の苦難を救うというメシア信仰などです。

    ユダヤ教は、のちに信仰や日常生活の規則である律法を極端に重んじるようになりました。

    こうして、ユダヤ人の中からイエスが現れ、形式化した戒律主義を重んじるユダヤ教に変わり、キリスト教を創始します。

    ユダヤ人の苦難の歴史をまとめたユダヤ教の教典は『旧約聖書』、イエスの教えや弟子の活動をまとめものが『新約聖書』としてキリスト教の教典になっていきます。

    ☆旧約とは「神との古い契約」、新約は「神との新しい契約」のことです。

    +3

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  • 530. 匿名 2016/04/07(木) 22:36:33 

    アッシリアによるオリエント統一

    オリエントの統一は、セム語系のアッシリアという帝国によって達成されます。

    アッシリアは、紀元前2千年紀にメソポタミアに建国された国です。

    守護神・首都の名であるアッシュールから、国名が付けられました。

    アッシリアは、紀元前15世紀に、ミタンニ王国に一時的に服属しますが、その後独立を回復して、各地を征服し、紀元前670年エジプトを破り、オリエントを初めて統一します。

    アッシリアの最盛期は、アッシュール=バニパル(在位紀元前668~紀元前627)の時代で、新たに首都になったニネヴェに、大図書館が建設されました。

    (緑:アッシリアの最大版図)

    アッシリアは世界帝国として繁栄しますが、征服地に対して過酷な支配を行ったことから各地の反乱が相次ぎ、紀元前612年、新バビロニア(カルデア)とメディアによって滅ぼされます。


    四王国分立

    アッシリアの滅亡とともにオリエントは再び分裂し、リディア、新バビロニア(カルデア)、メディア、エジプトの4つの王国が現れます。

    国名                    特徴
    リディア       小アジアに建国。世界初の鋳造貨幣を使用した。アケメネス朝キュロス2世によって           滅亡。都:サルデス
    新バビロニア(カルデア)  アラム人の一派セム系カルデア人が建国。アケメネス朝キュロス2世によっ              て滅亡。都:バビロン
    メディア      印欧系イラン人が建国。アケメネス朝キュロス2世によって滅亡。都:エクバタナ
    エジプト      第26王朝以降アッシリアから独立。アケメネス朝カンビュセス2世によって滅亡。

    (四王国分立)

    +4

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  • 531. 匿名 2016/04/07(木) 22:41:38 

    続き

    アケメネス朝ペルシアによる全オリエント統一

    四王国分立の時代を終わらせたのが、アケメネス朝ペルシアです。

    ☆ペルシアとは、イランの古い呼び名のことです。

    ペルシア人たちは長い間メディアの支配下にありましたが、紀元前550年にアケメネス家のキュロス2世(在位紀元前559~紀元前530)によってメディアが倒され、アケメネス朝ペルシアが建国されます。

    キュロス2世はその後も征服活動を行い、紀元前546年リディアを、紀元前538年新バビロニアを滅ぼし、領土におさめます。

    次のカンビュセス2世(在位紀元前530~紀元前522)は、残るエジプトを征服し、全オリエント統一を果たしました。


    ダレイオス1世の治世

    アケメネス朝第3代のダレイオス1世(在位紀元前522~紀元前486)の治世には、東はインダス川から、西はエーゲ海北岸に至る広大な帝国が成立します。

    ☆アケメネスの支配地域はインダス川までです。ガンジス川ではないので注意しましょう。

    ダレイオス1世は広大な領土を支配するために、各地域を20ほどの州にわけ、各州にサトラップという知事を置きました。

    また、王直属の王の目・王の耳という監察官が派遣され、各地のサトラップの不正や反乱がないか監督していました。

    支配地域の交通にも力を入れ、アケメネス朝の首都スサから、かつてのリディアの都サルデスまで王の道という軍道を建設し、駅伝制を整備しました。

    (アケメネス朝の最大版図 ピンク:王の道)

    ダレイオス1世の治世では新都ペルセポリスの建設や、帝国内のさまざまな制度が確立し、アッシリアに比べ各地域に寛容な支配体制がとられたため、アケメネス朝は以後繁栄します。

    +1

    -0

  • 532. 匿名 2016/04/07(木) 22:45:12 

    続き

    アケメネス朝の滅亡

    ダレイオス1世の時代に、ギリシアを侵略するためのペルシア戦争がはじめられますが、次のクセルクセス1世(在位紀元前486~紀元前465)時代にギリシアに敗北すると、次第にアケメネス朝も衰退していきます。

    ギリシア戦争敗北後もアケメネス朝は帝国を維持しますが、紀元前4世紀になると各地のサトラップが反乱をおこすようになり、マケドニアのアレクサンドロス大王とのイッソスの戦い(紀元前333)・アルベロ(ガウガメラ)の戦い(紀元前331)でダレイオス3世(在位紀元前380~紀元前330)が破れると、アケメネス朝は滅亡しました。

    (イッソスの戦い 左:アレクサンドロス 右:ダレイオス3世)

    アケメネス朝の文化

    アケメネス朝の文化の代表例がゾロアスター教です。

    ゾロアスターという教祖が紀元前7世紀に始めた宗教で、善の神アフラ=マズダと悪の神アーリマンの対立から善悪二元論を教義とします。

    ゾロアスター教は火を崇めたので拝火教とも言われ、北魏時代の中国に伝わり祆教(けんきょう)と呼ばれました。

    ☆ゾロアスター教の教義の一つである最後の審判は、ユダヤ教やキリスト教に影響を与えました。

    また、ダレイオス1世が自らの即位の経緯とその正当性を主張する文章を刻んだベヒストゥーン碑文がつくられました。

    (ベヒストゥーン碑文)

    これをもとに後世のドイツ人学者グローテフェントが研究のきっかけを作り、その後イギリス人学者ローリンソンが楔形文字を解読します。

    アケメネス朝の滅亡とともに、古代オリエントは終わり、アレクサンドロス大王の東方遠征をきっかけにヘレニズムという新しい時代がはじまります。

    +3

    -0

  • 533. 匿名 2016/04/08(金) 04:21:19 

    >>523
    よろしくお願いしますm(_ _)m

    >>524
    エラム人がけっこう出現しますね。よくは知らなかったのですが、上のコメで出ていた「ハルタミ」人や都市「スサ」などがエラム人に関係するのですね。エラム人自身は自らをハタミ、又はハルタミ(Hatami、Haltami)と呼び、土地を指す際にはハルタムティ(Haltamti、後に訛ってアタムティAtamti)と呼んだ。シュメール語のエラムはこれの転訛したものである。
    ↑エラム人は秦氏(=スサノオ一族になる)かもしれません。名前や紋章は家紋と同じで子孫に受け継がれるから(隠される事はあるけど)
    よくよく考えたら、出雲の昔の神社(神殿)はジッグラトに似ているし Σ(・∀・;)
    少し強引ですが、”エラム”=”エル・ア・ムー” なのかも?ムー(アースガルズ・環太平洋連合国)に関係ありそうだ…妄想ですけど

    >>527
    ちょうどアトン(アテン)神について気になっていました(^^)
    アテン神は夕日の神であり、他の動物・人間的形態であるエジプトの神々とは異なり、先端が手の形状を取る太陽光線(光線の一つに生命の象徴アンクを握った)を何本も放ち、太陽円盤の形で表現された。これは環太平洋連合国の形を現しているような…>>478で登場したアポロンが亀で作った「甲羅に穴を開け、羊の腸を通した手琴」と似ているような…糸電話でも作ったのでしょうか(--;)太陽円盤は『鏡』だったりして…卑弥呼を連想します
    王妃ネフェルティティは環太平洋連合国の出身だったのかもしれません
    アテン神は夕日の神であるから、当然神殿は西の方角に作ります。出雲やイズミル(トルコ)は名前が似ていることからアテン信仰の神殿があった場所だと考えられますよね(適当に言っています…真実を知るためなら間違いを恐れません!)


    これまで環太平洋連合国(ムーかも)を考察してきましたが、その南にはゼウス一族がいて、日本あたりは閻魔(ヤム・ヤマ)がいた…となると北アメリカあたりは何があったのだろう?

    この絵が鍵になりそうですが(^^;
    実は環太平洋連合国は「島流し」的な場所だったのではないかと。環太平洋連合国は『口』と呼ばれる場所で、ウラノスやクロノスが自分を脅かす存在を島流しにした地なのだと思います

    >>528
    フェニキア文字の”H”を二つ並べると”羽”になるという…面白いですね~

    次はウラノスの子供について考えてみたいと思います

    +4

    -0

  • 534. 匿名 2016/04/08(金) 16:30:44 

    卑弥呼は日御子

    +6

    -0

  • 535. 匿名 2016/04/08(金) 16:44:04 

    ウーラノスの子供たちの前に、原初とされる神々から調べて、怪しければ考察します

    カオス(何もない「場」すなわち空隙・裂け目のこと)…ここから原初の神が生じた
    裂け目=空間の歪みなら宇宙人
    裂け目=地中(シェルター)入口なら氷河期の生き残り

    【カオスから現れた原初神(象徴とする物)】
    ガイア又はテラ(地上)女神
    タルタロス(地下)女神ガイアとの間に息子テューポーン、娘エキドナをもうけた

    タルタロスは場所(奈落)を意味し、ポセイドーンが青銅の門を作り、その周りは青銅の壁で覆われているため、何者も逃げおおすことはできない。はじめ、ウーラノスやクロノスがヘカトンケイル族やキュクロープス族を幽閉するのに使い、怪物カムペー(下半身は蛇の鱗、漆黒の翼、頭部に蠍のような姿)に番人をさせていた。後にゼウス達が彼らを解放しティーターン族を打ち倒すと、ティーターン族が幽閉される番となり、ヘカトンケイル族がその牢番となった。他にもテューポーンがここに投じられたとも言われている。

    怪物カムペーの描写が天地図ではオーストラリア~ニュージーランド~ラパ島にあたります
    ラパ島はイースター島の研究でも有名な考古学者、トール・ヘイエルダールが発見した古代遺跡や城塞があるそうです。ラパ島に住んでいた人々は、かつて島を城塞化し、島が1つのミニ国家のような形態を持っていたことがわかります。中でも保存状態が最も良いのがモロンゴ・ウタ遺跡(画像が見つからないのが残念)です
    そしてオーストラリアのマックレイ博物館に保管されている謎の頭骨。人を襲う伝説の食人鬼「バンニップ」から命名。発見されたのは頭骨のみで、当初は人の手による捏造品ではないかとされていたが、骨の構造、アゴの関節部分などに不具合な点が無く、本物である事が証明されたようです。この怪物の頭骨には目にあたる部分が一つしかない…キュクロープス族の特徴と一致します

    タルタロスはこのあたりなのでしょうか?あるいは南極大陸の遺跡がタルタロスなのでしょうか?疑問が残ります

    +4

    -0

  • 536. 匿名 2016/04/08(金) 16:48:54 

    >>533

    次はウラノスの子供について考えてみたいと思います

    ウーラノスとガイアの間に生まれた12柱の神々の兄弟姉妹を指す(ティーターン十二神)ですね。

    オーケアノス
    コイオス
    クレイオス
    ヒュペリーオーン
    イーアペトス
    クロノス
    テイアー
    レアー
    テミス
    ムネーモシュネー
    ポイベー
    テーテュース

    この中でも重要なのはゼウスの父クロノスですね。

    クロノス(古希: Κρόνος, Kronos)は、ギリシア神話の大地および農耕の神である。山よりも巨大な巨神族ティーターンの長であり、ウーラノスの次に全宇宙を統べた二番目の神々の王でもある。万物を切り裂くアダマスの鎌を武器とする。ゼウスの父親としてもよく知られており、ティーターン神族を率いてオリュンポスの神々と全宇宙を揺るがす大戦争を行った。

    とあります。

    このクロノスの持つアダマスの鎌ですが・・・

    農耕神クロノスの武器。この世で最も硬い金属とされるアダマス製で、凄まじい切れ味を誇るそうです。
    大地の女神ガイアが夫ウラノスを去勢するために作り、クロノスに与えたもので、彼の失脚後はゼウスが所有しています。
    後世クロノスが時の神と見なされるようになったことから、絵画などにおいてはすべてを刈り取る「時の翁
    の鎌」として描かれるそうですね。

    +3

    -0

  • 537. 匿名 2016/04/08(金) 16:58:16 

    >>535のラパ島の住人について
    世界で最も幸せな人々とされる
    周囲から孤立していることが島の個性を高めています。島民は自給自足で暮らし、お互いに助け合い、共有しあって生きていくという文化が確立しています。同じ宗教(プロテスタント)、同じ土地(財産は共有)、同じ仕事(農業、漁業、狩猟)など、ほぼすべてを共有する98の家族によって、極めて緊密な地域社会が築かれています。この地域社会は、トヒツ(12人の長老によって構成された最高議会)によって統率されています。トヒツが土地の配分を決め、町の行政を指揮します。
    ↑ トヒツ…環太平洋連合国の「と」の国なのでしょうか? 12人の長老という所もキリスト教らしく、厳粛に掟を守っている感じがします

    +4

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  • 538. 匿名 2016/04/08(金) 17:54:50 

    ↓古代出雲の神殿

    ↓「ジッグラド」

    似ている…

    +5

    -0

  • 539. 匿名 2016/04/08(金) 17:59:54 

    >>538
    非常に似てますね。

    気になります。

    +4

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  • 540. 匿名 2016/04/08(金) 21:33:25 

    >>534
    蛇信仰の時は日御子で、ゼウスに倒されて卑弥呼になったのでしょうか…卑しいという字が忌み嫌われた事を物語っていますよね
    >>539
    同じ宗教で間違いないでしょう( ・_・;)

    +4

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  • 541. 匿名 2016/04/08(金) 22:29:49 

    半島と列島をつないだ海人族とは何者だったのか?

    『魏志』東夷伝によると辰韓の鉄を「韓・わい・倭は、みなほしいままにこれを取る。もろもろの市買はみな鉄を用う。中国で銭を用いるがごとし」とある。この鉄を半島から日本へ伝えたのは玄界灘の海運輸送で力をつけた、安曇族や宗像族などの海人族勢力です。

    彼ら、海人族とはどのような出自と性格を持つか。以下、谷川健一氏の「蘇る海上の道・日本と琉球」からの要約です。

      ******************************

    日本を代表する海人族はいずれもが半島の対岸にあたる北九州にその拠点を持っていた。

    福岡の志賀島には阿曇海人族の祖先、阿曇磯良が奉られ、また対馬は阿曇磯良の裔とされる長岡家がわたづみ神社を奉っている。また志賀島の勝馬から細型銅剣の鋳型が発見されており、対馬を中継点とした安曇族が、半島からの鉄の輸入に関して重要な役割を担ったことが伺われる。また宗像一族を祀る神社は福岡県宗像市の辺津宮、大島の中津宮、沖の島の沖津宮にあり、このルートはそのまま朝鮮との往来ルートである。

    甲元真之の説によると半島南部と北九州をつなぐルートは3つあった。

    縄文末期には、朝鮮西南部の多海島を半島側の中心拠点として、済州島、五島列島と経由して西北九州とつながるルートができた。このルートを通じて、支石墓や初期畑作技術が伝えられた。

    弥生時代には、対馬・壱岐を経て九州に至るルートができた。このルートを通じて、水稲農耕技術や金属器が伝えられた。

    そして弥生時代後期には、対馬の東海岸から沖の島の近くを通り福岡東部または山口県西部に達するルートが開拓された。

    沖の島を通る第三のルートはけっして安全なコースではないのだが、畿内勢力が九州勢力との摩擦をさけるためにつくられたルートであり、高度な航海技術を必要としたと考えられる。この海運を請け負ったのが宗像海人ではないか、と甲元真之は考察している。
    彼らは琉球―九州―半島をまたぐ流通ネットワーク「海上の道」を構築していたと考えられるが、その起源は縄文前期にまで遡れるのではないか。沖縄で出土した曾畑式土器が韓国釜山の東三洞貝塚からも出土しており、類似の土器が五島列島からも出土しているからだ。このネットワークは黒潮の流れに沿っており、他にも鉄鏃、貝の宝具等も出土し「海上の道」は確かだ。また文化的な同一性から、この黒潮ネットワークには韓国の済州島も入っていると思われる。

    彼らは半島とのつながりがつよいとはいえ、文化的起源は江南に求められると考えられる。「宗像」とは胸に刺青があることからつけられた名前だとされ、阿曇族も刺青をしていたことが日本書紀の記述から伺われるが、刺青文化は原倭人、江南人の風俗である。

    対馬はこのネットワークの中でも重要拠点で、のちに青銅器文化圏の中心ともいえる働きを見せる。(現在、出土した広型青銅矛400本のうち200本が対馬から出土)また前方後円墳、円墳もある。対馬は水田に適せず、海運のみに頼って発展していったであろうことは、倭人伝からも伺える。

    これに対して、同じ「海上の道」に属する九州西海岸地域の海人族でも五島列島及び薩摩半島の海人族(阿多隼人)は、異なった発展をみせる。漁労文化色が強く、青銅器文化、古墳文化につながっていかなかった。(これは畿内における淡路島にも同様の傾向がみられる)彼らの酋長は名前に「ミミ」がつくが、これは貝でつくられた大きな耳飾をしていたことによると考えられる。神武天皇の系譜には「ミミ」の名がつく人が多く、アマテラスの子にも「天大耳」という子がいる。またこれらの人々は江南起源と思われる「犬祖先伝説」を持っており、後に宮中に仕えた隼人は儀式に際して犬に似た奇声を発する役割をしたといわれる。

      ******************************

    半島と列島をつなぐ3つのルートは、①五島ルート:朝鮮半島、日本列島そして沖縄諸島のそれぞれに漂着した江南(越)人による縄文避難民たちがつくりだした貝文化(支石墓)ネットワーク(隼人族)②対馬・壱岐ルート:半島からの弥生避難民たちによる稲作(銅矛)文化ネットワーク(安曇族)③対馬・沖ノ島沖ルート:畿内へ進出し古墳時代を開いた古墳文化ネットワーク(宗像族)に対応しているといえそうだ。

    そして、③の勢力は①②の勢力をも従えて、最終的には国家統一を進めていったのであろう。宮中に仕える隼人族の事例からも、そのことは間違いない。神武神話は彼らを服属さ

    +3

    -0

  • 542. 匿名 2016/04/09(土) 12:14:07 

    タヒチが「た」の国に思えてきた…このあたりの島はイニシャル”T”が多いですね。
    思うに”T(TAU・牛)”のつく国はゼウスに関係ありそうな…”T”は”t”でもあり、十字架です。ホピ族のココペリがキリギリスの姿をしているのは、キリギリス=キリストを意味するんじゃないかと

    >>541
    刺青は重要ですね…世界の刺青事情がわかれば、もう少しわかるかもしれません

    和多都美(わたづみ)神社については、
    神代の昔、海神である豊玉彦尊が宮殿を造り、この和多都美神社が鎮まる地を「夫姫(おとひめ)」と名付けたという。彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)と豊玉姫命(とよたまひめのみこと)の夫婦神が祀られている

    おとひめ 浦島太郎伝説

    豊玉彦尊には一男二女の神があり、
    男神 穂高見尊
    女神 豊玉姫命
    女神 玉依姫命
    大潮の時期、満潮をむかえた境内では社殿の近くまで海水が到達することもある。その光景は龍宮を連想させ、豊玉姫命と彦火火出見尊の出会いに由来する「玉の井」や、満珠瀬・干珠瀬、磯良恵比須の御神体石などもある。

    「玉の井」…「神話において、山幸彦(彦火火出見尊)と豊玉姫が出会った場所」とされるが、温泉と縁がある名だと思います
    もしや豊玉姫は行水中だったのでしょうか?
    ギリシア神話のアクタイオーンを連想します(父:太陽神アポローンの子アリスタイオス、母:テーバイの王カドモスの子アウトノエー)
    アクタイオンはケンタウロスのケイローン(天地図ラパ・ヌイ島近辺)に育てられて狩猟の術を授けられた。50頭の猟犬を連れてキタイローン山にて狩猟中、女神ディアナ(アルテミス)とディアナに仕えるニンフたちの水浴を誤って目撃。報いとしてかの女神によって鹿へと姿を変えられ、連れてきていた自分の猟犬に食い殺される…鹿は神の使いとされるところが気になります…また江南起源の「犬祖先伝説」を持つ人々”隼人”はアクタイオンの猟犬と関係があるのでしょうか。ホピ族の伝承で犬は裏切り者とされていますよね。
    また、穂高見命を祭る穂高神社(長野県安曇野市穂高…安曇氏は北上したのかな?)では枝社として「鹿島社」や「保食社」なども祭っています。アルテミスは月の女神であり、月読命(ツクヨミ)とリンクしています。アポロンとアルテミスは双子だから、アマテラスはアポロン(男)になります

    ↑系図を見てすっきりした…豊玉姫が神武天皇につながるのね…自分の無知に呆れます

    「玉のような子が生まれる」といいますが、この玉は丸い宝石や真珠を意味します。ハワイ・オアフ島のパールハーバーは古くは、ハワイ語でWai Momi(ワイ・モミ、真珠の水域)と呼んだとされますが…関係ありそうな気がします

    余談ですが
    ラパ・ヌイ島とはモアイで有名なイースター島
    およそ1500年前ホトゥ•マトゥア(”ほ”と”ま”と”あ”?)という酋長が自分の人々を連れて、ポリネシアの隅にある孤島、ラパ•ヌイ島に移り住みました。彼らは自分たちの土地をテ•ピト•オテ•ヘヌア(”て”人…?)と呼びました。これは「世界の中心」という意味があるのと同時に、「大地の果て」という意味もあります。これは遠く孤立したラパ•ヌイの位置を示す言葉でもあります。ちょうど100年ほど前その島に訪れたタヒチ人がその島の形をみたときに、それが彼の故郷の島、ラパ•イティ(小さいラパ)に似ていたため、彼はそこをラパ•ヌイ(大きいラパ)と名付け、後にこの名前がポリネシアで広く知れ渡るようになったのです。

    +2

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  • 543. 匿名 2016/04/09(土) 14:56:15 

    タヒチ 癒されます(-∀-)


    頭をクールダウンしてみる…

    +4

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  • 544. 匿名 2016/04/09(土) 16:04:55 

    >>543
    大丈夫ですか??

    悩み過ぎるとダメですよ笑

    +4

    -0

  • 545. 匿名 2016/04/09(土) 17:06:01 

    >>544
    やはり神話は奥が深いので、大変です
    恐らく血縁関係の混乱や隠ぺいがあるので、解釈や説明に苦労します(>.<)

    +4

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  • 546. 匿名 2016/04/09(土) 17:18:51 

    >>545
    歴史は勝者が書いてますからね・・・

    真実を調べるのは難しいですよね

    +5

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  • 547. 匿名 2016/04/09(土) 17:24:46 

    『パナマ文書』気になりませんか?
    汚職だとか、そこは気にならないのですが…「2200億円の楽器購入」が気になります
    「ガブリエルのホルン」だったりして(・д・)

    +7

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  • 548. 匿名 2016/04/09(土) 17:40:55 

    >>547
    かなり危ない事が書かれてそうですね

    死者が出ないか心配になりますね(>_<)

    +5

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  • 549. 匿名 2016/04/09(土) 18:14:57 

    パナマの国章です

    ↓翼のついた車輪を調べてみると…
    旧約聖書
    ケルビムの姿は「その中には四つの生き物の姿があった。それは人間のようなもので、それぞれ四つの顔を持ち、四つの翼をおびていた。…その顔は“人間の顔のようであり、右に獅子の顔、左に牛の顔、後ろに鷲の顔”を持っていた。…生き物のかたわらには車輪があって…

    このケルビムは、右に獅子、左に牛、後ろに鷲…天地図でいうと北米と南米の境→パナマになるではないですか!
    今頃になって気付くとは…

    またケルビムにはその翼の下に、人間の手の手の形がみえていた(神の手だという)」とされている→南米コスタリカの1842年-1848年の国章が男性の左腕
    まさにパナマそのもの(>ω<)

    また旧約聖書の創世記3:24では
    主なる神はアダムとエバを追放した後、命の木への道を守らせるためにエデンの園の東に回転する炎の剣とともにケルビムを置いたという。また、契約の箱の上にはこの天使を模した金細工が乗せられている。

    「ケルブに座する方」とは、ヤハウェのことを指す
    ↓↓
    パナマにヤハウェがいらっしゃるということです!!


    あー興奮して文章がおかしくなる(汗

    +5

    -0

  • 550. 匿名 2016/04/09(土) 19:14:02 

    >>549
    契約の箱はパナマにあり、この地はエデンの東にある…エデンもわかりそうです(T_T)

    +5

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  • 551. 匿名 2016/04/09(土) 20:45:30 

    >>550ですが、エデンは発見しないほうが良いと思いました(°°)
    ガブリエルが守る場所ですからね…

    なのでキュクロープスの事や>>536で情報を戴いたので…この話に戻ろうと思います

    +3

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  • 552. 匿名 2016/04/09(土) 21:55:31 

    >>551
    あまり深入りすると危険かもしれないですよ・・・

    気を付けて下さいね

    +4

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  • 553. 匿名 2016/04/09(土) 22:20:52 

    今回はアーリア人について考察しますね

    ネアンデルタール人とクロマニヨン人との混血で中央アジアで発生したものがヨーロッパ人の骨格と似ていることから、これを【ユーロポイド】といいます。
    おそらく後のアーリア族であったと考えられます。
    日本人のルーツにはアーリア人も関係しています。
    アーリア人は、どのように形成されていったのでしょう?
    中央アジア(トルキスタン)は、ユーロポイドとモンゴロイドの二大人種の分布した地域の境界領域をなしていました。
    古くはトルキスタンの殆んど全域がユーロポイドによって占拠されていて、ユーロポイドの厚い人種的基層が存在しました。
    中央アジアのアジア的ユーロポイドは、新石器時代の直前にはすでにインド的ユーロポイドとイラン的ユーロポイドに分化しています。
    イラン的ユーロポイドは、パミールの西方、アラル海の東方という中央アジアにいました。
    パミールの東のタリム、アラシャン、ゴビ、オルドス、中央アジアは砂漠化しましたが彼らは新石器時代に入って、農耕、家畜の飼育と銅器文化やがて、青銅器文化を開花させ始めました。
    さて、中央アジア以前には、彼らは、どこにいたのでしょう。これは私の推測です。
    氷期の終わりの約1万2千年前頃に温暖化していくなかで急激な戻り寒冷期がありました。
    ヤンガー・ドライアスと呼ばれている現象です。
    中近東ではこの時の寒冷化によって採取できる食物が減りそれを補うために農業技術が進歩したと考えられています。
    最初に農業が開始されたのは、12500~10200年前に存在した地中海東部のナトゥフ文化といわれるパレスチナのエリコでした。
    さらにエリコの人々はアナトリアのチャタルフュィックで自然銅を発見しその銅を加工する高温技術を発明したとされます。
    アナトリアではエリコの人々のチャタルフィックと北部のヴァン湖付近に高地農耕が進みます。
    ヴァン湖の人々は、気候の激変により北方(ヨーロッパ)から南下してきたと考えられます。
    やがて彼らは農耕に最適な環境のメソポタミアに進出し一方、銅を求めて移動していった人々との間に交易が始まり
    それは、めざましい成長を遂げるのです。

    +3

    -0

  • 554. 匿名 2016/04/09(土) 22:24:38 

    続き

    メソポタミア北方の山地を廻る肥沃なる三角州を極めて早期に占領したのはナトゥフ文化の流れを汲む地中海人種ののエリコの人々でした。
    長頭型の地中海人種はさらにスーサに於ける早期の住民を形成しインダス文明に先行する時期に北部インドを占領しました。
    アナトリア北部ヴァン湖付近にいたアルメノイドは地中海人種にやや遅れてスーサやインドへ進入しました。シュメール、ハッティ、ミタンニ、フルリ、エラムなどがアルメノイドに属し、彩陶文化の担い手でした。
    したがって肥沃なる三角州文明は早期から長頭型の地中海人種と高短頭型のアルメノイドの混血された人種によって形成されスーサでは最古のスメリア文明でした。
    アルメノイドのフルリ人は、後のアーリア=印欧語族になったと考えられます。
    エラムには数多くのフルリ人が関与していた記録が残されており、 ヒッタイト帝国と交流があった事が分かっています。
    フルリ人は、メソポタミアのシュメールとアッカドからアナトリアとヒッタイト王国までの間の広いエリアを支配していました。
    フルリが、アーリア人かインド・ヨーロッパ語族起源であったと考えられます。
    エラム各地にフルリ人が移住しており、エラムの諸都市にはフルリ人の王を頂く都市が多数出ていて彼らの王たちはインド・ヨーロッパ語族の名前をもっていました。
    そして、彼らの軍隊と騎兵用語は、インド・ヨーロッパ語族から生じています。
    フルリ人は、文化的、宗教的にヒッタイト人に影響を与え、ヒッタイトの神話が、フルリに由来することも解ってきました。
    紀元前1300年、大規模な移住と侵略の圧力の中で、フルリは自らの王国の北東の部分へ退き、バン湖の近くで彼らの新しい首都を創出して、彼らの王国をウルアルトゥ(アララト)と呼びました。
    スキタイ・サカ族とは、約6000年前、今のトルクメニア地方に興ったナマヅカ文化という彩文土器文化の担い手で、牧畜と農耕を営む遊牧民のルーツともいうべき複合民族でした。
    ナマヅカ彩文土器文化が熟成期を迎えた頃、アムダリヤ上流のバタフシャン産ラピスラズリを商い、羊トーテムのサカ族と牛トーテムの月氏の隊商が、馬や船などによって旅を続けバビロンの【スサ】から【ウル】に入りました。
    彼らは後に、壇君教団グループと番韓(海の国交易商人・マカン人)の主力となりました。
    彼らはユーロポイドと考えられます。

    +3

    -0

  • 555. 匿名 2016/04/09(土) 22:27:05 

    続き

    やがて、ナマヅカの彩文土器文化は、サカ族によって東西に運ばれ、イラン高原に於ける【プロト・エラム文化】に大きな影響を与えました。
    ラピスラズリが、ハラッパ文化以前のコト・デイジ遺跡から発見されていることからサカ族がインダス文明の原形をつくっていたことが分かっています。
    またイラン高原文化を受容したナマヅカ文化が黄河流域のヤンシャオ文化あるいはカラスク文化となりました。
    約5100年前には、イエニセイ河上流とアルタイ地方にアフナシェヴァ文化と呼ばれる青銅器文明が起こりました。
    この文化の担い手はクルガン人でしたが、その高塚墳墓の板石には、カラスク文化と中国のトーテツ文様に似た【鷹と人面像】が刻まれていて、クルガン人は、すでに車輪付き馬車を使用していました。
    彼らはコーカサス地方に侵入して黒海に進み、インド・ゲルマン的特徴の混合文化が生まれ、このアーリア人こそ、後にインド・ヨーロッパ語族となった人々 とおもわれます。
    同じ頃、小麦が、ドナウ河流域とライン河流域、および黒海の西海岸一帯と南ロシア全域に広がり、5000年前頃には、小麦からパンを作る文化が、ヨーロッパ全域を覆いました。
    クルガンとは、日本列島や朝鮮半島に見られる古墳と同種と考えられます。
    この古墳文化は、アジアからアナトリア、東ヨーロッパ~スカンジナビア半島までユーラシア大陸全体にありました。
    同様にインド・ヨーロッパ言語もユーラシアからヨーロッパにかけて広がっています。
    即ち、クルガンを建設し、人々がインド・ヨーロッパ語族のルーツであると考えられます。

    +2

    -0

  • 556. 匿名 2016/04/09(土) 22:55:24 

    ウラルトゥ王朝

    皇紀元年は西暦紀元前660年、神武天皇即位してから今年で2670年ということでしょうか。
    しかし、2670年前には、日本という国も神武天皇も未だ生まれていませんでした。
    その頃の日本人のルーツは、遙か遠く中央アジアのアララト山を見上げる高原地帯であるヴァン湖周辺の
    ビバイナという名の小さな国にありました。
    当時、オリエント周辺にあった数多くの種族国家が過酷なアッシリアの圧政下に喘いでいました。
    彼らは、BC1200年の昔に滅んだ人類史上初の【鉄の帝国】ヒッタイトの人民の主流を形成していたフルリ人や、ヒッタイト帝国東部辺境にいてヒッタイト化していたハッティ人と同種族であり、帝国滅亡後の同朋難民でした。
    その周辺部から、製鉄の業を会得した新しい勢力が幾つか台頭し、その一つがアララト山を聖地とし、ヴァン湖周辺を根城に勢力を延ばしていたグループでした。
    ビバイナ国の初代の王は、アラメと言う名でした。
    彼は即位して国土を掌握するやいなや、自ら太陽女神アラメアであると自己主張し当時のオリエント世界の支配者であるアッシリア帝国に真っ向から抵抗しながら自らの小王国ビバイナを、そしてやがて名実ともに帝国となってアッシリアが名付けたウラルトウを建国していくことになります。
    ウラルトゥは、その当初からミタンニ人やヒッタイト人のフツリ人、カッシュ人、チュルク人から成る、幾つかの部族の連合体でした。
    アルメニア高地には、古くから原ヒッタイト族、カルトヴェリ族、ハヤシャ族などが住んでいました。
    そこへフツリ人がエジプトやカナーンの地から流入して来たのですがヒッタイトの資料はこの地方をフツリ人の国と記しています。
    フツリ人は、BC2000年の半ばには、アーリア人の国であるミタンニ王国に従属しシュッビルウマシュ王以降は、ヒッタイト国に従属するようになったといいます。
    ヒッタイト崩壊の後、幾つかの小国家がヒッタイトの伝統を継ぎカルケミシュはハッティ国、オロンテスはハッティナ国と名乗りました。
    そこにヒッタイトのムシュキ族やカスカイ族などが入ってきたのです。
    最初、貧しい山岳地域の小国にすぎなかったビバイナは、滅亡したヒッタイト帝国の製鉄技術者達を、何らかのきっかけで多人数取り込むことに成功し、同朋難民を吸収してふくれ上がっていったと考えられます。
    彼らはやがて大帝国アッシリアの言うことを聞かなくなり反撃してくるアッシリア軍の討伐を避けて、国ぐるみで山奥を延々と逃げ回ったようです。
    ヴァン湖周辺のナイリの諸国、更に小アジア寄りにあったハイーク諸国や西方の森の国ムサシルなどを次々と併呑し、やがて失われたイシン帝国の祭儀と意志を受け継ぐウラルトウ帝国として、急速に勃興していったのです。
    なぜイシン帝国かといいますと、このウラルトゥの人々は、後期イシン王朝末裔になるからです。
    遡ることBC1018年、後期イシン王朝滅亡後、幾つかの小国家に分かれビト・アデイニ王国とラケーの人々は、エラム王朝を倒した後、東方の支配を目的としシルクロードによってバルハシ湖に注ぐイリ河に進み黄金の眠るイシク・クルに箕子国を建国します。

    イシク古墳から発掘された【黄金人間】といわれる黄金の衣を着た16~18歳の少年被葬者こそ箕子国の王でありました。
    彼の黄金の上衣はアルタイの金山から採った金塊で作られ、副葬品はバクトリアの扶余から届けられたものでした。
    後に、この地域を支配したウイグル人は、日本の平安時代の王族とまったく同じ風俗をもっていましたが、両者は共に箕子国の文化を受け継ぐ韓人王朝でした。

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  • 557. 匿名 2016/04/09(土) 23:02:05 



    古代ではヘビは死ぬことはなく、定期的に脱皮して新しく生まれ変わる、もしくは別の生命なって再生すると広く信じられていました。

    ウロボロスは、古代の象徴の1つで、己の尾を噛んで環となったヘビもしくは竜を図案化したもの。
    ヘビは、脱皮して大きく成長するさまや、長期の飢餓状態にも耐える強い生命力などから、「死と再生」「不老不死」などの象徴とされる。そのヘビがみずからの尾を食べることで、始まりも終わりも無い完全なものとしての象徴的意味が備わりました。
    日本の天皇のルーツ、ウラルトゥは、BC1300年頃のアッシリア碑文に初見されますが、【ウラルトゥ】とは【ヴルトラ(蛇)】の意で、【ナーガ族】の七頭の蛇との関わりがみてとれます。
    神社に張られるしめ縄は、男の蛇神と女の蛇神の交合を象った神の縄です。
    古代メソポタミアでは、この両蛇神を【ニンギジダ】と呼んでいました。
    これは、しめ縄の原点であると考えられます。

    【史記】の伏犠・女カの神像は共に蛇身人首で、両尾をしめ縄のようにからませています。
    有名な志賀島出土の【漢委奴国王】の金印は蛇紐です。
    【秀真伝ほつまつたえ】を作成した大物主家(公孫氏)の三輪氏(イッサカル族)は大和三輪山の蛇神を祀る神官の家柄なので、蛇紐金印の委奴国王家および蛇神信仰の新羅王家あるいは亀神話のからんだ金官加羅の金首露王家と同族的な関わりがありました。


    キトラ(亀虎)古墳の内部に示された玄武神は蛇と亀が絡み合って表現されています。

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  • 558. 匿名 2016/04/09(土) 23:05:37 

    続き

    インドのナーガ族ですが、ナーガ族の研究の権威、C・F・オールドハムは、 古代インドの聖典【リグ・ヴェーダ】に出てくる蛇やアスラ、【マハーバーラタ】のナーガ族は同じもので、アーリア人の侵入に抵抗した先住民族であるとしています。
    ナーガ族は、インダス文明を築き、ナーガ(蛇神)を祀って、カンボジアのアンコール・ワットの遺跡に見られる七頭の蛇も彼ら【ナガ】のことであるといいます。
    ナーガ族は、宇宙創造の七つの原理を七頭の蛇に置き換えて信仰し、この宇宙創造の七つの原理は後に【聖書】の七日間で天地が創造されたという記述になっていきます。
    インド文明を支えていた人々はドラヴィダ民族と想定されていますが、【アスラ族】は、その貴族階級にあたるもので、【アスラ】は、その紋章としてナーガ(蛇)を選び、それ故にナーガ族とも呼ばれていました。アスラ族とナーガ族は蛇を信仰し、【不殺生】は、もともとインダス文明の担い手だった先住民族の思想でした。インダス文明の遺跡から発掘された弓矢のヤジリは、尖らずに丸い玉になっていて、彼らは野獣を射るにしても、殺さずに失神させて捕らえたらしい。
    そのナーガ族がインドに来る何万年も前に日本列島に来た【アスラ族】であったと分かってきました。カタカナム人といわれる【アシヤ族】は【アスラ族】であったナーガ族のことであったようです。港川人という名称は、後に発掘した日本人が付けたもので【アスラ族】であったナーガ族のことであったようです。
    日本列島を出て行ったアスラ族(天皇家)がインドのナーガ族になり、さらに西に進んでシュメール文明を築かれたというのが、年代的に合うことが分かってきました。
    そして敢えていえば、日本とインドの中間にチャーチ・ワードが唱えた【失われたムー大陸】に移住していたという説があります。荒唐無稽な話と切り捨てることも簡単ですが【竹内文書】にも日本列島の南に【ミヨイ】と【タミアラ】という二つの大陸が地図上に書かれており、これがムー大陸が沈没する以前の地形を表わしていると指摘する人が多い。
    チャーチ・ワードは、【ナーガ人は、ムーからの教育、布教に来た移住者で、アーリア人は彼らから文化を吸収した。バラモン教の聖典【リグ・ヴェーダ】に、ムーの人々の持参した【聖なる霊感の書(ナカール文書)】と一致する字句がある。しかし、バラモン僧たちは自分たちの師であるナカール(ナーガ族)達をインドから追い出した】としています。そして、ナーガ人の築いたナーガ帝国についてインドなどの古文献を参照にして次のように述べています。

    【今から七万年前、その「母なる地」から一団のムー人が西へ向かい、まずビルマに移住した。

    彼らは母国の宗教と科学の伝道を目的とする「ナカール(聖なる同胞)」と呼ばれる賢者たち

    でナーガ族の名でしられるようになった。彼らは、さらい西進して、インド東部のナーガランド

    地方に腰を落ち着けると、インド半島全土に「母なる地」の文明を建設した。その初代の王名

    は、ラーマといった。ナーガ帝国はムー大陸が一万二千年前に大災厄で海中に消えてからも

    「母なる地」の文化遺産の正当な後継者として数千年間栄華を誇ったが、やがて野蛮なアーリア

    人の侵入を受け、インダス文明を最後の輝きとして滅び去った。アーリア人はナーガ族を

    残虐に抹殺する代わりに、まず巧みにその高い文化と思想を吸収して自分たちのものとし

    ながら、徐々に駆逐していった。例えばバラモンの祭官階級が書いたとされる最古の宗教書

    【ヴェーダ聖典】や最古の天文書【スーリヤ・シッダンタ】も真の原典はムー大陸にあり、彼らは

    先住民の文化遺産を盗んだに過ぎなかった。】

    +4

    -0

  • 559. 匿名 2016/04/10(日) 00:14:00 

    >>552
    そうですね(_ _)
    隠されたのには理由があるので…正しき人間のみ受け継ぐべきです
    そこだけは死守しなければと南十字星に誓って…

    遠い先祖がバラモンを崇めていたみたいなので、>>558を興味深く読ませてもらいました(^o^)
    環太平洋連合国は本当かもしれないとワクワクしました!

    実は少々気になることが…
    鏡は光を反射するものですよね。鏡を神器とするならば、信仰の対象は太陽よりも月のような気がするのです。アマテラス=アポロンよりも、アマテラス=アルテミスの方が、名前が似ているし…

    +5

    -0

  • 560. 匿名 2016/04/10(日) 00:31:30 

    >>559

    それは新しい考察ですね。
    アマテラス=アルテミスですか・・・
    資料を調べてみますね。

    +5

    -0

  • 561. 匿名 2016/04/10(日) 06:33:03 

    >>560
    ありがとうごさいます(≧∀≦)

    ツクヨミの資料が少ない事も、それに関係するような気がしてならないのです。

    +5

    -0

  • 562. 匿名 2016/04/10(日) 14:51:18 

    中南米が怪しい

    ベネズエラの停電報道だとか…

    日本政府は9日、中南米を支援する国際機関「米州開発銀行(IDB)」との協調融資枠を従来の3倍となる30億ドル(約3300億円)に拡大すると発表した。中南米各国の地熱、水力発電などのインフラ整備を支援し、日本企業の受注増加につなげたい考え。

    これも…

    パナマ文書も…

    怪しさ満載です(-_-)

    +5

    -0

  • 563. 匿名 2016/04/10(日) 17:35:43 

    スキタイ・サカ 金属文化

    日本民族の祖型は中国の史家によって三つの名前で呼ばれています。
    古くヒマラヤを下り四川に出たものは【荊蠻けいばん】さらにシナ海沿岸に達したものは【東夷】または【准夷】青海から陜西に入り、前2千年紀に黄河のデルタ地帯に進出したものは【戎狄】とされます。
    シュメール、ハッティ、ミタンニ、フルリ、エラム などがアルメノイドに属し
    彩陶文化の担い手でした。
    前1世紀に彩陶文化の道をオルドス→山西→冀北→遼東→北朝鮮へと移動したものは【東胡】とされます。そのなかで、とくに満州、ことに東満、南満に定着したものを【扶余】といいます。
    この【扶余】こそが、実は弥生日本期の列島植民の主役となるのです。

    タリム、アラジャン、オルドス、甘粛、陜西にとどまって、前8世紀の【前期綏遠青銅器文化】につづき、鉄器文化をその金属文化に加えたもの、所謂、前4世紀以降の【後期綏遠金属文化】を出現させたものは、イラン系トハリ=月氏でした。
    アルタイの西部にいたのはウスン(鳥孫)です。
    前2千年紀のヴォルガ川上流、ウラル西南の樹林草原綴接地帯で栄えた青銅器文化のアバシェヴォ文化、そしてウラル山脈中央西部カマ川のセイム・テュルビノ文化はともにウラル語族の白人文化でした。
    そして、オビ川、イルティッシュ川、イェニセイ川上流のそれぞれ、アファナシェヴォ文化現在のアチンスク市を中心とするアンドロノヴォ文化、またカラスク文化としたものはいすれもイラン・ツングース、またはイラン・チュラン系文化でした。
    これが後に鉄器文化につながります。
    それは、ずっと後、前5世紀から前4世紀以降にしぼると、カラスク文化は鉄を含めたタガルスキー文化に吸収され、アンドロノヴォ文化はアルタイ西部に新しくおこったマイエミルスカヤ金属文化に吸収されほぼ二つの大金属文化地帯を形成するにいたっています。
    そうなった理由として、一つには鉄鉱・銅鉱という資源の関係であり二つにはイラン民族の選択にもとづく通婚・共棲によるものでした。
    アルタイ西部とパミールの資源を手中におさめたイラン種は、通婚・共棲の相手として東胡系を選んでいます。このイラン種はミヌシンスクのアファナシェヴォから出たスキタイを源流とするイラン種です。彼らは・シベリア南部、ミヌシンスク盆地からエニセイ川を下りアチンスク、トムスク、ノヴォシビルスク、セミパラチンスクを経てアルタイ山脈北麓を迂回しオビ川上流イルティッシュの流域に乗り換え、こうしてアルタイ山脈の西南部にマイエミルスカヤ文化をつくって、アンドロノヴォ文化を吸収したのです。
    彼らは七河地方セミレチェからジュンガリア廻廊を通って東トルキスタンに入り、パミールの金属資源を掌握し、タジク、ウズベク、ソクドとの部族連合をつくりました。
    この支配部族を【サカ】といいます。前8世紀から前3世紀までのことです。

    +2

    -0

  • 564. 匿名 2016/04/10(日) 17:48:50 

    >>561
    月読命については・・

    イザナギが黄泉国から逃げ帰って穢れを洗い落とした所が筑紫の日向の橘の阿波岐原(現在の宮崎県のシーガイア近辺)
    その禊によって三貴子のアマテラス・ツクヨミ・スサノオの三神が生まれ、イザナギはアマテラスに高天原、ツクヨイに夜の食(お)す国(夜の世界)、スサノオに海原を統治するように委任しました。

    三貴子の第二神の月読命(別名:月弓尊・月夜見尊)はイザナギが禊をして右目を洗ったときに生まれました。
    ちなみに、左目がアマテラス・鼻がスサノオ。

    天照大御神が太陽のような神と理解されているのに対し、月読命は月のような神で、月齢を数えるという意味です。
    【古事記】では、父神のイザナギから、夜の食す国を統治するように委任されますが、それ以降の活躍はみられません。
    【日本書紀】には、保食神(うけもちのかみ)を殺したことで天照大神のご機嫌をそこない、以来、日神と月神は別々に住むことになったとあります。
    つまり、昼と夜の成立を説いています。

    神社では、延喜式神名帳には【月読神社・山城国葛野郡、綴喜郡、壱岐島壱岐郡】、【月読宮:伊勢国度会郡】などがあります。

    祭神とする主な神社
    ●皇大神宮の別宮の月読宮
    ●皇大神宮の別宮の月読荒魂宮
    ●豊受大神宮別宮の月夜見宮
    ともに、三重県伊勢市。

    なお、出羽三山(山形県鶴岡市)の一社・月山神社の祭神も月読命ですが、元来は三貴子の月読命とは関係の無い月山の神・月山権現を祭ったものが、後年に月読命と習合したものです。
    さらに、長崎県壱岐市の月読神社、鹿児島県鹿児島郡の月読神社、京都市西京区の松尾大社の摂社の月読神社などがあります。
    資料が少なすぎますね・・・
    何か記録出来ない裏の顔や仕事?をしていたとか。
    謎ですね。

    +4

    -0

  • 565. 匿名 2016/04/10(日) 18:29:13 

    >>562
    中南米はフリーメイソンが支配していたと言われていますから怪しいですよね・・・

    +3

    -0

  • 566. 匿名 2016/04/10(日) 22:22:13 

    >>565
    フリーメイソンが支配していたとは納得です
    石工職人達はこのシナリオの作成に関わっているでしょうから( ・_・;)オソロシイ

    >>564
    ありがとうごさいます(。・ω・。)
    月読命は月弓尊でもあるのですね…てことは秦氏なのでは?
    弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ、生没年不詳)は、『日本書紀』に記述された、秦氏の先祖とされる渡来人である。『新撰姓氏録』では融通王ともいい、秦の帝室の後裔とされる。伝説上の人物であり、実在は不明である。

    確かに遠い所に追いやられてます(汗)

    +4

    -0

  • 567. 匿名 2016/04/10(日) 22:46:39 

    >>566
    フリーメイソンは、ヨーロッパの入植者達がメキシコに上陸すると共にメキシコに渡ったとされています。
    (スペイン入植時に入ってきたという説と、フランス人が持ち込んだという説と大きく分けて2つ説がある。)
    メキシコでもフリーメイソンは政治経済に絶大な影響力を持ちました。
    有名なフリーメイソンとして、アメリカ合衆国初代大統領のジョージ・ワシントンがいますが、ここメキシコでも、歴代大統領のほとんどがフリーメイソンだと言われているほど政治に深く関与しています。

    プエブラはスペイン入植後、スペイン管理下の首都となったメキシコシティからほど近く、新天地で莫大な富を気付いたスペイン人やその家族が住む高級住宅地だったのです。
    メキシコシティは治安が悪く、安心して暮らせないという理由で、金や銀の採掘で儲けた金で、巨大な邸宅や美しい教会をプエブラに建て、豪華絢爛な街並みを築いたのです。

    フリーメイソンは経済的にも大きな影響力をを持っていました。
    そのため、当然、金持ちがこぞって家を構えたプエブラにはフリーメイソンが多かったそうです。
    街の歴史的中心部セントロのソカロにある教会(Catedral de Puebla)は、本来首都であるメキシコシティのカテドラルに「最大」という称号を譲るべきところを、メキシコシティのカテドラルを差し置いてメキシコで最大のサイズで建設してしまったといいます。
    それほどの富がこの街に集っていたのです。



    +3

    -0

  • 568. 匿名 2016/04/10(日) 23:37:39 

    >>567
    この富で是非とも近隣の国を救って欲しい(-_-;)

    タトゥーのサイト見つけました
    よく見てないですが、忘れないよう貼り付けます

    ナガランドの口のタトゥーがアイヌ女性のものに似ています

    神社の鏡は『カガ・ミ』→『蛇見』かも
    ギリシア神話でペルセウスがメドゥーサを退治する時に鏡を使いますよね。
    そして神社の鏡は南を写しています。これは南の方角に信仰対象が存在する事ではないかと…しかもそれは常に東から西へと移動する太陽ではない…定点に存在するのです

    +4

    -0

  • 569. 匿名 2016/04/10(日) 23:56:11 

    >>568
    全国にいた海人族のタトゥーにも非常に似てますね。
    関係あるのでしょうか?

    +4

    -0

  • 570. 匿名 2016/04/11(月) 00:51:22 

    縄文人ってどこにも属さないらしいね
    モンゴロイドなのかモンゴロイドじゃないのか…
    彼らはどこから来たんだろう?
    日本人誕生の謎を解くのは“核DNA”♢サイエンスZERO|予告動画 |NHK_PR|NHKオンライン
    日本人誕生の謎を解くのは“核DNA”♢サイエンスZERO|予告動画 |NHK_PR|NHKオンラインwww6.nhk.or.jp

    私たちの未来を変えるかもしれない最先端の科学と技術を紹介するとともに、世の中の気になる出来事に科学と技術の視点で切り込む。

    +5

    -0

  • 571. 匿名 2016/04/11(月) 02:09:06 

    安曇氏?

    +4

    -0

  • 572. 匿名 2016/04/11(月) 05:06:14 

    まだ続いてるー!嬉しい!

    +5

    -0

  • 573. 匿名 2016/04/11(月) 09:22:22 

    >>570
    日本人は縄文人との混血だから、東アジアの中で異端なDNAになっている…と番組で言ってましたね
    縄文人のDNA解析が進んでいますが、弥生人のDNAも解析してほしいですよね。特に「土井ヶ浜遺跡」の弥生人骨など…

    >>572
    お帰りなさい(^^)ノ

    >>569
    ナガランドの目のタトゥーはシュメールの宇宙服(宇宙人?)に似ていますよね

    同じものですよね。日本の「遮光器土偶」も…

    +4

    -0

  • 574. 匿名 2016/04/11(月) 11:23:15 

    >>573
    弥生人のDNAも解析してほしいですよね。

    弥生人の遺伝型も、O2b1aという日本列島固有の遺伝型であることがわかってきました。
    日本人の四割は、D2の縄文系ですが、 日本人の三割は、O2b1aの弥生系です。
    一覧を乗せるとこうなります。

    O1a1 = 上海,台湾,フィリピンでよく発見される遺伝子. 韓半島,日本の O1a1は上海,台湾,フィリピンの物と差があったように見えて搖れ半島の物と似ている. (上海 25%, 台湾 23%, 中国 8%, 韓国 2%, 日本 1%)

    O2,O2a = O2*自体が O2bよりは O2aに近いのが大多数だ. O2aは O2bと幾万年差を見せて, 共存したことがない. (O2: 中国 3% 韓国 2%, 日本 1%. O2a: ベトナム 35%, 中国 12%, 韓国 0.1%, 日本 0.5%)

    O2b* = 祈願誌が黄海平原(過去黄海海)に推定されるハプルログル-ム. (韓国 1%, 日本 0.5% 中国 0.1%)

    O2b1 = 祈願誌が韓半島に推定されるハプルログル-ム. (韓国 7%, 日本 3%, 中国 0.3%)

    O2b1a = 彌生人の最大ハプルログル-ム. チォンファングがから発見された事がある. トクシマで 28%, 大阪で 26% 発見されるなど関西で高く現われる. 本人もこれに属する. (日本 23%, 韓国 8%, 中国 0%)

    O2b1b = 韓半島南部で拡張をハンゴッに推測される韓国表紙ハプルログル-ム ( 韓国 12%, 日本 5%, 中国 0.3%)

    O3a1 = 韓国, 日本で発見されたら, 何百年以内で先祖が中国大陸から来たと思わなければならない. ( 中国 1%, 韓国 0.3%, 日本 0.3%)

    O3a1c(O3a1c1,O3a1c2) = 東夷族の主要ハプルログル-ム. 山東省で始まったハプルログル-ムでチウチォンファングのハプルログル-ムではないか推測される. (中国 18%, 韓国 10%, 日本 6%)

    O3a2(xP164,M7) = 中国の物とちょっと他の類型の O3a2. 韓半島土着と見える. (韓国 8%, 日本 5% 中国 0.3%)

    O3a2c1 = 朝鮮の遺伝子. 朝鮮太祖李成桂, 世宗大王, 高宗がこのハプルログル-ムに属する. (中国 17%, 韓国 9%, 日本 5%)

    O3a2c1a = 中国で数字が多いが, 韓国西南部と日本西部で現われる類型が存在するのに, 百済->日本に移動したどんな勢力が日本で有力家門になって, 子孫をあんまり残さなかったか推測する. ( 中国 19%, 韓国 10%, 日本 6%)

    弥生人であるO2b1aだけが、日本列島で最も分布の比率が高くなります。
    朝鮮半島にいるO2b1aはむしろ、日本から朝鮮半島へ渡ったと考えた方が良いでしょう。
    遺伝子の研究はどんどん進んでいますが、 日本人は、縄文人も弥生人も日本列島固有の遺伝子をもっているのです。
    もちろん、縄文人でも弥生人でもない日本人を差別するのはいけないことです。
    彼らもまた偉大な祖先をもつ誇るべき民族の末裔です。

    +3

    -0

  • 575. 匿名 2016/04/11(月) 11:42:02 

    >>574
    ありがとうごさいます(≧∀≦)
    自分もDNA解析したくなりました。日本人のルーツが判ってきてワクワクしますね。だけど、それが元で差別や争いが起きるのは悲しい事ですね。

    興味深い場所を発見しました(^^)
    中華人民共和国の最南部、海南(かいなん・ハイナン)省 神島
    島の形が秀真文字”え”に似ていて不思議です

    画像が貼りつかないので、わかりにくいですが…
    Googleマップで神島(北緯18度9分から18度37分(ハワイとほぼ同緯度)、東経108度56分から109度48分)の地点…最南端の三亚市(三亜市)あたりを超拡大すると見えてきます
    三亜の名称は「三亜河」(旧称: 臨川水)に由来する。三亜の東西から流入する川が合流しY字となっていたことより三亜と命名された。
    秀真文字にすると”Y”+”え”=”て”になります…秀真文字”て”は弟という字に似ていますね。”テ”といえば…ギリシア神話の女神テイアー(まさかティアマト?)だとか、それとも三兄弟の弟であるデウス(ゼウス)と関係あるのかな?…朧げに見えてきそうですが(汗

    母音が”え”の文字は形が蛇に似ていますよね。”て”だと絵的には角のある蛇です
    「2本角のある蛇」は古代エジプトのヒエログリフで5千年前からあるそうです。
    日本では妖怪のデータベースに「二本角のある蛇(ニホンツノノアルヘビ)」そのままの名前で掲載されています。
    また茨城県には夜刀神という蛇神が居て、その形は蛇の身で頭に角…一族を蛇の災難より逃れさせようとするとき、振り返って蛇を見る人がいると一家を破滅させ、子孫が絶えるという伝承です。イザナミの黄泉の国での話に似ていますね

    そして、神島の中の地名「六道角」も気になります
    仮に”え”の文字が蛇だとして、口にあたる場所がその地名になっています
    六道とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上を意味し、閻魔大王と関係ありそうです

    その形が「神島」という事は…(-ω-)ウム そういう事ですね
    環太平洋連合国はティアマトを崇拝していたのかも?
    また神はワイハー在住だったのかも??

    +4

    -0

  • 576. 匿名 2016/04/11(月) 15:28:16 

    >>575つづき
    >秀真文字”て”は弟という字に似ていますね。
    羊にも似ています。
    蛇・羊・角
    どこかで見たと思ったら、
    『ヨハネの黙示録』
    また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた。(新共同訳12:3)

    わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十本の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまな名が記されていた。わたしが見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた(新共同訳13:1-2)

    わたしはまた、もう一匹の獣が地中から上って来るのを見た。この獣は、子羊の角に似た二本の角があって、竜のようにものを言っていた。この獣は、先の獣が持っていたすべての権力をその獣の前で振るい、地とそこに住む人々に、致命的な傷が治ったあの先の獣を拝ませた。(新共同訳13:11-12)

    引用させてもらいますm(_ _)m
    今見て解釈すると、
    倒された神(赤い蛇)に代わり、同族の神が違う名前を付けられてしまう。だが1人の神が現れて、再び赤い蛇を拝ませる。

    このトピが閉じたら、もう一度「歴史ミステリー」トピを読もうと思います(^^)

    +4

    -0

  • 577. 匿名 2016/04/11(月) 16:33:23 

    >>576
    歴史を確認し直すは大事かもしれないですね。

    天孫降臨

    日本最古の王朝、【天の王朝】は、約3500年前、フェニキア人、エブス人、ヒッタイト人らがタルシシ船で渡来し国東半島へ製鉄基地を築いて『殷文化圏』に鉄製品を供給し始めました。
    続いて3100年前、国東半島重藤の製鉄基地が発展して殷の東表国となり彼らフェニキア人らは宇佐八幡を都とし、タルシシ船の船長エビス王家のクルタシロス1世を初代王として東表国(豊日国)を建てました。
    これが、わたしたちの国の第一王朝の始まりです。
    日本書紀上、日本初の天皇とされている神武天皇の前に既に1000年間も続いていた王朝でした。
    この時、先住民である港川人・オロッコ人・ツングース(アイヌ人)・アエタ族らの縄文人を不必要に殺さず、できるだけ生かして新文化の建設に使役しました。
    天孫降臨・・・天から降りてくる【天国あまくに】というのは、
    対馬とか壱岐とか沖ノ島とか朝鮮と日本の間にある島々のことです。
    これを【天国あまくに】と云っていたようです。
    ですから、そこから他の地に行くのを天国だから天から行くのを天降(あまくだ)る
    と言いました。今でも、東京駅から他へ行くのを下り列車、東京へ行くのを上り列車と
    云うのと同じです。古代、島へ降りることを【天降る】と、言ったのです。
    第一回目天孫降臨 ユダヤ南朝系ガド族+イッサカル族+ゼブルン族 BC213年、シメオン族のディオドトスであった秦始皇帝は自身のユダヤ人の血を隠すために歴史を改竄し真実を知る王族や儒学者を生き埋めにし
    焚書坑儒をしたため、孔子・孟子の子孫、ガド族は、イスラエル北朝系からユダヤ南朝系に転身して燕王公孫氏(南朝系イッサカル族)の一部勢力と連合してBC90年頃から移動再開。
    BC86年、ガド族猿田彦の下にイッサカル族、ゼブルン族が結集し、一行は朝鮮半島を南下して対馬に至り【高天原】と称し、天照神社を祀り、対馬高天原から船出して糸島半島へ移動して吉武高木に【旧伊勢国】を建てます。
    初代猿田彦命が肺結核で病死するとイッサカル族出身の王妃が女王となって王権を継ぎ、かなり長く君臨しました。二代目猿田彦(ガド族)は平原に王宮を移し、【記紀】に出てくる"前の君"と呼ばれました。
    猿田彦二世はイスラエル神(バアル神)を祀る太陽神殿(天照大神を祀る日代宮)を平原王墓(遺跡)に築き、八咫鏡ほか神鏡・鉄剣・勾玉などの【三種神器】を奉納しました。
    彼は、この最新式な青銅器文化を持って九州一円に進出し、先住のシュメール人・苗族・港川人らを支配下に置いてきました。

    +3

    -0

  • 578. 匿名 2016/04/11(月) 16:38:00 

    続き

    第二回目の(天孫降臨)【秦始皇帝子孫イスラエル北朝系シメオン族】 

    BC74年頃、朝鮮の秦韓(慶洲)にいた秦の遺民ユダヤ人亡命集団6部族が移動を始め対馬高天原経由で九州有明海の鳥栖に上陸し、博多に倭奴国を建て、その勢力を吉野ヶ里の地まで拡大しました。
    そのことをフェニキア人(海人族)から伝え聞いた秦王率いる苗族らも合流して、秦韓シメオン族々長・大国主命を推戴して委奴国としました。
    この時、別働隊として日本海側の福井県敦賀に上陸し、滋賀県を経て奈良に入った大国主命の弟のグループがありました。
    また、大国主命の父親は、佐賀県に上陸した後、別の先遺隊を率いて再び乗船しいち早く先駆けとして奈良盆地に到着しています。
    こうして奈良盆地の大和にユダヤ人亡命者のコロニーが初めて作られました。

    第三回目の【天孫降臨】ユダヤ人ガド族3百人

    ユダヤ人亡命集団ガド族三百人が対馬高天原から船出して、利根川下流域の霞ヶ浦=衣河流海(茨城県)に渡来しました。彼らは鹿島灘にある明石海岸の大鳥居近くに上陸して椿神社(祭神は猿田彦命)を建て、猿田(猿田彦命の兄弟に因んだ地名)などにコロニーを作りました。
    そしてこの地を聖地として【常陸の高天原】と称するようになりました。
    BC30年頃、続いてゼブルン族4百人が薩摩半島から渡来し、鹿島灘周辺に上陸しました。
    この時、天津甕星(あまつみかほし)らは常陸の大甕などにも移住しています。

    (高句麗国の建国)

    インド十六王朝時代の釈迦族の後裔、製鉄部族、宛の徐氏が北扶余後期王朝の穢王となってその前期王朝の扶余族・ウガヤ王朝と争い、結果BC37年に始祖王朱蒙(東明聖王)によって卒本に高句麗が建国されました。
    (穢王一族、熊本に【多婆羅国】を建てる)
    紀元一年、その高句麗にいた北扶余の穢王一族が、穢族の一部を率いて亡命し日本海沿いに南下して対馬経由で北九州博多に上陸しました。
    彼らは既存勢力の旧伊勢国や大国主命の倭奴国に遠慮して一旦、阿蘇山系にコロニーを作りましたが、族長の陝父らはさらに下って熊本に多婆羅国を建てました。
    この多婆羅国は、この後、朝鮮半島南部に逆上陸して分国の多羅国を建てますがその建国を担ったのは扶余族のウラルトゥ人(ウガヤ王朝系の人々)で、この多羅国が成長して百済国となり後に百済国初代王神武の系譜が現在の天皇につながっていきます。

    【倭の大乱】

    147年、後漢に圧された高句麗(北倭人)が委奴国(ユダヤ人)および東表国(南倭人)を攻撃しました。当時の東表国(エブス王朝)は、朝鮮半島の金官加羅国とワンセットの文化圏とする海人族の千年続く【天の王朝】で、委奴国は、その同盟国でした。
    その時、東表国エビス王は海部知男命でしたが、これより高句麗と敵対関係になり東アジアの覇権を競う東夷諸族の争い=【倭の大乱】が始りました。
    163年、東表国エビス王海部知男命は、シメオン族委奴国大国主命と連合して高句麗と同盟していたガド族猿田彦らの旧伊勢国を攻撃し、その首都吉武高木・平原遺跡および太陽神殿を破壊して古墳内の超大型青銅鏡を悉く破砕しました。
    この時、秦始皇帝の末裔・大国主命が率いるシメオン族の兵士ら30名の攻撃部隊はあらかじめ用意した20丁の鉄斧ですべての神鏡を徹底的に割ってしまいました

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  • 579. 匿名 2016/04/11(月) 16:45:04 

    人類移動経路

    ミトコンドリアDNAは、母親からのみ伝えられY染色体は、父親からのみ伝えられるといいます。
    この二種の遺伝子は、混ざり合うことなく次世代へと変化することなく受け継がれるため私たちの祖先を遡り、最初の哺乳類、それ以前のものにまで辿っていけるのだといいます。
    このようにして一つは父方、一つは母方の遺伝子の二つの系統樹をつくることができます。
    すると、この男系、女系の遺伝子系統樹は、それぞれ、ただ一つの系統がアフリカからやってきたことを示しているといいます。
    私たちにつながる出アフリカは、たった一度しか成功しなかったということです。
    その前に、アフリカを出て行った先人類たちは、死に絶えてしまったといわれています。

    男系、女系とも、ただ一つの共通の遺伝子上の祖先をもち、それぞれ世界すべての父となり、母となったのだといいます。
    女系のミトコンドリアから調べると、この成功した南ルートの少数をイヴ一族としています。
    イヴはやがて二人の娘からそれぞれ女系一族をつくりました。
    一つはM、もう一つをN、Nは、ヨーロッパ人の唯一の母になりました。
    Mはアジア人のなかだけにみられます。
    南アラビアとパルチスタン沿岸にMとNの根源と早期の分枝がみつかっていてただ一度の出アフリカ移動が、まず南アジアへ進んで行ったことの証になっています。
    イヴ一族は、インド洋沿岸を周って東南アジアやオーストラリアへ突き進んでいきました。
    彼らはヨーロッパが殖民されるよりずっと以前の6万年以上前にはオーストラリアへ到着していました。オーストラリアの母系各族とマレー半島の先住民の遺伝子を調べるとMとNのDNAに属しているといいます。
    Nの子孫は温暖期に入った5万1000年以上前、インド湾岸からザグロス山脈の中腹に沿って中央アジア~肥沃な三日月地帯~トルコを通って、最初の南からの最古のヨーロッパ進出を行いました。

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  • 580. 匿名 2016/04/11(月) 16:48:27 

    続き

    一方、イブの連れ合い男系の遺伝子標識名をM168と呼びます。
    ユーラシアのアダム、今日生きているすべての非アフリカ系男性の父になります。
    M168の集団の一部がユーラシア南部からオーストラリアへの旅に出発した後に、まだアフリカに留まっていた集団の中に、45,000年前頃、M89という遺伝子の変異を持つ男系が出現します。
    このM89の子孫が現生人類で初めて中東方面に入植した痕跡を残します。
    東へと移動を始めたM89の系統に、40,000年前ごろ、イランか中央アジア南部の平原の辺りで、もうひとつの遺伝子マーカーが出現し、M9と名づけられ、このM9の子孫は、以後3万年間に亘って地球の果て
    までその領域を拡大することになる現生人類の主要な系統です。
    このM9というマーカーを持っている人々をユーラシア族と呼びます。
    このユーラシア族が、さらに東へ、内陸部に進もうとしたとき、これまでの移動で初めての、最も深刻な障壁に遭遇します。それは中央アジア南部の山岳地帯でした。
    天山山脈やヒマラヤ山脈は標高7千メートルにもなって立ちはだかり、彼らは二つの集団に分かれるはめになったようです。
    タジキスタンあたりで南に向かったM20マーカーの一族と(インド定住派) ヒンズークシ山脈の北へと移動し、中央アジアへ向かった集団です。
    35,000年前頃になると中央アジアで、ユーラシア族にもう一つの突然変異が起こりました。
    M45の出現です。ポーロと名付けられた、このM45こそ東と西にT字型に分かれて、広大なステップを移動した人々です。
    東はシベリアのバイカル湖、そしてずっと後にはアメリカまで、西はヨーロッパへ。
    男系M45の連れ合いはヨーロッパの母系Nの子孫エウロペの五番目の娘U5。
    彼らは、パレオ・ユーロペオイド的(白人)だったと考えられます。彼らは、新石器時代の後期、BC3000年紀の初めにかけて、南シベリアのイェニセイ河上流とアルタイ地方に、アフナシェバ文化を起こし、西シベリアのソンスク地方にBC1750年~1200年の間分布したアンドロノヴォ文化という青銅文化につながり、さらにBC2000年紀末南シベリアのカラスク文化 と中央アジア北部のダザバギャプ文化につながります。
    カラスク文化は、殷の青銅文化と同様に、西アジアに発達した金属文化の東方流入によって
    発達したといわれます。
    M45が派生したと同じ頃、テンシャン山脈の北側に沿って移動しジュンガル盆地を利用して現在の中国にたどり着いたグループがいました。
    大半のユーラシア族が侵入をあきらめたルートです。
    このジュンガル盆地は、後にジンギス・カンが中央アジアを侵略するのに利用したルートで、この盆地は、中国やモンゴルから中央アジアへの抜け道になっているのでしょう。
    このグループは、西アジアとヨーロッパには全く見られないY染色体マーカーM175の子孫を残しました。
    M175の系統は、その後ヒンズークシ山脈とヒマラヤ山脈より東に住むアジア人の大多数を占めるほど大いに繁栄し、東アジア族と定義されます。
    しかもこのM175の分岐時期、35,000年前という時期は、まさに日本列島に【最初の日本人】が出現した時期と一致しているのです。
    日本列島には、旧石器文化の3万年前から1万4千年前頃に、鋭い黒曜石やサヌカイトの刃物に柄をつけた文化的な工具をもって彼らが渡来しています。
    この時代の石器はヨーロッパの旧石器文化と共通であって隣国の中国大陸の文化とは似てないといいます。ヨーロッパからやってきて日本列島で誕生した旧石器文化と考えられています

    +2

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  • 581. 匿名 2016/04/12(火) 08:08:04 

    ヒッタイト

    日本人のルーツにはアーリア人も関係しています。
    アーリア人は、どのように形成されていったのでしょう?
    約5100年前、南シベリアのイェニセイ河上流とアルタイ地方に アフナシェバ文化といわれる青銅器文明が起こりました。
    この文化の担い手は周囲のモンゴロイドと異なり、パレオ・ユーロペオイド的(白人)の丁零(チュルク人・トルコ人)でした。
    彼等はクルガン人と呼ばれました。クルガンというのは、ロシア語で土饅頭という意味です。
    死者を深い縦坑に埋めその上を土饅頭で覆ったためにそう呼ばれるようになったのです。
    彼らは、南ロシアからダニューブ川流域に住んでいた半遊牧民族でしたが精巧なスポークの車輪付き木製馬車を自在に繰り、コーカサス地方に侵入して、黒海に進みインド・ゲルマン的特徴の混合文化が生まれました。
    このアーリア人こそが、後のインド・ヨーロッパ語族となった人々です。
    BC2300年頃からギリシャ本土へ侵入し、彼等は最初のギリシャ人だと考えられています。
    クルガン人の到来とともに、ギリシャでも馬の骨が出土するようになりました。
    彼等は、馬とともに縄文土器もギリシャにもたらしました。
    クルガンとは、日本列島や朝鮮半島に見られる古墳と同種と考えられます。
    この古墳文化は、アジアからアナトリア、東ヨーロッパ~スカンジナビア半島までユーラシア大陸全体にありました。
    アフナシェバ文化は、西シベリアのソンスク地方にBC1750年~1200年の間分布したアンドロノヴォ文化という青銅文化につながり、さらにアンドロノヴォ文化は、BC2000年紀末南シベリアのカラスク文化と中央アジア北部のダザバギャプ文化に代わりました。
    カラスク文化は、殷の青銅文化と同様に、西アジアに発達した金属文化の東方流入によって発達したといわれます。
    【姜】族とは、エラム高原の農民がティグリス河流域に移動したシュメール農民のことです。
    そして、ペルシャの地はエラムであり、首都はスサでした。
    このスサはスサノオと関係していると考えられます。
    エラム族はサカ族などの原型となりますが、この人々は中国の甲骨文字とメソポタミアの原エラム文字を作った人々です。
    シュメール人はドラヴィダ族と共にエラム族と同族。
    エラム族はハッティ、ミタンニ、フツリ族と共にアルメノイドでした。
    アルメノイドは、アルメニアやアナトリアに居た人々です。
    地中海人種は、シリアからペルシア湾に至るメソポタミア北方の山地を廻る肥沃なる三角州を極めて早期に占領し、スサに於ける早期の住民を形成しました。
    肥沃なる三角州文明は、早期から長頭型の地中海人種と高短頭型のアルメノイドの混血人種によって形成され最も古いスメリア文明が発生していたのでした。

    +2

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  • 582. 匿名 2016/04/12(火) 08:10:54 

    続き

    【高令族】とは、太古のハラフ農民が後にユーフラテス河流域に下降したチュルク農民のこと
    チュルク族は歌が好きで万葉歌にも示されており、今日でも天皇家の歌会始めと
    いう儀式に残ります。
    ハラフはヴァン湖に銅鉱器文化による農耕が始まり、シリア方面に西進し、北イラクのトルコ国境、
    高地南麓【テル・ハラフ】で大河下流の流域を開墾し小麦初期農耕を始め、後BC5000年紀末、
    太古のハラフ農民(高令・チュルク)がユーフラテス河流域に下降しました。
    このハラフ文化は、東はヴァン湖から西は地中海におよんでいました。
    一方、ハラフ農民のなかにはトルコでヒッタイトの製鉄部族になり、
    この人々がハッティともヘテ人ともいわれる人々でしょう。
    一方、ユーフラテス河流域に下降したハラフ農民族は、採鉱民族であるセム族アッカド人に率いらBC1000年紀にシルクロードによってジュンガリア砂漠の北方に移住した【高令】になったとします。
    BC1000年にヒッタイトが衰退したため、ハッティも高令も製鉄部族として東西に拡散していったと考えられます。
    イシン国末期、イシン・カルケミシュシッパルで鉄器農耕を行っていたのです。
    ウラルトゥの北方のアゾフ海に流れ込むコーカサスのグバン河デルタにシンデイという人々がいて、このシンデイ人がアッカド人の先祖と考えられます。
    シンデイ人は、BC4000年以降のハラフ高地に自然銅を運んだ原セム族の人々でカスピ海周辺から南下し、メソポタミア南部のシュメール人を支配しました。
    同時期、エラム高地にも同様な文化が発達し さらにウルク原文字時代が始まります。
    ハラフ高地に銅器を持ち込んだ人々と、エラムに銅器持ち込んだ人々は、、原セム族のシンディで、それぞれの農民と結合しながら異文化を発展させたと思われます。
    即ち彼らは、アッカドに率いられた高令(チュルク)とシュメール人ということになります。
    やがて、このグループが天の王朝・箕子朝鮮・扶余・月氏となって日本列島に渡来します。
    【姜】族がチベットの羌族になったのは、アッカドのサルゴン王朝がインダス河を遡行してチベットに侵入した時、ウル人(チグリス農民)を伴ったからです。
    メソポタミアには金属の原産物がありませんでした。
    BC2500年頃、アッカド人は、インダスとエジプトを商業的に支配し金属を採集し農産物と交換する民族と自ら開墾し農作する農民とがあってそこから交換経済が発生していったと考えられます。
    アッカドは、ウル人・シュメール人(ドラヴィダ・エラム人のこと)を征服してインダス文化を創りグード族らに圧迫されてチベットから黄河を下り中国の彩陶文化を残しました。
    月氏は、アッカドから分かれてチベットに入ったウル人・シュメール人、月氏から海の国のカルデア人が分かれ、アッカド人とチベットの月氏、カルデア人(サカ人)は同盟していました。
    高令は採鉱民族です。

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  • 583. 匿名 2016/04/12(火) 08:35:56 

    シュメール以前

    中東地域に現れた最初の人間と考えられるケバラン人が姿を現すのがBC1万8000年頃。
    それは、ヨ-ロッパの氷河期の最盛期に当たっていました。
    ヨ-ロッパは氷河期に一度ほとんど無人化した可能性があります。
    寒冷化から逃げなければならなかった彼らの行き先は南にしかありませんでした。
    彼らケバラン人は、中東、パレスチナに現れその後の文明の主流になりました。
    約1万5000年前、地球の温暖化が始まり、不毛の砂漠だったシリアの北部に草原や森林が広がりました。
    新しく出現したシリアの環境は、木ノ実や小動物など豊富な食糧を供給し、周辺の狩猟採取民族が、ハルーラという場所で定着生活に入ります。
    しかし、約1万1000年前に、地球的規模の寒気の揺り戻しがありました。
    シリア北部の自然環境は、もはやかっての生産性豊かなものではなくなり人類史上最初の定着生活を始めていた人々は、人口の増加をもたらし、そこへ突如襲った環境の激変と、それに伴う食糧の減少は村落の住人を窮地に追い込んだに違いありません。
    しかし彼らは、未曾有の困難に敢然と立ち向かったらしい。この時代の地層の考古学的発掘が興味深い事実を発見しました。約150種類の植物の種が発見されたのです。
    中には、クローバーの種など、とうてい食用に耐えない植物の種も含まれていました。
    明らかに彼らは、危機に直面して、ありとあらゆる可能性を探ったとおもわれます。
    彼らにとって幸いだったのは、その中に小麦が含まれていたことです。
    小麦は比較的寒さに強い。
    さらに現代の専門家の研究によって、小麦の驚くべき性質が明かになりました。
    野性の小麦は、たった10年程度の繰返し栽培でも、その性質を見る見る変え粒が大きくなり殻は柔らかくなって、食用に適したものになったのです。
    この小麦の変幻自在の性質が、その後の文明の発展に決定的な影響を与えました。
    しかし、初期の農業村落のほとんどは、大きな規模の町に発展する前に消えていきました。
    初期農業村落の幼児死亡率は高かったのです。
    BC1万1000年頃、中東に現れたナトウフ人は、ケバラン人の系譜につながります。
    世界最古の農業は、BC1万年より少し下がった頃、カルメル山の周辺に溯ります。
    エリコの町は天然のオアシスで、エリシャの泉は、遊牧民たちの水飲み場でした。
    人が集まりやすい場所だったのです。エリコの最初の住民ナトウフ人が、北西のカルメル山の山麓からやって来たと考えられています。
    その周辺には、現在の大麦や小麦の先祖の野生種が自生していて、最初は、野生の麦を動物の骨の柄に石の刃を埋め込んだ原始的な鎌で採取し始めたと思われます。
    農業は通常の採取経済に比べて50倍もの生産性をもつといいます。
    カルメル山からエリコへ移り、農業を始めたナトウフの人々は、共存共栄の元に平等に暮らし生産性を高めましたから幼児死亡率を減らし2000人ほどにも人口を増やしました。
    エリコの最初の文明は約1000年続きました。しかし、農業が安定し、穀物を貯蔵し、エリコが繁栄し豊かになると外敵が出現し、城壁を造らなくては、ならなくなったと思われます。
    ナトウフの人々は、アナトリアへ、武器を探しにいったようです。黒曜石です。
    その時に、農業技術の情報もアナトリアへ、流れたと考えられます。
    しかしBC7000年頃、その文明は急に終わります。新しい人たちがやって来たのです。
    エリコとともに、パレスチナのいくつかの地点が同じ運命を辿りました。
    侵入は、かなりの規模で行われたのでしょう。
    新しい侵入者は北シリアからやって来たと考えられています。
    この人々は、アナトリア方面から入って来たらしい。
    エリコのそれまでの円形の家は方形の家にとって代わりました。
    その方形の家の床の壁は、磨かれた「しっくい」で覆われていました。
    この方形で磨かれたしっくいの床の家という、かなり特徴のある家がアナトリアのチャタルフュイックの遺跡で発見されています。

    +1

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  • 584. 匿名 2016/04/12(火) 08:40:16 

    続き

    黒曜石の原産地は、アナトリアですが、大きく分けて二つあり一つはカッパドキア周辺、もう一つは、ヴァン湖の北岸地帯にありました。
    カッパドキア系とヴァン湖系の分布は比較的はっきりと分かれており前者はアナトリア南部からパレスティナにかけての地域、後者はチグリス川とユーフラテス川流域が中心になります。
    しかしヴァン湖系の分布は、一部がカッパドキア系の範囲(パレスティナとチャタルフュイック)を中心としたアナトリアの一部)に混在しています。
    一方、ヴァン湖系の黒曜石の産地は多数あり、チグリス川およびその支流地域を中心にユーフラテス川沿岸そしてイラン南西部のスーサ辺りから出土しています。
    と、いうことは、パレスチナ(カナン)のエリコの人々の地域にヴァン湖系が侵略し範囲を拡げたということです。そのヴァン湖系の人々が、アルメノイドだと思われます。
    ハッティ・ミタンニ・フッリ族などと共にエラム族もアルメノイドに組み込まれます。
    BC5100年から4300年までにバビロニア北部でハラフ文化が展開しました。
    この文化の特徴は彩文土器、銅、円形のトロス(祠堂)、押捺印章などで【分業】がはじまり、金属細工人、陶工、石工が生まれ、銅鉱石が交易されて、農村の自給経済を変容させました。
    この頃から銅鉱石を採集してハラフ農民と交換した人々が後にセム族特にアッカド人として歴史に現れます。
    北部にハラフ文化が展開しつつあった時、バビロニア南部ではエリドゥ期で沼沢地に農耕社会が形成されました。
    シュメール人が現れる1000年も前のことです。
    エラム族は、インドのドラヴィダ族と共に、地中海からインダスに至る広範囲な地域を移動し、その一部はアルメノイドと混じりながらシュメール人となってBC3500年頃、ウバイド人がいたバビロンの地に侵入しました。
    「史記」の伏犠氏は、この人々です。
    アルメノイドとは、アナトリア東部のヴァン湖の北岸地帯にいた人々です。
    それは、黒曜石の分布図で現在も解析できるようです。黒曜石は、火山性ガラスでナイフなど鋭利な刃として、中東では銅化合物に取って代られるまで使われました。
    地中海人種は、シリアからペルシア湾に至るメソポタミア北方の山地を廻る肥沃なる三角州を極めて早期に占領し、スサに於ける早期の住民を形成しました。
    肥沃なる三角州文明は、早期から長頭型の地中海人種と高短頭型のアルメノイドの混血人種によって形成され最も古いスメリア文明が発生していたのでした。
    私は、地中海人種をパレスチナのエリコから来た人々、アルメノイドをバン湖付近にいた人々と考えます。
    彼ら混血したスメル人(シュメール・ウル人牛頭)は、四方に散り、小アジア(トルコ)、
    メソポタミア文明、クレタ文明、インド文明、エジプト文明にも共通の文化を及ぼしました。
    彼らが中央アジアのトルキスタンに現れた最古のユーロポイドと考えられます。

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  • 585. 匿名 2016/04/12(火) 11:21:13 

    まだつづいていて嬉しいです(^-^)とても勉強になります!
    南極で発見されたといわれる遺跡?核?嘘か本当かわかりませんが、アトランティスに似てると思うのですが、ポールシフトで南極がアトランティスだったなんてことあるのでしょうか?妄想で横投稿してしまってすみません(._.)
    超古代文明について!

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  • 586. 匿名 2016/04/12(火) 12:36:11 

    書込ありがとうごさいます(^^)
    Φ(。・ω・。) 黙々と調べながらお勉強中…

    今朝方、変な夢を見ました
    籠(太平洋の籃(かご))の中の鶏(神)は浦島太郎(ロト)
    意味不明ですが…考えてなかった事なので少々気味が悪くて…
    悶々とするので思い切って言っちゃいました

    +4

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  • 587. 匿名 2016/04/12(火) 12:38:07 

    >>585
    南極はナチスも調べたりしていたみたいですし何かありそうですよね。

    ピラミッドも有るみたいですね。

    +4

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  • 588. 匿名 2016/04/12(火) 16:44:30 

    金官加羅

    日本最古の王朝、【天の王朝】とは、インド十六王朝の日神系のことです。
    【東表・豊日国】のことで、朝鮮の狗邪韓国(駕洛国・金官加羅)を飛地としていました。
    即ち、この王家は北九州を本国として朝鮮半島の弁辰地域を飛地として支配したのです。
    【東表国】とは元来、東方のオッフル(サマリア)国を表します。
    サマリアのオッフル国の植民市、九州の豊国、朝鮮南部、金官加羅でありました。
    東表国の王はエビス王の【クルタシロス】といい、金官加羅の首露王のことですが【クルタシロス】とは、タルシシ船を意味し、【シロス】は、治政者、王を意味しソロモンの製鉄コロニーでありました。
    ソロモンの父、ダビデが建国した当時エルサレムを支配していたエブス人は、エジプトから撤退した、かつてのヒクソスでヒクソスになる以前はアビシニアでした。
    アビシニアとは元来【混血者】の意味で日本のエビス(エミシ・夷)もアビシニアの意味です。
    BC8、7世紀にアビシニア(エブス)人と現在のソマリアにいたオッフル人の植民地が北九州東部の豊国地方の東表国で、駕洛国または金官加羅国にも飛地したのです。
    金官加羅の王姓は金氏、または中臣氏です。
    奈勿王の時に独立して新羅を建てその子孫が蘇我氏になります。
    北宋版【通典】は倭国王師升(しろす)の国を【倭面土国】とし、『釈日本紀解題』は これを【倭面国】としています。
    【北倭記】と【桓檀古記】を総合しますと『箕子朝鮮が亡びたとき、その上将卓が馬韓に逃れて、辰韓の王となった。
    後に東表国(倭面国)エビス王クルタシロスから鳥栖河と背振山脈の間の地を譲られた』箕子朝鮮の上将卓が帯方(月支)に辰国を建て、秦の亡命者(イスラエルの南朝ユダの人々)は、慶州に馬韓の分国をたて辰韓と称しました。
    この時、箕子朝鮮系の馬韓人に従って渡来した倭人が【北倭】でした。
    北倭と秦の亡命者は、エビス王から鳥栖河と背振山脈の間の地吉野ヶ里を譲られ倭奴国(秦王国)としますが後に神武と公孫氏に破れ、出雲経由で大和地方に【秦王国】を建てます。
    鴨緑江の流域に前方後円型古墳の原型が発見されましたが、これは箕子朝鮮の古墳になります。
    馬韓人に領土を与えたという【東表国王クルタシロス】が【倭面土国王師升】のことです。
    このシロス王は駕洛史では金官国の【首露王】になっていますし、新羅史では金氏の祖の首留日本史では孝元天皇になっています。
    インド史を整理すると、BC1000年にインドは十六王朝の時代となりカッシュ人を中心とする月神王朝とアラビア海の海商を中心とする日神王朝系に分かれていました。
    BC1500年頃~1200年頃、エブス人たちの海人は、レバノンのアルワドからインドのロータルに移住し、デリーを経てマガダ近くまで移動し、インド十六ヶ国時代、コーサラ国アンガ国などの日神王朝諸国になりました。
    日神系のなかにはアンガ、コーサラ、マツラなどの諸国がありましたが、アンガ国はソロモン王のタルシシ船の移民の地でありコーサラ国はフェニキアのアルワド人の植民市であり、マツラ国はアラビア海のメルッハ人の国家でした。
    釈迦は、コーサラ国のなかの王族でした。
    駕洛国の王は、金首露で、王妃はアウド国の女【許氏】で、【許】がアウド国の別名コーサラを指します。皇統譜のなかの孝昭孝安の実体は東表国、即ち駕洛国の王でした。
    この人々が天の王朝で、白村江の戦いの後に彼らが賎民化されて【八の民】となるのですが、これはボルネオの八河の民ということで【山海経】では八匹の蛇になっています。
    記紀神話では八岐の大蛇。マガダの都は、ガヤというところにあって、中国人は、これを加耶と書くのですが、朝鮮半島にできた、そのマガダの人々のコロニーが加羅になります。

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  • 589. 匿名 2016/04/12(火) 16:47:17 

    続き

    チャンバをたてたチャム人のコロニーは、ベトナム南部の林邑国に始まってボルネオの八河地帯のバンジェルマシン(耶馬堤国)、それから公孫氏の燕国につながり九州の日向と南朝鮮の咸安になって、ともにアンガ人、チャム人、または安羅人になります。

    ボルネオのダワヤク族を経由したアッサムのボド族が我が国の山窩になります。
    ニギハヤヒ命というのは、カーシ国の鉄カーストの王です。
    オリエントのウルという海商国家が初めで、インド十六王朝の時代にウルのカルデア人やマラ族などの古代の海人たちがガンジス流域でカーシ国という海商国家をたてました。
    それがマレー半島を経て河南省の宛に入ってきて【宛の徐】氏といわれました。
    この人々は魏と同盟した製鉄部族ですが、魏が秦に伐たれたため、満州に逃れて穢国をたてました。
    これがニギハヤヒ王朝です。
    穢国の王姓はアグリ(余)というのですが扶余、百済もそうです。天皇家も、そういうことになります。
    中国史では堕羅国とか吐火羅と書きますが、後に河南省南陽の宛という所に移動しさらに朝鮮で穢国をたて、扶余と合体して、その涓奴部(けんぬべ)になった後、熊本と南朝鮮に多羅国または多婆羅国というコロニーをたてています。
    多羅は多羅加羅とも多婆羅ともいいますが【タタラ(製鉄部族)ノガヤ】ということです。
    ドヴァラヴァティの王家はサカ族で人民はモン族ですがモン族は、またの名をタライン族といいます。
    漢字で書けば多羅殷(夷)です。熊本に田原坂があります。
    ♪ 雨は降る降る人馬は濡れる。越すに越されぬ田原坂 ♪ という唄がありますがこの地方には製鉄遺跡がありますから、田原というのは田んぼではなくタタラのことだったのです。
    【隋書】の阿毎氏というのは、このチャム人のことですが、元来インド洋の海民でもありこの人々がインドシナ、インドネシア、ボルネオなどに基地を持ちました。
    後にボルネオのバンジャルマシンに倭寇の基地があったのですがここは耶馬堤国で天の王朝の基地でありました。
    朴・昔・金の人々は、高句麗の故国川王が沖縄を支配しようとして、発岐と同盟したことに抵抗し、後に大隈から日向に侵入し、邪馬壱国を攻伐しました。
    新羅王家の紋章は【三つ巴】ですが、沖縄の尚王家の紋章も同じ【三つ巴】で朴昔金を表します。
    高句麗の紋章が【ニつ巴】なのは、昔氏が神武と一緒に九州に渡来してしまったからです。

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  • 590. 匿名 2016/04/12(火) 16:51:52 

    北倭 南倭

    数万年前まで日本列島は中国大陸とつながっていてシベリヤのバイカル湖あたりから古モンゴロイドと呼ばれる人々が今の日本列島の地へと移ってきて、一万年近く続いた縄文時代の担い手になりました。
    彼ら古モンゴロイドの言葉がアイヌ語にわずかに残り、それはそのまま韓語にも通じるといいます。むしろ韓国語のほうが日本語よりアイヌ語に近いといえます。

    (日本語) (アイヌ語)  (韓語) 
     神     Kamui    カム、コム
     川      nai       ネ
     寒い    chamusi    チュブ
    またアイヌ語はネイティブアメリカンの言葉にも近いとされます。
    ユーラシアの北方にはアジアからヨーロッパまで坦々としたステップ地帯が連なっています。
    狩猟民族はマンモスや鹿を追いかけてユーラシア大陸を抜けて北東のシベリアへ進み、さらに南北アメリカに渡たりました。
    温暖の時は北方へ、厳寒になると南下して陸続きの日本列島にも渡って来ました。
    約一万年前に大陸の端っこの陸地が海面上昇のために分断され日本列島が出現しました。
    朝鮮半島と日本列島をつないだのは船でした。
    半島からイカダを出せば海流に乗って簡単に列島に流れ着いてしまうのです。
    韓国・釜山市にある東山洞貝塚は5千年前の朝鮮半島と日本列島の絆の地でした。
    そこからは九州産と見られる縄文土器や有田の黒曜石などが出土しています。
    一方、対馬や九州北部の遺跡からは当時の朝鮮半島産の土器が出土しています。
    釜山市辺りは昔、金官加羅国があった所で、砂鉄を生産し周辺諸国と鉄貿易が盛んでした。
    金官加羅は、九州の国東半島に本国があり、釜山はその出先機関もしくは植民地でありました。
    これを【面土国】といったのは【九州は四面あり】というように、四面土国を省略した言い方で九州国というほどの意味でした。
    九州北東部にあった東表国(豊国)の倭人は【南倭】といわれ、日本の天皇家(南朝)は
    この国家の王家とは直接の関係はありませんが、史書のうえでは、東表国の王が
    孝昭から開化までの天皇(北朝)になっています。
    ところで、【晋書】は【卑弥呼は宣帝の平げる公孫氏なり】と述べます。

    原文は、【漢末倭人乱攻伐不定。乃立女子為王。名日卑弥呼。宣帝之平公孫氏也......】

    この卑弥呼が、記紀では事代主命の娘、神武妃ヒメタタライスズになっているのですが記紀は大物主の軍団に【大來目】がいたと記しますから、遼東の公孫氏にはクメール人(古コメル族)またはその支派の瓦族がいたことは間違いなくこの時、満洲と朝鮮に残留したクメール人または北倭が、後に扶余王依羅(崇神)が
    倭の地に逃れたあとで、唐に敗れた高句麗人を収容して渤海国をたてさらに外蒙古では蒙瓦室韋となり、後に蒙古族になりました。
    ですから、ジンギス汗はもともと北倭の王だったのです。

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  • 591. 匿名 2016/04/12(火) 16:56:10 

    続き

    南倭もまたBC1000年頃、ガンジス河口から採鉱のために、タルシシ船に乗って九州にやって来たエビス族の一派でした。国東半島の重藤遺跡によれば、彼らがこの地に上陸してトーテツ文の土器や青銅器を作り、これを殷に運び、また盛んに砂鉄を採って製鉄を行っていたことが判ります。
    【北倭記】は国東の倭国を【東表国】として【殷(箕子朝鮮)と姻たり】とするのですが、後にこの国は面土国といい、駕洛国といい、金官加羅ともいったのです。
    この金官加羅の王族から分れたのが新羅の金氏であり、後の蘇我氏になります。
    穢国の(扶余後期王朝)の王、ニギハヤヒは熊本にあった多婆羅国の王で、これが後に新羅の昔氏になりました。
    また沖縄の狗奴国の王・南解次々雄または長髄彦は新羅の朴氏になりました。
    神武天皇は実は扶余(前期王朝)王、仇台(神武)のことで扶余と公孫氏が連合して、多羅婆国を併せて邪馬壱国を作ったのです。
    なので日本史で倭人と云うのは、大別して、九州の金官加羅国の【南倭】と公孫氏の分国であった邪馬壱国の【北倭】を指します。
    このうちの【南倭】が朝鮮半島南部の駕洛地方に展開していたのでした。
    東表国または金官加羅国の王家は箕子朝鮮のカルディア人と対婚したアラビア海の海人で、インドのガヤに中間基地があったらしい。
    この人々はBC1000年頃、ソロモン王のタルシシ船でマレー海域から北上して、北九州の国東半島で製鉄基地を築いたのですが、タルシシ船にはヒッタイトの鉱人がいて、ハットウサの地名によって宇佐八幡と名付けられました。
    この国の人民は猪族と南倭で、南倭の方はカーシ族の信仰を維持していました。
    宇佐の原神はバンコとトウビョウであったといいますが、バンコは猪族の犬神信仰でしたしトウビョウはもともとカーシ族のトウレンという蛇神信仰でした。

    【旧唐書】は倭国と日本国を別の国として扱って
    『倭国は古の倭奴国である...-四面に小島、五十余国あり。その王は阿毎氏であった。

    一大率を置いて諸国を検察し、みなこれに畏付する--・・衣服の制はすこぶる新羅に類する』と述べていますが、【新羅に類する】というのは当然で、新羅は面土国または金官加羅国から分れた国だったからです。
    【四面に小島がある】というのは、いにしえの九州を四面といったからです。
    ここで委奴国(秦王国)というのは九州北東部にあった面土国の金官加羅国が馬韓に領土を分けて作らせた国で、後に邪馬壱国に征服されて秦人は去り、邪馬壱国のなかの奴国になります。
    邪馬壱国は福岡の伊都国、吉野ヶ里の倭奴国(奴国)、熊本の多婆羅国、日向の安羅国などの連合国家あって、この内、多羅婆国の王がニギハヤヒでしたが、王姓を阿毎氏といいました。
    記紀は『神武が十種神宝とともにこの姓をニギハヤヒから貰った』と書いています。

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  • 592. 匿名 2016/04/13(水) 00:09:22 

    姫神の神々の詩って曲
    あれは本当に縄文語なんでしょうか

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  • 593. 匿名 2016/04/13(水) 03:54:25 

    >>589
    こういう話すごく興味があります!
    ありがとうございます!

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  • 594. 匿名 2016/04/13(水) 03:56:46 

    >>586
    どういう意味なんですか?

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  • 595. 匿名 2016/04/13(水) 06:53:40 

    >>594
    本人もよくわかりません(^_^;)

    大体は目覚める時にフラッシュのようにひらめく…それは色んな情報の答え(自分なりの)なので、見た瞬間に理解できるのです

    この夢は理解できないので深く考えまいと思ったのですが(-_-)
    浦島太郎…タロー…ロタ…ロト…?
    そんな名前の島はあったような
    何か引っかかる!
    ごめんなさい、スルーで良いですm(_ _)m


    このトピは勉強になりますね
    ルーツに関わる情報は色々調べながら読ませてもらっています(^^)

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  • 596. 匿名 2016/04/13(水) 08:50:17 

    >>592
    縄文語みたいですね

    ア パ ナア ガ マポ
    A-ba,naa-nga MAPO
    私は名前がマポです。

    ア ニ ノノ ト アヤ ト イネ ト イエ ト
    A-ni,nono to,aya to,ine to,ye to,
    私に、祖父(祖母)、父、母

    オト シ ブ イ ブ ム
    oto si bu-i-bu-mu
    兄(姉)と弟(妹)がいます。

    だそうです

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  • 597. 匿名 2016/04/13(水) 08:59:04 

    世界最古の王朝

    日本の天皇家は世界最古の輝かしい歴史を持つ王朝です。
    オリエントでアッシリア帝国と覇を争い、キンメリ人と連合してシルクロードを東遷したウラルトゥ王朝の末裔であり、後に扶余王となって満州の地に君臨し、ソロモンとシバの女王の子、メネリケの子孫である大物主一族(公孫氏)と同盟して邪馬壱国を建て、さらに百済国を建てました。
    この陸・南海シルクロードを駆けた壮大な歴史は、【記紀】によって抹殺され、忘却されてしまったのは残念なことです。
    扶余には、月氏+ウラルトゥ王朝のシルクロード系の前期王朝とインド経由の穢国・南海系の後期王朝がありました。共に製鉄部族です。
    箕子朝鮮が滅亡した後、南海系穢族の王アグリイサトは扶余前期王朝に合流しやがて穢族は強力になり扶余後期王朝になり、東明王と称しました。
    そのため、月氏+ウラルトゥ王朝のシルクロード系の前期王朝は、・エゾの地へ移動し東扶余を建て、その子孫に仇台が出て九州に渡来して神武天皇になりました。
    残念ですが天皇家は万世一系とは言い難く、幾つもの民族の歴史をつないできたものでした。
    天の王朝(東表国・豊日国・金官加羅国)
    BC800年頃、タルシシ船でコーサラ国を経て九州に東表国(オッフルの植民地)を建てた日本最古の王朝。
    エビス王クルタシロス(首露王)のエビス王朝ですがクルタはタルシシ船支配者の意味。
    エビスはエレサレムのエブス人です。エブス人もオッフル人(現ソマリア)も紅海とアラビア海の海人でした。
    のち邪馬壱国に敗れるまで、九州全域を1000年間支配し、譲った後、朝鮮半島の弁辰地域の金海を飛地として支配し駕洛国・金官加羅といわれ、その王家は金氏と中臣氏になりました。
    この王家は【記紀】では孝昭、孝安、孝霊、孝元、開花とつづき、後の倭の五王に至ります。
    この王家から金氏が分離して【新羅】をたてます。

    ニギハヤヒの多羅王朝

    この一族は、かつてディルムンを本拠としたシュメール人とカルデラ人の子孫でした。
    後にソロモンのタルシシ船に参加したヒッタイトの製鉄カーストをも吸収し、アラビア海のヤードゥ族を従えてプール国をたて、ガンジス河口のコーサラ、マガダ両国のシャキイ族となってマレー半島を越え、モン族の地を支配し、ベトナムに文郎国をたて、後に河南省の宛に製鉄コロニーをつくって魏と韓に属していましたが後に、秦に追われて奇子朝鮮をたより、穢国をたてました。
    穢国王アグリナロシは奇子朝鮮を滅ぼした衛氏朝鮮に復讐するため漢に協力しましたが漢は衛氏を滅ぼすと奇子朝鮮を再興させず、楽浪、玄メンの二群にしてしまい欺かれたアグリナロシは自刃したため、その子アグリイサシは遼東太守を殺害して北扶余前期王朝と合体し、その庶子が王位を奪って北扶余後期王朝をたて東明王と称しました。
    穢国の王族はシャカ族で国民はチュルク族でした。ニギハヤヒの姓、余の「アグリ」はドラヴィダ族の一派というゴードン族のなかのサブカーストのアガリアという鉄工部族をさします。そして、この一族後期王朝の陝父(ニギハヤヒ)が南下して熊本に多婆羅国をたて後に、神武・卑弥呼の邪馬壱国に吸収されました。

    【ウラルトゥの歴史】

    カッシート人がウラルトゥ地方に侵入する前から、アナトリアには原ヒッタイト族、カルトヴェリ族ハヤシャ族などが住んでいました。
    フツリ人はエジプトやカナンから、この地に拡散してきたのですが、ヒッタイト資料は、この地方を【フツリ人の国】と記しています。
    フツリ人は、BC2000年紀半ばには、ミタンニ王国に従事し、ヒッタイト王シュビルリウマシュ以降はヒッタイト王国に従属していました。
    ヒッタイト崩壊後、いくつかの少国家がヒッタイトの伝統を継ぎ、重要都市のカルケミシュはハッティ国、オロンテスはハッテナ国となりました。
    そこに、ヒッタイトのムシュ族やカスカイ族が入ってきたのです。
    このようにウラルトゥは、当初からミタンニやヒッタイトのフツリ人、カッシート人チュルク人などからなる、いくつかの部族の連合体でありました。
    カッシート人は月氏になりインドに移ってクル国のなかにも混在しました。
    従ってウラルトゥとクル国は同族であり従属した同盟者といえるでしょう。

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  • 598. 匿名 2016/04/13(水) 09:02:22 

    続き

    約3000年前に、フェニキア人とヒッタイト人の混血によって、ウラルトゥ人が生まれました。
    この時、ウラルトゥ人によって小アジア(トルコ)のヴァン湖周辺に建国されたのがウラルトゥ王国であり、その初代王となったのが、アマテラス(男神)です。
    BC1013年、イシンの末期に、フェニキア人のマカン(海の国)がウラルトゥと共にアッシリアと戦いました。
    その結果、アッシリア王の攻撃でイシン(殷の本国)が滅んだため、番韓のヤードゥは海に浮かんでインドに逃れ、ウラルトゥは、北方ヴァン湖に退き、シャキイ族は、南下して後の穢国になりました。
    この時、カルデア人は、アッシリア軍に捕らえられていたイシン王族の子叔箕しゃ(ししゅきしゃ)を奪い返し、遥々航海して渤海湾に至り、遼東半島に上陸してその地に国を建て、【奇子朝鮮】と名付けました。
    BC781年、ウラルトゥ王アルギシュティシュ1世=ウガヤ王朝初代・衰子餘よ(すいしよ)または申侯が、アッシリア王を破ります。同じ頃、ドーソン(銅鼓)文化の拡散始まります。
    インド太陽王朝のマラ族と月神王朝の連合軍が銅鼓文化を持ってジャワ島、バリー島セレベス島などに入りました。
    アッシリアを滅ぼしてから300余年を経てBC6、5世紀になるとウラルトゥは二分して
    匈奴(キンメリ)と連合するものと、ペルシア(秦)に従属するものとになりました。秦は、この後、益々強くなり燕(フェニキア)も強化されたので、奇子朝鮮は、ついに満州に移って大凌河を国境とし河西の地を譲って東遷しました。
    神武以下の扶余の百済王朝朱蒙は東扶余(北扶余前期王朝)に追われて、北扶余後期王朝(穢国)の陜父らと共に卒本に逃れて高句麗をたて、北扶余を奪って高句麗国をたてました。このために陜父らは九州に亡命し多婆羅国をたてるのです。
    扶余王家は、167年頃、夫台が高句麗と戦い、その子仇台は、高句麗と和解し高句麗の養子になりその王族と化してケイ須といいました。
    後に自立し、公孫氏と同盟して、その宗女を娶り、公孫度は逆に扶余の王女を娶りました。
    公孫氏が南下して帯方郡をたてるとケイ須もその地に至って伯済国をたてた後に百済王仇首といいました。
    この仇首が伊都国王イワレヒコ・神武であり、その妃、卑弥呼は公孫度の宗女で日向にいました。
    高句麗は新大王の長子、発岐が公孫氏と同盟し涓奴部を率いて遼東に都したため、三子、延優らは輯安に移って新国をたてました。
    後に魏によって公孫氏が滅亡した時、発岐一族の旧国は新国に合流しました。
    扶余王家は仇台、位居、麻余と続き、依慮はその末王であり、百済の近肖古王になって鮮卑の慕容カイに討たれて亡命南下し、伊都国の王、祟神になりました。

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  • 599. 匿名 2016/04/13(水) 09:21:07 

    日本人の祖形

    ミトコンドリアDNAは、母親からのみ伝えられY染色体は、父親からのみ伝えられるといいます。
    この二種の遺伝子は、混ざり合うことなく次世代へと変化することなく受け継がれるため私たちの祖先を遡り、最初の哺乳類、それ以前のものにまで辿っていけるのだといいます。

    このようにして一つは父方、一つは母方の遺伝子の二つの系統樹をつくることができます。
    すると、この男系、女系の遺伝子系統樹は、それぞれ、ただ一つの系統がアフリカからやってきたことを示しているといいます。
    男系、女系とも、ただ一つの共通の遺伝子上の祖先をもち、それぞれ世界すべての父となり、母となったのだといいます。
    女系のミトコンドリアから調べると、この成功した南ルートの少数をイヴ一族としています。
    イヴはやがて二人の娘からそれぞれ女系一族をつくりました。
    一つはM、もう一つをN、Nは、ヨーロッパ人の唯一の母になりました。
    Mはアジア人のなかだけにみられます。

    イヴ一族は、インド洋沿岸を周って東南アジアやオーストラリアへ突き進んでいきました。
    彼らはヨーロッパが殖民されるよりずっと以前の6万年以上前にはオーストラリアへ到着していました。
    Nの子孫は温暖期に入った5万1000年以上前、インド湾岸からザグロス山脈の中腹に沿って中央アジア~肥沃な三日月地帯~トルコを通って、最初の南からの最古のヨーロッパ進出を行いました。(M172)
    一方、イブの連れ合い男系の遺伝子標識名をM168と呼びます。
    ユーラシアのアダム、今日生きているすべての非アフリカ系男性の父になります。
    M168の集団の一部がユーラシア南部からオーストラリアへの旅に出発した後に、まだアフリカに留まっていた集団の中に、45,000年前頃、M89という遺伝子の変異を持つ男系が出現します。
    このM89の子孫が現生人類で初めて中東方面に入植した痕跡を残します。
    東へと移動を始めたM89の系統に、40,000年前ごろ、イランか中央アジア南部の平原の辺りで、もうひとつの遺伝子マーカーが出現し、M9と名づけられ、このM9の子孫は、以後3万年間に亘って地球の果てまでその領域を拡大することになる現生人類の主要な系統です。
    このM9というマーカーを持っている人々をユーラシア族と呼びます。
    このユーラシア族が、さらに東へ、内陸部に進もうとしたとき、これまでの移動で初めての、最も深刻な障壁に遭遇します。それは中央アジア南部の山岳地帯でした。
    天山山脈やヒマラヤ山脈は標高7千メートルにもなって立ちはだかり、彼らは二つの集団に分かれるはめになったようです。
    タジキスタンあたりで南に向かったM20マーカーの一族と(インド定住派) ヒンズークシ山脈の北へと移動し、中央アジアへ向かった集団です。

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  • 600. 匿名 2016/04/13(水) 09:21:25 

    続き

    35,000年前頃になると中央アジアで、ユーラシア族にもう一つの突然変異が起こりました。
    M45の出現です。ポーロと名付けられた、このM45こそ東と西にT字型に分かれて、広大なステップを移動した人々です。
    東はシベリアのバイカル湖、そしてずっと後にはアメリカまで、西はヨーロッパへ。
    M45が派生したと同じ頃、テンシャン山脈の北側に沿って移動しジュンガル盆地を利用して現在の中国にたどり着いたグループがいました。
    大半のユーラシア族が侵入をあきらめたルートです。
    このジュンガル盆地は、後にジンギス・カンが中央アジアを侵略するのに利用したルートで、この盆地は、中国やモンゴルから中央アジアへの抜け道になっているのでしょう。
    このグループは、西アジアとヨーロッパには全く見られないY染色体マーカーM175の子孫を残しました。
    M175の系統は、その後ヒンズークシ山脈とヒマラヤ山脈より東に住むアジア人の大多数を占めるほど大いに繁栄し、東アジア族と定義されます。
    しかもこのM175の分岐時期、35,000年前という時期は、まさに日本列島に【最初の日本人(縄文人)】が出現した時期と一致しているのです。
    男系M45の連れ合いはヨーロッパの母系Nの子孫エウロペの五番目の娘U5。
    U5は、パレオ・ユーロペオイド的(白人)だったと考えられます。
    彼らは、新石器時代の後期、BC3000年紀の初めにかけて、南シベリアのイェニセイ河上流とアルタイ地方に、アフナシェバ文化を起こし、西シベリアのソンスク地方にBC1750年~1200年の間分布したアンドロノヴォ文化という青銅文化につながり、さらにBC2000年紀末南シベリアのカラスク文化 と中央アジア北部のダザバギャプ文化につながります。
    カラスク文化は、殷の青銅文化と同様に、西アジアに発達した金属文化の東方流入によって発達したといわれます。

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  • 601. 匿名 2016/04/13(水) 11:20:00 

    人種のルーツに興味があるのでありがたいです(^∀^)
    知らなかった事がたくさん!正しく理解したいので時間をかけて勉強します
    見守っていますので、トピが続いて欲しいです!

    「大甕(オオミカ)」
    「みか」は、水を入れる容器という意味のほかに、酒を入れたり、酒を醸造するときに使われる器という意味だそうです。
    神と人の住む境界として「大甕」が埋められていたか、あるいは「大甕」をおいて祭祀が行われた地であったと考えられています。
    大甕の地(JR常磐線大甕駅の西側一帯)も、風の神山・真弓山へとつづく多賀山地の南端のふもとに大甕神社があります。
    >>578で第三回目の【天孫降臨】で天津甕星(あまつみかほし)らは常陸の大甕などにも移住(まだここ辺りを勉強中です)とありますが、大甕神社と関係ありますよね

    「ミカ」といえば「大天使ミカエル」ですが、
    英語の人名マイケル(Michael)、ドイツ語のミハエル、ミヒャエル(Michael)、フランス語のミシェル(Michel)、スペイン語・ポルトガル語のミゲル(Miguel)、 イタリア語のミケーレ(Michele)、フィンランド語のミカ(Mika)などは、この天使の名に由来する。
    もしかしたら大甕もミカエルを意味していたのではないでしょうか?

    旧約聖書ではペルシアの天使たちと戦うためにつかわされたイスラエルの守り手として現れる。他にも堕天使サマエルの死闘は、のちに竜(悪魔の象徴)と争うミカエルというイメージを生み出した。ロトがソドムから逃げ出させたのも、イサクがいけにえにされるのをとめたのも、モーセを教え諭して導びいたのも、イスラエルに侵攻するセンナケリブの軍勢を打ち破ったのもミカエルであるとされている。ミカエルは「イスラエルの守り手」なのです。
    天上のエルサレムへユダヤ教徒の魂を迎え入れるのも、終わりのときにラッパを吹き鳴らすのもミカエルであるとされている。正教会では、ミカエルはしばしばガウリイル(ガブリエル)とともにイコノスタシスの門に描かれる。
    大甕も神と人の住む境界に埋められるので、二つは同じものではないでしょうか?
    そして”ミカ”とは蛇信仰を倒す役職だったのかもしれません

    竜を倒すミカエル…この竜は蟹の爪を持っている…海竜ですね

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  • 602. 匿名 2016/04/13(水) 11:42:28 

    >>601
    ミカエルはユダヤ教、キリスト教、イスラム教においてもっとも偉大な天使の一人であり、「熾天使」として位置づけられることもある。

    とあります。
    かなり重要な天使みたいですね。
    また3世紀のラビ、シメオン・ベン・ラキシュは、ミカエルという名前や天使の思想はユダヤ人が新バビロニア王国に捕囚されていた時代にバビロニアの宗教の影響によって彼らの信仰する神が取り込まれたものだという説を唱えた。
    この説は現代の学者たちに広く受け入れられている。
    元々ミカエルはカルデア人に信仰された神であったと考えられている。
    このほか、彼がメタトロンと同じくミトラ神を起源とする説がある。

    +4

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  • 603. 匿名 2016/04/13(水) 15:12:14 

    >>588
    >アビシニアとは元来【混血者】の意味で日本のエビス(エミシ・夷)もアビシニアの意味です。

    シュメール人も自らを「ウンサンギガ(混ぜ合わされた者)」と言ってましたね
    アビシニアの場合は多民族国家を意味するのでしょうか?
    それともシュメールの血を受け継いだのでしょうか?

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  • 604. 匿名 2016/04/13(水) 15:46:27 

    >>603
    紀元前10世紀頃、元々この地域にはハム系の住民が存在していましたが、イエメンにあるサバ王国からセム系の人々が多く移り住んで、彼らはエチオピア北部のイエハ (Yeha) の一帯を中心に繁栄したそうです。
    それがアビシニアと言われています。

    ハム系=古代エジプト人
    セム系=フェニキア人・ヘブライ人・アッシリア人と考えるとシュメール系ですね。

    そうなるとシュメール系を含む多民族国家だったのではないでしょうか。

    +2

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  • 605. 匿名 2016/04/13(水) 15:53:35 

    女系社会から男系支配へ

    中東は、アジア、ヨーロッパおよびアフリカの三大大陸が結合する地球上でも珍しい地域です。
    それに紅海で裂かれたアラビア・プレートが、アジア大陸に衝突し、ザクロス山脈をつくっているところです。
    1億年以上前、そこは浅い海でした。
    海の底の藻類やバクテリアの死骸がゆっくりと沈み、地下奥深く堆積しました。
    そして、地熱の働きによって、石油へと変成したのです。
    その中東の資源は昔も今も多くの人々を惹きつけています。
    それは、初期の農耕によって生み出されました。 
    では、農耕はどのようにして始まったのでしょうか。
    ナイル川の畔に文明が誕生したのは、気象変化のためだったと考えられています。
    昔々、北アフリカは、今よりはるかに温潤で植物が多かった。
    最初に農業が開始されたのは、12500~10200年前に存在した地中海東部のナトゥフ文化といわれるパレスチナのエリコでした。
    さらにエリコの人々はアナトリアのチャタルフュィックで自然銅を発見しその銅を加工する高温技術を発明したと思われます。
    特筆すべきは、アナトリアの女系性です。
    壁画、漆喰浮き彫り、石の彫刻、粘土製のおびただしい【女神】小象、すべて女性崇拝の品々が発掘されています。
    この現象は、おそらくエリコからすでにあり、6000年頃にはアナトリアから農業の伝播とともにメソポタミア、コーカサス南方、カスピ海南方、それまでは辺境であった地域にまた一方では南ヨーロッパへと拡大し始めます。
    この地母神は、クレタ島やキプロスにも海路によりつながっていったのです。
    【大いなる女神】が、ときに鳥の姿になったり蛇の【女神】になったりしながら、水の生命授与力を支配し、ヨーロッパとアナトリアでは雨を孕み、乳を与える、そういう文様が刻まれています。
    アナトリアのチャタルフユィックの遺跡からは、母系で妻方居住の社会構造が現れました。
    その構造は、チャタルフユィックからクレタに移住し、太古地母神《女神》と共に農業技術をもたらし、つづく四千年の間に、土器製作、織物、治金、彫版、建築、その他の技能およびクレタ独特の生々とした喜びに満ちた芸術様式の進歩がありました。
    そこでは富は、公平に共有されました。
    年上の女性ないし氏族の長が大地の実りの生産と配分をつかさどり、実りは集団の全員に属するものとみられていました。
    主要な生産手段の共有と、社会的権力は、すべての人の利益になるよう図られ、責任のもとに基本的に共同的な社会組織が生まれていました。
    これは、パレスチナの世界最古の町エリコナトゥフの人々が成功していた共同社会につながると思われます。
    太古地母神《女神》を中心に女も男も異なった人種の人々も・・・共通の幸福のために平等に協力して働いていました。
    母系による相続と家系、至高の神としての女性、現世的権力をもった女司祭と女王の存在はありましたが男性の地位が低いということはなく、両性は平等な協調関係を築いていました。
    男女仲良く手に手をとった姿は、今でも道祖神のなかに見受けられます。

    +3

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  • 606. 匿名 2016/04/13(水) 15:56:44 

    続き

    彼らは、たいへん自然に親しんでいて、アニミズム(精霊崇拝)はクレタだけでなく、ケルト民族にも伝わりました。
    太古地母神《女神》を中心にした文化はアナトリアを中核として地球一周しました。
    ストーンサークルやドルメン、メンヒルなど、これらの祭祀が彼らの残した足跡です。

    しかし、その女神崇拝文化も侵略され滅亡される時がやってきました。
    最初、それは家畜の群の草を求めて彷徨う一見取るに足りない遊牧民の集団にすぎませんでした。
    数千年以上も、どうやら彼らは地球の端の誰も望まぬような厳しく寒く痩せたシベリアに住んでいました。
    その遊牧の集団が長い期間をかけて数と獰猛さを増しヨーロッパ北東からヨーロッパ大陸に群がり南下し侵略してきたのです。
    彼らは最初のインド・ヨーロッパ語族あるいはアーリア人といわれるクルガン人。
    あるクルガンの野営地では、女性住民のおおかたはクルガン人でなく、新石器時代の太古地母神《女神》崇拝の人々であったことが発掘資料から判明しています。
    このことが暗示しているのは、クルガン人が、その土地の男性や子供たちの大部分を虐殺し、女性たちのある者だけを助けて妻や奴隷にしたということです。
    遺跡から農機具のみで武器というものが見あたらない【平和】で【民主主義】な社会が営まれた《女神》崇拝社会が破壊され、男性的支配社会の始まりでした。
    インド・ヨーロッパ語族は、先の文明を築いていた太古地母神《女神》を崇拝する農耕民族を次々侵略していったのです。
    インドに於けるアーリア人、【肥沃な三日月地帯】に於けるヒッタイト人とミタンニ人アナトリアに於けるルヴィ人、東ヨーロッパに於けるクルガン人、ギリシアに於けるアカイア人および後のドーリア人、彼らは征服した土地や先住民の上に次第に自分達のイデオロギーと生き方を押し付けていったのです。
    このほかにも侵略者はいました。
    ヘブライ人と呼んでいるセム系の人々です。

    +3

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  • 607. 匿名 2016/04/13(水) 16:01:13 

    人類の進化は西アジア、中央アジアで起こった

    ★ケバラン洞窟で、ネアンデルタール人の成人男子の化石が発見されています。
    この化石には「モシェ」という愛称がつけられましたが、この化石が発見された層ではムスティエ文化型のフリント石器が発見され、これは6万年前と測定され、このケバランの石器文化は、パレスチナのナトゥーフ文化に引き継がれます。

    ★パレスチナのカルメル山にあるタブーン洞穴で発掘された女性の骨格はネアンデルタール人の身体の上に丸くてずっと現代人的な頭がのっているという明らかに混成的なものであったとされます。

    ★北部イラク山岳地帯のシャニダール洞穴では4万5千~4万4千年前の顔の上部全体が現代人的風貌をもつネアンデルタール変種が見つかっています。
    その近くのスリフル共同墓地から出土したものはネアンデルタール人よりもクロマニヨン人の近接し、また現生人誕生の前夜といえるまで進化したものであったそうです。

    ★中央アジア周辺でも西アジアにあたるアームッド洞穴では頭はネアンデルタール人でありながら、顔はホモ・サピエンスという古いネアンデルタール人と現代人とのつながりを示すものが発見されています。
    しかもその年代は、4万年より前であるとされています。

    ★クリミヤ半島の突端、スタロセリエ洞窟でも1~2才の子供が埋葬されているのが発見されました。
    この子供の骨格を研究した結果、現代人の【人間】型に属するが依然として歯の大きなこと、頬骨が太いことなど、多分にネアンデルタール人の特質を残しており、ネアンデルタール人とクロマニヨン人(ホモ・サピエンスの一種)との中間的位置をしめるものとしています。
    このようにして確かめられた現生人類の祖先はほとんど現在のヨーロッパ人的なものであるから、学者は【ユーロポイド】と名付けました。
    ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの過渡的な遺骨が見いだされたタブーン洞穴やアームッド洞窟は西アジアで、子供の遺骨を見出した西トルキスタンは中央アジアです。

    ヨーロッパ人的であるユーロポイドでありながら、過渡期的人骨が発見されたのは、ことごとく中央アジアと西アジアからであって、ヨーロッパからではありませんでした。
    なぜ、このように、西アジア、中央アジア地域でのみヒトの進化がありえたのでしょうか。
    それは、この時期、リス氷河期には、この地方では気候が湿潤化し、 広葉樹林、落葉樹林多くの湖や河川、多種多様の食糧源に恵まれ、人類の進化に最も適した地域だからでした。

    +3

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  • 608. 匿名 2016/04/13(水) 16:04:05 

    続き

    中央アジア(トルキスタン)は、ユーロポイド(ヨーロッパ人種)とモンゴロイド(モンゴル人種)の二大種が分布した境界領域をなしていますが、古くはトルキスタンの殆んど全域がユーロポイドによって占拠されていて、ユーロポイドの厚い人種的基層が存在しました。
    そのなかで、シベリアでもネアンデルタール人とホモ・サピエンスの過渡期の型からホモ・サピエンスにまで進化したものが、バイカル湖にそそぐアンガラ川沿岸のマルタで発見されました。
    これは、現生シノ・モンゴルの骨格に似ていることから、学者は【モンゴロイド】と名付けました。
    その他、ウラルの東、天山の北にもモンゴロイドを見出し、これは現生トルコ人の骨格に似ていることら、【ツングース的モンゴロイド】と名付けられました。これと区別するためにマルタの人骨を【シノ・シベリア的モンゴロイド】としました。
    何故ここにも人類のこのような進化が行われたのでしょうか。
    その時期にあっては、アルタイ山脈、サヤン山脈、ヤブロイ山脈の北面には、未だ氷原がまだらに残って寒気は厳しかったのですが、その南面には樹林が茂り、その下草が萌え温暖であり、その南には湖沼を連ね緑に囲まれた東トルキスタンという盆地があったからでした。
    したがって、この時期では、東トルキスタンの北壁と東トルキスタン、中央アジア、西アジアは人類進化に絶好な環境に共通する一つの世界をなしていたのでした。
    この辺りは、後に日本人のルーツにあたる月氏、チュルク、スキタイ・サカなどが躍動した地域でもありました。
    では、なぜ、他の地域の人類が、この進化に立ち遅れたのでしょうか。
    シベリアの中央高原が東西を隔離しているオビ河流域は氷原で、これも隔壁になりました。
    ドン河とドニェプル河の線には未だ氷河が残っていて、それはアルプスに連なる欧州の山脈におよんでいました。
    その環境がホモ・サピエンスの出現をシベリアの南側・東パキスタン中央アジア・西アジアの広地に限ってしまったのでした。

    日本列島には、旧石器文化の3万年前から1万4千年前頃に、鋭い黒曜石やサヌカイトの刃物に柄をつけた文化的な工具をもって彼らが渡来しています。
    この時代の石器はヨーロッパの旧石器文化と共通であって隣国の中国大陸の文化とは似てないといいます。ヨーロッパからやってきて日本列島で誕生した旧石器文化と考えられています。
    漢民族の祖型と、日本民族の祖型は、途中から別々の道を選択したのです。

    +3

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  • 609. 匿名 2016/04/13(水) 16:14:46 

    >>604
    ありがとうございます(^^)
    シュメールの文化は現代人が見ても面白いので、古代人にとっては衝撃的だったでしょうね
    複雑なので混乱しますが、面白いです

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  • 610. 匿名 2016/04/13(水) 20:37:39 

    かなり長い文章ばかり連投していますが大丈夫ですか?
    不安です・・・

    東アジア族

    ミトコンドリアDNAは、母親からのみ伝えられY染色体は、父親からのみ伝えられるといいます。
    この二種の遺伝子は、混ざり合うことなく次世代へと変化することなく受け継がれるため私たちの祖先を遡り、最初の哺乳類、それ以前のものにまで辿っていけるのだといいます。
    このようにして一つは父方、一つは母方の遺伝子の二つの系統樹をつくることができます。
    すると、この男系、女系の遺伝子系統樹は、それぞれ、ただ一つの系統がアフリカからやってきたことを示しているといいます。

    男系、女系とも、ただ一つの共通の遺伝子上の祖先をもち、それぞれ世界すべての父となり、母となったのだといいます。
    女系のミトコンドリアから調べると、この成功した南ルートの少数をイヴ一族としています。
    イヴはやがて二人の娘からそれぞれ女系一族をつくりました。
    一つはM、もう一つをN、Nは、ヨーロッパ人の唯一の母になりました。
    Mはアジア人のなかだけにみられます。
    南アラビアとパルチスタン沿岸にMとNの根源と早期の分枝がみつかっていてただ一度の出アフリカ移動が、まず南アジアへ進んで行ったことの証になっています。
    イヴ一族は、インド洋沿岸を周って東南アジアやオーストラリアへ突き進んでいきました。
    彼らはヨーロッパが殖民されるよりずっと以前の6万年以上前にはオーストラリアへ到着していました。
    オーストラリアの母系各族とマレー半島の先住民の遺伝子を調べるとMとNのDNAに属しているといいます。
    Nの子孫は温暖期に入った5万1000年以上前、インド湾岸からザグロス山脈の中腹に沿って中央アジア~肥沃な三日月地帯~トルコを通って、最初の南からの最古のヨーロッパ進出を行いました。
    私たちにつながる出アフリカは、たった一度しか成功しなかったということです。
    その前に、アフリカを出て行った先人類たちは、死に絶えてしまったといわれています。

    一方、イブの連れ合い男系の遺伝子標識名をM168と呼びます。
    ユーラシアのアダム、今日生きているすべての非アフリカ系男性の父になります。
    M168の集団の一部がユーラシア南部からオーストラリアへの旅に出発した後に、まだアフリカに留まっていた集団の中に、45,000年前頃、M89という遺伝子の変異を持つ男系が出現します。
    このM89の子孫が現生人類で初めて中東方面に入植した痕跡を残します。
    東へと移動を始めたM89の系統に、40,000年前ごろ、イランか中央アジア南部の平原の辺りで、もうひとつの遺伝子マーカーが出現し、M9と名づけられ、このM9の子孫は、以後3万年間に亘って地球の果てまでその領域を拡大することになる現生人類の主要な系統です。
    このM9というマーカーを持っている人々をユーラシア族と呼びます。
    このユーラシア族が、さらに東へ、内陸部に進もうとしたとき、これまでの移動で初めての、最も深刻な障壁に遭遇します。それは中央アジア南部の山岳地帯でした。
    天山山脈やヒマラヤ山脈は標高7千メートルにもなって立ちはだかり、彼らは二つの集団に分かれるはめになったようです。
    タジキスタンあたりで南に向かったM20マーカーの一族と(インド定住派) ヒンズークシ山脈の北へと移動し、中央アジアへ向かった集団です。
    35,000年前頃になると中央アジアで、ユーラシア族にもう一つの突然変異が起こりました。
    M45の出現です。ポーロと名付けられた、このM45こそ東と西にT字型に分かれて、広大なステップを移動した人々です。
    東はシベリアのバイカル湖、そしてずっと後にはアメリカまで、西はヨーロッパへ。
    男系M45の連れ合いはヨーロッパの母系Nの子孫エウロペの五番目の娘U5。
    彼らは、パレオ・ユーロペオイド的(白人)だったと考えられます。彼らは、新石器時代の後期、BC3000年紀の初めにかけて、南シベリアのイェニセイ河上流とアルタイ地方に、アフナシェバ文化を起こし、西シベリアのソンスク地方にBC1750年~1200年の間分布したアンドロノヴォ文化という青銅文化につながり、さらにBC2000年紀末南シベリアのカラスク文化 と中央アジア北部のダザバギャプ文化につながります。
    カラスク文化は、殷の青銅文化と同様に、西アジアに発達した金属文化の東方流入によって発達したといわれます。

    +4

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  • 611. 匿名 2016/04/13(水) 20:43:09 

    続き

    M45が派生したと同じ頃、テンシャン山脈の北側に沿って移動しジュンガル盆地を利用して現在の中国にたどり着いたグループがいました。
    大半のユーラシア族が侵入をあきらめたルートです。
    このジュンガル盆地は、後にジンギス・カンが中央アジアを侵略するのに利用したルートで、この盆地は、中国やモンゴルから中央アジアへの抜け道になっているのでしょう。
    このグループは、西アジアとヨーロッパには全く見られないY染色体マーカーM175の子孫を残しました。
    M175の系統は、その後ヒンズークシ山脈とヒマラヤ山脈より東に住むアジア人の大多数を占めるほど大いに繁栄し、東アジア族と定義されます。
    しかもこのM175の分岐時期、35,000年前という時期は、まさに日本列島に【最初の日本人】が出現した時期と一致しているのです。
    日本列島には、旧石器文化の3万年前から1万4千年前頃に、鋭い黒曜石やサヌカイトの刃物に柄をつけた文化的な工具をもって彼らが渡来しています。
    この時代の石器はヨーロッパの旧石器文化と共通であって隣国の中国大陸の文化とは似てないといいます。ヨーロッパからやってきて日本列島で誕生した旧石器文化と考えられています。

    +4

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  • 612. 匿名 2016/04/13(水) 20:54:41 

    スメリア文明

    アナトリアのチャタルフュイックのフュイックとは、テペあるいはテラ、丘をいいます。
    数千年に及んで、何世代もの人間が住居をつくり、それが壊れた後、後からやってきた人たちがその上に新しい住居をつくって住み着く。昔の家は粘土でつくったから、その営みが繰り返される度に、だんだん高さを増していく。
    そして、ついには丘にまで成長したのです。
    チャタルフュイックの周辺は、もとは大きな湖だったらしい。
    しかしBC1万年頃から、湖は徐々に干上がり、昔湖の底だった土地が肥沃な農業の適地となりました。
    チャタルフュイックに、最も早い時期の人間の住居跡が現れるのは、BC7000年頃です。
    BC7000年頃といえば、アナトリアからパキスタンにかけての地域で、小麦や大麦が初めて栽培されるようになった時代です。
    また山羊や豚が家畜化された時代でもあります。
    チャタルフュイックより早い文明の主要な根跡はエリコだけです。
    チャタルフュイックの人々は小麦や大麦、リンゴ、ピスタッシェナッツ、アーモンドなどを食べていました。
    主食は家畜化された牛ですが、野性の動物を狩る状況が壁画に描かれているところから、狩猟も重要な食料補給手段だったようです。
    チャタルフュイックの近くには、黒曜石の産地があり、チャタルフュイックに1000年以上先行するエリコの遺跡で黒曜石が出土しています。
    そのエリコの黒曜石はアナトリアから運んできたものと考えられています。
    エリコの住人は、黒曜石の採掘のためにチャタルフュイックに住み始めたようです。
    集落は非常に特徴的な姿をして、家々はすべてコンパクトに密集し、間に道路がありませんでした。
    外側の壁には入口がなく、人々は木製の梯子を使ってまず屋根に昇り、屋根を伝わって再び梯子で所々に設けられている中庭に降り、そこから家に入りました。
    窓は、壁の高い部分にのみ設けられたことから、チャタルフュイックの人々が、ある程度は外敵に備えていたことは推察できます。
    チャタルフュイックでは、住居の床下に死者を葬りました。
    死体は、外に放置され、はげわし、あるいは小動物、などの清掃人によって、きれいにされた後、室内の床下に葬られました。
    後世の鳥葬の原型です。
    チャタルフュイックからは、火で焼いた粘土製のスタンプや石臼が、出土しています。

    小麦・豆にしても顔料・火薬にしても、すべては、粉から始まるところに気づいた人間は、すばらしいと思います。
    そこから無限の可能性が広がりました。
    スタンプの用途については、たぶん衣類や袋布の所有権を示すためと推定できます。
    家はすべて密集して建てられており、その間には道路もなく人々は顔を突き合わせて住んでいました。
    まだ私有財産など生まれていなかった頃ですが、身の回り品や当座の食料については、家族別の所有関係をはっきりさせておく必要があったのではないか。
    無用な争いを避け、多数の人たちが平和的に暮らすためには、所有権をはっきりさせる必要があります。
    しかし、まだ文字が発明されるより3000年も昔のこと、自分の所有権を表わす唯一の手段が、粘土で特別の文様のスタンプをつくり、顔料をつけて、自分の衣類や穀物を入れたと思われる布の袋に押すことだったのでしょう。
    印章の起源は、メソポタミアではなく、それより遥かに古いチャタルフュイックだったのです。

    +5

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  • 613. 匿名 2016/04/13(水) 20:57:20 

    続き

    メソポタミア北方の山地を廻る肥沃なる三角州を極めて早期に占領したのはナトゥフ文化の流れを汲む地中海人種ののエリコの人々でした。
    長頭型の地中海人種はさらにスーサに於ける早期の住民を形成しインダス文明に先行する時期に北部インドを占領しました。
    アナトリア北部ヴァン湖付近にいたアルメノイドは地中海人種にやや遅れてスーサやインドへ進入しました。シュメール、ハッティ、ミタンニ、フルリ、エラムなどがアルメノイドに属し、彩陶文化の担い手でした。
    したがって肥沃なる三角州文明は早期から長頭型の地中海人種と高短頭型のアルメノイドの混血された人種によって形成されスーサでは最古のスメリア文明でした。
    アルメノイドのフルリ人は、後のアーリア=印欧語族になったと考えられます。

    エラムには数多くのフルリ人が関与していた記録が残されており、 ヒッタイト帝国と交流があった事が分かっています。
    フルリ人は、メソポタミアのシュメールとアッカドからアナトリアとヒッタイト王国までの間の広いエリアを支配していました。
    フルリが、アーリア人かインド・ヨーロッパ語族起源であったと考えられます。
    エラム各地にフルリ人が移住しており、エラムの諸都市にはフルリ人の王を頂く都市が多数出ていて彼らの王たちはインド・ヨーロッパ語族の名前をもっていました。
    そして、彼らの軍隊と騎兵用語は、インド・ヨーロッパ語族から生じています。
    フルリ人は、文化的、宗教的にヒッタイト人に影響を与え、ヒッタイトの神話が、フルリに由来することも解ってきました。
    紀元前1300年、大規模な移住と侵略の圧力の中で、フルリは自らの王国の北東の部分へ退き、バン湖の近くで彼らの新しい首都を創出して、彼らの王国をウルアルトゥ(アララト)と呼びました。

    +4

    -0

  • 614. 匿名 2016/04/14(木) 03:07:08 

    前に古代に行った夢を見た
    洞窟の湖をどこかの民族衣装を着ている人と泳いでて洞窟には一面に壁画があった
    洞窟を出ると広場みたいになっていて多きなテーブルの上に果物や料理が置いてあった

    +3

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  • 615. 匿名 2016/04/14(木) 06:29:57 

    >>610
    知識と読解力が少ないので調べながら読ませて戴いてます(^^)
    >>591を勉強中です(遅すぎる?!)
    卑弥呼が事白主の娘だったなんて…スッキリしました~
    気になる事があればコメントするので、気にせず行っちゃってくださいm(_ _)m
    実は奈良に気になる事がありますが、急ぎの用事が済んだらコメします

    >>614
    夢って重要だと思いますよ
    私は4歳に万里の長城にいる夢を見ました。そこを見たこともなかったのですが…前世ですかね(汗)

    +3

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  • 616. 匿名 2016/04/14(木) 09:00:14 

    ユーロポイドのルーツ

    中東地域に現れた最初の人間と考えられるケバラン人が姿を現すのがBC1万8000年頃。
    それは、ヨ-ロッパの氷河期の最盛期に当たっていました。
    ヨ-ロッパは氷河期に一度ほとんど無人化した可能性があります。
    寒冷化から逃げなければならなかった彼らの行き先は南にしかありませんでした。
    彼らケバラン人は、中東、パレスチナに現れその後の文明の主流になりました。

    約1万5000年前、地球の温暖化が始まり、不毛の砂漠だったシリアの北部に草原や森林が広がりました。
    新しく出現したシリアの環境は、木ノ実や小動物など豊富な食糧を供給し、周辺の狩猟採取民族が、ハルーラという場所で定着生活に入ります。
    しかし、約1万1000年前に、地球的規模の寒気の揺り戻しがありました。
    シリア北部の自然環境は、もはやかっての生産性豊かなものではなくなり人類史上最初の定着生活を始めていた人々は、人口の増加をもたらし、そこへ突如襲った環境の激変と、それに伴う食糧の減少は村落の住人を窮地に追い込んだに違いありません。
    しかし彼らは、未曾有の困難に敢然と立ち向かったらしい。この時代の地層の考古学的発掘が興味深い事実を発見しました。約150種類の植物の種が発見されたのです。
    中には、クローバーの種など、とうてい食用に耐えない植物の種も含まれていました。
    明らかに彼らは、危機に直面して、ありとあらゆる可能性を探ったとおもわれます。
    彼らにとって幸いだったのは、その中に小麦が含まれていたことです。
    小麦は比較的寒さに強い。さらに現代の専門家の研究によって、小麦の驚くべき性質が明かになりました。
    野性の小麦は、たった10年程度の繰返し栽培でも、その性質を見る見る変え粒が大きくなり殻は柔らかくなって、食用に適したものになったのです。
    この小麦の変幻自在の性質が、その後の文明の発展に決定的な影響を与えました。
    しかし、初期の農業村落のほとんどは、大きな規模の町に発展する前に消えていきました。
    初期農業村落の幼児死亡率は高かったのです。

    BC1万1000年頃、中東に現れたナトウフ人は、ケバラン人の系譜につながります。
    世界最古の農業は、BC1万年より少し下がった頃、カルメル山の周辺に溯ります。
    エリコの町は天然のオアシスで、エリシャの泉は、遊牧民たちの水飲み場でした。
    人が集まりやすい場所だったのです。
    エリコの最初の住民ナトウフ人が、北西のカルメル山の山麓からやって来たと考えられています。
    その周辺には、現在の大麦や小麦の先祖の野生種が自生していて、最初は、野生の麦を動物の骨の柄に石の刃を埋め込んだ原始的な鎌で採取し始めたと思われます。
    農業は通常の採取経済に比べて50倍もの生産性をもつといいます。
    カルメル山からエリコへ移り、農業を始めたナトウフの人々は、共存共栄の元に平等に暮らし生産性を高めましたから幼児死亡率を減らし2000人ほどにも人口を増やしました。
    エリコの最初の文明は約1000年続きました。
    しかし、農業が安定し、穀物を貯蔵し、エリコが繁栄し豊かになると外敵が出現し、城壁を造らなくては、ならなくなったと思われます。

    +4

    -0

  • 617. 匿名 2016/04/14(木) 09:09:13 

    続き

    ナトウフの人々は、アナトリアへ、武器を探しにいったようです。
    黒曜石です。
    その時に、農業技術の情報もアナトリアへ、流れたと考えられます。
    しかしBC7000年頃、その文明は急に終わります。新しい人たちがやって来たのです。
    エリコとともに、パレスチナのいくつかの地点が同じ運命を辿りました。
    侵入は、かなりの規模で行われたのでしょう。
    新しい侵入者は北シリアからやって来たと考えられています。
    この人々は、アナトリア方面から入って来たらしい。
    エリコのそれまでの円形の家は方形の家にとって代わりました。
    その方形の家の床の壁は、磨かれた「しっくい」で覆われていました。
    この方形で磨かれたしっくいの床の家という、かなり特徴のある家がアナトリアのチャタルフュイックの遺跡で発見されています。

    黒曜石の原産地は、アナトリアですが、大きく分けて二つあり一つはカッパドキア周辺、もう一つは、ヴァン湖の北岸地帯にありました。
    カッパドキア系とヴァン湖系の分布は比較的はっきりと分かれており前者はアナトリア南部からパレスティナにかけての地域、後者はチグリス川とユーフラテス川流域が中心になります。
    しかしヴァン湖系の分布は、一部がカッパドキア系の範囲(パレスティナとチャタルフュイック)を中心としたアナトリアの一部)に混在しています。
    一方、ヴァン湖系の黒曜石の産地は多数あり、チグリス川およびその支流地域を中心にユーフラテス川沿岸そしてイラン南西部のスーサ辺りから出土しています。
    と、いうことは、パレスチナ(カナン)のエリコの人々の地域にヴァン湖系が侵略し範囲を拡げたということです。
    そのヴァン湖系の人々が、アルメノイドだと思われます。
    ハッティ・ミタンニ・フッリ族などと共にエラム族もアルメノイドに組み込まれます。

    BC5100年から4300年までにバビロニア北部でハラフ文化が展開しました。
    この文化の特徴は彩文土器、銅、円形のトロス(祠堂)、押捺印章などで【分業】がはじまり、金属細工人、陶工、石工が生まれ、銅鉱石が交易されて、農村の自給経済を変容させました。
    この頃から銅鉱石を採集してハラフ農民と交換した人々が後にセム族、特にアッカド人として歴史に現れます。
    北部にハラフ文化が展開しつつあった時、バビロニア南部ではエリドゥ期で沼沢地に農耕社会が形成されました。
    シュメール人が現れる1000年も前のことです。

    エラム族は、インドのドラヴィダ族と共に、地中海からインダスに至る広範囲な地域を移動し、その一部はアルメノイドと混じりながらシュメール人となってBC3500年頃、ウバイド人がいたバビロンの地に侵入しました。
    「史記」の伏犠氏は、この人々です。
    アルメノイドとは、アナトリア東部のヴァン湖の北岸地帯にいた人々です。
    それは、黒曜石の分布図で現在も解析できるようです。
    黒曜石は、火山性ガラスでナイフなど鋭利な刃として、中東では銅化合物に取って代られるまで使われました。

    地中海人種は、シリアからペルシア湾に至るメソポタミア北方の山地を廻る肥沃なる三角州を極めて早期に占領し、スサに於ける早期の住民を形成しました。
    肥沃なる三角州文明は、早期から長頭型の地中海人種と高短頭型のアルメノイドの混血人種によって形成され最も古いスメリア文明が発生していたのでした。
    私は、地中海人種をパレスチナのエリコから来た人々、アルメノイドをバン湖付近にいた人々と考えます。
    彼ら混血したスメル人(シュメール・ウル人牛頭)は、四方に散り、小アジア(トルコ)、
    メソポタミア文明、クレタ文明、インド文明、エジプト文明にも共通の文化を及ぼしました。
    彼らが中央アジアのトルキスタンに現れた最古のユーロポイドと考えられます。

    +3

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  • 618. 匿名 2016/04/14(木) 09:19:25 

    ユーロポイド 2

    シベリア南部のユーロポイドの中心地域は、イェニセイ川上流域・アルタイ山地方面にあって、そこでは前3000年紀末から前2000年紀前半のミヌシンスク盆地を中心として、アファナシェヴォ文化(早期青銅器文化)、それに続いて前2000年紀後半から末期頃まで、カザーフ草原からミヌシンスク盆地にわたって広く分布したアンドロノヴォ文化(前期青銅器文化)の担い手が、いずれもユーロポイドでした。
    その内、アンドロノヴォ文化は、ユーラシアに広布した大ユーロポイドの一分枝としてカザフスタンで成立し、東方へ移動した一亜人種であることが人類学者の見解です。

    これに対し、前2000年紀末ないし前1000年紀の最初の四分の一頃の、中期青銅器時代のカラスク文化の担い手は、典型的なユーロポイドとモンゴロイドの性質をもったものがミヌシンスク盆地で共存しており、モンゴロイドは東アジア分枝の特徴である狭顔を示し、黄河流域の中国新石器時代の彩文土器文化人(シナ型モンゴロイド亜人種)に類似しているといいます。
    カラスク文化は、内モンゴル・長城地帯のオルドス青銅器文化とも親縁な関係にあり、華北の殷周青銅器文化とも関連のあるものでした。
    従って、ミヌシンスク盆地に現れたシナ型モンゴロイド亜人種は内モンゴル・長城地帯方面からモンゴル高原を経由して、北上していったものと考えられています。
    一方、大モンゴロイドの他の分枝がシベリアの早期青銅器時代に、北方ユーラシアの森林地帯に沿って、遠く北欧のバルト海沿岸地方まで、浸透した事実が観察されておりイエニセイ川以西では、ヨーロッパとアジアの人種 の境界が森林地帯と草原地帯に符号しています。
    西方のモンゴロイドの浸透は、シベリア北部の森林地帯に沿って起こっており一方、イエニセイ川上流域から西トルキスタンを隔離している西シベリアの低地の広大な草原地帯は、長くユーロポイドによって占住されたといいます。

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  • 619. 匿名 2016/04/14(木) 09:23:24 

    続き

    イェニセイ川上流域のミヌシンスク盆地における、前七世紀~前二世紀のタガール文化の担い手はユーロポイドで、長頭型と短頭型の二亜人種が識別されました。
    タガール文化は、南ロシアのスキタイ文化や、西シベリア・カザフスタンのサルマート・サカ文化と密接な関係にあります。
    すなわち、この時代のイエニセイ川上流の住民は、東南モンゴロイドよりも西南のユーロポイドに、はるかに強い結ぶつきを示しており、それが北方ユーラシアに於ける最初の牧畜・騎馬民族文化(スキタイ系金属文化)の潮流とも完全に符合するといいます。
    この事実が、スキタイ系金属文化の分布圏内に西南から東北に並んだ中央アジア史上最初の騎馬民族であるスキタイ、サルマタイ、サカ、康居、烏孫(ウスン)、月氏、隔昆(堅昆)などの民族がいずれもユーロポイドと解されている所以の一つですが、それには、古代中国やギリシア・ローマの史書に、【深目高鼻】とか【多髯】とか、彼らについて、そのユーロポイド的風貌を示唆する記載があります。

    ミヌシンスク盆地では、タガール文化に続いて、前二世紀~後三、四世紀の間にタシトゥイク文化が現れ、トルコ・モンゴル系民族文化要素の含有が観察され、土着住民であるユーロポイドとモンゴロイドとの混融を示します。
    ミヌシンスク盆地から西方のアルタイの高地や山麓でも、前1000年紀の後半頃東方からのモンゴロイドの到来、特に匈奴(フン)の西遷を示唆する長頭型モンゴロイドの出現が指摘されています。
    それがいっそう明確になるのは、キルギズ共和国内のタラス川流域や天山・アライ山脈で発見された匈奴古墳から出土した人骨からであり、典型的なモンゴロイドも、典型的なユーロポイドも両者の混合型もあって、1、2世紀頃のキルギジアの匈奴は単一なものではなく、各種の胡族の集合体であったことを示しています。
    本来はモンゴロイドの匈奴がキルジアまで西遷したころには、各地で先住のユーロポイド住民の鳥孫(ウソン)やサカや康居などを取り込んで、人種的にも複雑化したことを示唆しています。
    これと同様な現象は、ハンガリーのフン(西方匈奴)の古墳出土人骨の調査でも明らかになっています。
    4世紀に【草原の遊牧民=匈奴(フン)】が出現するまで、ヨーロッパでは、中央アジア型の典型的なモンゴロイドの存在は知られていなかく、フンを普通のユーロポイド型に比べて身長が低いこと、肩幅が広いこと、毛深くないこと、頬骨の著しい、広い顔、細い眼、扁平な鼻となどと、歴史家によって記述され、それらの特徴は、フンがモンゴロイドに属することを物語っています。
    この匈奴=フンの西遷は、モンゴロイドのヨーロッパへの最初の移動であり、その後ユーラシアに起こった東から西へのモンゴロイドの波状的西方移動の序幕でありました。

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  • 620. 匿名 2016/04/14(木) 09:30:36 

    ユーロポイド(白人種・ヨーロッパ人種)

    日本人の祖は中央アジアにて、ユーロポイドの白人とモンゴロイドの混血によって形成されたと考えられます。
    月氏、サカ族など中心になって倭国や秦国を造っていった人々白皙碧眼のヨーロッパ人種に近い容姿であったと推測されます。
    彼らが、蘇我氏、物部氏、藤原氏として君臨していた可能性があります。
    そのあたりを先達の歴史研究家、亀井貫一郎氏、石川三四郎氏、江上波夫氏は、よく調べておられるので、参考にさせていただいています。

    ユーラシア大陸の歴史に重要な人種としてユーロポイド(ヨーロッパ人種)とモンゴロイドの2種があります。
    ユーロポイドはヨーロッパ、地中海、西アジアからトルキスタン北方ユーラシアに亘って古くから広く分布しました。
    これに対し、モンゴロイドは、モンゴリア、中国、東北アジア、東南アジアチベットに亘って、これまた古くから広く存在したらしい。
    中央アジアは、この二代人種の分布した地域の、いわば境界領域を成していましたが、非常に古くからトルキスタンの殆んど全域がユーロポイドによって占拠されていて、そこに長年にわたって形成された厚いユーロポイドの人種的基層が存在していました。

    トルキスタンに現れた最古のユーロポイドは、地中海人種あるいは西南アジア人種といわれる亜人種で西アジアの北部から前5000年紀末~前4000年紀初、現在のトルクメン共和国がイランと境を接するムルガブ川流域やコペト=ダーグ山麓地方に移住してきた初期農耕民で、長頭型をもって特徴づけられていました。

    次に前3000年紀~前2000年紀への移行期に、現在のウズベク共和国のシル・アム両河流域地帯に現れたのが短頭型のユーロポイド亜人種で、一方ではパミール=アライ高地から東トルキスタンまで、他方ではトランスカフカズや小アジアからバルカン半島まで広がっており、さらにアドリア海地方からアルプス山脈地方までアルプス亜人種として分布した短頭型ユーロポイドとも関係あるものでありました。
    またやや遅れて前2000年紀の後半に、イラン北部のエルブルズ山脈内に移動してきて、そこを根拠に騎馬民族的後期青銅器・初期鉄器文化を発達させた「山の武人」の短頭型人種とも一連のものと見られます。
    このようにトルキスタンのユーロポイドには、シル・アム両河流域人種のような短頭型亜人種とトランスカスピア(トルクメニア)亜人種のような長頭型の亜人種があり、これら両人種型はほぼ南北に平行して広く存在しました。
    前者の短頭型亜人種は、東は東トルキスタンから、西はアルプス地方まで、パミール=アライ、トランスカフカズ、小アジア、バルカン、アドリア海域を含めて分布し、後者の長頭型亜人種は、東は北インドからイラン、シリアを経て、西は地中海の半島部や島々まで広がっていました。

    一方、ユーラシア大陸の北方では、新石器時代にサーヤン・アルタイ高地からバイカル湖南辺までユーロポイドが浸透しており、バイカル湖の東・西両岸以東に広布したモンゴロイドと対立しました。

    +2

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  • 621. 匿名 2016/04/14(木) 15:06:20 

    読み直そうと思って開いたら、まだ続いてる!
    投稿してくださってるみなさん、ありがとうございます!

    +4

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  • 622. 匿名 2016/04/14(木) 15:55:28 

    >>621
    ありがとうございます。
    頑張って投稿しますのでゆっくり読んで下さいね。

    +3

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  • 623. 匿名 2016/04/14(木) 16:11:03 

    古代イラン人

    新石器時代の後期、BC3000年紀の初めにかけて、南シベリアのイェニセイ河上流とアルタイ地方に、ユーロポイドのアフナシェバ文化が栄えアフナシェバ文化は、西シベリアのソンスク地方にBC1750年~1200年の間分布したアンドロノヴォ文化という青銅文化につながり、さらにアンドロノヴォ文化は、BC2000年紀末南シベリアのカラスク文化と中央アジア北部のダザバギャプ文化に代わりました。
    カラスク文化は、殷の青銅文化とつながり発達したされます。
    BC1550年頃に中国大陸に成立し、BC1050年頃に滅びたとされる【殷王朝】は中央アジアにいた採鉱民族ユーロポイド(アジア)と対婚し組み入れたと考えられます。
    王朝といっても、【殷】は、秦帝国や漢帝国のように、一人の帝王が絶大な権力をもって支配した国家というものではなく、かなりの数の部族社会が連合し、比較的強大な一つの部族社会を連盟主として結合した部族連合でした。
    わたしは、【殷】は当時、バビロニアにあったイシン王国の中国大陸に進出した植民国だったと考えます。その頃は、中国という国は、未だ存在していませんでした。

    イシン王朝とは、メソポタミアの南海シルクロードの起点であり、ペルシャ湾に面したチグリス・ユーフラテス河の河口にあったアッカド・シュメールのイシンとカルデア人の海の国の人々と、エブス人の都市国家でした。
    彼らは貿易によって富みを蓄積して、このカルデア人の国家の後継者というべき国家が古代イスラエル王国でした。殷王朝は、メソポタミアの南バビロニアを支配していたイシン王朝の植民地として始まり、中国に征服国家、金属文明をもたらしました。
    その後、フェニキア人、カルデア人、エブス人に加えて、ソロモン王国のユダヤ人ヒッタイト人が、海のシルクロードを通って極東アジアに進出します。貴金属や真珠を求めて彼らはインドシナのクメール人(大伴氏)を伴い、マレー海域から北上、山東半島に上陸して、殷が滅びた後も、その青銅文明を継承したと考えられます。

    古代イラン民族について、テペ・ヒッサールの発掘によってソ連の学者は BC3000年において、アジア方面に向かって広がるカスピ海北方の草原地帯にいた牧民的ユーロポイドが、カスピ海の東側に沿って南方に移り、アラル・カスピ盆地を出てシルダリア、アムダリアの川床に沿って遡り、ヒンドゥクシュの狭路に入り、彼らはそこでヒンドゥクシュの南麓にインダス川の上流の河源とその川の上流の川床を発見しこれらをつたって最後にパンジャブ地方に達したと結論をくだしています。
    この民族はイラン的ユーロポイドでしたが、パンジャブでインド的ユーロポイドへと形成され、それがサンスクリット語民になったのでした。
    この民族のほかの一隊は、アラル・カスピの故地からコペット・ダーグを越え南西に進んでバビロニアの国境に達したとされます。
    さらにほかの一隊は、黒海のクリミア、ウクライナを経て西に移り、ダニューヴの上流、ユーゴスラビアとルーマニアの国境上に、レペンスキー・ヴィルの遺跡を遺しています。
    サンスクリット語にインド的なものとイラン的なものがありこのそれぞれの語族をインド・アーリアンとイラン・アーリアンと呼び、彼らの言語が今日の欧州白人諸国の言語を形成しています。
    この言語が印欧語系といわれ、アーリアンといえば白人種一般の総称とされています。

    +3

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  • 624. 匿名 2016/04/14(木) 16:14:49 

    続き

    このイラン人がバビロンにおいても、アナトリアにおいてもさらに時代が下がって、カッシート、ウラルトゥ、ミタンニの諸王国においてもヒッタイト王国においても、実は、それぞれの王国の指導階級をなしていたことが明らかになっています。
    そもそも彼らの源流はチグリス・ユウフラテスの両河が育てた原始農民の文化としてオリエントおよびその周辺の遺跡から出土したものが最も古いとします。
    わたしは、さらに遡って、パレスチナのエリコで始まったナトゥフ文化、もっと以前は、カルメル山のケバラ人が祖ではないかと推測しています。
    根拠は、前に書いた下記の記事によります。

    ★ケバラン洞窟で、ネアンデルタール人の成人男子の化石が発見されています。
    この化石には「モシェ」という愛称がつけられましたが、この化石が発見された層ではムスティエ文化型のフリント石器が発見され、これは6万年前と測定され、このケバランの石器文化は、パレスチナのナトゥーフ文化に引き継がれます。

    ★パレスチナのカルメル山にあるタブーン洞穴で発掘された女性の骨格はネアンデルタール人の身体の上に
    丸くてずっと現代人的な頭がのっているという、明らかに混成的なものであったとされます。

    ケバラ人の流れを汲むナトゥフ人がメソポタミアから黒曜石や自然銅などの金属を求めて中央アジアやシベリアなど東方へ移動したものと考えます。
    またアナトリアから北方へ移動しヨーロッパへ向かった人もいたでしょう。
    治金技術の根源は現在のトルコ、チャタルフュイックにありました。
    ヨーロッパの銅時代をBC4500年からBC2000年まで、青銅時代をBC2000年からBC1000年までとしています。
    これらの時代はヨーロッパの巨石文明時代と重なっています。
    ヨーロッパの巨石文明でもっとも有名なのは、イギリスのストーン・ヘンジです。
    そのイギリスつまりブリテン島の対岸の、フランスのブルターニュ地方もまた、カルナックの巨石文明で有名です。
    ブリテンにしてもブルターニュにしても語幹に「ブリ」または「ブル」という言葉を含んでいる点、【ブル】は、現代の英語で【牡牛】を意味し、それはアナトリアからメソポタミア
    へ流れた文明の言葉では、牛を意味したと。
    ブルはウルにBという接頭語がついた形であり、さらに興味深いのは、イギリスに現れたもっとも古い人間はイベリア人であったと。
    イベリアとは、現在ではスペインとポルトガルを指しイベリアという言葉の中にも、ベリという多分ブルから変化したと考えられる語幹が潜んでいるという説があります。
    世界的にも、地名とそこにかつて住んでいた民族の名とは密接な関係がある場合が多い。
    そこで諸般の状況から、イギリスやフランスなど、ヨーロッパ北西部の巨石文明は、イベリア半島経由で、アナトリアもしくはメソポタミアからやってきた・・・すでに銅冶金を知っており、ヨーロッパに最初に銅をもたらした人々によってつくられた可能性が高い。
    ヨーロッパで銅や金が最初に現れるのは、BC5000年頃、場所はバルカン、現在のブルガリアとルーマニアを中心とした地域です。
    これらの地域は、南部のバルカン山脈、西北のトランシルバニア山脈、さらに北部のポーランドまで伸びる
    カルパチア山脈によって囲まれ、これらの山は、昔から銅や金を産出したことが知られています。

    +3

    -0

  • 625. 匿名 2016/04/14(木) 23:44:36 

    >>557

    フリーメイソン(石工・ギルド)=蛇信仰でしょうか?
    苗族が信仰していたそうですが…

    +5

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  • 626. 匿名 2016/04/15(金) 08:54:47 

    >>625

    フリーメイソンには独自の教義があります。
    キリスト教もユダヤ教もイスラムもブッダも、全部認めた上で、その神々の上に「超越的存在」の唯一神を君臨させ、崇めているそうです。
    実はその象徴とされるのが、聖書にも登場する悪魔の王、ルシファーなのです。

    1989年7月14日、世界中のフリーメイソンのうち「最高位33階級」のメンバーに向けた極秘書簡の中にはこう記されていました!

    「メイソン団の信仰は、高階位にいる我々全員の手でルシファーの純粋な教義を維持することにある!」と。

    アダムとイブに禁断のリンゴを食べさせた悪魔は蛇となって現れます。
    蛇の信仰は十分考えられますね。

    +2

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  • 627. 匿名 2016/04/15(金) 11:32:39 

    >>626
    衝撃的です~(>ω<)

    全ては最後の審判をするためのシナリオですよね?
    信仰の形を変えて、同じ事を繰り返す…

    +2

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  • 628. 匿名 2016/04/15(金) 11:34:48 

    本日は前回に報告したユーロポイド について書かせて頂きます。

    ネアンデルタール人とクロマニヨン人との混血で中央アジアで発生したものがヨーロッパ人の骨格と似ていることから、これを【ユーロポイド】といいます。
    おそらく後のアーリア族であったと考えられます。
    日本人のルーツにはアーリア人も関係しています。
    アーリア人は、どのように形成されていったのでしょう?
    中央アジア(トルキスタン)は、ユーロポイドとモンゴロイドの二大人種の分布した地域の境界領域をなしていました。
    古くはトルキスタンの殆んど全域がユーロポイドによって占拠されていて、ユーロポイドの厚い人種的基層が存在しました。
    中央アジアのアジア的ユーロポイドは、新石器時代の直前にはすでにインド的ユーロポイドとイラン的ユーロポイドに分化しています。
    イラン的ユーロポイドは、パミールの西方、アラル海の東方という中央アジアにいました。
    パミールの東のタリム、アラシャン、ゴビ、オルドス、中央アジアは砂漠化しましたが彼らは新石器時代に入って、農耕、家畜の飼育と銅器文化やがて、青銅器文化を開花させ始めました。

    さて、中央アジア以前には、彼らは、どこにいたのでしょう。これは私の推測です。
    氷期の終わりの約1万2千年前頃に温暖化していくなかで急激な戻り寒冷期がありました。
    ヤンガー・ドライアスと呼ばれている現象です。
    中近東ではこの時の寒冷化によって採取できる食物が減りそれを補うために農業技術が進歩したと考えられています。
    最初に農業が開始されたのは、12500~10200年前に存在した地中海東部のナトゥフ文化といわれるパレスチナのエリコでした。
    さらにエリコの人々はアナトリアのチャタルフュィックで自然銅を発見しその銅を加工する高温技術を発明したとされます。
    アナトリアではエリコの人々のチャタルフィックと北部のヴァン湖付近に高地農耕が進みます。
    ヴァン湖の人々は、気候の激変により北方(ヨーロッパ)から南下してきたと考えられます。
    やがて彼らは農耕に最適な環境のメソポタミアに進出し一方、銅を求めて移動していった人々との間に交易が始まりそれは、めざましい成長を遂げるのです。

    メソポタミア北方の山地を廻る肥沃なる三角州を極めて早期に占領したのはナトゥフ文化の流れを汲む地中海人種ののエリコの人々でした。
    長頭型の地中海人種はさらにスーサに於ける早期の住民を形成しインダス文明に先行する時期に北部インドを占領しました。
    アナトリア北部ヴァン湖付近にいたアルメノイドは地中海人種にやや遅れてスーサやインドへ進入しました。シュメール、ハッティ、ミタンニ、フルリ、エラムなどがアルメノイドに属し、彩陶文化の担い手でした。
    したがって肥沃なる三角州文明は早期から長頭型の地中海人種と高短頭型のアルメノイドの混血された人種によって形成されスーサでは最古のスメリア文明でした。
    アルメノイドのフルリ人は、後のアーリア=印欧語族になったと考えられます。

    +2

    -0

  • 629. 匿名 2016/04/15(金) 11:39:01 

    続き

    エラムには数多くのフルリ人が関与していた記録が残されており、 ヒッタイト帝国と交流があった事が分かっています。
    フルリ人は、メソポタミアのシュメールとアッカドからアナトリアとヒッタイト王国までの間の広いエリアを支配していました。
    フルリが、アーリア人かインド・ヨーロッパ語族起源であったと考えられます。
    エラム各地にフルリ人が移住しており、エラムの諸都市にはフルリ人の王を頂く都市が多数出ていて彼らの王たちはインド・ヨーロッパ語族の名前をもっていました。
    そして、彼らの軍隊と騎兵用語は、インド・ヨーロッパ語族から生じています。
    フルリ人は、文化的、宗教的にヒッタイト人に影響を与え、ヒッタイトの神話が、フルリに由来することも解ってきました。
    紀元前1300年、大規模な移住と侵略の圧力の中で、フルリは自らの王国の北東の部分へ退き、バン湖の近くで彼らの新しい首都を創出して、彼らの王国をウルアルトゥ(アララト)と呼びました。

    スキタイ・サカ族とは、約6000年前、今のトルクメニア地方に興ったナマヅカ文化という彩文土器文化の担い手で、牧畜と農耕を営む遊牧民のルーツともいうべき複合民族でした。
    ナマヅカ彩文土器文化が熟成期を迎えた頃、アムダリヤ上流のバタフシャン産ラピスラズリを商い、羊トーテムのサカ族と牛トーテムの月氏の隊商が、馬や船などによって旅を続けバビロンの【スサ】から【ウル】に入りました。

    やがて、ナマヅカの彩文土器文化は、サカ族によって東西に運ばれ、イラン高原に於ける【プロト・エラム文化】に大きな影響を与えました。
    ラピスラズリが、ハラッパ文化以前のコト・デイジ遺跡から発見されていることからサカ族がインダス文明の原形をつくっていたことが分かっています。
    またイラン高原文化を受容したナマヅカ文化が黄河流域のヤンシャオ文化あるいはカラスク文化となりました。
    約5100年前には、イエニセイ河上流とアルタイ地方にアフナシェヴァ文化と呼ばれる青銅器文明が起こりました。
    この文化の担い手はクルガン人でしたが、その高塚墳墓の板石には、カラスク文化と中国のトーテツ文様に似た【鷹と人面像】が刻まれていて、クルガン人は、すでに車輪付き馬車を使用していました。
    彼らはコーカサス地方に侵入して黒海に進み、インド・ゲルマン的特徴の混合文化が生まれ、このアーリア人こそ、後にインド・ヨーロッパ語族となった人々 とおもわれます。
    同じ頃、小麦が、ドナウ河流域とライン河流域、および黒海の西海岸一帯と南ロシア全域に広がり、5000年前頃には、小麦からパンを作る文化が、ヨーロッパ全域を覆いました。
    クルガンとは、日本列島や朝鮮半島に見られる古墳と同種と考えられます。
    この古墳文化は、アジアからアナトリア、東ヨーロッパ~スカンジナビア半島までユーラシア大陸全体にありました。
    同様にインド・ヨーロッパ言語もユーラシアからヨーロッパにかけて広がっています。
    即ち、クルガンを建設し、人々がインド・ヨーロッパ語族のルーツであると考えられます。

    彼らは後に、壇君教団グループと番韓(海の国交易商人・マカン人)の主力
    となりました。
    彼らはユーロポイドと考えられます。

    +1

    -0

  • 630. 匿名 2016/04/15(金) 11:41:54 

    ヨーロッパとアジアへ散った人々

    ミトコンドリアDNAは、母親からのみ伝えられY染色体は、父親からのみ伝えられるといいます。
    この二種の遺伝子は、混ざり合うことなく次世代へと変化することなく受け継がれるため私たちの祖先を遡り、最初の哺乳類、それ以前のものにまで辿っていけるのだといいます。
    このようにして一つは父方、一つは母方の遺伝子の二つの系統樹をつくることができます。
    すると、この男系、女系の遺伝子系統樹は、それぞれ、ただ一つの系統がアフリカからやってきたことを示しているといいます。
    私たちにつながる出アフリカは、たった一度しか成功しなかったということです。
    その前に、アフリカを出て行った先人類たちは、死に絶えてしまったといわれています。

    男系、女系とも、ただ一つの共通の遺伝子上の祖先をもち、それぞれ世界すべての父となり、母となったのだといいます。
    女系のミトコンドリアから調べると、この成功した南ルートの少数をイヴ一族としています。
    イヴはやがて二人の娘からそれぞれ女系一族をつくりました。
    一つはM、もう一つをN、Nは、ヨーロッパ人の唯一の母になりました。
    Mはアジア人のなかだけにみられます。
    南アラビアとパルチスタン沿岸にMとNの根源と早期の分枝がみつかっていてただ一度の出アフリカ移動が、まず南アジアへ進んで行ったことの証になっています。
    イヴ一族は、インド洋沿岸を周って東南アジアやオーストラリアへ突き進んでいきました。
    彼らはヨーロッパが殖民されるよりずっと以前の6万年以上前にはオーストラリアへ到着していました。オーストラリアの母系各族とマレー半島の先住民の遺伝子を調べるとMとNのDNAに属しているといいます。
    Nの子孫は温暖期に入った5万1000年以上前、インド湾岸からザグロス山脈の中腹に沿って中央アジア~肥沃な三日月地帯~トルコを通って、最初の南からの最古のヨーロッパ進出を行いました。

    +2

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  • 631. 匿名 2016/04/15(金) 11:46:36 

    続き

    一方、イブの連れ合い男系の遺伝子標識名をM168と呼びます。
    ユーラシアのアダム、今日生きているすべての非アフリカ系男性の父になります。
    M168の集団の一部がユーラシア南部からオーストラリアへの旅に出発した後に、まだアフリカに留まっていた集団の中に、45,000年前頃、M89という遺伝子の変異を持つ男系が出現します。
    このM89の子孫が現生人類で初めて中東方面に入植した痕跡を残します。
    東へと移動を始めたM89の系統に、40,000年前ごろ、イランか中央アジア南部の平原の辺りで、もうひとつの遺伝子マーカーが出現し、M9と名づけられ、このM9の子孫は、以後3万年間に亘って地球の果てまでその領域を拡大することになる現生人類の主要な系統です。
    このM9というマーカーを持っている人々をユーラシア族と呼びます。
    このユーラシア族が、さらに東へ、内陸部に進もうとしたとき、これまでの移動で初めての、最も深刻な障壁に遭遇します。それは中央アジア南部の山岳地帯でした。
    天山山脈やヒマラヤ山脈は標高7千メートルにもなって立ちはだかり、彼らは二つの集団に分かれるはめになったようです。
    タジキスタンあたりで南に向かったM20マーカーの一族と(インド定住派) ヒンズークシ山脈の北へと移動し、中央アジアへ向かった集団です。
    35,000年前頃になると中央アジアで、ユーラシア族にもう一つの突然変異が起こりました。
    M45の出現です。ポーロと名付けられた、このM45こそ東と西にT字型に分かれて、広大なステップを移動した人々です。
    東はシベリアのバイカル湖、そしてずっと後にはアメリカまで、西はヨーロッパへ。
    男系M45の連れ合いはヨーロッパの母系Nの子孫エウロペの五番目の娘U5。
    彼らは、パレオ・ユーロペオイド的(白人)だったと考えられます。
    彼らは、新石器時代の後期、BC3000年紀の初めにかけて、南シベリアのイェニセイ河上流とアルタイ地方に、アフナシェバ文化を起こし、西シベリアのソンスク地方にBC1750年~1200年の間分布したアンドロノヴォ文化という青銅文化につながり、さらにBC2000年紀末南シベリアのカラスク文化 と中央アジア北部のダザバギャプ文化につながります。
    カラスク文化は、殷の青銅文化と同様に、西アジアに発達した金属文化の東方流入によって発達したといわれます。

    中国北部で【丁零】と呼ばれた人々が、殷の住民から借用した様々な文化的要素とくに青銅鋳造の技術を南シベリアに持ち込んだとおもわれます。
    カラスク人につづくタガール人は(マイエミール人とともに)西シベリアの古いユーロペオイド(白人)に属し、中国史の丁零です。
    【丁零】は、チュルク族の一派ですが、カラスク文化の担い手が【丁零】ならば、その祖型にあたるアンドロノヴォ文化、さらに、その祖型にあたるアナシェヴァ文化も、同じくチュルク族の文化と考えられます。

    者の今岡十一郎氏は、シベリアにいた丁零と、西はトルコ人と広大な範囲を包括するチュルク族はウラル・アルタイ語族=ツラン族といいこの内、ツングース、蒙古、サモエード、フィノウグリア、チュルクの五族があるといいます。
    彼らはシルクロード全域に亘って分布し、アレキサンダー大王が洛陽に侵入するまで中原の支配者だったのです。
    そして、高句麗・百済・天皇家につながります。
    この人々は後に分裂して【丁零】、【殷庶の高令】、【匈奴高令部】、【高句麗】などになりました。

    さて、M45が派生したと同じ頃、テンシャン山脈の北側に沿って移動しジュンガル盆地を利用して現在の中国にたどり着いたグループがいました。
    大半のユーラシア族が侵入をあきらめたルートです。このジュンガル盆地は、後にジンギス・カンが中央アジアを侵略するのに利用したルートで、この盆地は、中国やモンゴルから中央アジアへの抜け道になっているのでしょう。
    このグループは、西アジアとヨーロッパには全く見られないY染色体マーカーM175の子孫を残しました。M175の系統は、その後ヒンズークシ山脈とヒマラヤ山脈より東に住むアジア人の大多数を占めるほど大いに繁栄し、東アジア族と定義されます。
    しかもこのM175の分岐時期、35,000年前という時期は、まさに日本列島に【最初の日本人】が出現した時期と一致しているのです。

    +2

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  • 632. 匿名 2016/04/15(金) 12:03:41 

    キリスト教会における、ルシファーとは…
    堕天使の長であるサタンの別名。魔王サタンの堕落前の天使としての呼称。
    ルシファー (Lucifer) は、明けの明星を指すラテン語であり、光をもたらす者という意味をもつ。

    天使たちの中で最も美しい大天使(しかも全天使の長)であったが、創造主である神に対して謀反を起こし、天を追放されて神の敵対者となったとされる。
    『神曲』地獄篇で、悪魔大王(ディーテ)は氷地獄コーキュートスの最深層にいるとされるけど…
    >>585に封印されていたりして…

    +4

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  • 633. 匿名 2016/04/15(金) 12:06:17 

    >>627
    選ばれた者達の理想郷・・・
    恐ろしいですね。

    +1

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  • 634. 匿名 2016/04/15(金) 14:08:40 

    >>633
    そこは本当に楽園なのか?
    また楽園とは何なのか?

    ここから先はわからない
    …運命は自分で切り開くものだから

    +3

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  • 635. 匿名 2016/04/15(金) 16:19:47 

    奈良
    飛鳥という地名が世界中にあるらしい…別冊ムー「秘密組織だけが知っている超古代史の真実」の世界地図で数えてみると40もありました!そして、インドのアスカ(アシカ)近辺は”ナラ”が付く地名が多いと…五島勉氏が言うには「超古代アスカ文明」が存在したらしいです。

    奈良の北(>>615で気になっているのは奈良ではなく京都でした)琵琶湖の西に比良(ひら)山地と蓬莱山があります
    この名前でギリシア神話の「ヘーラー」と「ホーライ」を連想しました

    「ヘーラー」とはギリシア神話の最高位の女神
    「ホーライ」とは時間の女神「ホーラ」達。ヘーラーの侍女で、天界と地上を結ぶ雲の門の番人でもある。ゼウスとテミスの娘で、3人姉妹とされる。3姉妹の名前については諸説あるが、メジャーではありませんが、アテネ近辺では「タロー」「アウクソー」「カルポー」とされています(タロー…浦島タロー…気になる)。

    二つの地名が並んでいる→そこに信仰があった事を示していると思うのです

    +5

    -0

  • 636. 匿名 2016/04/15(金) 16:56:37 

    >>635つづき
    ヘーラーはゼウスの妻ですが、ホーライは先妻テミスの娘達なので、ヘーラーは継母になります

    ある時ヘーラーはゼウスと喧嘩して、オリュンポスから離れキタイローン山に隠れた。ゼウスはヘーラーを誘い出すため、花嫁衣装で着飾った大きな女性の木偶人形を造り、新しく結婚すると言って同山中を通行した。それを聞いたヘーラーが飛び出して新しいゼウスの妃の衣装をむしり取ると、木像であることに気付いて和解した。

    このエピソードは、太陽神である天照大神が隠れ、世界が真っ暗になった岩戸隠れの伝説に似ていますよね!

    +4

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  • 637. 匿名 2016/04/15(金) 17:54:33 

    >>636
    確かにそっくりですね。
    元は同じ話なのかも・・・

    +3

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  • 638. 匿名 2016/04/16(土) 00:06:27 

    >>637
    蓬莱(ホーライ)は全く同じ名前ですから…
    現地なのか、または信者の渡来だと思います( ・_・;)
    誰が名前を付けたのか、気になりますよね

    比良(ひら)は、黄泉比良坂(よもつひらさか)という言葉もありますよね。日本神話において、生者の住む現世と死者の住む他界(黄泉)との境目にあるとされる坂、または境界場所…そこは出雲だとされています

    +4

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  • 639. 匿名 2016/04/16(土) 00:54:28 

    >>638

    比良(ひら)は、黄泉比良坂(よもつひらさか)という言葉もありますよね。日本神話において、生者の住む現世と死者の住む他界(黄泉)との境目にあるとされる坂、または境界場所…そこは出雲だとされています

    そうですね・・・
    実際、出雲に存在していますね。

    島根県東出雲町の「黄泉比良坂」比定地は、古社「揖夜神社」(いやじんじゃ)から徒歩15分ほど、山陰本線「揖屋駅」から徒歩20分ほどの静かな山間にあります。



    。「黄泉の国の醜女達に追われ ここに逃れてきたイザナギ命は 桃の実をなげつけ退散させた 最後にイザナミ命水かが追いきたり 大岩をもちて塞ぎ 生の國と死の國の境となせり 千引の大岩なり これより西二百米に道祖神あり 追谷坂と呼ぶ急坂を下れば ●屋付谷に通ず 又東四百米に峠あり 夜見路超えとて 中意東馬場に通ずる古道あり ここの神を塞坐黄泉戸大神なり」
    と書いてあります。

    「神蹟 黄泉比良坂伊賦夜伝説地」と書かれた石碑もたっています

    これが生の国と死の国との境界になる「黄泉比良坂」


    +4

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  • 640. 匿名 2016/04/16(土) 08:53:33 

    >>639
    ありがとうごさいます(^^)
    神秘的ですね。出雲に行きたくなりました

    昔々、中東に住んでいた人達が日本に来たのなら、信仰が原型を保っていても不思議ではないです。徐々に伝わったのなら土着の神と融合して変化しますからね~
    中東はギリシャに近いので、信仰も似通っていたに違いないと思うのです

    +4

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  • 641. 匿名 2016/04/16(土) 09:56:34 

    >>640
    そう考えると人類は皆繋がっているのですね。
    争いの無い世界になって欲しいものです。

    +4

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  • 642. 匿名 2016/04/16(土) 10:04:26 

    では今日も書き込ませて頂きます。

    ヒマラヤを越えて移動した祖先の人々

    1万千年前頃、日本人の祖型はアルタイ山脈の西部と天山山脈北鹿の間の故地からヒマラヤの照葉樹林に辿り着く。
    1800メートル下はジャングルで、3000メートル上は高原でした。
    ここには現在、中国系のチベット人がいます。
    日本人の先祖はチベット人におされ、シガッツエから南の山地に棲むことを余儀なくされました。
    こうしてネパール、シッキム、ブータンの国々に、私たちの祖型の一族が連綿としていまもあることになります。
    そしてほかの日本人の祖型はヒマラヤの北側東端からチャムドに登り、四川等に下ったようです。
    そして山頂降臨の伝説を神話として残し、山岳信仰をいまももちつづけているのです。
    私たちの先祖は、そこで、どのような習性を身につけたのでしょうか。
    そこには、クリ・カシの実の類がありました。樹林の下に畑を開いて根栽ができました。
    また樹林帯には兎や狸や狐などだけがいてライオンや虎などの猛獣はいませんでした。鹿の皮をとってそのゼラチンを接着剤とし、堅木と竹を接着し蔓でしばって水に浸しておけば弓ができました。
    鹿の皮は装着用具にはなくてはならないものでした。
    また鹿は祭祀、神社には、今もつきものです。鹿は遊牧民サカ族のシンボルになりました。
    さて、日本人の祖型は2~3家族の小集団生活で移動していたようですが次第に氏族組織をもつようになり血縁のない小集団であってもその組織に加入させ社会、族外婚、シャーマン信仰とをもって、部族連合を固めていったという痕跡があります。
    多くの宿営地の間の地域に長期滞留するにしたがって、焼畑栽培を開始したようです。
    やがて、彼らはヒマラヤを越えて揚子江にでるのですが、実は黄河文明より早く長江文明(河姆渡)が開けていたことはあまり知られていません。
    また中国雲南省あたりを中心として,西はインドのアッサム地方から,
    ヒマラヤ山脈の南斜面~インドシナ半島の山岳地域~揚子江流域~東は縄文時代の後期~晩期の日本までヒエやアワなどの雑穀を主穀として(イネは陸稲として畑地で)伝わった照葉樹林文化は彼らの移動経路であったと考えられます。

    +3

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  • 643. 匿名 2016/04/16(土) 10:09:23 

    楼蘭の美女

    何年か前、NHKで放映されたシルクロードの番組【楼蘭の美女】の発掘は、記憶に新しい。
    ミイラとして保存が完全で、卵型の顔かたち、まっすぐ伸びた鼻、濃い眉、薄く引き締まった唇は、4000年間、楼蘭の砂埃に埋もれながらも原形をとどめていたのでした。
    長い睫毛が印象的な美女、彼女が白人だったことが発掘した人々に衝撃をあたえました。
    新疆地区に白人種がいたことの証となりました。
    彼女は、南シベリア、カザフスタン、ボルガ河原草原およびアラル海沿岸地帯の青銅器時代のアンドロヴォ文化タイプの住民の特徴とほぼ同じと判明しました。

    新疆地区とは、人類の歴史に於いて実に興味深く、絶え間ない変化と発展のなかにありました。
    地図を広げてみると一目瞭然なのですが、新疆の北、西、西南側を取り囲んでいるのはロシア、カザフスタン、キルギスタン、ウズベクスタン、タジキスタン、パキスタン、インドです。
    ヨーロッパ大陸、西域、西アジア、南アジア、アジア東部地区との交通を結ぶ拠り所として民族の大移動の波を何回も経験し、白色人種も黄色人種も居て、お互いに同居し溶け合い、共同で開発していったと考えられます。

    新石器時代の後期、BC3000年紀の初めにかけて、南シベリアのイェニセイ河上流とアルタイ地方に、アフナシェバ文化が栄えました。
    この文化の担い手は周囲のモンゴロイドと異なり、パレオ・ユーロポイド的(白人)でした。
    このアフナシェバ文化が、西シベリアのソンスク地方にBC1750年~1200年の間分布したアンドロノヴォ文化の青銅文化につながります。
    さらにアンドロノヴォ文化は、BC2000年紀末南シベリアのカラスク文化と中央アジア北部のダザバギャプ文化に代わりました。
    カラスク文化は、殷の青銅文化と同様に、西アジアに発達した金属文化の東方流入によって発達したといわれます。

    カラスク人に続くタガール人は西シベリアの古いユーロペオイド(白人)に属し中国史の丁零です。
    この中国北部で【丁零】と呼ばれた人々が、殷の住民から借用した様々な文化的要素、とくに青銅鋳造の技術を南シベリアに持ち込んだとおもわれます。
    【丁零】は、チュルク族の一派ですが、カラスク文化の担い手が【丁零】ならば、その祖型にあたるアンドロノヴォ文化、さらに、その祖型にあたるアナシェヴァ文化も、同じくチュルク族の文化と考えられます。

    学者の今岡十一郎氏は、シベリアにいた丁零と、西はトルコ人と広大な範囲を包括するチュルク族は、ウラル・アルタイ語族=ツラン族といいこの内、ツングース、蒙古、サモエード、フィノウグリア、チュルクの五族があるといいます。
    また「ツラン族は、BC8000年頃、シュメールの地にいたが、BC3000年以降アフリカ民族がセム族を滅ぼして自らセム族となり、BC2200~2000年頃シュメール帝国を滅ぼしてしまった。
    この状況のもとで、ツラン族はBC3000年頃からインド、中央アジア、東アジア方面に移動した」
    と述べて、そしてチュルク族については、「往昔その原郷のアルタイ山脈から出発し、ほぼ北東と西に広がって、主としてアジアに限局する地域を占めた。・・・西に進んだ一部はイデル・ウラルとクリミア地方からバルカン南東隅まで・・・また他の一部はドナウ盆地にまで進出した。
    彼らの支配は、名目的にはメソポタミア、シリア、パレスチナ、北アラビアに及び、またかつて一時的に、イラン、アフガニスタ、インドまで伸張し、さらにアルジェリア、全バルカン半島全ハンガリー平野を領有していた時代があった」と述べています。
    彼らはシルクロード全域に亘って分布し、アレキサンダー大王が洛陽に侵入するまで中原の支配者だったのです。のちの高句麗・百済・天皇家につながります。
    この人々は後に分裂して【丁零】、【殷庶の高令】、【匈奴高令部】、【高句麗】などになりました。

    +3

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  • 644. 匿名 2016/04/16(土) 10:14:04 

    黄色人種

    黄色人種と呼ばれるのは、体の表面がケラチン (角質)の薄い皮膜で覆われているからだそうです。
    ケラチンは硬タンパク質であり、髪の毛や爪や動物ではツノ、ヒヅメなどになる物質です。
    どうして、ケラチンが全身にまで被覆したのでしょう。
    それは、日本人の先祖が中央アジアのアルタイ山脈南部に起源をもつからです。
    現世黄色人種の祖先が形成される時期は、少なくとも4万5千年前から4万年前という、ネアンデルタール人からホモ・サピエンスが出現する以前の時期まで遡ります。
    そして、数万年という時間をかけての、この時期での環境適応の結果がケラチンの全身皮膜なのでした。
    人類の皮膚の色まで変化させる壮絶な環境とはいったい何だったのでしょう。

    4万年といえば氷河期です。人類が等しくこの試練を受けたとはいえ白人種と黄色人種の祖型では、その影響の受け方がちがっていたようです。
    氷河の近くに住んでいた、とくに北欧人などは、太陽の紫外線を吸収しようとして皮膚に太陽光遮断の役目をもつ色素などもたない体質に、白人とは色素が白いのではなく、無色人種なのだそうです。
    黒人は紫外線の強かった地中海地域に住んでいたため遮断するために色素、メラニンを全身にはり巡らし
    黄色人種は、わたしたちの先祖は黄砂を避けるために山岳の樹林地帯に逃げ込むより道がなく、その原生林の中でもそう楽ではなく、樹皮の刺傷や虫害を防ぐためにも黄砂の嵐のなかと同様に角質でもって全身を覆うよりほかなかったといいます。
    こうしてユーラシアの大陸、なかでもアジア大陸の内陸と呼ばれる広大な地域にあって日本人の先祖は自然の猛威から逃げに逃げ、移動に移動を重ねるうち皮膚の色まで変色していったのだといいます。
    そして、またこの移動という側面が、日本民族の形成に大きく関係してくるのです。

    日本民族の祖型も漢民族の祖型も、新石器時代に入る前まではうっそうとしたシベリア原生林の中で狩猟一本槍の生活だったと認められます。
    もっとも樹海を貫いて流れる大河のほとりとか、点々とする湖水のほとりでは漁撈もしていたでしょうし、獣肉や魚肉のほかに野生植物、果実、根なども食していたでしょう。
    また彼らはトナカイを飼育し移動の際の運搬に牽かせたり乗り物にし、また乳を飲用に、肉を食用に、しかもトナカイは草を食べずに森林地に生えるコケ類を食用とするので願ってもない家畜でした。
    ところが氷河期が終わったところで、いよいよ原住地のほかの仲間が新石器時代文化をつくろうとするとき、一部の人類が、この故地を捨てて移動に踏み切ります。
    これが日本人の祖型と漢民族の祖型になります。間氷期において、タリムとアラシャンとゴビとオルドスという広大な湖水群が氷河湖となり、ほかの地域の表土がこの氷河の底に堆積し、氷河湖が乾燥して干上がって砂漠化してくると、その黄土がシベリアの寒冷型移動性高気圧に巻き上げられて、東ばかりでなく北に飛散してくると、彼らはどうにも防ぎきれなかったので移動を始めたのです。
    また移動せずに原生地に残された日本民族の祖型は、一部はモンゴル的モンゴロイドの中に編入され、一部はトルコ的モンゴロイドと混血し、さらに他の一部はイラン的ユーロポイドで、後に大月氏のまたは禹氏の祖であるトハリ族と部族連合をなしたという痕跡を残します。

    +3

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  • 645. 匿名 2016/04/16(土) 10:16:28 

    続き

    日本人の祖型の主流は樹林帯の棲息した狩猟民族の姿のままで、よりよい樹林帯をつたって南下したしたと考えられます。
    アルタイ山脈の西部と天山山脈北鹿の間の故地からジュンガリア廻廊を南下し天山の南麓をつたわって西方に進み、さらにパミール高原の東麓にそってタリム盆地の西辺をぐるりと迂回し、パミール高原がおわるところで一部はカラコルムからヒマラヤに入ったと考えられています。
    ほかにも行き方は何通りかあったようですが、彼らはヒマラヤに登り、崑崙の常緑広葉樹林帯に移動したのでした。
    ちなみに漢人の祖型はカラコルムから南へ移動し、黄河上流のデルタをめざしたようです。
    また一部は揚子江にくだって野生の稲をみつけるという幸運な恵まれています。
    日本民族の祖型にも四川から揚子江へと漢人と同じ道をくだった一隊もあり、二民族の交錯もあったとおもわれますが、ただ日本民族の祖型は、トナカイの代わりにカモシカを伴侶としながら照葉樹林対の山岳地帯の緑辺を辿って大巴山脈から山東の泰山山系に行きついたことが漢人の祖型とちがっていました。
    そして中国大陸にあって、日本人の祖型は漢人から【夷族(異民族)】とされたのです。

    こうした移動は1回や2回ではなく何回も何回も数家族単位で連続して居住地を移行していったようです。7千年~8千年前頃、旧石器時代の終わり頃に始まったとされ、その頃の人口はそれほど多くなく、人口の増加は新石器時代の農耕文化が定着集落をつくりだして以後のことでした。

    +3

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  • 646. 匿名 2016/04/16(土) 10:19:21 

    後期石器時代

    人類は後期石器時代になって大躍進を遂げたといいます。

    ★人類の使う道具が格段に多様化し、石やその他の素材を効果的に使うようになったこと。
    ★芸術が初めて登場したこと。思考的にも大きな進歩があったと考えられる。
    ★人類が食糧資源を以前よりはるかに効率的に活用し始めたということ。

    このような変化の理由に、人類学者はDNAをあげています。
    後期旧石器時代の初めに生じた類の変化が起きるには、人類がより効果的にコミュニケーションをとり合えるようになることが必須だったといいます。
    後期石器時代の初めこそ、豊かな統語法と多くの意思表示の方法をもつ 現代の言語が発生した時期ではないかというのです。
    複雑な社会的ネットワークの発達が、人類の脳の構造に変化が起こし 進化をもたらしたといいます。
    それが、どのような変化だったのかは、現代の赤ちゃん をみれば理解できます。
    まず物体を認識することから徐々に物体同士の関係に対する 複雑な理解へ進む過程、また喃語を発することから次第に単語になり統語法を理解し 複雑な伝達を可能にする・・・といったように人類は言語を発達させていったようです。
    それによって脳を大きく発達させていったのが旧石器時代だったと考えられます。
    脳の発達には栄養的に肉食も大いに関係しているかもしれません。
    また、ほかの肉食動物の目を逃れる必要性も脳の発達を促したでしょう。
    動植物は環境が安定しているときは、単調に過ぎていきますが、問題が起きて 環境が変化すると大きく進化するそうです。
    身体の色や形さえ変えて環境に適応させていく生物がいるなかで人類は脳を活性化して適応させていったようです。
    ヒトのミトコンドリアDNAの配列間に見られる遺伝的突然変異が起きたのが5万年前 旧石器時代の初期だといいます。
    人類の大躍進はDNAに遺伝学的な痕跡を残しているのだそうです。

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  • 647. 匿名 2016/04/17(日) 00:54:38 

    伊勢神宮 出雲大社

    皇室の氏神である伊勢神宮には謎が多いです。
    伊勢神宮は元から今の場所にあったわけではなく「太陽神」である「天照大神」は東から西に天を巡る性質があるので太古の「天照大神」は日本各地を巡っていたそうです。
    それが三重県 伊勢市を最後に動かなくなってしまいました。
    20年に一度の遷宮は「巡る宮」の名残り、社殿だけ移して「巡った」ことにしてしまおうという策だったのでしょうか。 
    地球から見た場合、太陽は常に移動をしています。公転によっても自転によっても太陽と地球の関係は変わります。
    この「太陽は常に動く」ということが太古の学問としてあり、それに合わせるようなかたちで宮は移動をしていたと思われます。
    そして「旧事本紀」に「天照大神」を祀ったのは伊雑宮が最初であり、皇大神宮の内宮・外宮よりも社格を上にするとハッキリ記述されていたので1681年、皇大神宮の神官は激昂し、「旧事本紀」は発禁、伊雑宮の神官は流罪されました。 
    これはガド族+神武 VS シメオン族+エブス加羅国の古代史と重なります。 

    すべては秦始皇帝による焚書坑儒・儒者弾圧に始まります。
    BC213年、秦始皇帝に焚書坑儒された孔子・孟子の子孫、ガド族は、燕王公孫氏(南朝系イッサカル族)の一部勢力と連合して移動開始します。

    BC86年朝鮮半島を南下して対馬に至り天照神社を祀り、対馬から船出して糸島半島へ移動して吉武高木に【旧伊勢国】を建て、金属製造所をつくり鉄鐸・銅鐸文化圏を創始します。猿田彦2世は日代宮を平原王墓(遺跡)に築き八咫鏡ほか神鏡・鉄剣・勾玉などの【三種神器】を奉納しました。
    BC74年、辰韓(秦韓)にいた秦の 始皇帝の子孫、シメオン族らは、鳥栖と吉野ヶ里の地に委奴国を建てました。 
    委奴国の王はシメオン族々長の大国主命であり、弟のグループは日本海側の敦賀に上陸して奈良盆地に入り、大和(奈良盆地)にユダヤ人亡命者のコロニーがつくられました。
    さらに、この時、ユダヤ人亡命者集団の先遺隊は関東地方にまで進出して、利根川河口付近にコロニーをつくったのです。
    147年、後漢に圧された高句麗が委奴国および東表国を攻撃しました。
    当時の東表国(エブス王朝)は、朝鮮半島の金官加羅国とワンセットの文化圏とする海人族の千年続く【天の王朝】で、委奴国は同盟国でした。
    これより、東表国は、 高句麗と敵対関係になり東アジアの覇権を競う【倭の大乱】が始まりました。 
    163年、東表国エビス王海部知男命は、シメオン族倭奴国大国主命と連合して高句麗と同盟していたガド族猿田彦らの旧伊勢国を攻撃し、吉武高木・平原遺跡および太陽神殿を破壊して古墳内の超大型青銅鏡を悉く破砕しました。
    大国主命に神聖な神殿を壊され、旧伊勢国(筑紫国)を奪われた猿田彦5世らは二手に分かれて亡命移動しましたが、その一隊は、日本海沿いに北上して山陰地方の島根県に至り、同族ガド族の先遺隊であった牛頭天王(スサノオノ命)のガド族とイッサカル族の連合移民団リーダー【出雲王朝】へ参入しました。

    +1

    -0

  • 648. 匿名 2016/04/17(日) 00:59:49 

    続き

    次に、別働隊の遺民は瀬戸内海を東遷する途中、海沿いの各地には、旧伊勢国遺民の一部ずつ割いてコロニーを作り、香川県の森広遺跡・奈良県三輪山の日代宮遺跡・大阪府の利倉遺跡と池上遺跡に鉄鐸・銅鐸遺跡を残し、周防灘の徳山湾(遠石八幡宮の地)にコロニーを作り、楊井水道の大畠瀬戸に至り、旧伊勢の日代宮(御神体は八咫鏡)を遷社して柳井市に【天照神社】を建てました。
    瀬戸の浜辺に【磯の神】を祀る石上神社を建て、その元宮として旧い周芳神社(柳井市日積の諏訪神社)が再建されましたが、この天照大神(内宮)の神霊は、のちに志摩半島の伊雑宮(伊佐和宮)に遷社されています。
    中国・四国・近畿にやって来て各地に彼らのコロニーを作り、さらに紀州・熊野に移動して伊国を建て、志摩半島に移動して新伊勢国(伊雑宮・伊勢神宮の元宮)を建てました。
    奈良大和にも約1300人が移動して鮭文化圏を整え、東テイ国(纏向遺跡が中心)を建てています。
    ガド族と連合していたイッサカル族は、三輪山を中心に定着しました。
    筑紫の三輪(福岡県朝倉郡三輪町)から移ってきた三輪氏などであり、彼らが祭祀を担いました。
    なお、纏向の太田地区などには大田氏系の先祖も居住しました。
    連合していたゼブルン族は、葛城などに定着しました(葛城氏など)5代目猿田彦の弟の系列が建国した東テイ国(奈良)と地方との交通・交易の状況は、東テイ国(当時の奈良盆地・鮭文化の国)の出土品によって東海・北陸・山陰・河内・吉備・関東・近江・瀬戸内海・播磨・紀伊と交易がされていたことが解っています。
    東テイ国は鉄鐸・銅鐸文化で、水と火の祭りが三輪山を中心に行われていました。
    三輪山は、縄文・弥生時代から旧い御神体で、本殿がありません。
    縄文港川人や弥生苗族人の蛇信仰に彩られた【鉄と水稲】文化を育む聖山です。
    しかし、これらガド族の神殿は、のちに神武勢力に敗れ、亡命・東遷した時シメオン族によって、徹底的に破壊されました。
    210年、扶余王ケイ須(神武)が南下を始め、九州博多に上陸して橋頭堡を築きました。
    橋頭堡を守るためと、約50年前(163年)に旧伊勢国を追われたガド族猿田彦らの仇を討つため、大国主命(シメオン族)たちの委奴国を攻めました。
    神武らに敗れたシメオン族の土師氏らは博多湾志賀島から乗船して出雲へ逃れ、先住していた猿田彦らのガド族及びイッサカル族を駆逐して新しい出雲王朝を建てました。
    土師氏らは新しい四本柱の大社を建て、その祭神を大国主命とし、併せて八百万の神々(ユダヤ12部族の神々+倭王たちの氏神)を祀りました。

    熊野山中には100キロメートルにも及ぶ石垣が存在しますが、これはガド族がシメオン族との戦いに備えて築いたものです。
    やがて秦王国の人々と東表国の人々は相協力して古周芳国および古周芳の石上神社(楊井水道)の領域を占領し、秦王国の分国【周芳国】を作りました。
    この時、周芳神社(柳井市日積・諏訪神社)の【たたえ祭り】 神事が猿田彦の亡命と共に、縄文人たちの故郷・信濃の諏訪神社へと伝承されそれが今日まで伝わる長野県諏訪神社の【たたえ祭り】になります。
    伊勢神宮は日本中央構造線の真上に建てられています。
    このゼロ地盤は地下から磁場、磁気が出ています。
    人間の身体が70%鉄分ということから、パワースポットに行くと磁化され パワーを頂けるようです。

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  • 649. 匿名 2016/04/17(日) 15:17:22 

    ↓ラッテ・ストーン

    赤い葉巻型宇宙船でも停泊するんじゃないかという形状(汗
    ラッテ・ストーンとは何か?…諸説あるが、インドネシアのボロブドゥール遺跡に、アウトリガーの付いた外洋帆船と共にラッテ・ストーンと思われる石柱の上に建造物が乗っている壁画があることから、建造物の土台説が有力になっている。ラッテ・ストーンには「タオタオモナ(直訳「以前の人々」・祖先の霊)」が宿っているとする。グアム、サイパンなど島の住人は、「森にはタオタオモナが住んでいて、暗くなる時には森に近づいていはならない。」と言い、言葉だけではなく本当に皆そう信じてこの精霊を畏れています。そんな怖がらなくても…それとも宇宙人なのでしょうか?

    北マリアナ諸島の島『ロタ島』…南にはグアム島がある。
    古代チャモロ王朝時代に使われたラッテ・ストーンの石切り場があり、ここで切り出した石をサイパンやテニアン、グアムまでカヌーで運んだとされる
    天然の鍾乳洞があり、南太平洋のトンガからカヌーで渡来した人々が居住したことから『トンガ洞窟』と名付けられた。そこには古代人が残した壁画がある。

    浦島太郎っぽいです…やはり「ロタ島」は浦島太郎と関係あるのかしら?
    トンガから来た人が気になりますが…
    そのトンガへの最初の植民者はサンタ・クルーズ諸島から船で来たことが分かっている。元々東南アジアにいたオーストロネシア語を話す人々の祖先(ラピタ人)がポリネシアへ移住してきたが、トンガへの植民はこの動きの一部らしい。ラピタ人は台湾発祥であり人類史上初めて遠洋航海を実践し、マダガスカルにもたどりついていたとされる。


    (Herb Kane筆)
    >>522のサンタ・クルス島、サンタ・クルーズ諸島やソロモン諸島、『ツバル』(殆どが水没している島)はシュメールのスバル人を連想させるし…なぜか太平洋の島には中東に関係する名前がつけられてます。
    もしやノア=ラピタ人なのでしょうか?
    だとしたら『旧約聖書』のロトがロタ島にいたとしても不思議ではないですよね

    +2

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  • 650. 匿名 2016/04/17(日) 17:11:58 

    >>649
    素晴らしいですね。
    浦島太郎と関係ありそうですね。
    ノア=ラピュタも有りそうです。
    さらに調べてみますね。

    +1

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  • 651. 匿名 2016/04/17(日) 17:15:58 

    古代インド  アンコールワットのクメール

    インドは地球上で最も歴史の古い地域の1つです。
    最初に、チベット・ビルマ系の言語グループがインド北部に住み着いたと考えられています。
    次にオーストロ=アジア系の言語グループが住み着きました。
    このグループは後に移動してきたグループに同化され、または山中に追いやられました。
    この系統とされるクメール民族の文化はカンボジアのアンコール遺跡とされます。
    クメール族は「日本書紀」に、神武の軍団に大来目がいたと書かれている大来目です。
    彼らの文化の特徴は、樹木や蛇の文様などで、これらのモチーフはその後の様々なインド・東南アジアの文化に引き継がれて、繰り返し現れています。
    次にインドに現れたのが、ドラヴィダ系言語グループです。
    彼らは地中海沿岸地方からインドに入ってきたと考えられています。
    ドラヴィダ系言語は今日も北インドのガンジス河の流域に残っています。
    しかし、今のドラヴィダ人は南インドに集中しています。
    この事については、後にインドに侵入したといわれるアーリア人に押されて南インドに移動したとか、海路を直接南インドに入り定着したとか、いくつかの説があります。
    このドラヴィダ系グループがインダス文明の担い手であったと考えられています。
    次にインド亜大陸に住み着いたのは、インド=アーリア系グループです。
    彼らの進出は BC1000年頃ガンジス河の流域に進出して来たと考えられています。
    彼らはBC3000-2000年頃にロシア南部にいて、BC2000年頃インド系とイラーン系に分裂し、移動を開始しました。
    気候変動などに影響されて、より生活し易そうな土地に徐々に移り住んだのでしょう。
    彼らはロシア南部からカスピ海北辺へ、そこから東部イラーンを経てアフガニスタンへ。
    そしてそこからインド・パンジャブ地方には入り、BC1000年頃、ガンジス流域へと進出しました。
    そしてその地に農耕社会を出現させました。これにつれて、ドラヴィダ系は徐々に南部に移動しました。
    アーリア人の最も重要な財産は牛であり、農産物としては大麦の栽培が中心であったようです。

    +3

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  • 652. 匿名 2016/04/17(日) 17:21:49 

    人類と馬との出会い

    BC2000年あるいは、その少し以前の時代からギリシャに北方からやってきた人々がいました。
    彼等はクルガン人と呼ばれています。クルガンというのは、ロシア語で土饅頭という意味です。
    死者を深い縦坑に埋めその上を土饅頭で覆ったためそう呼ばれるようになったのです。
    クルガン人はBC3500年からBC2300年頃、南ロシアからダニューブ川流域に住んでいた半遊牧民族です。
    彼等がBC2300年頃からギリシャ本土へ侵入してきたという説があります。
    そして彼等は最初のインド・ヨーロッパ族であり、また最初のギリシャ人だと考えられています。
    クルガン人の到来とともに、ギリシャでも馬の骨が出土するようになりました。
    彼等は、馬とともに縄文土器もギリシャにもたらしました。

    BC2300年頃からギリシャに現れたクルガン人は、どこからやってきたのでしょう。
    ギリシャに北からやってきたとすると、黒海の西岸を南下してきた以外に考えられない。
    当時のヨーロッパには原始的な人間を除くとほとんど人が住んでいなかったからです。
    黒海北岸で発見されているもっとも古い遺跡は、ドニエプル川を少し遡ったデレイフカの遺跡です。
    スレドニー・ストグ文化に属するこの文化はBC4400年頃からBC3500年頃まで続きました。
    デレイフカの遺跡から発見されている食料とされたと思われる動物の骨のうち74%が馬の骨で、残りは19%が牛、7%が羊です。
    中央アジアのステップは、一般に雨が少なく、夏と冬の気温の変化が激しすぎるので農業には向いていない、にもかかわらず、スレドニー・ストグ文化に属する人たちは家畜を伴っていました。
    クルガン人はBC3500年頃からBC2300年頃まで南ロシアのステップ地帯からダニューブ川沿岸にかけて住んでいたといいますから、スレドニー・ストグ文化に属する人たちの子孫だった可能性が、たいへん高い。
    スレドニー・ストグ文化人は、BC4400年頃どこからきたのでしょうか。
    BC4500年頃中央アジアのアラル海のアムダリア河口にも穀物生産と家畜を帯同した人たちが現れています。
    かなり古い時代から東方、エニセイ川とオビ川の上流、アルタイ山脈の北側に初期的な農業を携えた人たちが遺跡を残しています。この地域は現在でも鉱山地域です。
    現在のキルギスタン共和国からタジク共和国に掛けての地域と並んで古代の銅鉱山の遺跡が発見されています。

    人類が てけてけ牛に出会ったのは、おそらく数万年前に遡ります。
    BC7000年あるいは、それより少し後、アナトリア南部のタウラス山脈の麓チャタルフュイックの遺跡では、牛頭信仰の起源と思われる牛の首が壁に掛けてありました。
    そしてこのチャタルフュイックの住人は、その後BC6000年の半ば頃から徐々にメソポタミアへ進出してウル人となり、そこからさらに、青銅時代に入ったBC3500年以降銅を探して世界に散り今日の世界の多くの民族の祖先になった人々と考えられるのです。
    それに比べると、人類が馬に出会ったのは、かなり後になります。場所は南ロシアでした。
    馬の源生地もまたその辺だったと考えられています。最初馬は人間の食料だったらしい。
    しかし、やがて人は馬に乗り、馬に車を引かせるようになりました。

    銅の冶金技術の起源は、BC6000年頃北シリアからタウルス山脈の辺りで発明されました。
    銅は貴重な資源とされましが、大規模農業の最適地メソポタミアには銅はなく銅を求めるためには、遠方まで出かけて行かなければなりませんでした。
    BC大5世紀の半ば頃、黒海の北岸から遠く遙か東のアルタイ山脈の北方に姿を現した人々はメソポタミアから銅を求めて北へ出かけて行ったウル人たちだと考えられます。
    その時代は、まだ青銅技術が発明される前です。しかし既に文明の主流を担う人々はBC5200年頃ペルシャ湾の南岸に達していました。
    ウルという言葉が中東起源、あるいはメソポタミア起源であることはかなりハッキリしています。
    スウェーデン語のウルは、絶滅した牛、そして原始的つまり非常に古いという意味があります。
    スウェーデン人の祖先は、まだメソポタミアに都市国家が誕生する前北方に銅を求めて出かけたウル人ではなかったでしょうか。

    +3

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  • 653. 匿名 2016/04/17(日) 22:31:57 

    >>650
    ありがとうごさいます(^^)
    よろしくお願いしますm(_ _)m
    >>652
    てけてけ牛を知らなかったので、
    “てけてけ とは”
    で検索すると…そうとう怖かったです(ToT)

    +3

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  • 654. 匿名 2016/04/17(日) 22:52:34 

    >>653
    ラピタ族で気になるものを発見しました。
    フィジーにブレ・カロウという特異な高い屋根を持つ建築物があるのですが、「ブレ」は家、「カロウ」は神の意なので、要は神社です。で、ここで神さまは「天から降りてきて願いをきいてくれる」とフィジーの人はいうそうです。

    ブレ・カロウ

    なんだかピラミッドに見えませんか??

    +3

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  • 655. 匿名 2016/04/17(日) 23:36:06 

    >>654
    Σ(・д・)そうですね!
    しかも、その角度はメロウェ遺跡の「ベグラウィア」ですね

    +4

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  • 656. 匿名 2016/04/18(月) 01:16:05 

    >>655
    やはり中東と関係が有るのでしょうね。
    なんだかドキドキします。

    +3

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  • 657. 匿名 2016/04/18(月) 13:18:54 

    テステス(・ω・)

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  • 658. 匿名 2016/04/18(月) 13:24:18 

    カタカムナ人は旧石器人?

    35,000年前頃に中央アジアで、ユーラシア族に突然変異が起こった ポーロと名付けられた、M45東と西にT字型に分かれて、広大なステップを移動した人々は東はシベリアのバイカル湖、そしてずっと後にはアメリカまで、西はヨーロッパへ。
    男系M45の連れ合いはヨーロッパの母系Nの子孫エウロペの五番目の娘U5。
    彼らは、パレオ・ユーロペオイド的(白人)だったと考えられています。
    彼らは、新石器時代の後期、BC3000年紀の初めにかけて南シベリアのイェニセイ河上流とアルタイ地方に、アフナシェバ文化を起こし西シベリアのソンスク地方にBC1750年~1200年の間分布したアンドロノヴォ文化という青銅文化につながり、さらにBC2000年紀末南シベリアのカラスク文化 と中央アジア北部のダザバギャプ文化につながります。
    カラスク文化は、殷の青銅文化と同様に、西アジアに発達した金属文化の東方流入によって発達したといわれます。

    M45が派生したと同じ頃、テンシャン山脈の北側に沿って移動しジュンガル盆地を利用して現在の中国にたどり着いたグループがいました。
    大半のユーラシア族が侵入をあきらめたルートです。このジュンガル盆地は、後にジンギス・カンが中央アジアを侵略するのに利用したルートで、この盆地は、中国やモンゴルから中央アジアへの抜け道になっているのでしょう。
    このグループは、西アジアとヨーロッパには全く見られないY染色体マーカーM175の子孫を残しました。
    M175の系統は、その後ヒンズークシ山脈とヒマラヤ山脈より東に住むアジア人の大多数を占めるほど大いに繁栄し、東アジア族と定義されます。
    しかもこのM175の分岐時期、35,000年前という時期は、まさに日本列島に【最初の日本人】が出現した時期と一致しているのです。

    日本列島には、旧石器文化の3万年前から1万4千年前頃に、鋭い黒曜石やサヌカイトの刃物に柄をつけた文化的な工具をもって彼らが渡来しています。
    この時代の石器はヨーロッパの旧石器文化と共通であって隣国の中国大陸の文化とは似てないといいます。
    ヨーロッパからやってきて日本列島で誕生した旧石器文化と考えられています。
    これが縄文時代につながります。
    日本人〈カタカムナ〉人の手先の器用さは旧石器時代の石器に遡るといいます。

    +1

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  • 659. 匿名 2016/04/18(月) 13:30:44 

    旧石器人・縄文人からカタカムナ技術

    日本列島に渡来した日本人の起源は、3万年以上前の前期旧石器時代まで遡れるそうです。
    ★旧石器文化 ・ 第1期
    10万年前を遥かに超えるような古さから3万年前ぐらい迄日本列島で行われた文化。この頃の石器は、手で握る石の刃物でした。
    ★旧石器文化 ・ 第2期
    3万年前から1万4千年前頃になると鋭い黒曜石やサヌカイトの刃物に柄をつけた文化的な工具となりました。
    この時代の石器はヨーロッパの旧石器文化と共通であって隣国の中国大陸の文化とは似てないといいます。どうもヨーロッパからやってきて日本列島で誕生した旧石器文化と考えられています。
    ★旧石器文化 ・ 第3期
    1万4千年前頃から1万2千年前頃には、細石刃が使われこれは日本で発生したものでなく、シベリアからやってきた文化で広く北欧から沿海州そしてアラスカまで広がっていました。

    宮城県薬莱山に住み着いた住民の年代は、第2期を下らないと考えられ、この薬莱山の文化は旧石器から縄文時代に続く日本人の最古の足跡とされています。
    例えば近くのタカ族、タカギなどの地名のある部落の鎮守は延期式の飯豊神社。
    この神社は古墳時代の神社とは違って山の中腹に磐境(いわさか)があり、その中に磐座(いわくら)と神籬(ひもろぎ)があって注連縄で飾られています。

    磐境とは、神を祭る神域で、もともとは岩で囲んでいたものらしく縄文時代のストーンサークルを思わせます。

    磐座とは、神の御座の意味で神の鎮座する所。

    神籬とは、往古、神霊が宿っていると考えた山・森・老木などの周囲に、常盤木を植えめぐらし、玉垣を結って神聖を保った所。一本の木を植えた事もあって、その木が老木となったのが神籬とされることもあったと思われます。
    こうして宮城県では座散乱木遺跡など前期・後期旧石器時代から縄文初頭までの文化が重複して発掘され、日本の歴史が3万年以上の前期旧石器時代まで遡れることが証明されたのでした。

    3万年前には既にシベリア・バイカル湖文化センターがあったことが分かっています。
    旧石器人、それに続く縄文人などは漸次そこからやって来たようです。
    太古時代、バイカル湖に住んでいた古モンゴロイドの一部が北と南に散っていき長い間に北方系、南方系という、やや異なった遺伝子をもつ種族になったといいます。 
    北はエスキモー、アメリカインディアンとなり南は中国、台湾、フィリッピンとなり、その北と南の古モンゴロイドの一部が日本列島に入って来ているといいます。
    北と南の古モンゴロイドが、再び日本列島で出会い、やがて、もとの同族となっていったということで、それは2万年前にも遡ります。
    宮城県では座散乱木遺跡出土の動物型土壌品は、チェコスロバキアのドルニ・ベストニッシュ遺跡(2万3千年前頃)に類品があり座散乱木遺跡は、これに次ぐ世界で2番目に古い動物型土製品です。
    2万年前からバイカル湖などからやって来た人々が次第に日本列島に定着して縄文文化を築き、その間たえず人々は大陸と日本列島の間を往来し、また情報に接していたようです。

    +2

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  • 660. 匿名 2016/04/18(月) 13:34:41 

    続き

    縄文時代以前、旧石器時代末期に存在したとされる極めて高度な科学技術や 独自の哲学体系を持っていたことが、神代文字であるカタカムナ文字で記された 【カタカムナ文献】から推測されます。
    大自然、大宇宙の息吹を友としていた超古代人にとって、その直観力は、現代人の想像も及ばないほど研ぎ澄まされており、宇宙の深淵、宇宙の背後に 隠されている何ものをも射抜くほどの力を持っていたようです。
    古代日本に渡来した一派がカタカムナ人です。
    彼らもまた、石英の多い山を利用して、全国各地に人工ピラミッドを造山しています。
    そして、ミトロカエシの技法からも分かる通り、錬金術師でもありました。
    カタカムナが伝える【ミトロカエシの秘法】は、【賢者の石】に関係するといいます。
    西洋のヘルメス学(錬金術)の文献には、【賢者の石】は、ガラス状に輝く ルビー のような化学物質と記されているとも言われています。

    楢崎氏は、戦前の製鉄研究で、材料も技術も同じなのに、ある場所の製品は
    いつも優秀であるが、ある場所のものは不揃いで不良品が多く出るという
    生産する場所の違いで鉄の出来上がりが異なることに気づいていました。
    この原因を突き詰めると、樹木の繁栄しているところと荒地の差であることが
    判明し、【土地には良い土地と悪い土地がある】というのが経験になりました。
    戦後、農業科学に関わることにより、生産に向いた土地と不向きの土地の測定に
    向かい、この途中でカタカムナ文献に出会い、カタカムナ人も良い土地(優性地)
    をイヤシロチ、悪い土地(劣性地)をケガレチと呼んでいたことを知りました。
    これを科学的に分析し、ケガレチのイヤシロチ化を含む様々な改良、農業技術の
    革新に取り組みました。
    楢崎氏はミトロカエシの技術により、原水爆の核エネルギーを無力化する技術を
    開発し、無償で国家に献上しています。

    ミトロカエシとは
    「カタカムナ文献」の楢崎氏によれば、超古代には【ミトロカエシ】と称される原子転換 の技法が伝承されていたといいます。
    【ミトロ】は気相・液相・固相の三相、【カエシ】は還元を意味します。
    楢崎博士の研究によると、この「ミトロカエシ」は物質の物性を変換させたり、新たな物質や生命を発生させる技法といわれています。
    全国各地の「ドロカエシ」「トロカエシ」などの名のつく池や沼には、生命誕生の伝承などが存在しており、そのことを比喩しているのではないかといわれています。
    楢崎氏によれば「ミトロカエシ」には原子転換 だけではなく、生命の自然発生という現象も伴うといいます。
    これは【潜象から現象へ出現する正の波動と共に、現象から潜象へ 還元していく逆波動が存在する」というカタカムナ科学に基づいたもの で、放射能(電磁波α・β・γ)を中性化させる「反電磁波」を出す物質だとされます。
    数学的に符号をつけると、電磁波は+の電気エネルギーで、 反電磁波は-の電気エネルギーを表します。
    潜象世界(虚数の世界)から現象世界(実数の世界)に無尽蔵に流れ込んでくる 超光速粒子アマハヤミは(-)の世界のエネルギーであり、それらのアマハヤミが 90度の角度で衝突すると電気エネルギーが発生することを発見したのが、 天才物理学者ニコラ・テスラでした。
    テスラはこの原理を使って、地中から無尽蔵の電力を無料で取り出す装置を発明し モルガン財閥に潰されたといいます。
    【-×-=+】になるのは、アマハヤミ×アマハヤミが電気エネルギーになることを表しこの(-)のアマハヤミ(超光速粒子)を物理学でタキオンといいます。
    そして人工的にタキオンを取り出し、コロイド状物質に貫通させると元素転換が起こります。
    コロイドとは 一方が微小な液滴あるいは微粒子を形成し(分散相)、他方に分散した2組の相から 構成された物質状態です。膠質(こうしつ)と呼ぶこともあります。
    一般的な物では、バター、牛乳、クリーム、霧、スモッグ、煙、アスファルト、インク、塗料 のりそして海の泡などがコロイドです。

    +2

    -0

  • 661. 匿名 2016/04/19(火) 08:53:52 

    ケバラン人から

    中東地域に現れた最初の人間と考えられるケバラン人が姿を現すのがBC1万8000年頃。
    それは、ヨ-ロッパの氷河期の最盛期に当たっていました。
    ヨ-ロッパは氷河期に一度ほとんど無人化した可能性があります。
    寒冷化から逃げなければならなかった彼らの行き先は南にしかありませんでした。
    彼らケバラン人は、中東、パレスチナに現れその後の文明の主流になりました。

    約1万5000年前、地球の温暖化が始まり、不毛の砂漠だったシリアの北部に草原や森林が広がりました。
    新しく出現したシリアの環境は、木ノ実や小動物など豊富な食糧を供給し、周辺の狩猟採取民族が、ハルーラという場所で定着生活に入ります。
    しかし、約1万1000年前に、地球的規模の寒気の揺り戻しがありました。
    シリア北部の自然環境は、もはやかっての生産性豊かなものではなくなり人類史上最初の定着生活を始めていた人々は、人口の増加をもたらし、そこへ突如襲った
    環境の激変と、それに伴う食糧の減少は村落の住人を窮地に追い込んだに違いありません。
    しかし彼らは、未曾有の困難に敢然と立ち向かったらしい。この時代の地層の考古学的発掘が興味深い事実を発見しました。
    約150種類の植物の種が発見されたのです。
    中には、クローバーの種など、とうてい食用に耐えない植物の種も含まれていました。
    明らかに彼らは、危機に直面して、ありとあらゆる可能性を探ったとおもわれます。
    彼らにとって幸いだったのは、その中に小麦が含まれていたことです。
    小麦は比較的寒さに強い。
    さらに現代の専門家の研究によって、小麦の驚くべき性質が明かになりました。
    野性の小麦は、たった10年程度の繰返し栽培でも、その性質を見る見る変え粒が大きくなり殻は柔らかくなって、食用に適したものになったのです。
    この小麦の変幻自在の性質が、その後の文明の発展に決定的な影響を与えました。
    しかし、初期の農業村落のほとんどは、大きな規模の町に発展する前に消えていきました。
    初期農業村落の幼児死亡率は高かったのです。

    BC1万1000年頃、中東に現れたナトウフ人は、ケバラン人の系譜につながります。
    世界最古の農業は、BC1万年より少し下がった頃、カルメル山の周辺に溯ります。
    エリコの町は天然のオアシスで、エリシャの泉は、遊牧民たちの水飲み場でした。
    人が集まりやすい場所だったのです。エリコの最初の住民ナトウフ人が、北西のカルメル山の山麓からやって来たと考えられています。
    その周辺には、現在の大麦や小麦の先祖の野生種が自生していて、最初は、野生の麦を動物の骨の柄に石の刃を埋め込んだ原始的な鎌で採取し始めたと思われます。
    農業は通常の採取経済に比べて50倍もの生産性をもつといいます。
    カルメル山からエリコへ移り、農業を始めたナトウフの人々は、共存共栄の元に平等に暮らし生産性を高めましたから幼児死亡率を減らし2000人ほどにも人口を増やしました。
    エリコの最初の文明は約1000年続きました。しかし、農業が安定し、穀物を貯蔵し、エリコが繁栄し豊かになると外敵が出現し、城壁を造らなくては、ならなくなったと思われます。

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  • 662. 匿名 2016/04/19(火) 08:59:29 

    続き

    ナトウフの人々は、アナトリアへ、武器を探しにいったようです。黒曜石です。
    その時に、農業技術の情報もアナトリアへ、流れたと考えられます。
    しかしBC7000年頃、その文明は急に終わります。新しい人たちがやって来たのです。
    エリコとともに、パレスチナのいくつかの地点が同じ運命を辿りました。
    侵入は、かなりの規模で行われたのでしょう。
    新しい侵入者は北シリアからやって来たと考えられています。
    この人々は、アナトリア方面から入って来たらしい。
    エリコのそれまでの円形の家は方形の家にとって代わりました。
    その方形の家の床の壁は、磨かれた「しっくい」で覆われていました。
    この方形で磨かれたしっくいの床の家という、かなり特徴のある家がアナトリアのチャタルフュイックの遺跡で発見されています。
    円形は、長頭の地中海人~エブス~フェニキア~ユダヤ~公孫氏~卑弥呼につながります。

    黒曜石の原産地は、アナトリアですが、大きく分けて二つあり一つはカッパドキア周辺、もう一つは、ヴァン湖の北岸地帯にありました。
    カッパドキア系とヴァン湖系の分布は比較的はっきりと分かれており前者はアナトリア南部からパレスティナにかけての地域、後者はチグリス川とユーフラテス川流域が中心になります。
    しかしヴァン湖系の分布は、一部がカッパドキア系の範囲(パレスティナとチャタルフュイック)を中心としたアナトリアの一部)に混在しています。
    一方、ヴァン湖系の黒曜石の産地は多数あり、チグリス川およびその支流地域を中心にユーフラテス川沿岸そしてイラン南西部のスーサ辺りから出土しています。
    と、いうことは、パレスチナ(カナン)のエリコの人々の地域にヴァン湖系が侵略し範囲を拡げたということです。
    そのヴァン湖系の人々が、アルメノイドだと思われます。
    ハッティ・ミタンニ・フッリ族などが、アルメノイドに組み込まれます。

    BC5100年から4300年までにバビロニア北部でハラフ文化が展開しました。
    この文化の特徴は彩文土器、銅、円形のトロス(祠堂)、押捺印章などで【分業】がはじまり、金属細工人、陶工、石工が生まれ、銅鉱石が交易されて、農村の自給経済を変容させました。
    この頃から銅鉱石を採集してハラフ農民と交換した人々が後にセム族特にアッカド人として歴史に現れます。
    北部にハラフ文化が展開しつつあった時、バビロニア南部ではエリドゥ期で沼沢地に農耕社会が形成されました。シュメール人が現れる1000年も前のことです。

    エラム族は、インドのドラヴィダ族と共に、地中海からインダスに至る広範囲な地域を移動し、その一部はアルメノイドと混じりながらシュメール人となってBC3500年頃、ウバイド人がいたバビロンの地に侵入しました。
    「史記」の伏犠氏は、この人々です。
    アルメノイドとは、アナトリア東部のヴァン湖の北岸地帯にいた人々です。
    それは、黒曜石の分布図で現在も解析できるようです。黒曜石は、火山性ガラスで、ナイフなど鋭利な刃として、中東では銅化合物に取って代られるまで使われました。

    エラム族は、ジグラットを作り、そこに月神シン(このシンが後々まで名付けに関連する・・秦・辰・晋・清)を祭り、部族同盟を作り、西はザクロスに至り、東は中国大陸に現れ中国史では、燕人となって、アラム族(のちのウラルトゥなど)の祖でもありました。
    この部族同盟は、族外婚という特徴に変化して、サカ族の末裔である蘇我氏でも行なわれていました。
    人類の文字は、エラム族が作った縦、または横の絵画配列に始まります。
    エラム族は、サカ族などの原型となりますが、この人々が、中国の甲骨文字とメソポタミアの原エラム文字を作った人々でした。

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  • 663. 匿名 2016/04/19(火) 09:06:16 

    エラム文明

    氷期の終わりの約1万2千年前頃に温暖化していくなかで急激な戻り寒冷期がありました。
    ヤンガー・ドライアス事件と呼ばれている現象です。
    北アメリカにあった巨大な氷河湖(氷河が溶けて出来た水が堰き止められて形成された湖)が崩壊して、大量の淡水が一気に海に流れ込んだ結果、海流が乱されて地球規模の熱の移動が滞ったのです。
    中近東ではこの時の寒冷化によって採取できる食物が減り、それを補うために農業技術が進歩したと考えられています。
    人類は地球が温暖化すると知的停滞し寒冷期の方が前頭葉が進化するようです。
    現人類の祖、ホモ・サピエンスも寒冷化・乾燥化した時期に獲物を求めて、アフリカから西アジアやインドに進出しています。
    最初に農業が開始されたのは、12500~10200年前に存在した地中海東部のナトゥフ文化といわれるパレスチナのエリコでした。
    さらにエリコの人々はアナトリアのチャタルフュィックで自然銅を発見しその銅を加工する高温技術を発明したと思われます。
    アナトリアではエリコの人々のチャタルフィックと北部のヴァン湖付近に高地農耕が進みます。
    ヴァン湖の人々は、気候の激変により北方(ヨーロッパ)から南下してきたと考えられます。
    やがて彼らは農耕に最適な環境のメソポタミアに進出し、一方、銅を求めて移動していった人々との間に交易が始まり、それは、めざましい成長を遂げるのです。
    古代メソポタミアで重宝された石にラピスラズリという石があります。
    瑠璃色のきれいな石ですが、この石を原産地のアフガニスタン北東部からメソポタミアに運ぶ道が【ラピスラズリの道】と呼ばれています。
    フェルメールの『真珠の耳飾の少女』の絵画で使われた鮮やかな青、ヒヤシンス・ブルーともいわれる顔料のラピスラズリーです。
    その【ラピスラズリ】の道は、ラピスラズリのほかにも金・銀といった貴金属が運ばれたようです。
    この道は、トランス・エラム文明と呼ばれるイラン高原に存在した商人都市の交易ネットワークであり、このネットワークに連なる形でインダス文明や海上ルート上にペルシャ湾岸の古代交易都市が開発されていったようです。
    この文明は、スーサを首都に置き、メソポタミア文明から穀物を輸入し、東方で採掘した鉱物を輸出していたようです。これを原エラム文明と呼びます。
    ところが、紀元前27世紀の末、シュメール人の都市国家の一つであるキシュに首都のスーサを奪われてしまい、エラム文明は、首都を奥地のシャハダードに移転します。
    新しいエラム文明は、メソポタミア文明との交易を続けながらも、新たな穀物の輸入先を求めインダス川流域に、新しい文明を現地人に作らせたと考えられます。
    事実、メソポタミアの特産品であるクロライト製容器が、インダス川河口付近の湾岸やモエンジョ・ダロ遺跡の下層から見つかっています。このことは、インダス文明成立以前にトランス・エラム文明の商人がインダス川流域を訪れ、交易を行ったことを示唆しています。
    物資を運ぶには、陸路を通るよりも、河川や海などの水路を使う方が便利です。
    そのため、やがてトランス・エラム文明は、バーレーン島に進出し、水路ネットワークを活用するようになりました。
    陸路が衰退することで、インダス文明は最盛期を迎えます。

    メソポタミアのすぐ近くに興った交易都市スーサ(原エラム文明) 

    → そこからイラン高原の都市シャハダード(トランス・エラム文明) 

    → そして海上のウンム・アン・ナール島(ウンム・アン・ナール文明)へ商人の拠点を移動していきます。
     
    インダス文明は、この商人都市の穀倉地帯としてトランス・エラムの商人によって開発されその際に、現地の原住民、ドラビィダ人を使役したようです。
    純朴で勤勉な原住民のドラヴィダ人を教育して組織化し、高度な支配体制によってメソポタミアへ輸出する製品ための工房都市として機能させたのがイラン高原一帯に拡がったエラム文明であり、インダス文明だったのではないでしょうか。
    興味深いのは、エラム文明~インダス文明が繁栄した、この一帯は後々の歴史に、物質的にも精神的にも影響を及ぼしていることです。
    様々な民族が混在した十字路であり、豊かな河川、水路想像を超える精神性が此処には繁栄していたと感じられます。
    太陽神・ミトラ・・・シリウス、古代の人々の深い想いに届きたいと思うのです。

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  • 664. 匿名 2016/04/19(火) 23:36:52 

    このトピだけアク禁(T_T)
    またなるかも…

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  • 665. 匿名 2016/04/19(火) 23:55:55 

    >>656
    同感です(≧∀≦)
    飛騨高地の白川郷にも似ていますよね
    合掌造りは、釘を1本も使わず、屋根裏の2~3層は、養蚕の作業場となっています。
    釘を一本も使わない点で、エブス人のタルシシ船に似ています。しかも屋根裏でカイコを飼っていたとは…オシラ様?
    アシラ神に名前が似てる…確かルシファーと関係ありましたよね
    養蚕はネズミによる被害があり、猫を飼って鼠を捕えカイコを守ったらしいです
    養蚕と家猫はセットで伝わっていくのですね。そういえば猫は船の守り神よね…
    船&屋根といえば、トラジャ族「レンバン(船の意)」と呼ばれる村の家は船の形をしています。彼らは「祖先がエジプトから渡来した」という伝承があります

    エジプトといえば猫の女神バステト。
    そして女神アナトの武器は錘です…この錘とは「鉄製の太い針状の棒で、回転して糸を巻き取ると同時に縒(よ)りをかける働きをする」、紡績の道具
    ピラミッドは養蚕と関係がありそうですね

    +3

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  • 666. 匿名 2016/04/19(火) 23:57:23 

    画像を付けなかったら投稿できました(≧∀≦)

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  • 667. 匿名 2016/04/20(水) 01:38:55 

    >>665
    アシラ神

    アシラは、西セム系太女神アシェラトのヘブル読みです。古代イラン語asha(宇宙の法則)に由来するものと思われます。
    アシラは、ときには、単に「神聖」と呼ばれました。
    この名称はのちにヤハウェにつけられました。
    カナアン人はアシラを「神々を生む女神」Qaniyatu elimaあるいは「海を渡る女神」(=月)Rabbatu athiratu yammiと呼んだのです。
    Rabbatuという語はラビrabbi(ユダヤ教の宗教的指導者)の昔の女性形でありました。
    アシラという名前の変形としては、Athirat、Athra、Aethra、Athyr、そしてエジプトのヘ(ウ)ト=ヘル〔ハトホルHathor〕というのがあったそうです。
    アシラはしばらくの間セム族の神エルElを夫としていました。
    アシラが天界の雌牛であり、エルが雄牛であったのです。
    この聖なる結婚ののちに、アシラは天界の双子、シャヘルShaherとシャレムShalemを生みました。
    明けの明星と宵の明星です。
    pointLucifer.. この結婚の儀式では、母親の乳で仔ヤギを煮ることが行われたらしいです。
    しかしこうしたことは、のちに、ユダヤの聖職者たちの禁ずるところとなりました(『出エジプト記』第23章 19節)。

    アシラ・・・私は仏教の阿修羅(アスラ)を思い出してしまいます。

    阿修羅

    古代インドのアスラが仏教に取り入れられたものである。古代インドでは生命生気の善神であったが、帝釈天の台頭に伴いヒンドゥー教で悪者としてのイメージが定着し、地位を格下げされたと考えられている。帝釈天とよく戦闘した神である。
    阿修羅は帝釈天に歯向かった悪鬼神と一般的に認識されているが、阿修羅はもともと天部の神であった。阿修羅が天部から追われて修羅界を形成したのには次のような逸話がある。
    阿修羅は正義を司る神といわれ、帝釈天は力を司る神といわれる。
    阿修羅の一族は、帝釈天が主である忉利天(とうりてん、三十三天ともいう)に住んでいた。また阿修羅には舎脂という娘がおり、いずれ帝釈天に嫁がせたいと思っていた。しかし、その帝釈天は舎脂を力ずくで奪った(誘拐して凌辱したともいわれる)。それを怒った阿修羅が帝釈天に戦いを挑むことになった。

    とあります。
    元々、天部の神だったのに天部から追われてとありますが、まるで天界を追われたルシフアーを連想させますね。

    ルシファーの姿
    その姿は6枚、もしくは12枚の羽を持ち、天使の中で最も美しく優れており、時に3つの顔を持っていたともされます。

    阿修羅の姿
    姿は、三面六臂(三つの顔に六つの腕)で描かれることが多い。

    偶然でしょうか?

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  • 668. 匿名 2016/04/20(水) 02:52:12 

    大日如来

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  • 669. 匿名 2016/04/20(水) 06:44:15 

    >>667
    胸が高鳴ります
    類似しているのは偶然ではないと思います
    世界で聖職者が“ミカ”の名において宗教改革をしたのかもしれませんね

    そして、明けの明星が日本なのかも…と思ってしまいました(汗)

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  • 670. 匿名 2016/04/20(水) 17:07:57 

    日本人の祖先

    縄文時代以前、旧石器時代末期に存在したとされる極めて高度な科学技術や 独自の哲学体系を持っていたことが、神代文字であるカタカムナ文字で記された 【カタカムナ文献】から推測されます。
    大自然、大宇宙の息吹を友としていた超古代人にとって、その直観力は、現代人の想像も及ばないほど研ぎ澄まされており、宇宙の深淵、宇宙の背後に 隠されている何ものをも射抜くほどの力を持っていたようです。
    古代日本に渡来した一派がカタカムナ人です。
    彼らもまた、石英の多い山を利用して、全国各地に人工ピラミッドを造山しています。
    そして、ミトロカエシの技法からも分かる通り、錬金術師でもありました。
    カタカムナが伝える【ミトロカエシの秘法】は、【賢者の石】に関係するといいます。
    西洋のヘルメス学(錬金術)の文献には、【賢者の石】は、ガラス状に輝く ルビー のような化学物質と記されているとも言われています。
    1万2千年前、私たち日本人の祖形は、アルタイ山脈の西部と天山山脈の北麓の間の故地からジュンガリア廻廊を南下し天山南麓をつたわって西方に進んだようです。
    さらに、パミール高原の東麓に沿ってタリム盆地(今の新疆ウイグル自治区)の西方をぐるりと迂回し、パミール高原がおわるところで一部はカラコルムからヒマラヤに入り、また一部はアルティーン・ターグの北麓からヒマラヤに登りさらに他の一部はアルティーン・ターグの北麓をつたわって東方に行き青島のツァイダム盆地に出、バヤンカラシャン山脈を縫い、ついにはヒマラヤ登ったのです。
    彼らは同じ樹林帯にしてもシベリヤの針葉樹林対を捨ててヒマラヤは崑崙の常緑広葉樹林対に移動したのです。
    日本人の祖形であるツングース的モンゴロイドはアルタイ西部の故地ザイサン湖畔を離れ、ヒマラヤを越えて揚子江岸に下りシナ海に進出したものと考えます。

    その時、アルタイ西部の故地ザイサン湖畔に居残ったツングース的モンゴロイドの一部と、その故地で共存関係にあったイラン的ユーロポイド(白人)と雑婚したものが殷族であり、 殷の部族連合を構成する連合内部族とその部民になったツングース的モンゴロイドが タリム・アラシャン・オルドスなど東に進出してきたものと考えます。

    +2

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  • 671. 匿名 2016/04/20(水) 17:27:27 

    平等社会から支配社会へ侵略者

    都市文明は長いことメソポタミアの発明と考えられてきましたが実は長い間、時代にとり残された辺境の地域とみなされてきたパレスチナのエリコアナトリアのチャタル・フユィックの遺跡の方が先行する文明であったことが解かりました。
    そして、これらの最初期の文明は、地母神を崇拝する女性中心の文明でした。
    日本でも男性支配の家父長制度が課せられるのは大宝律令が制定されてからです。

    太古地母神《女神》は古代の農耕社会すべてに於いて崇拝されていました。
    女性的なるもの・・・その生物学的な性格から、大地と同じように子を産み育みそだてるもの・・・の神格化の証拠は、農業起源の三つの主要な中心、小アジアと南東ヨーロッパ東南アジアのタイそして後の中央アメリカに見出すことができます。
    《大いなる女神が》が、時には鳥の姿になったり蛇の《女神》になったりしながら水の生命授与力を支配しています。
    ヨーロッパとアナトリアでは、雨を孕み、乳を与える、そういう文様が土器に織り込まれています。
    アナトリアのチャタルフユィックの遺跡からは、母系で妻方居住の社会構造が現れました。
    その構造は、チャタルフユィックからクレタに移住し、太古地母神《女神》と共に農業技術をもたらしつづく四千年の間に、土器製作、織物、治金、彫版、建築、その他の技能およびクレタ独特の生々とした喜びに満ちた芸術様式の進歩がありました。
    そこでは富は、公平に共有されました。年上の女性ないし氏族の長が大地の実りの生産と配分をつかさどり、実りは集団の全員に属するものとみられていました。
    主要な生産手段の共有と、社会的権力は、すべての人の利益になるよう図られ、責任のもとに基本的に共同的な社会組織が生まれていました。
    これは、パレスチナの世界最古の町エリコナトゥフの人々が成功していた共同社会につながると思われます。
    太古地母神《女神》を中心に女も男も異なった人種の人々も・・・共通の幸福のために平等に協力して働いていました。
    母系による相続と家系、至高の神としての女性、現世的権力をもった女司祭と女王の存在はありましたが男性の地位が低いということはなく、両性は平等な協調関係を築いていました。
    彼らは、たいへん自然に親しんでいて、アニミズム(精霊崇拝)はクレタだけでなく、ケルト民族にも伝わりました。
    太古地母神《女神》を中心にした文化はアナトリアを中核として地球一周しました。
    ストーンサークルやドルメン、メンヒルなど、これらの祭祀が彼らの残した足跡です。

    +2

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  • 672. 匿名 2016/04/20(水) 17:29:10 

    続き

    最初、それは家畜の群の草を求めて彷徨う一見取るに足りない遊牧民の集団にすぎませんでした。
    数千年以上も、どうやら彼らは地球の端の誰も望まぬような厳しく寒く痩せたシベリアに住んでいました。その遊牧の集団が長い期間をかけて数と獰猛さを増しヨーロッパ北東からヨーロッパ大陸に群がり南下し侵略してきたのです。
    彼らは最初のインド・ヨーロッパ語族あるいはアーリア人といわれるクルガン人です。
    あるクルガンの野営地では、女性住民のおおかたはクルガン人でなく、新石器時代の太古地母神《女神》崇拝の人々であったことが発掘資料から判明しています。
    このことが暗示しているのは、クルガン人が、その土地の男性や子供たちの大部分を虐殺し、女性たちのある者だけを助けて妻や奴隷にしたということです。
    遺跡から農機具のみで武器というものが見あたらない【平和】で【民主主義】な社会が営まれた《女神》崇拝社会が破壊され、男性的支配社会のはじまりでした。
    インド・ヨーロッパ語族は、先の文明を築いていた太古地母神《女神》を崇拝する農耕民族を次々侵略していったのです。
    インドに於けるアーリア人、【肥沃な三日月地帯】に於けるヒッタイト人とミタンニ人アナトリアに於けるルヴィ人、東ヨーロッパに於けるクルガン人、ギリシアに於けるアカイア人および後のドーリア人、彼らは征服した土地や人々の上に次第に自分達のイデオロギーと生き方を押し付けていったのです。
    このほかにも侵略者はいました。
    ヘブライ人と呼んでいるセム系の人々です。

    +2

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  • 673. 匿名 2016/04/20(水) 17:32:01 

    >>665
    >アシラは天界の双子、シャヘルShaher(明けの明星)とシャレムShalem(宵の明星)を生みました。

    金星ではありますが…
    このシャレムとはノアの孫族のひとつ「エブス人」が住んでいた町で、イスラエル人に追放されてからは“エルサレム”となった地です。
    ではシャヘルはどこに?エルサレムは丘ですから、きっと丘陵地や台地(盆地・平野)だと思うのですが…
    気になります(>ω<)

    +2

    -0

  • 674. 匿名 2016/04/20(水) 18:05:47 

    >>671
    イザヤ書の「曙の子ルシフェル」という言葉は、聖書で唯一のルシフェルへの言及であるが、「ヘレル・ベン・サハル(輝ける曙の息子)」というヘブライ語の意訳である。
    よって、シャヘルはルシフェルの父とも解釈できるが、バーバラ・ウォーカーのシャヘルが太陽神に反逆して堕とされ、それがルシフェルの神への反逆の伝説の下敷きになったとする主張が周知され、しばしば両者は同一視される。

    とあります。
    魔界に行ったようですね(>_<)

    +2

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  • 675. 匿名 2016/04/20(水) 18:05:49 

    >>673のアンカー>>667でした、ごめんなさいm(_ _)m

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  • 676. 匿名 2016/04/20(水) 19:45:58 

    フジでメキシコのピラミッドとかマヤとかやってる〜(≧∇≦)

    +3

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  • 677. 匿名 2016/04/20(水) 21:01:37 

    見ました(^^)/
    行ってみたいですね~。

    +2

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  • 678. 匿名 2016/04/20(水) 21:05:46 

    >>677
    このトピか前のトピに出てきたこの宇宙船も出てきましたね〜

    +4

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  • 679. 匿名 2016/04/20(水) 21:10:45 

    >>678
    出てましたね~
    でも一般公開してないんですね(>_<)
    生で見たいですね。

    +4

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  • 680. 匿名 2016/04/20(水) 21:28:46 

    ジッグラト
    ポゥ*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*

    +4

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  • 681. 匿名 2016/04/20(水) 21:43:08 

    >>680

    同じ様な形ですよね(^^)/

    +4

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  • 682. 匿名 2016/04/20(水) 22:23:19 

    >>674 なんと~(>ω<;)
    魔界に行った…都合が悪くなったので消されちゃったとか?
    いつか真相を知ることができたらいいな♪

    フジの録画しました~見るの楽しみです!

    +4

    -0

  • 683. 匿名 2016/04/20(水) 23:24:47 

    前回の歴史トピでもそうでしたがここまで付き合って頂いて感謝です。
    頑張って投稿していきますね(^^)/

    +4

    -0

  • 684. 匿名 2016/04/20(水) 23:42:05 

    いつもありがとうごさいます
    これからも
    よろしくお願いしますm(_ _)m

    +5

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  • 685. 匿名 2016/04/21(木) 06:32:51 

    >>682です
    シャヘルShaher(明けの明星)

    シャヘル…シャペル…シャペン…ジャペンかも?
    妄想です(^_^;)

    古代メソポタミアの都市には“スサ”や“イシン”など、その後に東へ移動した氏族の名と似ていますが、中でも“ニップル(Nippur)”という都市が「Nippon」みたいでとても気になります

    +4

    -0

  • 686. 匿名 2016/04/21(木) 08:00:11 

    >>681
    ピラミッド形が世界各地にあるのってなぜでしょうね

    +5

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  • 687. 匿名 2016/04/21(木) 11:01:44 

    >>686
    かつて世界は圧倒的存在により支配されていたとか…(・ω・)

    ピラミッドって、バベルの塔のひとつなのかしら?
    それらは高いほど神に近付くという…神は空(宇宙)にいたみたいですね…やはり宇宙人かな?

    +5

    -0

  • 688. 匿名 2016/04/21(木) 11:41:46 

    ピラミッドを含め巨石文化の世界への拡大・・・
    本当に不思議ですよね。

    古代フリーメーソン秦氏

    フリーメーソンのマークコンパスと矩は平安時代には日食月食割り出しに陰陽師らは熾烈な戦いを繰り広げ、江戸の世では庶民が算学本を一家に一冊常備するまでに。
    和算は生活に役立てるので感動する。直角二等辺三角形の相似を利用して、木の高さを目測できます。
    腰を90度に折り木のてっぺんが見える位置を探せばそこから木までの距離と木の高さが等しくなります。
    四つん這いになった人が、股の間から木を見通す。

    古代のフリーメーソンといわれる秦氏は、秦の始皇帝の末裔とされます。
    ルーツは、古代イスラエル。シュメール時代からの純粋な技術集団の彼らとロスチャイルドなどのマンモス財閥フリーメーソンとは繋がらない。
    現在、ユダヤ人といわれている白人は本来のユダヤ人ではなく、彼らは「ユダヤ教徒」に改宗した中央アジア人。
    考古学的には本来のユダヤ人はカナン人から由来するとされています。
    そして古代エジプト人、古代メソポタミヤ人、古代アナトリア人との人種混合が起こったとします。
    この人々が移動して日本国を造ったと考えられます。叡智のシュメール人。

    ユーラシアの北方にはアジアからヨーロッパまで坦々としたステップ地帯が連なっています。狩猟民族はマンモスや鹿を追いかけてユーラシア大陸を抜けて北東のシベリアへ進み、さらに南北アメリカに渡たりました。温暖の時は北方へ、厳寒になると南下して日本列島にも渡って来ました。彼らが縄文人なり、三内丸山遺跡の人々にもなったと考えられます。

    黄河より長江文明の方が早く1万4千年前より稲作と養蚕と機織が始まっていたことが最近分かってきました。
    同じ頃、パレスチナ(エリコ)辺りで最古の小麦農業は始まっています。
    その流れは、やがてメソポタミアの大農業につながります。
    BC6000年頃に始まった金属文化は、初めにヒマラヤ山麓をルーツとして小アジア(トルコ)のチャタルフユィックやタイのバンチェンに拡がりこれがモヘンジョ・ダロ(インド)を経てBC2500年頃までにはアファナシェヴォ文化(エニセイ川流域)に伝わりました。
    担い手は白鳥トーテムのチュルク族(白人)。アファナシェヴォ文化は南シベリアのエニセイ河上流と アルタイ地方に栄え、アンドロノヴォ文化という青銅文化につながりさらに南シベリアのカラスク文化に 代わりました。

    トルコからシベリア、日本まで広大な範囲を包括するチュルク族はウラル・アルタイ語族=ツラン族といい、さらに西に進んだ一部はイデル・ウラルとクリミア地方からバルカン南東隅まで、また他の一部はドナウ盆地にまで進出しました。
    彼らはシルクロード全域に亘って分布し、アレキサンダー大王が侵入するまで中原の支配者でした。彼らは、高句麗・ 百済・日本天皇家に繋がります。

    +2

    -0

  • 689. 匿名 2016/04/21(木) 11:44:20 

    続き

    彼ら【白鳥族】は、日本列島の中央構造線に沿って九州から四国、紀伊、伊勢、信濃、鹿島など水銀(丹生)や瑪瑙、翡翠、琥珀など数多くの鉱物資源を採掘していきました。
    その周辺は地下で巨大なエネルギー が蓄積し、それによって誕生したいろいろな資源が採掘できました。
    だから、大和の勢力は鉄と鉱物資源を掌握し豪族の勢力争いが起きました。
    はじめは葛城氏が、次に蘇我氏が、最後に藤原氏が征服しました。

    東北征伐もして金など重要な資源を手中にした。
    中央構造線のラインは前方後円墳の分布とも見事に一致します。
    九州から関東地方にかけて分布するが、密集している地域は主に、北九州、日向、吉備、讃岐、近畿、中部、そして関東地域でした。

    埼玉県から群馬県にかけて密集しているのはなぜか?
    この地域に密集している所は、利根川の上流、山地から下るあたりの支流に沿っています。
    それは、たたら製鉄の産地でした。前方後円墳を造るには鉄器具を要します。
    製鉄には膨大な木材を必要とするので山に近く、それを運ぶために川を利用するので川 沿いに位置していました。
    利根川を下っていくと埼玉県と群馬県、千葉県と茨城県の県境に沿って流れ鹿島灘へ注いで、鹿島神宮と香取神宮に繋がっていました。

    利根川は、鹿島神宮と香取神宮の前にあった香取の海に流れ込み、銚子のあたりで鹿島灘に流れ出していました。やはり、鹿島・香取二つの神宮は重要な拠点に位置していました。


    ブームになっているパワースポットは、鹿島・香取神宮をはじめ中央構造線のライン上に重なります。
    地球の磁力の源が集中し、【ヴォルテックス(渦巻き)】と呼ばれるエネルギーが渦巻いています。
    特に磁力の源が集中し地表に放出されるエネルギーが強い場所。

    磁力の出入りは呼吸と同調し磁力が入っているとき人間は強く自信に満ち、磁力が出てゆくとき人間は弱くなり失望を生じるといいます。

    人によってはその波動を強く感じ取り、涙が溢れるなどの浄化(デトックス)作用を経験するといいます。こういう場所では植物も磁力の影響を受けて変わった成育をする事が多いらしい。
    古代、地球の全ての生き物が磁力を感じ、行動していました。

    白鳥などの渡り鳥も魚も方向感覚が優れているのはその機能を持っているから。
    磁場の歪みで地震を察知、逃避する動物もいれば、潮の動きで魚は食欲を左右されます。

    北半球のイワシなどの群れる回遊魚は、水槽に入れられると右回りに、南半球の魚は左回り。ウナギも方向を間違えず、エサも食べずにひたすらマリアナ海溝を目指すといいます。

    +4

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  • 690. 匿名 2016/04/21(木) 13:59:31 

    >>689
    脳の松果体が磁気センサーの働きをするらしいですね
    (>∀¬)ー☆ー(・∀・)
    ここを鍛えたら占い師のように人の(先祖の)記憶まで読めるかもしれない

    +4

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  • 691. 匿名 2016/04/21(木) 15:16:22 

    >>690
    頑張ってお互い鍛えましょう(^^)/

    +2

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  • 692. 匿名 2016/04/21(木) 15:57:23 

    >>691
    はい(^^) …どうやって鍛えられるのかはわかりません(汗)
    とりあえず寝るとか(笑)

    マヤの末裔ですが、遺伝子が日本人にかなり近いですよね

    +4

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  • 693. 匿名 2016/04/21(木) 16:33:11 

    >>692
    番組見てると本当に似てましたよね。
    マヤの末裔と言えばネイティブアメリカンのホピ族も末裔と言われてますよね。
    凄く気になります。

    +3

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  • 694. 匿名 2016/04/21(木) 19:06:39 

    >>693
    昔に生き別れになった兄弟みたいでした(^^)
    大昔の横井庄一さんみたいな…どっちが遠征したかはわかりませんが…

    パレンケの神殿の登り口が“山”の文字に見えるのですが…

    +3

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  • 695. 匿名 2016/04/21(木) 19:09:01 

    >>694
    これですね(^^)/

    確かに。

    +2

    -0

  • 696. 匿名 2016/04/21(木) 20:24:03 

    >>695
    それです!
    意味があるはずですよね
    ホピ族のアクセサリー「サンフェイス」に
    も“山”や“八”の文字があったし…部族の家紋みたいなものでしょうか
    この意味がわかれば、ヤマトとの関係が見えてくるかもしれません

    +2

    -0

  • 697. 匿名 2016/04/21(木) 20:31:14 

    >>696
    是非自分の目で確認してみたいですよね。
    きっと何か閃きそうですね。

    +1

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  • 698. 匿名 2016/04/21(木) 22:52:14 

    >>697
    ゆっくり見たいですね(。・ω・。)ジー

    ラカンドンという部族でしたよね
    『阿羅漢』に関係有るかも?
    元々、インドの宗教一般で「尊敬されるべき修行者」をこのように呼んだらしいです
    『法住記(ほうじゅうき、Nandimitrāvadāna)』によると、仏滅800年経ち、ナンディミトラ大阿羅漢が大衆に説いたとされる、仏勅を受けて永くこの世に住し衆生を済度する役割をもった16人の阿羅漢。
    彼らは世界中に民を引き連れて配置(?)されたみたいです

    1)西瞿耶尼洲(須弥山世界の四大洲のうちの西大陸、ゴダーニーヤ・ドヴィーパ)
    2)カシミール
    3)東勝身洲(須弥山世界の四大洲のうちの東大陸、プールヴァヴィデーハ・ドヴィーパ)
    4)北倶盧洲(須弥山世界の四大洲のうちの北大陸、ウッタラクル・ドヴィーパ)
    5)…
    と16ヶ所続く

    関係有りそうな予感がします

    +2

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  • 699. 匿名 2016/04/22(金) 05:15:23 

    >>651
    インドのアーリア系ってロシア南から来たの?
    ずいぶん寒いところから暑いところに移動したね笑
    アーリア系が入ってきてドラヴィダ系の支配層や位の高い人を低いカーストにしたって聞いたことあるけどどうなんでしょう?

    +3

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  • 700. 匿名 2016/04/22(金) 12:26:20 

    >>699
    紀元前1300年頃から、アーリア人は一部地域の一部のドラヴィダ人を支配し、階級制度のカースト制を作り出し、アーリア人は司祭階級のブラフミンと、王族・貴族のクシャトリア、一般市民のヴァイシャを独占し、ドラヴィタ系の民族は奴隷階級のシュードラに封じ込められたとされていた。
    と考えられていたみたいですが、近年の研究ではアーリア人・ドラヴィダ人共に様々な階級に分かれていた事が発覚したようですね。
    ドラヴィダ人はアーリア人とは外見が異なり、アーリア人よりも一般的に肌の色が黒く背が低いが手足が長い、ウェーブがかった髪などの特徴があり、DNAの観点からは古モンゴロイドに分類されるみたいですし、見た目で区別はし易かったでしょうね。

    +2

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  • 701. 匿名 2016/04/22(金) 12:59:58 

    >>678
    これ宇宙船と言われて見るから宇宙船に見えるのであって実は違うものなんじゃないかな

    +3

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  • 702. 匿名 2016/04/22(金) 13:11:58 

    扶余族

    日本人のルーツ、ウガヤ王朝はアッカド人とラガッシュ人(フツリ人とウル人の混血)の連合部族でこの王朝が後にウラルトゥ国を建てました。
    アッカド人の出自に関して最も有力な推測は、BC4000年以降のハラフ高地に自然銅を運んだカスピ海周辺の人々だと考えられます。
    ハラフ文化は、東はヴァン湖から西は地中海におよびその年代はBC5000年の末と推定されます。

    アッカドのサルゴン王朝は、BC3000年頃のアッカド人の民族移動の後BC2360年頃、バビロンを支配しましたがBC2190年から2120年にかけグート人がシュメールからアッカド人を追放し、その時に、アッカド人と共にインダス渓谷に亡命したウルの月神の一族がチベットに於いて月氏になりました。

    ウラルトゥ王国を建てた後、スキタイやアッシリア系印欧語族に追われ、キンメリ人やチュルク人と共にバクトリアに逃れ、さらに華北に移動し、ここで秦に伐たれたため、満州に入って扶余国の前期王朝を建てました。
    そして穢王アグリイサシが扶余と合体して自ら東明王になって後期王朝を建てました。
    この時、前期王朝は東扶余に移り、後に扶余王仇台は公孫氏と同盟して南下し、馬韓の帯方、いまの京城に伯済国を建てましたが公孫度の娘、卑弥呼を娶って公孫氏に帯方の地を譲り、北九州に上陸して伊都国を建てました。
    仇台は伯済国では百済の始祖仇首になり、伊都国ではイワレヒコ、後の神武になりました。

    後期王朝はインドから一旦河南省の宛に入り、そこから満州へ来た穢族です。
    この人々はウルのカルデア人のことです。BC1530年、ヒッタイトがハムラビ王朝を倒した後、カッシート人王朝ができたため、バビロニアを 【カルドウニアシス】と呼び後世【カルデア】と呼んだのです。ウンマ王ルーガルザグギシとグート人の王シャルラク に始まり、バビロニアのカッシート王朝となり、さらにそのカッシート人がバンヂャップに入って後期ヴェーダ時代に、インド十六王朝のなかのクル国になった後、カルデラ人の子孫のプール族と合体してガンガ流域に移り、ベトナムの文郎国を経て中国大陸の河南省に移民した国家です。
    BC1000年紀のインドは、ガンジス流域を中心にして十六王朝があってカッシート人を中心とする月神王朝とアラビア海の海商を中心とする日神王朝系に分かれていました。
    月神王統は、カッシート人の亡命者が主流なので中国史の大月氏と同じルーツから二分したものです。
    月神王統の諸国からマガダ国が次第に頭角を表してついにインドに統一王朝を建てましたがマガダ国力を支えたのは、この地のインド最大の製鉄地域でした。
    マガダの製鉄はヴォラテイアという漂白の民によってなされていたといいますが彼らは、サカ族系であったといいます。
    また東の方、メナム河の流域に、ドバラヴァティというモン族の国家があり吐火羅あるいは堕羅と書かれ、モン族は自らタラインと称していました。
    この吐火羅人は、月氏系ですが、この月氏は、中国史の月氏ではなくインドから入った月神王朝、すなわちカッシート人の子孫のクル族のことです。
    インドネシアで発見された銅鼓には月氏の絵があって、これはインドの月氏であったようです。
    インドに入ったカッシート人とサカ族は、それぞれクル国とプール国をたてて合流し、のちにメナム流域のモン族を支配した吐火羅国をたて、さらにベトナムで文郎国をたてた後、阿南省の南陽に植民して製鉄基地をたてたと考えられます。
    マガダの都は、ガヤで、中国では、これを伽耶と書き、これが朝鮮の駕洛諸国の語源になったらしい。
    十六王朝の時代に、サカ族は、アソカ国をたて、コーサラ国では釈迦を生みさらに、マガダ国の製鉄部族になりました。

    +2

    -0

  • 703. 匿名 2016/04/22(金) 13:14:50 

    続き

    国史のニギハヤヒノ命である穢国の王、アグリナロシはプール族の王でした。
    アグリはインドの製塩カーストのアグリアーを意味します。

    ------「通典」の穢伝より------

    穢人はその性質が慎み深く誠実で、貪欲なところが少なく、恥というものを知っている。
    衣服は男女ともみな円い襟をつけ、男子は広さ数寸の銀花をつけて飾りにしている。
    穢人の習俗では、山川を重んじ、山にも川にもそれぞれ邑落ごとの区域というものがあって、みだりに立ち入ることが出来ない。
    同族内では婚姻せず、タブーが多い。
    病気にかかったり、死者が出たりすると忌み嫌って、すぐさま旧い居宅を棄て、新しいのを作る。
    麻を栽培して養蚕し、綿・布を作ることを知っている。
    星宿をうかがうことに聡く、その年が豊作かどうかを予め知っている。
    珠玉を宝物としない。
    また虎を祭祀してこれを神としている。
    穢人の邑落、相互の間で侵犯することがあれば、直ちにその双方を罰して生口・牛馬を取り立てるが、これを「責禍」(虎神様のお咎め)と称している。
    盗みをする者は少ない。
    矛は三丈もの長さがあって、時には数人でこの矛を持ち、巧みに歩戦する。
    かの有名な【楽浪の壇弓】というのは穢の地で産出されたものである。

    穢族または国史のニギハヤヒ一族には、青い目の人々もいたらしい。
    平安時代から村はずれに天部、余部などという部落があって元来は天の王朝の人々の部落でした。
    新羅の奈良王朝を破って百済人が平安王朝を建てた時その圧制の下で家を捨てた人々が、この地に次々と入り込んできました。
    山形県の余目も最果ての余部と考えられますがここには青い目の人々が多いのです。
    あらゆる文化が辺境に、辺境にと逃れるように、天部の純粋の形態は東北地方に残ったようです。
    天の王朝一族は、ニギハヤヒ族の他、東表国・金官国の中臣族、公孫燕・邪馬壱国の大伴族などもありますが、このような青い目の人もいたかもしれません。

    +2

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  • 704. 匿名 2016/04/22(金) 13:25:11 

    >>701
    そうですね笑
    このレリーフ、この様に「縦」に見るのが(↓)正しい見方なのだそうです。

    レリーフに描かれた「模様」はそれぞれ意味があります。
    ○一番上の鳥の紋様=マヤ文明の聖なる鳥「ケツァルコアトゥル」。この鳥は天上の世界を表しているとされ、他の神殿のレリーフにも、生命の樹の頂上にとまっている姿が描かれている。
    ○真ん中の部分=「生命の樹」と呼ばれるトウモロコシを様式化したもので、十字架を表している。
    ○人物=パカル王。胎児のような姿勢なのは、夕日と共に地下世界に下り、そこで新たに生まれ変わるというマヤ文明の考え方による。
    ○パカル王が腰掛けている部分=「四分交差の支配者の記章」
    ○ロケットの炎の様な部分=地下世界の守護者である「地の怪物」が大きく口を開けてパカル王を飲み込もうとしている様子を表している。

    このレリーフは、パカル王が死に際して地下世界と天上世界の間で宙吊りになっている状態を表されていると解釈されています。

    ロマンと考えて下さいね。

    +3

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  • 705. 匿名 2016/04/22(金) 13:39:23 

    >>704
    そうですよね、縦に見るんですよね
    いつも歴史トピでは横に貼られてるからてっきり横だと思ってたらこないだテレビでやってた時に縦方向に置いてあったのでこれが正しい見方なんだーって思いました。それと宇宙船て言われている所以はNASAの人がこれは宇宙船の図だろって言ったという噂があるからってテレビでは言ってたな。
    私は縦方向にみたら穴を掘る機械に見える

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  • 706. 匿名 2016/04/22(金) 14:09:50 

    >>705
    アメリカの製品で(特にカー用品とか)NASA推薦とか多いですよね笑
    水戸黄門の印籠みたいに科学番組だとNASAと言えば視聴者もへーっとなるから良くつかうのでしょうね。

    私は縦方向にみたら穴を掘る機械に見える

    素晴らしい着眼点ですね。
    そういうので良いのではないですか?
    歴史なんて今は正しいと言われていても新たな発見で書き換えられる事なんてしょっちゅうですし。
    そこにそれぞれの人が創造する楽しみが有ると思いますよ。
    もしかしたら地底に有る国に行く為の乗り物かもしれないですよ。

    +4

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  • 707. 匿名 2016/04/23(土) 01:17:51 

    >>704
    見応えあります(。・ω・。)ジー
    マヤの芸術・文字は漫画っぽくて可愛いです
    生首提灯は怖いけど…

    横たわる人物の下は『なまはげ』のお面をつけた女性かしら?腕がパレンケ神殿の登り口“山”の文字と似ているし…というか“出”に見えてきました
    ( -_-)何が出るだかね~怖いですね~
    パレンケの4階建ての宮殿は日本のお城みたいです

    +4

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  • 708. 匿名 2016/04/23(土) 10:10:01 

    ネアンデルタールとホモ・サピエンスの混血

    ★ケバラン洞窟で、ネアンデルタール人の成人男子の化石が発見されています。
    この化石には「モシェ」という愛称がつけられましたが、この化石が発見された層ではムスティエ文化型のフリント石器が発見され、これは6万年前と測定され、このケバランの石器文化は、パレスチナのナトゥーフ文化に引き継がれます。
    ★パレスチナのカルメル山にあるタブーン洞穴で発掘された女性の骨格はネアンデルタール人の身体の上に
    丸くてずっと現代人的な頭がのっているという、明らかに混成的なものであったとされます。
    ★北部イラク山岳地帯のシャニダール洞穴では4万5千~4万4千年前の顔の上部全体が現代人的風貌をもつネアンデルタール変種が見つかっています。
    その近くのスリフル共同墓地から出土したものはネアンデルタール人よりもクロマニヨン人の近接し、また現生人誕生の前夜といえるまで進化したものであったそうです。
    ★中央アジア周辺でも西アジアにあたるアームッド洞穴では頭はネアンデルタール人でありながら、顔はホモ・サピエンスという古いネアンデルタール人と現代人とのつながりを示すものが発見されています。
    しかもその年代は、4万年より前であるとされています。
    ★クリミヤ半島の突端、スタロセリエ洞窟でも1~2才の子供が埋葬されているのが発見されました。
    この子供の骨格を研究した結果、現代人の【人間】型に属するが依然として歯の大きなこと、頬骨が太いことなど、多分にネアンデルタール人の特質を残しており、ネアンデルタール人とクロマニヨン人(ホモ・サピエンスの一種)との中間的位置をしめるものとしています。
    このようにして確かめられた現生人類の祖先はほとんど現在のヨーロッパ人的なものであるから、学者は【ユーロポイド】と名付けました。
    ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの過渡的な遺骨が見いだされたタブーン洞穴やアームッド洞窟は西アジアで、子供の遺骨を見出した西トルキスタンは中央アジアです。

    ヨーロッパ人的であるユーロポイドでありながら、過渡期的人骨が発見されたのは、ことごとく中央アジアと西アジアからであって、ヨーロッパからではありませんでした。
    なぜ、このように、西アジア、中央アジア地域でのみヒトの進化がありえたのでしょうか。
    それは、この時期、リス氷河期には、この地方では気候が湿潤化し、 広葉樹林、落葉樹林そして多くの湖や河川、多種多様の食糧源に恵まれ、人類の進化に最も適した地域だからでした。

    中央アジア(トルキスタン)は、ユーロポイド(ヨーロッパ人種)とモンゴロイド(モンゴル人種)の二大種が分布した境界領域をなしていますが、古くはトルキスタンの殆んど全域がユーロポイドによって占拠されていて、ユーロポイドの厚い人種的基層が存在しました。
    そのなかで、シベリアでもネアンデルタール人とホモ・サピエンスの過渡期の型からホモ・サピエンスにまで進化したものが、バイカル湖にそそぐアンガラ川沿岸のマルタで発見されました。
    これは、現生シノ・モンゴルの骨格に似ていることから、学者は【モンゴロイド】と名付けました。
    その他、ウラルの東、天山の北にもモンゴロイドを見出し、これは現生トルコ人の骨格に似ていることら、【ツングース的モンゴロイド】と名付けられました。
    これと区別するためにマルタの人骨を【シノ・シベリア的モンゴロイド】としました。
    何故にここにも人類のこのような進化が行われたのでしょうか。
    その時期にあっては、アルタイ山脈、サヤン山脈、ヤブロイ山脈の北面には、未だ氷原がまだらに残って寒気は厳しかったのですが、その南面には樹林が茂り、その下草が萌え温暖であり、その南には湖沼を連ね緑に囲まれた東トルキスタンという盆地があったからでした。
    したがって、この時期では、東トルキスタンの北壁と東トルキスタン、中央アジア、西アジアは人類進化に絶好な環境に共通する一つの世界をなしていたのでした。
    この辺りは、後に日本人のルーツにあたる月氏、チュルク、スキタイ・サカなどが躍動した地域でもありました。
    では、なぜ、他の地域の人類が、この進化に立ち遅れたのでしょうか。
    シベリアの中央高原が東西を隔離しているオビ河流域は氷原で、これも隔壁になりました。
    ドン河とドニェプル河の線には未だ氷河が残っていて、それはアルプスに連なる欧州の山脈におよんでいました。
    その環境がホモ・サピエンスの出現をシベリアの南側・東パキスタン
    中央アジア・西アジアの広地に限ってしまったのでした。

    +2

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  • 709. 匿名 2016/04/23(土) 10:10:43 

    続き

    日本列島には、旧石器文化の3万年前から1万4千年前頃に、鋭い黒曜石やサヌカイトの刃物に柄をつけた文化的な工具をもって彼らが渡来しています。
    この時代の石器はヨーロッパの旧石器文化と共通であって隣国の中国大陸の文化とは似てないといいます。ヨーロッパからやってきて日本列島で誕生した旧石器文化と考えられています。
    漢民族の祖型と、日本民族の祖型は、途中から別々の道を選択したのです。

    +3

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  • 710. 匿名 2016/04/23(土) 22:53:39 

    クトゥルフ神話(Wikipediaより)
    架空の神話体系である
    太古に地球を支配していたが現在は地上から姿を消している、強大な力を持つ恐るべき異形のものども(旧支配者)が現代に蘇るというモチーフを主体とする。中でも、旧支配者の一柱であり、彼らの司祭役を務めているともされる、旧支配者たちの司祭(よく誤解されているが、彼はあくまで旧支配者の司祭であり、旧支配者の眷属だが、旧支配者には属していない)であり太平洋の底で眠っているという、タコやイカに似た頭部を持つ軟体動物を巨人にしたようなクトゥルフは有名である。

    従来、ラヴクラフトがクトゥルフ神話に描いた恐怖は、彼自身の恐怖感に由来していると考えられてきた。彼の作品には、自身の家系から来る遺伝的な狂気への恐怖、退行、悪夢などいくつかの共通したモチーフが見られる。また、ラヴクラフトは海産物に対して病的な恐怖を抱いていたことが、クトゥルフなどの造型に関係しているのだと見なす向きもあった。

    さらに、ラヴクラフトが東洋人・ポーランド人・黒人などのマイノリティに対して恐怖感と嫌悪感を持っていたことも知られている。多くの人種の平等を唱えながら、ネグロイドとオーストラロイドだけは生物学的に劣っているとして、この二者に対して明確な線引きが必要だと主張した。当時としては問題にはならないが、現代であれば人種差別主義と言えるほどの偏見であり、これはそのまま『クトゥルフの呼び声』や『ダンウィッチの怪』での、人間と人ならざるものとの混血といったモチーフに結びついている

    ラヴクラフト自身は旧支配者の名前や正体について触れておらず、クトゥルフは旧支配者の祭司とされる。後続の作家・研究家による解釈は、はこの「祭司」という記述を旧支配者の配下、あるいは指導者とするなどまちまちである。
    ルルイエという場所は、太平洋(南緯47度9分 西経126度43分)の海底に位置し、ニュージーランド・南米大陸・南極大陸の中間付近、現実には太平洋到達不能極に程近い絶海の海域。死せるクトゥルフ(クトゥルー)が封じられ、夢見ながら待つ場所であり、クトゥルフ神話の中核をなす要素のひとつである。星辰が正しい位置についたとき、クトゥルーは目覚め、ルルイエは再び浮上すると伝えられている。

    ↑(^_^;)
    クトゥルフ神話は名前だけ知っていたけど、今感じている恐怖に近いものがあります
    クトゥルーはククルカンにも似ているようで気になります

    +3

    -0

  • 711. 匿名 2016/04/23(土) 23:46:57 

    >>710
    クトゥルフ

    パイレーツ・オブ・カリビアンにも出ていましたね。

    +2

    -0

  • 712. 匿名 2016/04/24(日) 06:35:44 

    >>711
    ほんとですね(゚o゚
    影響力が凄まじい創作神話です

    本当に創作なのでしょうか?
    世の中にある神話や言い伝えを突き詰めるうちに辿り着いてしまうキャラクター設定なのかもしれません。
    【騒然】メキシコで未知の生物を発見か!?アカプルコの海岸に謎の巨大生物!世界で話題に!|真実を探すブログ
    【騒然】メキシコで未知の生物を発見か!?アカプルコの海岸に謎の巨大生物!世界で話題に!|真実を探すブログsaigaijyouhou.com

    「ニュース」に関するページです。【騒然】メキシコで未知の生物を発見か!?アカプルコの海岸に謎の巨大生物!世界で話題に! のページ


    メキシコ海岸に先月打ち上げられたUMAは様々な憶測が飛び交っていて、実際これがクジラの死骸だとしても、これが話題になることに意味があるのではないかと思います。クトゥルフ神話を知っている人は、連想したのではないてしょうか?「時は来たり」と…。
    果たしてルルイエ(島?)は太平洋に再浮上するのでしょうか?

    +2

    -0

  • 713. 匿名 2016/04/24(日) 12:17:54 

    白鳥族とカタカムナ

    チュルク族(高令)は、遙か昔には、バイカル湖付近にいて、その時はオロッコ族といいましたが白鳥の磁場センサーを追って日本に渡来し、鉱脈を掘り当てていた人々だったようです。
    そして後のトルコ族のことで、鉄の車輪を作った製鉄部族でした。
    オロッコが高令になり【白鳥】をトーテムとし、匈奴の冒頓部のなかにありましたが高句麗や扶余に混じって朝鮮半島や日本列島に渡来し、天の王朝の物部氏新羅の蘇我氏、安曇水軍と対馬の阿比留一族、安部水軍、秋田水軍など及びメキシコのアステカ人など互いにつながっていたと考えられる伏しがあります。
    アストランが白鷺または白亜の地を意味すること、セレベス島南部のマカッサル族とブギ族は、彼らの王族には【タクの木の樹液と同じような】白い血が流れていると信じています。
    【カタカムナノウタヒ】には初めにカタカムナ ヒビキ マノスベシ アシアトウアン ウツシ マツル カタカムナ ウタヒ とあって【アシアトウアン】という者が筆者したといいます。
    また、この書を伝えた平十字は【カタカムナ神を祀る一族の王アシアトウアンと天皇家の祖先が戦い、アシアトウアンは敗けて九州で死んだ】と語ったといいます。
    このアシアトウアンという王名もしくは王朝名は、後に芦屋道満の名になって有名な差別伝承となったものですが、天皇家と戦って敗れたという先王朝は金官加羅の王朝です。
    【カタカムナ】を信ずれば、【アシアトウアン】は先王朝が、またはそれ以前の先住民族の王朝ということになります。
    先王朝というのは、神武、綏靖、安寧、懿徳という王朝と対立した孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化という王朝であって、このうち考安天皇が安日彦、王弟の長足彦が長スネ彦で、安部貞任らはその子孫でした。
    このことを認めると、1062年に滅びた安部一族は【アシアトウアン】王朝の末裔ということになります。【天の王朝】の「アシアトウアン」こそ、アステカ族の故地アストラン、ではなかったか?
    古代メキシコ人のアステカ人が日本列島から出発した安部水軍だったとすれば、マヤ文明は彼らのもので、この部族には二系あり、その一つはホルヘ・キン(金)など新羅姓を思わせるものが多く、二系の部族とは倭人系阿曇水軍と新羅系阿部水軍であったかもしれません。

    古代、白鳥トーテムの製鉄部族は欧亜にかけて存在しました。
    白鳥族】は匈奴の中にいました。後の【匈奴】は自称【フン】Hu-unといいましたが、これはメソポタミアのウル語の【鳥】=【フ】huに起源します。
    彼らはニギハヤヒと共に渡来し、秦氏になりました。
    葛城氏・物部氏・蘇我氏などは秦王国(記紀では大和朝廷)の豪族でした。
    古代より権力者が不老長寿の薬として重宝したのが【水銀】=辰砂・丹でした。
    この水銀が手に入るのが【中央構造線】沿いの地域で三輪、葛城の地はこの代表地でした。
    辰砂の産地であったから三輪山は聖地とされ、葛城氏は力をつけることができました。
    また【三輪、葛城の鉱山資源】を基盤にした市場こそが纏向・箸墓でした。
    葛城氏と縁を結ぶことにより、いつの間にか、この地を手に入れたのが蘇我氏です。

    蘇我氏が仏教を導入すると、寺院で使用する金箔や朱に、この地の水銀が重用され蘇我氏台頭の経済的バックボーンをなしました。
    そしてその時、最新技術を日本に持ち込んだのが秦氏です。

    +1

    -0

  • 714. 匿名 2016/04/24(日) 12:22:47 

    続き

    奈良の東大寺建立には水銀中毒が多発したことを疑わせる記録が残されています。
    大仏は嫌われ、奈良と京都の境界線が川を避け妙な所で区切られ大和は封印されました。
    京都へ移る時は奈良の寺を移さず、僧侶も連れていきませんでした。
    香川県の佐伯氏(ユダヤ・シメオン族・秦氏)出身の空海上人は大変な山師で水銀鉱脈を多数掘り当て相当な財を築き宗教組織の維持発展のために費やしました。
    空海上人は水銀を扱うプロの技術者集団、丹生一族を巧みに利用する事に成功したと考えられます。
    古代イスラエル人の渡来には騎馬民族と関係があるといわれます。
    朝鮮半島を経由して流入してきた扶余系騎馬民族(ウガヤ王朝・天皇の祖)はスキタイ・サカ族に源を発し、アッシリア帝国を盛んに攻撃しました。
    このアッシリア帝国には古代イスラエル人が囚われていました。スキタイ・サカ族によりアッシリア帝国が滅亡すると古代イスラエル人はアケメネス朝ペルシアに流入しました。
    (秦氏)は渡来し、まず物部氏が次に蘇我氏がそして藤原氏が日本国を支配していきました。

    3100年前、殷で交易するエブス人、ヒッタイト人らがタルシシ船で北九州へ渡来し国東半島重藤に製鉄基地を建て宇佐八幡を都とし東表国となります。
    これが日本最古の王朝、【天の王朝】、のちに狗邪韓国となって朝鮮半島の南部にも領土をもち金官加羅国(伽耶)といわれ、王家は金海金氏と中臣氏になりました。
    金官加羅国から金姓王家が分離し【新羅】をたてましたが金氏の中のヒッタイトが蘇我氏でした。
    物部が蘇我に対して【お前は豊国(東表国)に帰ってしまえ】といったとか。
    天の王朝を構成した倭人のうち、王朝の本流であるサカ族系は後に山窩となり、傍流の秦氏は源氏、マラ族は平家を名乗ります。
    【白鳥族】のチュルク族を思わせる人々はルソン島北部のバナウエに高地水田があり、この農民はマンドリンのような弦楽器を弾きながら田植えをするので、日本の農民に類似するとされているが正式の民族衣装は頭に牛角をつけハチマキ巻いて褌をしめ、銅矛型の槍をもつのであって、この人々は、箕子・サカの一族の末裔と思われます。
    箕子朝鮮は、3000年前メソポタミアのイシン王国が滅亡時、カルデア(サカ)人がイシン王族を推戴し遥々航海して遼東半島に上陸して建てた国。エルミタージュ美術館にはイシク古墳から発掘された金姓の金牛をトーテムとする黄金人間が保存され、これは箕子国のサカの王族。鉄文化を独占したヒッタイトが崩壊して
    この鉄文化がインド・中国大陸へ波及しヒッタイト人はチュルク人の中にも存在しました。
    チュルクは白色を聖色としたがユダヤ民族の戦旗でもありました。
    サカ族も【鹿】をトーテムとして【犬】を忌んだ。ジンギス汗は、蒼狼と白鹿の末裔だが【狼】はチュルク、【白鹿】はこれに従う【サカ族】を表わす。古代中国で犬戎と呼ばれ、北狄と称され、昆夷、匈奴と怖れられた遊牧異民族は古代アーリア種の白人、即ち印欧系人種だった。
    【狄】は【犬偏】と【火】の文字、犬偏は犬族を示し、火は拝火教徒、製鉄部族の狗加を意味する。狗加は製鉄を職種とした部族でした。

    +1

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  • 715. 匿名 2016/04/24(日) 12:53:34 

    契丹

    契丹(キタン、キタイ)は、日本人と同族で満州から中央アジアにかけて存在した遊牧民族です。
    10世紀初頭に現在の中国の北部に帝国を建国し、国号を遼と号しました。
    しかし、12世紀に入り次第に勢力を強める女真に亡ぼされて中央アジアに逃れて西遼(カラ=キタイ)を建てましたが、ジンギスカンの政敵を保護して国を奪われその後、さらにジンギスカンの軍によって亡ぼされます。その後、この民族は立ち直りヨーロッパで十字軍が戦っていた時代に、カラ=キタイ王がペルシヤのスルタン・サンジャールをサマルカンドで破ったという史実が現れるのです。

    【契丹秘史】は契丹文を漢字によって記録するという万葉集と同一の様式をとっています。
    契丹に限らず、このことは倭韓に広く行われたことであって、15世紀のハングル成立以前の高麗も同様な方法で漢字を使用しておりこれを吏読(リト)と称して古代の金石文や歌謡に使いました。
    日本の万葉仮名は吏読の模倣と思われます。

    【契丹秘史】に、【禹はシ云なり】とあるのは【ウシ→アシ】族を表わすもので
    サカ族を月氏(アシ)と書くことは、アシ即ち夏王禹から由来することを示します。
    この夏王朝は、穢族をサカ族が支配して建国したものです。
    サカ族というのは鹿族という意味で、カッシートとの混血アーリアンだったようです。

    【鹿】はアーリア人の王権をシンボライズしています。
    さらに、夏王朝の実体をいうと、メソポタミアのウルクのことであり禹とはウトヘガルのことです。
    殷王朝もメソポタミアのイシン王朝の漢訳であって、中国史ではなかったと解明されてきました。
    2009年、教育TVで放映された各国の代表によって開かれたシルクロードのシンポジウムでも中国の歴史は、西域の民族がつくったものであると語られました。
    中国史は漢の時代から始まります。

    +1

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  • 716. 匿名 2016/04/24(日) 12:57:15 

    続き

    殷王朝を構成した三族、穢・貊・北狄のうちの北狄は、スキタイ・キンメリ・サルマタエなどの諸族であって、BC2000年~BC1000年にかけて北部シルクロードを支配していました。
    殷(イシン)の滅亡時に、この人々が箕子朝鮮に加わり、【契丹秘史】は、これを【辰シ云殷】と記します。これらの人々は、ともに【檀君神話】を持ち、王は【解】姓であり、それによって同祖姓を主張しましたが、既にミタンニの粘土板に、八百万の神々に混じってインドラ神(帝釈天)の記述がされています。
    檀君の【ダン】はインドの【ナンダナ】からきていること、日本史の【天の王朝】のアマが【アマラーヴァティー】よりきていること、【檀君】の都した【アシタ】がシャカの将来を予言した聖仙の名である由。

    倭王とは月氏、倭人とは、サカ族(アシーサカ族)を中心とした人々。
    【箕子朝鮮】と【殷】は別々に渡来したカルデア人の移民団です。
    【殷】は、インダス人(夷族)移民団・・・黒夷(黒人系)が中心インダス文明の移民団が後に一部は雲南に逃れて夷族となり一部は九州に移動して東表国(豊日国)を建てました。
    【箕子朝鮮】は、マカン(穢族)の移民団・・・白夷(白人系)のアシ族が中心海の国マカンの残党が渡来したもので箕子朝鮮が滅びた後、山東半島に移動した者は韓氏(干莱)を称したといいます。

    +0

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  • 717. 匿名 2016/04/24(日) 20:39:32 

    >>713
    知らないことばかりです(^^)
    マヤの人達は近しい人かもしれませんね
    マヤ…後ろから読んだら“ヤマ”…(汗)

    トーテムは家紋みたいなものでしょうか?だとしたら足取りを追跡するのに役立ちますね♪
    そういえば、ヤマトタケルが亡くなったときに白鳥になりましたよね(。・ω・。)

    +2

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  • 718. 匿名 2016/04/24(日) 21:31:57 

    >>717
    良くご存知ですね(*^^*)
    ヤマトタケルも関係あると思います。

    +2

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  • 719. 匿名 2016/04/24(日) 21:41:33 

    月氏の王と秦氏

    枕草子や源氏物語の世界では、何につけても月を眺め、暮らしの一部になっています。
    きっと、この人々は月氏の末裔だったのでしょう。
    旧暦でしたら、必ず「十五夜お月さまは満月の日」でした。
    旧暦の方が私たちの暮らしに合っていたのに明治改革で変えてしまったのは残念なことです。
    旧暦をはじめ、日本を形造ったのは、月氏の王族であったと思い至ります。

    【武士】と書いて【もののふ】と読み、【物部氏】とは物の部民でありました。
    モノとは、物質を意味するのみならず、兵器や兵力といった軍事力のほか霊的な呪力をも意味しました。
    古代にあって、戦は武力のみならず霊力も必要としました。
    即ち、物部氏とは物を作る技術者集団であると同時に、軍事組織にして呪術集団でもありました。
    【祟仏論争】に見るように、物部氏は、神道を奉じ、古代の神道は物部氏が握っていました。
    しかし、物部氏は没落し、現在にあって神道祭祀を担っているのは藤原氏です。
    奈良時代から平安時代にかけて、藤原氏が政治権力を握ることによって、同族の中臣氏と卜部氏が宮中祭祀を独占し、物部氏および忌部氏の力は急速に衰えていきます。
    これによって、物部氏が奉じてきた古代神道は完全に封印されることになります。

    では、いったい物部神道とは、いかなる神道だったのか?
    数々の弾圧を受けながらも、その奥義を現代まで密かに伝えているのが丹後一宮の籠神社だといいます。
    籠(この)神社は、数ある元伊勢の一つとして知られます。
    伊勢神宮が五十鈴川の畔に鎮座するまでの間、天照大神の御霊は各地を点々としましたが、宮中から最初に大和を離れて祀られたのが、籠神社でした。
    籠神社の宮司は代々、海部(あまべ)氏が務めてきました。
    海部氏とは物部氏の中の祭祀を一手に行ってきた一族です。
    言霊でいえば、海部氏はアマ部、即ち天部でありました。
    【海部氏本系図】は、歴史的重要性から国宝に指定されているほどです。
    これほど重要でありながら、海部氏は、弾圧を受けながら物部神道の奥義を極秘伝という形で継承してきたのです。
    極秘の鍵となるのが社紋、一般に表と裏があり、表紋は下がり藤で裏紋は長い間隠されてきました。
    それが平成の世になって、遂に公開されました。

    +3

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  • 720. 匿名 2016/04/24(日) 21:46:34 

    続き

    これは六芒星の中心に日輪と月輪を描いているもの。これはダビデの星といわれユダヤ人のシンボルです。物部氏がユダヤ人と関係があることを端的に示します。
    ところで、童謡の【カゴメ唄】は、籠神社の極秘伝の一部だといいます。
    伝承によって、一部は変わってしまっていますが、本来カゴメ唄は籠神社の隠し歌でした。
    そこには、日本の国家成立に関わる重大な秘密が、暗号として隠されているそうです。
    元伊勢である籠神社と伊勢神宮は、ほぼ一直線に並んでいます。
    もう一つ、江戸時代に伊勢本宮と名乗った伊雑宮もまた、このライン上にあります。
    伊勢神宮の内宮と外宮を結ぶ参堂脇の石灯籠にカゴメ紋が刻まれており、これは、ユダヤとの関係を指摘されますが、これは元々伊雑宮の裏社紋でした。
    籠神社もまた裏社紋はカゴメ紋です。
    極秘伝が記された紙には【カゴメ唄】に登場する鶴とは伊雑宮のことで亀とは籠神社のことを示すと記されていたといいます。
    【カゴメ唄】の最大の焦点は、【鳥】です。夜明けの晩に出てくるという【鳥】こそこの唄のメインであると考えられます。陰陽道にあって、鳥は天と地をつなぐ者。
    【鳥】は、物部氏がシベリアにいた時、シンボルとしていた・・・彼らこそ【白鳥族】だったと推測します。
    彼らは騎馬遊牧民のなかに溶け込んでいたのかもしれません。
    古代イスラエル人の渡来には、少なくとも二つの流れがあります。
    一つは失われたイスラエル10支族がスキタイと共に騎馬民族となって日本にやって来た可能性。
    しかし、籠神社の極秘伝では、物部氏は騎馬民族や秦氏よりも古い、大量の渡来人が朝鮮半島からやって来る以前、すでに物部氏は王権を確立していたといいます。
    籠神社のある丹波を中心にして、近江や出雲を含む広大な地域を支配していました。
    【魏志倭人伝】に記された【投馬国】とは丹波国にほかならず、いわゆる出雲族は物部氏に他ならないといいます。
    【投馬国】とは古代イスラエル人の書【ホツマツタエ】に通じます。
    ここで、以前調べた【白鳥族】のことを補足します。

    古代、白鳥をトーテムとする部族は欧亜にかけて存在しました。
    【白鳥族】は匈奴の中にいました。後の【匈奴】は自称【フン】Hu-unといいましたがこれはメソポタミアのウル語の【鳥】=【フ】huに起源しています。
    彼らは鳥(フ)をトーテムとしていましたから民族名を【フン】と称したのです。
    そして、この鳥の【フ】は、3世紀、馬韓の長い王号の中に、濆(フ)、不(フ)、報(ホウ)としてありました。
    また高句麗では王妃部の絶奴部が、細群(さいぐん)と麁群(そぐん)に分かれていましたが、細群が【白鳥トーテム族】、麁群が【大角鹿トーテム族(スキタイ人)】でした。
    いうなれば、白鳥トーテム族が匈奴に、高句麗に、馬韓に、いたのです。

    +3

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  • 721. 匿名 2016/04/24(日) 21:57:21 

    日本人のルーツ

    日本人のルーツ、ウガヤ王朝(辰国)はアッカド人とラガッシュ人(フツリ人とウル人の混血)の連合部族でこの王朝が後にウラルトゥ国を建てました。
    アッカド人の出自に関して最も有力な推測は、BC4000年以降のハラフ高地に自然銅を運んだカスピ海周辺のシンディ人だと考えられます。
    ハラフ文化は、東はヴァン湖から西は地中海におよびその年代はBC5000年の末と推定されます。

    アッカドのサルゴン王朝は、BC3000年頃のアッカド人の民族移動の後BC2360年頃、バビロンを支配しましたがBC2190年から2120年にかけグート人がシュメールからアッカド人を追放し、その時に、アッカド人と共にインダス渓谷に亡命したウルの月神の一族がチベットに於いて月氏になりました。

    ウラルトゥ王国を建てた後、スキタイやアッシリア系印欧語族に追われ、キンメリ人やチュルク人と共にバクトリアに逃れ、さらに華北に移動し、ここで秦に伐たれたため、満州に入って扶余国の前期王朝を建てました。
    そして穢王アグリイサシが扶余と合体して自ら東明王になって後期王朝を建てました。
    この時、前期王朝は東扶余に移り、後に扶余王仇台は公孫氏と同盟して南下し、馬韓の帯方、いまの京城に伯済国を建てましたが公孫度の娘、卑弥呼を娶って公孫氏に帯方の地を譲り、北九州に上陸して伊都国を建てました。
    仇台は伯済国では百済の始祖仇首になり、伊都国ではイワレヒコ、後の神武になりました。
    後期王朝はインドから一旦河南省の宛に入り、そこから満州へ来た穢族です。
    この人々はウルのカルデア人のことです。BC1530年、ヒッタイトがハムラビ王朝を倒した後、カッシート人王朝ができたため、バビロニアを 【カルドウニアシス】と呼び後世【カルデア】と呼んだのです。
    ウンマ王ルーガルザグギシとグート人の王シャルラク に始まり、バビロニアのカッシート王朝となり、さらにそのカッシート人がバンヂャップに入って後期ヴェーダ時代に、インド十六王朝のなかのクル国になった後、カルデラ人の子孫のプール族と合体してガンガ流域に移り、ベトナムの文郎国を経て中国大陸の河南省に移民した国家です。

    +2

    -0

  • 722. 匿名 2016/04/24(日) 22:13:46 

    続き

    BC1000年紀のインドは、ガンジス流域を中心にして十六王朝があってカッシート人を中心とする月神王朝とアラビア海の海商を中心とする日神王朝系に分かれていました。
    月神王統は、カッシート人の亡命者が主流なので中国史の大月氏と同じルーツから二分したものです。
    月神王統の諸国からマガダ国が次第に頭角を表してついにインドに統一王朝を建てましたがマガダ国力を支えたのは、この地のインド最大の製鉄地域でした。
    マガダの製鉄はヴォラテイアという漂白の民によってなされていたといいますが彼らは、サカ族系であったといいます。
    また東の方、メナム河の流域に、ドバラヴァティというモン族の国家があり吐火羅あるいは堕羅と書かれ、モン族は自らタラインと称していました。
    この吐火羅人は、月氏系ですが、この月氏は、中国史の月氏ではなくインドから入った月神王朝、すなわちカッシート人の子孫のクル族のことです。
    インドネシアで発見された銅鼓には月氏の絵があって、これはインドの月氏であったようです。
    インドに入ったカッシート人とサカ族は、それぞれクル国とプール国をたてて合流し、のちにメナム流域のモン族を支配した吐火羅国をたて、さらにベトナムで文郎国をたてた後、阿南省の南陽に植民して製鉄基地をたてたと考えられます。
    マガダの都は、ガヤで、中国では、これを伽耶と書き、これが朝鮮の駕洛諸国の語源になったらしい。
    十六王朝の時代に、サカ族は、アソカ国をたて、コーサラ国では釈迦を生みさらに、マガダ国の製鉄部族になりました。

    国史のニギハヤヒノ命である穢国の王、アグリナロシはプール族の王でした。
    アグリはインドの製塩カーストのアグリアーを意味します。

    ------「通典」の穢伝より------

    穢人はその性質が慎み深く誠実で、貪欲なところが少なく、恥というものを知っている。

    衣服は男女ともみな円い襟をつけ、男子は広さ数寸の銀花をつけて飾りにしている。

    穢人の習俗では、山川を重んじ、山にも川にもそれぞれ邑落ごとの区域というものがあって、みだりに立ち入ることが出来ない。

    同族内では婚姻せず、タブーが多い。

    病気にかかったり、死者が出たりすると忌み嫌って、すぐさま旧い居宅を棄て、新しいのを作る。

    麻を栽培して養蚕し、綿・布を作ることを知っている。

    星宿をうかがうことに聡く、その年が豊作かどうかを予め知っている。

    珠玉を宝物としない。また虎を祭祀してこれを神としている。穢人の邑落、相互の間で侵犯することがあれば、直ちにその双方を罰して生口・牛馬を取り立てるが、これを「責禍」(虎神様のお咎め)と称している。盗みをする者は少ない。

    矛は三丈もの長さがあって、時には数人でこの矛を持ち、巧みに歩戦する。

    かの有名な【楽浪の壇弓】というのは穢の地で産出されたものである。

    +2

    -0

  • 723. 匿名 2016/04/24(日) 22:15:05 

    続き

    穢族または国史のニギハヤヒ一族には、青い目の人々もいたらしい。
    平安時代から村はずれに天部、余部などという部落があって元来は天の王朝の人々の部落でした。
    新羅の奈良王朝を破って百済人が平安王朝を建てた時その圧制の下で家を捨てた人々が、この地に次々と入り込んできました。
    山形県の余目も最果ての余部と考えられますがここには青い目の人々が多いのです。
    あらゆる文化が辺境に、辺境にと逃れるように、天部の純粋の形態は東北地方に残ったようです。
    天の王朝一族は、ニギハヤヒ族の他、東表国・金官国の中臣族、公孫燕・邪馬壱国の大伴族などもありますが、このような青い目の人もいたかもしれません。

    +1

    -0

  • 724. 匿名 2016/04/24(日) 22:27:47 

    日本人のルーツ2

    アナトリアには、原ヒッタイト族、カルトヴェリ族、ハヤシャ族などが住んでいました。
    ヒッタイト崩壊後、いくつかの少国家がヒッタイトの伝統を継ぎ、重要都市のカルケミシュはハッティ国、オロンテスはハッテナ国となりました。
    そこに、ヒッタイトのムシュ族やカスカイ族が入ってきたのです。
    このようにウラルトゥは、当初からミタンニやヒッタイトのフルリ人カッシート人、チュルク人などからなる、いくつかの部族の連合体でありました。
    カッシート人は月氏になり、インドに移ってクル国のなかにも混在しました。
    従ってウラルトゥとクル国は同族であり従属した同盟者といえるでしょう。
    フルリ語の粘土板文書がチグリス川の支流域のヌジ、ユーフラテス川沿いのエマルシリア方面のアララクやウガリトから出土しています。
    BC15世紀頃のもので、ヒッタイト王国の3代ムルシリ1世や5代スッピルリウマ1世がフルリ人国家を服属させたという記録があるそうです。
    このフルリ人はナーガ族と同じ蛇信仰をもっていましたが、ヒッタイト人に征服されウガリットでのフルリ人は天候神ダゴンと収穫神バールを崇拝しています。
    これはフルリ人の神が蛇神から征服者アーリア人の牛神に変わったことを表します。
    フルリ語は日本語と似ているとされていますが、フルリ人はシュメール人と同族だったようで妻のことを【妹】と言っていて、古代倭人も妻を呼ぶのに【吾妹わぎも】と言いましたので、同習俗、同種族とされる理由です。
    フルリ人は【旧約聖書】でホリ人として登場します。
    フルリ人の【ミタンニ王国】がヒッタイト人によって征服された後、フルリ人の一部は北上しアルメニアのヴァン湖畔に【ウラルトゥ】を建国しますが、ウル第三王朝~ミタンニ~ウラルトゥの流れが満州の扶余に至る北回りルートで、【シルクロードの天皇家】となります。
    もう一つの南回りのルートは、シュメール~インド~ベトナム~満州という【穢族・サカ族】のルートです。
    これが【安冕あめ】氏と【阿毎あま】氏の二系です。

    ウラルトゥは、BC1300年頃のアッシリア碑文に初見されますが、【ウラルトゥ】とは【ヴルトラ(蛇)】の意で、【ナーガ族】の七頭の蛇との関わりがみてとれます。
    神社に張られるしめ縄は、男の蛇神と女の蛇神の交合を象った神の縄です。
    古代メソポタミアでは、この両蛇神を【ニンギジダ】と呼んでいました。
    しめ縄の原点であり、【史記】の伏犠・女カの神像は共に蛇身人首で、両尾をしめ縄のようにからませています。
    有名な志賀島出土の【漢委奴国王】の金印は蛇紐です。
    【秀真伝ほつまつたえ】を作成した大物主家(公孫氏)の三輪氏(イッサカル族)は大和三輪山の蛇神を祀る神官の家柄なので、蛇紐金印の委奴国王家および蛇神信仰の新羅王家あるいは、亀神話のからんだ金官加羅の金首露王家と同族的な関わりがありました。

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  • 725. 匿名 2016/04/24(日) 22:30:56 

    続き

    【フルリの王】と自称したシャルドウリシュ1世やメヌアシュ、アルギシュティシュ1世などの優れた王を出したウラルトゥもBC585年にアーリア系のアルメニア人が侵入し首都ティシェバーナが没落、以後ウラルトゥ人はシルクロードに亡命することになりますがこのシルクロードのウラルトゥ人を中国の文献は【伯族】と称しています。
    【宮下文書】は、ウガヤ王朝が月読命(月氏)と同盟していたとしますが、このことはアナトリアのウラルトゥとシルクロードの月氏が同盟してアッシリアと戦った歴史を表しています。
    セム系の月氏は、ウラルトゥの時代にも天皇家と共にあったようです。
    この時の同盟関係が天皇家と月氏(藤原氏・秦氏)につながります。
    ウラルトゥ王国はBC6世紀初頭のカルミール・プルーフの時代に滅亡してしまったとされますが彼らはナボポラサルのカルデア王朝に従属し、その後アケメネス朝ペルシアの王族を王とし服していましたがアレキサンダーによってペルシアが滅びた後その一部が扶余を建てました。
    ウラルトゥ王国がスキタイなどの印欧語族に追われてキンメリ人やチュルク人と共にアフガン北部のバクトリアに逃れ、さらに華北に移動、ここで秦に伐たれたため、満州に入って扶余前期王朝を建てたのです。
    倭人社会はサカ族系の人々に支配された穢貊といわれる人々と考えられます。
    このうち貊族はクメール族で後に毛人と書かれ穢族とはツングース族でオロチ・蝦夷と書かれています。
    穢族のオロチ族が【東日流外三郡誌】のアソベ族で、北朝で中国文化に接触し後、契丹を亡ぼして金を建国し、降って愛新覚羅王家によって清を建国した民族です。
    ラストエンペラーで知られる愛新覚羅 溥儀は愛新覚羅王家の末です。
    この分派、穢族のオロチ族は、日本へは朝鮮半島東岸から能登半島に上陸したようです。
    そして、貊族のクメール(毛人)がツボケ族です。
    クメール(毛人)の次に日本列島に進入し、彼らを支配したスキタイ・サカ系の民族は元々、殷時代、北狄と書かれ、殷末には殷(イシン国)の亡命者が建国した箕子朝鮮の北方を支配しました。
    スキタイ・サカ系の民族は、前800年頃から二分して箕子朝鮮と同盟する扶余族と朝鮮半島を南下して辰国を建てた人々とに分裂することになります。

    インドでは前12世紀にアーリア族の侵入が終了し中国大陸ではこの頃に周が建国します。
    周の建国にアーリア族の移動が影響を与え、殷族が周に亡ぼされた前11世紀に、殷族の一部が朝鮮半島南部に辰国を建国し、さらにその一部が九州北部の国東半島に逃れて、前8世紀頃以降に国東に製鉄遺跡を残したと考えられます。
    遺跡が国東に限定されているのは、この地域が朝鮮半島を本国とする人々の兵たん基地であったからであり、この人々はミタンニ族であると考えます。
    殷末までの時代には鉄器文化を持っていなかったのであり、鉄器文化はヒッタイトが衰退したため、前千年以降、辰国の王朝が【天の王朝】といわれますが、ヒッタイトの王族だったミタンニ族を中心としながら朝鮮半島の南部では黒潮に乗って北上したマラ族と接触したらしく、次第に混合文化を形成していったと考えられます。

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  • 726. 匿名 2016/04/24(日) 22:33:32 

    続き

    【辰国】即ち【天の王朝】を構成した倭人のうち、王朝の本流であるサカ族系は後にサンカとなり傍流の秦族は源氏、マラ族は平家をそれぞれ名乗るのです。
    この【天の王朝】の時、既にカースト・ゲット-制が存在し、農民がある一方農業を行わない民族があって、農業地帯と山岳民族の区域を斑状に分離し神社を建てて結界を引きました。これはイラン文化の特徴であって、牧畜文化と農業文化の混在状態に於ける農業を差別するスキタイ民族が作り出し、インドのカラー差別にもつながります。
    【別所・別府】などと云われ、サンカ・木地匠・杜人・タタラなど山岳の人々が農業民と分離して生活したのです。辰韓の農民は鳥葬を行っていますが、鳥葬のルーツは殷民族といわれるチベット苗族であり、日本でもクメール族はストーン・サークルに屍体をおいて鳥葬を行ったといわれます。
    【蘇民】はスキタイを意味すると共に【けがれ、よごれ】の意があり農民サイドからの蔑視です。後、律令制に於いても、荘園内部にはゲットーとして【院地・散所】が作られ、非農地域として発展し、商業基地になってゆくのです。
    遡ることインド十六王朝の時代、バンジャップからマガダに侵入したアーリア族は原住民のドラヴィダ族と、しばしば斑状共存を行い、別邑を作りながら侵略支配をしていきました。
    モウリア王朝に至る頃には東進するイラン族とシルクロードを支配し、黒海からドーソンにかけて青銅文化を伝達したサカ族との共同文化であったと思われます。
    【帝釈天】はインドラ神ですが、元々ヒッタイトのインダナ神をルーツとし、イラン系の神話とサカ族による初期仏教の説話の混合によります。
    このイランとサカの両民族の文化の違いからイラン民族のカースト制を否定しようとするサカ族のシャカ仏教とジャイナ教が発生します。
    サカ族は、BC413年~BC326年までのナンダ王朝とBC321年からBC180年にかけてのモウリア王朝の主要な部族であり、一族から釈迦を輩出しました。
    元々、シュメール語で【サング】とは僧をいみする言葉で、
    インド語では仏僧の集団を【サンガ】といい、これが日本で【鹿】【坂】となり、坂の者・サンカの語源となります。
    【鹿】がサカ族の【サカ】からきた言葉であることは既に学界でも認められていることです。

    さて、サカ族とユダヤ族などの非アーリア系を包摂したモウリア王朝は亡んでしまいます。
    すると、スーダラ出身のカリンガ王朝では、却ってカースト制の強化が増し、バラモンの教義が復活してしまいます。
    この後は、インド亜大陸ではカースト制否定の兆しはまったく発生せず、戦後ガンジーもまた、カースト制
    を否定しようとして暗殺されるのです。
    日本の被差別部落の問題も、こうしたインドのカースト制からきています。

    +2

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  • 727. 匿名 2016/04/24(日) 23:47:29 

    先祖がわかるDNA検査やってみたいなー
    やったことある方いますか?

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  • 728. 匿名 2016/04/24(日) 23:55:25 

    >>727
    今なら1万ほどのものも有るみたいですね。
    先祖を知る為にも調べてみたいですね。

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  • 729. 匿名 2016/04/25(月) 00:09:41 

    >>728
    自分のルーツ知りたいですよね
    こんなのもあるみたい

    “DeNA”の唾液で調べる“DNA鑑定”をやってみたら先祖から体型まで見抜かれた件 - 週刊アスキー
    “DeNA”の唾液で調べる“DNA鑑定”をやってみたら先祖から体型まで見抜かれた件 - 週刊アスキーweekly.ascii.jp

    DeNAがDNA鑑定を始めてました。オヤジギャグではないです。唾液だけでなんかいろいろバレちゃいました。

    +3

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  • 730. 匿名 2016/04/25(月) 11:11:59 

    カタカムナ

    不思議なことに、古代史を追求していくと宇宙に辿り着きます。
    古代人の感性は現代人より 新しい。
    地震予知や原子力や放射能に関して現代科学は、殆ど役に立ちませんでした。
    阪神淡路大震災や中越地震が起きた時にはカラスが多数で騒いだ後、忽然といなくなったり、魚が池から飛び出したり、ニワトリが真夜中に鳴いたりハトが方向感覚を失ったように飛んでいくなど動物が異常行動を示したそうです。
    人間も嘗て、もっていた感覚だったのかもしれません。 

    日本史上の縄文時代以前の旧石器時代末期に超古代文明と云うべきカタカムナ文明が存在していました。
    カタは、私たちの見ている宇宙が世界の全てではなく、 それは片方であるの意味。
    カムは、象(カタチ)が無く目には見えない潜象世界の意味。
    ナは、【主】の意味。
    【カタカムナ文献】の内容は【宇宙の成り立ち】 【宇宙の特徴】

    【物質や生命の発生の仕方】【生命の本質】から【農業や製鉄技法】 

    【病気の治療法】【人間の考え方】 【商人道の心構え】までを表していました。

    カタカムナ図象は、カタカムナ人が創造したカタカムナ声音符とその声音符を組み合わせた言葉を示す図象文字との基準になっています。 
    カタカムナ48文字は後に51音文字へと分類され、これが日本語の原型となります。 
    カタカムナ人は物質世界の背後にある目に見えない無限の力の広がる世界を見通していました。
    また、宇宙の物質世界と目に見えない潜象世界の一切のモノは、アマという始元の基礎物理量からなるとしました。
    目に見えないカム(潜象世界)にはアマ始元量(超ミクロな粒子)とその複合体である(宇宙エネルギー)が充満し、それはアマ(実象)とカム(潜象)の2つの根元が響き合って共振し発生したといいます。
    カム(潜象世界)というと解り難いですが、古代文化に見られる神像・仏像に見られる輪光・後光・背光・光彩が物質(実像)の背後にあるカム(潜象世界)を表現しています。
    オーラ、波動、電気を帯びたものは電波といわれるものです。
    それがアマ始元量(超ミクロな粒子)とその複合体である(宇宙エネルギー)で満ち、目に見えない空間であっても【無】ではないとカタカムナ人はいっています。
    八十首のカタカムナの歌は、渦の図表として七五調で表されています。
    カタカムナ人の宇宙観を紹介します。

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  • 731. 匿名 2016/04/25(月) 11:17:37 

    続き

    一二三四五 (ひふみよい)
    回りて 巡る
    六七八九十(むなやこと)

    相うの術知れ (あうのすべしれ)
    形先き (かたちさき)
    空に諸消せ(そらにもろけせ)
    ゆ ゑぬおを はえつゐねほん カタカムナ

    ヒフミヨイの図象の半球は正をムナヤコトの図象の半球は反を意味し、宇宙の全てのものは、天体から極微の世界まで正と反の施転(自転)と循環(公転)の動きによる球の性(マリの性)によって抽象されることを表している。
    ヒフミヨイムナヤコトは、潜象から現象の発現する物理を示し、それがおのずから、一から十までの数を表す。宇宙アマの本来性は、ヒフミヨイ(正)、 ムナヤコト(反)の旋転(まわりて→球性) 循環(めぐる→渦流性) にあり、それは極限まで繰り返し(周期性)続くものである。
    そして、重合互統(あうのすべしれ→統合)、分化(かたちさき→微分)、還元(そらにもろけせ→崩壊)も、そのアマの本来性に基づく自然則であって、理屈(ゆゑほん)ではない。全ての物の発生(はえつ)の根源(ゐねほん)は、片(かた)の潜象(かむな) にある。結局、ヒフミ四十八音のこの歌が何を表しているかというと、【天然宇宙の物理(コトワリ)】を端的に示しています。
    壮大な歌です。すなわち、カタカムナ人が、彼らの言語であるカタカムナ語を文字として後世の日本人に残したのが【カタカムナ文献】であり、それから生まれたのが【カタカナ文字】です。    
    雷のことをイカツチといいますが彼らは電気を帯びた粒子もイカツチと呼び、歌を表しています。

    イカツチノ トマベイツツミ  マノウツリ イカツミマクミ  

    カラミツミ マジハリカハル トモフルミ

    電気を帯びた粒子(イカツチ)に伴う(トマベ)付属性の個々の素量(イツツミ)は、いずれも  始元量アマの変遷したモノ(マノウツリ)であり、すなわち電気(イカツミ)素量、磁気(マクミ)素量、力(カラミ)素量である。
    それらは互いに交換されて成り立つ振動性の素量(トモフルミ)。

    カタカムナ人とは、どのような人々だったのでしょうか?
    チュルク族は、遙か昔には、バイカル湖付近にいて、白鳥の磁場センサーを追って日本に渡来し、鉱脈を掘り当てていた製鉄部族でした。
    そして後のトルコ族(ヒッタイト)のことで鉄の車輪を造りました。白鳥をトーテムとする部族は欧亜にかけて広く存在しました。彼らは匈奴の中にありましたが高句麗や扶余に混じって朝鮮半島や日本列島に渡来し、天の王朝の物部氏、新羅の蘇我氏、安曇水軍と対馬の阿比留一族、安部水軍、秋田水軍など及びメキシコのアステカ人など互いに繋がっていたと考えられる伏しがあります。
    アストランが白鷺または白亜の地を意味すること、セレベス島南部のマカッサル族とブギ族は、彼らの王族には【タクの木の樹液と同じような】白い血が流れていると信じています。
    カタカムナ文献を伝えたサンカの平十字(ひらとうじ)は【カタカムナ神を祀る一族の王アシアトウアンと天皇家の祖先が戦い、アシアトウアンは敗けて九州で死んだ】と語ったといいます。
    このアシアトウアンという王名は後に芦屋道満の名になって差別伝承となったものですが【アシアトウアン】は先住民族の王朝ということになります。
    先王朝というのは、神武、綏靖、安寧、懿徳という王朝と対立した孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化という王朝であって、安部貞任らはその子孫でした。
    古代メキシコ人のアステカ人が日本列島から出発した安部水軍だったとすれば、マヤ文明は彼らのもので、この部族には二系あり、その一つはホルヘ・キン(金)など新羅姓を思わせるものが多く、二系の部族とは、倭人系安曇水軍と新羅系安部水軍であったかもしれません。

    +2

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  • 732. 匿名 2016/04/25(月) 22:41:41 

    まだ続いていて嬉しいです(^-^)ゆっくりですが読み進めていきます

    +3

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  • 733. 匿名 2016/04/25(月) 23:47:54 

    マヤとヤマ

    >>434の秀真文字で『ま』と『や』を見てみると…
    『ま』…○ ┳
    『や』…○ ┻

    ○は太陽で、○┳は昼、○┻は夜を示しているのではないかしら?

    『マヤ』…昼→夜…つまり「日が沈む」…間夜
    『ヤマ』…夜→昼…つまり「日が昇る」…夜間

    『間』は日(太陽)が出入りする門を意味し、場所を特定しているように思えます。
    二つは双子部族で、シャヘルShaher(明けの明星)とシャレムShalem(宵の明星)だったりして
    (。・ω・。)(。・ω・。)

    +1

    -0

  • 734. 匿名 2016/04/26(火) 00:50:03 

    インスピレーション来ました…話が戻ります(^^;)

    >>386 メノラーって太陽系の模型じゃないかな?
    真ん中が太陽、太陽に近い方から水星・金星・地球・火星・木星・土星。このメノラー、太陽の周りを惑星が公転するような構造になっています

    +2

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  • 735. 匿名 2016/04/26(火) 01:48:08 

    中央構造線に神社仏閣が多く建っているらしいですがこれは偶然でしょうか?それとも昔の人は地震が起こることを分かった上で建てていたんでしょうか

    +3

    -0

  • 736. 匿名 2016/04/26(火) 09:50:45 

    >>735
    地震の被害があった所の神様を鎮める為に立てたのかもしれませんね。

    日本は「龍の国」と呼ばれたりします。
    その理由については、幾つかの有名ブログでは、日本列島が龍の形をしているからと解説していました。
    それでは日本列島を地図で見てみましょう。

    確かに、改めて日本列島を見ると、龍のよう細長い形をしています。

    この日本列島を琵琶湖をへそとして、東日本を南(下)の方に折り曲げ、北海道を下に持ってきた形が漢字の「龍」という象形文字、というのをどこかのブログで見たことがありました。

    しかし、形が似ているだけで、龍の本質の答えになっていないと思っていました。
    私が着目したのは、地磁気です。
    ホボット氏流に言うと、地磁気ではなく宇宙からのエネルギーのようですが、現象としては地磁気と考えていいのではないかと思っています。

    以前、レイラインについて書きましたが・・・

    中央構造線(赤線)上には、地球内部からの強力な地磁気が噴出しているようです。
    フォッサマグナ(青線)からも同様に強力な地磁気が噴出しているはずです。


    この地球内部から出る磁気が龍と関係があるのではないかと仮説をたててみます。
    地磁気のそばに行くと、体が癒されるようです。
    それが、近年の神社等のパワースポットブームに繋がっているようです。

    この地磁気は、風水で言う龍脈。
    地磁気の流れが人間の健康に大きな影響を与えているようです。
    この事は、おそらく数万年前の先史文明の人たちは理解していたようです。
    日本以外でも世界には地磁気が噴出している場所はあったのかも知れませんが、中央構造線やフォッサマグナのように長いライン上に地磁気が出ていた場所はないのかも知れません。
    特に世界最大のカルデラ、阿蘇はその起点ではないかと感じています。

    木内氏によれば、月の洪水前の世界は、海の水位が今より2千メートル低かったそうです。
    それならば、前述の地図の日本列島も異なった形だったはずです。
    ちなみに、大洪水前後では、海の水位を除いては日本の基本的な地形は変わっていないそうです。
    他の地域は大きく変わっているようです。
    次の地図は、海水面を2千メートル低くしたところを陸地として緑色で塗りつぶしたものです。

    緑色が、大洪水前(15000年以上前)の陸地部分です。
    ただし、韓国以西から中国大陸にかけての黄海などの海も当時は陸地だったはずですが、便宜上緑色で塗りつぶしていません。
    これを見てびっくりしませんか?
    まさしく龍!

    +2

    -0

  • 737. 匿名 2016/04/26(火) 09:51:12 

    続き

    サハリンが角。
    千島列島が下あご。
    口が表れています。

    両手もできました。
    沖縄から台湾にかけて尾もできました。

    赤いラインは現在の中央構造線。
    これがまさしく龍脈。

    琵琶湖が確かにへその部分です。
    これは、おそらく後(今から12000年前)に出来たもの。

    先史文明時の日本は、今より大きな龍の形をしており、
    そこから龍脈のような地磁気が出ており、文明人が集まっていた。

    それが、一旦、月の接近で分散。
    月の大洪水後、落ち着いたところで、もといた場所、地磁気を求めてに倭人系の人たちが日本に戻ってきたのではないか。

    これが私なりの「龍の国」日本の由来です。


    ムー時代はもとより、その後も日本は神聖な国だったようです。

    龍の国、神の国、雛型。
    これが日本のようです。

    モーゼやイエスも人生の最後には日本にやって来たようです。

    中国4千年の歴史など全くもってたいしたことがないのです。

    また、この事実を知られたくない西欧は、龍を悪者あつかいにしたのではないか?
    そして日本つぶし。

    そう妄想が膨らみました。

    +3

    -0

  • 738. 匿名 2016/04/26(火) 10:05:11 

    >>734
    素晴らしい考察ですね。
    そこには気づかなかったです。
    本当に太陽系を表しているのかもしれませんんね。

    +2

    -0

  • 739. 匿名 2016/04/26(火) 10:16:34 

    >>729
    縄文人と弥生人・・・
    見ている方はどちらですか?

    現在では、純粋な弥生人や縄文人は少なく、混血が増えてきています。
    割合としては、純粋な弥生が20%、純粋な縄文が5%、混血が75%

    まずは、顔のつくり!!あなたはどちら?

    $「縄文人」$
    顔形→【四角/長方形】
    造作の線構成→【直線】
    彫りの深さ→【立体的】
    頬骨→【小さい】

    $「弥生人」$
    顔形→【丸/楕円】
    造作の線構成→【曲線】
    彫りの深さ→【平坦】
    頬骨→【大きい】

    顔のパーツは?どちらが多い?

    $「縄文人」$
    目→【大きく丸い】
    眉→【太い/濃い/直線】
    髭→【濃い/多い】
    瞼→【二重】
    鼻骨→【広い/高い】
    唇→【厚い】
    口元→【引き締る】

    $「弥生人」$
    目→【小さく細い】
    眉→【細い/薄い/半円】
    髭→【薄い/少ない】
    瞼→【一重】
    鼻骨→【狭い/低い】
    唇→【薄い】
    口元→【出っぱり気味】

    身長も違うらしい!!

    $「縄文人」$
    背が低い(同年の中で)

    $「弥生人」$
    背が高い(同年の中で)

    +2

    -0

  • 740. 匿名 2016/04/26(火) 10:22:49 

    続き

    手足と指は?

    $「縄文人」$
    手足→【細くて長い】
    指→【細くて長い】

    $「弥生人」$
    手足→【太くて短い】
    指→【太くて短い】

    歯並びも違います!!

    $「縄文人」$
    縄文人の歯並びの形はU字形をなし,上下顎の歯がしっかりと噛み合い,整然としている

    $「弥生人」$
    弥生人の歯並びは放物線形を示し,弥生時代から現代までの人のように下顎の歯を上顎の歯が覆うような鋏状咬合が多い。

    血液型は?

    $「縄文人」$
    B型=縄文系、O型=縄文系

    $「弥生人」$
    A型=弥生系

    体臭は?

    $「縄文人」$
    ある

    $「弥生人」$
    ない

    お酒の強さは?

    $「縄文人」$
    ・お酒に強い

    $「弥生人」$
    ・お酒に弱い

    +1

    -0

  • 741. 匿名 2016/04/26(火) 10:23:21 

    続き

    性格は?

    $「縄文人」$
    大らかで温かい性格です。
    お客さまを喜ばせようとする性格もある

    $「弥生人」$
    「物事をすぐに決める」性格になり、失敗に対しても厳しい性格

    いかがでしたか?
    私は西日本住みですが弥生人の特徴が多かったです

    +2

    -0

  • 742. 匿名 2016/04/26(火) 10:25:02 

    >>732

    ありがとうございます(^^)/
    ゆっくり楽しんで下さいね。

    +2

    -0

  • 743. 匿名 2016/04/26(火) 14:48:45 

    >>738
    しかし構造的に水星と金星が常に太陽を挟んで反対側にあるという…(地球と火星、木星と土星も)
    『天体模型 太陽系をつくる』のようにそれぞれの枝が独立していたらいいのだけれど(^_^;)

    >>739
    60%縄文人でした(^^)
    親しい友達の脳から情報が飛んできた事が何度かあります。そのとき2人の頭の間に豆電球ほどの光が出て、けっこう眩しいです
    また、インスピレーションがあるときは光を伴います。必ず右側に現れ、右前60度上方1mまたは右後45度上方3mから現れ、近付くほど光は大きくなりインスピレーションもハッキリしてきます(最後は光に包まれます)
    すごく不思議です

    >>736
    龍ですね!これはすごい!!

    +3

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  • 744. 匿名 2016/04/26(火) 18:09:28 

    日本人の本質

    「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」 葉隠の記述の中で特に有名な一節ですが死を美化したわけではなく、心構えを述べたものと理解しています。
    命を懸け本気で勝負する気構えは、一心岩をも通す勢いで奇跡を起こすと信じています。

    明治維新で夜が明けて、訪日した外国人の残した見聞録には日本人の美しい魂を賛美する書物が少なくありません。
    暮らし方も生き方もシンプルで一本気、そのような精神性は古代から続いているようです。
    倭人の中心になって渡来してきた国史ニギハヤヒノ命である穢人について中国の「通典」穢伝は

    穢人はその性質が慎み深く誠実で、貪欲なところが少なく、恥というものを知っている。

    と記しています。
    ニギハヤヒ軍団は王族がクシャトリアで、従属する倭人はチュルク人です。
    クシャトリアであるニギハヤヒの命はヤードゥ族の子孫であるサカ族の王で、
    インドに残留したその一族から釈迦如来が生まれました。
    またニギハヤヒの穢族は、ウルのカルデア人のことです。

    BC1530年、ヒッタイトがハムラビ王朝を倒した後、カッシート人王朝ができたため、バビロニアを 【カルドウニアシス】と呼び後世【カルデア】と呼びました。
    ウンマ王ルーガルザグギシとグート人の王シャルラクに始まり、バビロニアのカッシート王朝となり、さらにそのカッシート人がバンヂャップに入って後期ヴェーダ時代に、インド十六王朝のなかのクル国になった後、カルデア人の子孫のプール族と合体してガンガ流域に移り、ベトナムの文郎国を経て中国大陸の河南省に移民したのがニギハヤヒの穢人です。
    BC1000年紀のインドは、ガンジス流域を中心にして十六王朝があってカッシート人を中心とする月神王朝とアラビア海の海商を中心とする日神王朝系に分かれていました。
    月神王統は、カッシート人の亡命者が主流なので中国史の大月氏と同じルーツから二分したものです。
    月神王統の諸国からマガダ国が次第に頭角を表して、ついにインドに統一王朝を建てましたがマガダ国力を支えたのは、この地のインド最大の製鉄地域でした。
    マガダの製鉄はヴォラテイアという漂白の民によってなされていたといいますが彼らは、サカ族系であったといいます。
    また東の方、メナム河の流域に、ドバラヴァティというモン族の国家があり吐火羅あるいは堕羅と書かれ、モン族は自らタラインと称していました。
    この吐火羅人は、月氏系ですが、この月氏は、中国史の月氏ではなくインドから入った月神王朝、すなわちカッシート人の子孫のクル族のことです。
    インドネシアで発見された銅鼓には月氏の絵があって、これはインドの月氏であったようです。
    すなわち、インドに入ったカッシート人とサカ族は、それぞれクル国とプール国をたてて合流し、のちにメナム流域のモン族を支配した吐火羅国をたてさらにベトナムで文郎国をたてた後、阿南省の南陽に植民して製鉄基地をたてたということです。
    マガダの都は、ガヤで、中国では、これを伽耶と書き、これが朝鮮の駕洛諸国の語源になったらしい。
    十六王朝の時代に、サカ族は、アショカ国をたて、コーサラ国では釈迦を生みさらに、マガダ国の製鉄部族になりました。このサカ族がニギハヤヒのことです。
    インドで釈迦が出現したのは、純血アーリアンのバラモン教に対して混血アーリアンのための宗教が必要だったからですが、やがてカースト差別の復活という潮流に呑み込まれて釈迦の理想はバラモン教の復活によって滅びたといいます。

    ニギハヤヒ系月氏はインドに入ってカルデア人と混血した海ルートのカッシート。
    チベット系月氏は、シルクロードを経由した陸ルートの同じくカッシート。
    同族です。この辺を解明すると古代の歴史が面白くなります。
    カッシート、月氏とは何者ぞ。とても心魅かれます。

    +2

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  • 745. 匿名 2016/04/26(火) 18:15:51 

    続き

    サカ族は、おそらく、スキタイ族のアルギッパイオイ人であり、アッカドの末裔です。
    ポンティコンの実を食用とする根の国(ウラルトゥ)一族といわれます。
    この民族は神聖視されているので彼らに危害を加える者は誰もなく武器の類は一切所有しない。
    近隣の住民の争いを調停するのも彼らであるし、彼らを頼って避難してきたものは何人によっても危害を加えられることはない。と、ヘロドトスも記しました。
    彼らニギハヤヒの軍団は、アラビア海の時代はシュメール人の一派のヤードゥやマラ族で、インドでシャカ族になって雲南へやって来ました。
    そしてワ族やナーガ族を引き連れて満州でウラルトゥ+月氏の扶余前期王朝と合体し、その庶子 が王位を奪って扶余後期王朝をたて東明王と称し日本に来てニギハヤヒになったということです。
    扶余は前期も後期も共に製鉄部族で同盟していたのでした。
    中国史料【通典】扶余伝には
    扶余王の埋葬には金鏤玉衣を用いている。

    中略・・扶余人の性質は勇敢にして慎み深く人情に厚い。ほかの種族の地への侵略などはしない。・・・

    と、記します。

    扶余国家は、初め【伯族(ウラルトゥ)】によって建国され後に【穢国(ニギハヤヒ)】と合体しましたが、ともにその一部は九州に渡来して【ウラルトゥ】から【ウガヤ王朝】、【穢国】からニギハヤヒ王朝が成立したのです。
    やがてウガヤ王朝後裔の神武はニギハヤヒ一族を破って吸収し邪馬壱国をたて最後まで神武と戦った狗奴国のナガスネ彦も東北に逃れ、荒吐族、後の阿部一族の祖になります。
    【三国史記】によれば新羅の朴氏の祖はナガスネ彦の祖と一致しています。
    それはアッサム高地からマレー海峡に散在するシナ・チベット語族のナーガ族です。
    そのナーガ族を率いてきたのが、ニギハヤヒです。

    最後に日本にやって来たニギハヤヒの一族は青い目の人々もいたらしい。
    平安時代から村はずれに天部、余部という部落があって、後の被差別部落のルーツといわれますが、元来は天の王朝の人々の部落でした。
    新羅人の奈良王朝を破って百済人が平安王朝を建てた時、その圧制のもとで家を捨てた人々がこの地に次々と入っていったといいます。
    山形県の余目も最果ての余部と考えられ、ここには青い目の人が多いそうです。
    あらゆる文化が辺境にと逃れるように、天部の純粋の形態は東北地方に残ったのではないか。
    天の王朝一族は、ニギハヤヒ族の他、東表国・金官国の中臣族、公孫氏、邪馬壱国の大伴氏などもありますが、このなかにも青い目の人々がいたと考えられます。

    10世紀中期、突如として、律令制を揺るがすような大騒動が持ち上がります。
    クシャトリアであった平将門の一族が下総北部を地盤として935年以来、同じクシャトリアのマラ族である平国香・平貞盛・平良兼・平良正らと領土を奪い合う合戦を繰り返していましたが、自ら【親皇】と称し新しい国家を造るべく関東地方独立を図り武力による【関東国家】の建設を目指したといいます。
    また時を同じくして、瀬戸内海でクシャトリアのヤードゥ族、藤原純友が1000艘を越える蛋民水軍を率いて反乱を起こしました。
    この2つの反乱は貴族たちに大きな衝撃を与え平安朝の天皇制も危うくしました。
    結局、将門勢力はクシャトリア・マラ族(アーリア人とドラヴィダ人の混血)の平貞盛と結んだツングース北倭武士団(アイヌ人)の藤原秀郷によって滅び、そのため純友は京都に突入する寸前で兵を引き返しました。
    敗戦の結果、将門に従っていたカッシート人らは関東平野や近畿地方に逃れて散居し、純友に従っていたヤードゥ族は蛋民(水上生活者)となって瀬戸内海一帯に散居し、各地に津(港)を作りました。
    やがて、鎌倉時代にこの武士たちの群れから足利氏の勢力が成長し、南北時代になると執権北条氏の鎌倉幕府を滅ぼすことになります。
    後醍醐天皇による【建武の中興】のとき足利尊氏は、南朝方の百済武士団の後裔・楠正成・新田義貞を滅ぼして北朝系の室町幕府を樹立するのです。

    +2

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  • 746. 匿名 2016/04/26(火) 19:11:59 

    >>741
    あの、外見に現れる割合が遺伝子で受け継いでる割合とは限らないのではないですか?
    だいたいの日本人は個人差はありますが8割弥生2割縄文の遺伝子を受け継いでると聞きました。

    +4

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  • 747. 匿名 2016/04/26(火) 19:42:56 

    >>746
    そうですね。
    でも九州に行くと、縄文の特徴が色濃く出てきますよね。
    沖縄や奄美大島とか特に。

    +1

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  • 748. 匿名 2016/04/26(火) 19:52:29 

    >>737
    モーゼやイエスが日本へ?
    確かに日本にはイエスの墓がありますが 笑

    西欧は龍を悪者だと見てるんですか?
    龍は英語でチャイニーズドラゴンですよね

    +3

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  • 749. 匿名 2016/04/26(火) 20:08:53 

    もうすぐこのトピも落ちてしまいますね

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  • 750. 匿名 2016/04/26(火) 20:19:57 

    >>748
    そうですね。
    西欧・・・
    特にキリスト教では七つの頭と十本の角を持つ竜として描かれていますね。

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  • 751. 匿名 2016/04/26(火) 20:21:44 

    >>749
    最後まで付き合って頂いた方々に感謝です。

    +3

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  • 752. 匿名 2016/04/27(水) 06:25:11 

    >>751
    今回もお疲れさまでした(。・ω・。)
    まだまだ投稿したかった事があるのですが、時間の許す限り…余裕があればということで!

    日本には本当にたくさんの人種が来たのですね
    そして、菊の御紋はイスラエル発祥というよりも阿羅漢の紋章なのかも?と予感しました。どうでしょうか?

    実は私は歴史が苦手でした…映像と音で記憶するタイプなので、想像できなかったら記憶できないのです(汗)…しかし前回の歴史ミステリーで、歴史が大好きになりました(^^)本当にありがとうございます
    今回教えて頂いた日本人のルーツは大変興味深いので、是非とも映像にして理解したいです!

    そして天地図に遺跡を入れる宿題をボチボチします
    また画像が投稿できるようになればお届けしますね

    +4

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  • 753. 匿名 2016/04/27(水) 09:31:27 

    >>752
    今回も楽しくお話し出来て楽しかったですね。
    色々調べましたが阿羅漢の紋章の可能性も高そうです。
    中々この様なお話しが出来る友達も居ないので嬉しかったです。
    本当にありがとうございますm(__)m

    +4

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  • 754. 匿名 2016/04/27(水) 09:39:50 

    シルクロードの天皇家

    フルリ語の粘土板文書がチグリス川の支流域のヌジ、ユーフラテス川沿いのエマルシリア方面のアララクやウガリトから出土しています。
    BC15世紀頃のもので、ヒッタイト王国の3代ムルシリ1世や5代スッピルリウマ1世がフルリ人国家を服属させたという記録があるそうです。
    このフルリ人はナーガ族と同じ蛇信仰をもっていましたが、ヒッタイト人に征服されウガリットでのフルリ人は天候神ダゴンと収穫神バールを崇拝しています。
    これはフルリ人の神が蛇神から征服者アーリア人の牛神に変わったことを表します。
    フルリ語は日本語と似ているとされていますが、フルリ人はシュメール人と同族だったようで妻のことを【妹】と言っていて、古代倭人も妻を呼ぶのに【吾妹わぎも】と言いましたので同習俗、同種族とされる理由になっています。
    フルリ人は【旧約聖書】で、ホリ人として登場します。

    フルリ人の【ミタンニ王国】がヒッタイト人によって征服された後、フルリ人の一部は北上し、アルメニアのヴァン湖畔に【ウラルトゥ】を建国しますがこのウル第三王朝~ミタンニ~ウラルトゥの流れが、満州の扶余に至る北回りルートで、【シルクロードの天皇家】となります。
    もう一つの南回りのルートは、シュメール~インド~ベトナム~満州という【シャキイ族】のルートです。
    これが【安冕あめ】氏と【阿毎あま】氏の二系です。
    ウラルトゥは、BC1300年頃のアッシリア碑文に初見されますが【ウラルトゥ】とは【ヴルトラ(蛇)】の意味で、【ナーガ族】の七頭の蛇との関わりがみれます。
    神社に張られるしめ縄は、男の蛇神と女の蛇神の交合を象った神の縄です。
    古代メソポタミアでは、この両蛇神を【ニンギジダ】と呼んでいました。
    しめ縄の原点です。

    【史記】の伏犠・女禍の神像は共に蛇身人首で両尾をしめ縄のようにからませています。
    有名な志賀島出土の【漢委奴国王】の金印は蛇紐です。
    【秀真伝ほつまつたえ】を作成した大物主家(公孫氏)の三輪氏(イッサカル族)は大和三輪山の蛇神を祀る神官の家柄なので、蛇紐金印の委奴国王家および蛇神信仰の新羅王家あるいは、亀神話のからんだ金官加羅の金首露王家と同族的な関わりがありました。

    +2

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  • 755. 匿名 2016/04/27(水) 09:42:07 

    続き

    ウラルトゥとしばしば戦いを交えたのがアッシリアで、シャルマネサル3世や4世が知られますが、彼らは、ウラルトゥを【ウルアトリ、ナイリ】と呼びました。
    アッシリアは、セムの2子、アシュルの流れでセム系とされていますが支配階級は、ハムの子、カナンの子孫、【旧約聖書】では、アララト王国となっています。
    中東の遊牧民族のなかにあって農業を主としており、この点シュメール人と同じです。
    【ウラルトゥ王国】は、BC9世紀始めにアラメによって建国され、アラメがアッシリアのシャルマネサル3世によって追放された後、次のシャルドウリシュ1世が国力を回復しアッシリア軍を撃退、以後、ウラルトゥとアッシリアは何度も交戦しますが、この【天皇家】と【カナン人】の敵対は数千年の歴史を経て今に至るも続くことになります。
    【ウルク】もバール信仰で、【ウル】の天神アンに敵対しましたが、もっと遡ればインドのナーガ族とアーリア人の敵対に端を発します。


    【フルリの王】と自称したシャルドウリシュ1世やメヌアシュ、アルギシュティシュ1世などの優れた王を出したウラルトゥもBC585年にアーリア系のアルメニア人が侵入し、首都ティシェバーナが没落、以後ウラルトゥ人はシルクロードに亡命することになりますが、このシルクロードのウラルトゥ人を中国の文献は【伯族】と称しています。
    【宮下文書】は、ウガヤ王朝が月読命(月氏)と同盟していたとしますが、このことはアナトリアのウラルトゥとシルクロードの月氏が同盟してアッシリアと戦った歴史を表しています。
    セム系の月氏は、ウラルトゥの時代にも天皇家と共にあったようです。
    この時の同盟関係が天皇家と月氏(藤原氏・秦氏)につながります。
    ウラルトゥ王国はBC6世紀初頭のカルミール・プルーフの時代に滅亡してしまった
    とされますが、彼らはナボポラサルのカルデア王朝に従属し、その後アケメネス朝ペルシアの王族を王とし服していましたが、アレキサンダーによってペルシアが滅びた後、その一部が扶余を建てました。
    ウラルトゥ王国がスキタイなどの印欧語族に追われてキンメリ人やチュルク人と共にアフガン北部のバクトリアに逃れ、さらに華北に移動、ここで秦に伐たれたため満州に入って扶余前期王朝を建てたのです。

    +1

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  • 756. 匿名 2016/04/27(水) 09:48:50 

    九鬼(くかみ)文書と宇宙エネルギー

    【日本書紀・古事記】以前に書かれた古史古伝【九鬼文書】には宇宙の始まりについて書かれています。

    「天地初発ハ不明ニシテ知ルに由(よし)無キモ

    世ノ中暗黒(くら)ク闇明ヲ分タズ 事物マタ定ラズ

    只一ツ逍(ただよ)ヘル気ト現レタル力ト在リ

    寄リ寄リ凝固(こりかたま)リテ 一物成ル

    是(これ)神ナリ 其(その)神名ヲ

    母止津和太良世乃大神(もとつわたらせのおおみかみ)ト称ス  

    コノ神ノ気ト力 四方ニ活動シ

    幾数(あまた)ノ姿形顕(あらわ)ル 天津(あまつ)神々ナリ」

    天地の初め、宇宙の誕生については分からない人智を超えた事・・・と予めピシャリと釘を差しています。
    次に暗黒の中に【気】と【力】とがあったと述べます。
    逍(かす)かにただよっている【気】とエネルギーとが凝縮して【一物成る】これは、現在の宇宙論で言うところの【宇宙の卵】

    サイズが無限に小さく、密度が無限に大きなこの【宇宙の卵】が気みちて、爆発(ビッグバン)して膨張を開始し150億年後、現在の宇宙に進化したという現代の宇宙理論と一致します。
    この無から有(宇宙)が生じる原理について以前調べてブログに書いたものがあるので、以下に載せてみます。
    最初の小さなミクロの【卵】の宇宙は、大きさゼロ、エネルギーゼロの【無】の状態で、生成と消滅を繰り返していました。
    それが、ある時、トンネル効果によって、究極の微粒子である素粒子よりもはるかに小さな、超ミクロの大きさを持つ存在としてこの世にポッと出現します。
    これが宇宙の誕生の瞬間です。
    トンネル効果とは、通り抜けられないはずの壁をミクロの粒子がすり抜けてしまう現象です。
    生まれてまもない宇宙をすさまじい勢いで膨張させた【力】の正体は何でしょう。
    それは、【真空のエネルギー】だと考えられています。【真空のエネルギー】が創生にかかわるという理論【インフレーション理論】によれば宇宙は時間や空間、物質のまったく存在しない【無】のゆらぎから誕生したと考えられています。
    同じ物質でありながら温度によって性質が変わることを相転移といいますが、水が氷に相転移する時に熱が放出されるように【無】と考えられる場の揺らぎから真空のエネルギーが熱エネルギーとして放出され、宇宙はビッグバンを起こしたと考える。
    これがインフレーション理論の骨格です。
    電子(e-)と電子の反物質である陽電子(e+)が生まれては合体し消滅を繰り返している状態が極限真空の姿であり、宇宙創生の頃はこの真空のエネルギーがきわめて高い状態にあったのだといいます。

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  • 757. 匿名 2016/04/27(水) 09:57:06 

    続き

    しかもこの真空のエネルギーはその後宇宙に残り、宇宙が膨張するほどその膨張に合わせてエネルギーを拡大します。
    この拡大する真空のエネルギー こそが、引力に反して宇宙空間をさらに膨張させ続けている原動力ではないかといわれています。
    この真空エネルギーに宇宙エネルギーが充満しているのです。
    目に見える物質と目に見えない非物質の二重構造、目に見えない宇宙エネルギーが私たちの周りには満ちているのです。
    【気】【オーラ】【波動】という言葉だと分かりやすいと思います。
    人間も含め生命体は【気】そのものですし、生命をもたない鉱物、石なども【気】を発しています。水晶や花崗岩などの波動は強く、生物に影響を与えます。
    ストーンヘンジなどの遺石が花崗岩で造られているのは古代人の意志を感じます。
    宇宙エネルギーが図形と共鳴(共振)する性質を知っていたのか古代人の残した図形を見て驚きます。
    宇宙エネルギーは、三角形、四角形、六角形や円などの平面図ピラミッド、半球や球などの立体図形と共鳴するといいます。
    図形が宇宙エネルギーと共鳴すると、図形が宇宙エネルギーを集積したり放射したりという不思議な現象が起こります。
    ピラミッドの3分の1の高さの所に宇宙エネルギーが集まっていると同時に頂点からは波長の異なる別のエネルギーが放射されているといいます。
    宇宙エネルギーを強力に集めて放射する図形として、上向きと下向きの二つの正三角形を重ね合わせた六芒星あるいはヘキサグラム、ダビデの星といわれ、イスラエルの国旗、そして秦氏、陰陽師のシンボルでもあります。
    私は、昔、アシア族といわれ、、物部氏、秦氏となった古代イスラエル人がカタカムナ文献を 山窩の長に託したのだと思っています。

    九鬼(くかみ)文書による元始神モトツワタラセは【宇宙の卵】に充たります。
    この卵の体内に充満してきた【気】が一つの意識ともいうべきものをもったとすれば、それは【神】と呼ぶのに相応しい。
    現代の宇宙理論では【宇宙の卵】は初期の段階ではプラズマ状だったとしています。
    そのプラズマの中に活性化された陽子や中性子や電子が押し合いへし合っていた、そして、その温度は摂氏10億度といわれています。
    これで核融合(大爆発)がおこる条件がととのって、【宇宙の卵】モトツワタラセの体内の【気】と【力】とが、ある限界量に到達した瞬間、【宇宙の卵】は大爆発をおこし、無数の微粒子となって全方向に拡散した事を九鬼文書は

    コノ神ノ気ト力 四方ニ活動シ

    幾数(あまた)ノ姿形顕(あらわ)ル 天津(あまつ)神々ナリ

    無数の微粒子は数億年かかって凝集して【原子星雲】になりそれを九鬼文書は天津神と呼んだようです。

    即ちプラズマというものが【フリーエネルギーor宇宙エネルギー】と云われるものです。
    これを利用して発電機を造り、原発を廃止してほしいと考えます。
    風も水も引力も使わない発電機です 
    この装置の開発は世界中で、既に始まっています。
    1900年代の初めには既に世界の科学者によって宇宙エネルギー発電機が開発されています。
    ニコラ・テスラ(交流システムの父として知られている)という天才科学者が空間からエネルギーを取り出す装置の開発に成功しています。
    その後もヘンリー・モレイやエドウィン・グレイ、ウィンゲート・ランバートソンなどが空間からエネルギーを取り出す装置の開発に成功し特許を取得しています。
    しかし、これらの発電装置は世の中に普及しませんでした。
    なぜでしょうか?
    それは、この装置が世の中に普及すると困る勢力が妨害してきたからです。
    エネルギーが無料の【宇宙エネルギー発電機】が普及するとエネルギーをビジネスにしている石油産業、原子力産業、電力産業が追い込まれます。
    今まで、重油やLPガス、ウランなどのすべての燃料資源の元締めでありこの石油産業に巨大な資金をそそいで石油エネルギー界を支配してきたフリーメーソン、ロスチャイルドなど世界各国の巨大な財閥があります。
    エネルギーが無料の発電装置が世界に普及すると一番打撃を受けるのがこれらの少数の巨大財閥勢力(フリーメーソン)です。
    そのため、少数の巨大財閥勢力はたえず世界の研究者を監視し、【宇宙エネルギー発電機】が開発されたり開発されそうになると、技術を買収したり、力で潰したりして、それが普及しないように手を打ってきました。

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  • 758. 匿名 2016/04/27(水) 09:57:26 

    続き

    これが世の中に普及されなかった理由です。
    しかし今回の原発をきっかけに多くの人がこのフリーエネルギーに気づけば実現すると思います。
    日本でもマルチアークなど発電だけでなく地球や人体にとってクリーンなシステムが開発されています。
    天候に左右される太陽光発電とは違います。
    実現すれば人類が地球に誕生して以来、最大の好転換期になります。
    地球環境問題を日本から変えて世界に発信しましょう!

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  • 759. 匿名 2016/04/27(水) 10:01:18 

    >>743です
    >インスピレーションがあるときは光を伴います。必ず右側に現れ、右前60度上方1mまたは右後45度上方3mから現れ、近付くほど光は大きくなりインスピレーションもハッキリしてきます(最後は光に包まれます)

    この事について…これ初めて言葉にしました。これを聞いた人はきっと変わった人だと思うでしょう
    ですが、皆さんも本当は見えていると思いますよ…ただ意識していないだけで。その光が見えたところで何かあるわけではないので、脳がスルーしているのでしょう
    人は考えるときに上を見ますよね。そこからアイデア(インスピレーション・光)が沸いてくるからです。
    西洋の宗教画で聖人は後光が描かれているのも同類のものだと思います
    また運命の出会いを経験された方は、白い光に包まれませんでしたか?映画やドラマでよく描写されますが、あれは本当に起きています(^^)私はその光の中で、その人との未来のワンシーンを見ました

    日常生活には不要かもしれませんが、神秘的でおもしろいですよ(^-^)…あまり人には言えませんが(汗)

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  • 760. 匿名 2016/04/27(水) 11:09:20 

    >>759
    素晴らしい能力ですね。
    大事にして下さいね。
    私も頑張ってみます(^^)/

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  • 761. 匿名 2016/04/27(水) 14:47:36 

    >>760
    はい(^^)
    参考になるかわかりませんが…
    その光が見える時は静かになるので聴覚などの感覚が鈍くなっているのかもしれません

    ところで「トーテム」について気になる事があります
    ギリシア神話の神々の戦い
    ①ティタノマキアの戦い(息子ゼウス率いる後のオリンポスの神々vs父クロノス率いるティタン神族→ゼウス軍勝利)
    ②ギガントマキアの戦い(ゼウス率いるオリンポスの神々vs巨人族ギガス(ガイアの軍)→ゼウス軍勝利)
    ③名無しの戦い(巨大怪物テュポンvsゼウス→ゼウス勝利)

    ゼウスは最強ですね。思い上がった神々は③の時に、テュポンに驚き動物に姿を変えてエジプトに逃げた(だからエジプトの神々は動物の姿をしている)…とありますが、この動物はトーテムですよね

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  • 762. 匿名 2016/04/27(水) 16:07:04 

    >>761の②巨人族ギガスについて、面白い記事(2013.8.1)をコピペ

    アメリカ・インディアンのパイユート族には、 かつて、"Si-Te-Cah"と呼ばれる赤毛の巨人達によって先祖が脅かされていたという言い伝えがあるそうなんですが、 最近その存在を裏付けるかもしれない新たな証拠が発見された模様です。
    伝説によると、この巨人一族は実に好戦的で、村を襲撃しては人間(主に女性)をさらって食べ殺していたそうです。
    両種族の長きに渡る戦争の末、最終的にはパイユート族が意を決して巨人達を洞窟に追い込み、 外に出られないように洞窟の入口に積み上げた木々を燃やす事で巨人は退治されたそうです(煙による窒息死や直接火をつけたとも言われている)。
    現代では、もっぱらこの話はファンタジー的な寓話だと見なされているみたいですが、 一部の考古学者には伝説の人食い巨人は実在したのではないかと考えられているみたいです。
    実際、1911年秋に地元の鉱夫によって、 巨人を追い込んだと思われる洞窟が発見されているそうで、 そこはネバダ州にあるラブロック洞窟という場所らしいです。
    鉱夫は洞窟の内部でグアノと呼ばれる天然肥料(コウモリの糞)を採取しようと250トンにも及ぶ糞を3m程掻き分けていったところ、 なんと身長2.3m以上のミイラが埋もれていたのを発見したそうで、しかも、 頭部には赤く長い髪が残っており、インディアンの言い伝えの巨人そのものだったみたいなんです。
    翌年になって当局に洞窟の存在が知らされ、 以降13年間に渡ってカリフォルニア大学やバークレー大学などの考古学者が発掘を続けたところ、 1万点を超える数多くの古代の遺物が見つかり、1931年には この洞窟付近のフンボルト湖で40~50体もの人骨が発見されたらしいんです。
    しかし、そうした 発見物は、残念ながら個人に売られたり、火災などに遭ってほとんど失われてしまったそうで、 現在は、洞窟から120km程離れたフンボルト博物館に、巨人の頭がい骨だと言われる復元化石や、 長さ38cmの繊維のサンダルなどが保存されているそうです。
    なお、ネバダ州歴史協会やカリフォルニア大学の考古学者は、 このラブロック洞窟が紀元前1500年頃から住居とされ、 白人移民がこの地に足を踏み入れる数100年前まで使用されていたと考えているそうです。
    また、一説には、発見された人骨の状況から、 洞窟に閉じ込められた巨人達が飢餓に陥り、共食いをしたのではないかという説があるそうです。

    +3

    -0

  • 763. 匿名 2016/04/27(水) 16:09:51 

    >>762もういっちょ!

    1947年、アメリカのネバダ州のアリゾナ州との国境地帯に位置する180平方マイルのエリア内で、32個の古代の洞窟が発見されたそうで、そこでは着れば身長2.7m位にも及ぶ、羊の皮に似た未知の動物のもので作られたズボンとジャケットらしき衣服や、金の槍、神秘的なシンボルが記入され磨き上げられた花崗岩が見つかり、スミソニアン博物館に調査及び補償を約束されたそうなんですけど、結局考古学者と科学者はダーウィンの進化論に反するとして、これらの証拠を全て隠されてしまったそうです。
    当時、東海岸出身のF.ブルース・ラッセル博士はアリゾナからコロラド川を横切って調査していたそうで、その際、古代の民族の儀式の為に作られたホールの様な洞窟を見つけたそうで、また、種族ごとの埋葬地と思われる場所も発見したそうなんです。
    それらの文明の道具は全て家庭用品とストーブを含めてそこにあったそうで、ラッセル博士は、未知の大災害がそれらの民族をこの洞窟に追いやったのではないかと考え、更に詳しく調査したみたいです。
    すると、ホール内の丹念に磨き上げられた花崗岩に象形文字の様なものが彫られているのを見つけ、また、フリーメーソンのに似ている儀式の装置らしきものもあったそうで、洞窟は長いトンネルで別のホールに通じていたそうです。
    その10~15年前には、ある鉱夫が鉱山のシャフトから誤って底に落ちたところ、未知の洞窟を発見したそうで、仕方なく道なりにパナミント山脈の約20マイル北へ進んでいったところ、巨大な古代の地下都市を発見したそうなんです。
    彼は、そこの会議室と思われる場所の中心で、巨大な石のドアや、磨き上げられた円卓、弓形の石を見たらしく、また、部屋は地中のガスによって燃料を供給され、精巧に照明されていたそうです。
    また、壁には金の槍が立てかけられてたそうで、その作りはエジプト人の仕事に似てたみたいです。
    結局トンネルは、カリフォルニアのインペリアルヴァリーのファーナス・クリーク・ランチを見下ろす場所が出口となっていたらしく、彼はそこの谷が以前は水面下にあったという事を知ったそうです。
    その後、これらの発見に関する取り引きは、スミソニアン博物館で結ばれたそうなんですが、この鉱夫のパートナーがまんまと裏切り、証拠は盗まれ、洞窟の入口も隠されてしまったそうです。
    アリゾナ大学教授バイン・デロリアさんは、インディアンのものとは異なった古墳の存在から、同様の訴えをスミソニアン博物館にしたそうで、その古墳には巨大なマストドンっていう像の骨格と共に、何百もの巨人のものと思わしき骨が含まれていたそうなんです。
    また、カナダのナイアガラにあるカユーガって場所には、1880年に発見された「巨人達の墓地」と呼ばれる場所があるそうで、エリー湖の島の岩の裂け目で発見された巨人の骨格は身長2.7m以上にも及び、そのいくつかは、あたかも戦場で死んだかの様な状態であったみたいです。
    ところで、スミソニアン博物館も一応、巨人の骨格が見つかった古墳で出土した人工品をいくつか展示しているそうですが、骨格自体は大気に晒されると痛んですぐに粉状の灰になっちゃうらしく、もう残り少ない脆弱な貴重品をこれ以上テストしたくないらしいです。
    ちなみに、写真は当時の英国大衆誌『ストランド・マガジン』の1895年12月号に掲載された化石化した巨人だそうで、ロンドンの列車倉庫で撮影されたものだそうです。
    伝えられるところによると、この巨人はアイルランドのアントリム郡にて、鉄鉱石を探していた染物業者によって掘り出されたらしく、身長は3.7mにも及び、足の指は何故だか6本あったそうです。
    ダブリンで展示された後はイギリスへ持っていかれ、リバプールとマンチェスターに展示されたそうで、当時は科学者を含んで多くの人を引きつけて話題になった様です。
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    +3

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  • 764. 匿名 2016/04/27(水) 17:34:56 

    実はエル神やオリンポスの神々の神話の舞台は環太平洋だと思っています(・ω・)

    >>733で、「マヤとヤマ」二つは双子部族で、シャヘルShaher(明けの明星)とシャレムShalem(宵の明星)
    (。・ω・。)(。・ω・。)
    …としましたが、その場所は北回帰線上にあると思っています
    マヤはメキシコ
    ヤマは恐らく台湾~与那国島南方だと思います…ヤマ・タイ国?もしかして台湾が邪馬台国だったりして(^^;)

    北回帰線(北緯23.4393度…北半球における夏至に太陽が天頂にくる地域をつないだ線)には多くの遺跡が眠っていると思います
    与那国島は海底遺跡がありますよね。海底に沈んだのは13000年くらい前(氷河期の終わり、マヤ・ヤマより前)。アボリジニの伝説によると、氷河期の終焉は早く(あっという間に訪れた)、海面の上昇とともに、魚が天から降って来た、津波があったと伝えられています。ゼウスの雷霆を連想…これをゼウスが使えば世界を一撃で熔解させ、全宇宙を焼き尽くすことができるらしい。南極の氷など一発で溶けるでしょう
    日本が地中海と関係ありそうなのが、
    与那国島の東南東100kmにある「波照間島(はてるまじま)」
    ここは日本最南端の有人島だが、波照間島のさらに南に「南波照間島」(パイパティローマ)があるという伝説がある。重税から逃れるため、1648年に島人が南波照間島に渡ったという伝聞が、琉球王府の記録である『八重山島年来記』に記されている
    “ローマ”ですって…あったのでしょうか…ローマ支所が…

    +3

    -0

  • 765. 匿名 2016/04/27(水) 21:10:42 

    >>763
    巨人伝説は世界各国に有りますね。
    実際に存在して居たと思います。
    彼等が亡びたのはなぜでしょうか?

    近年で最も話題になったのは、2012年1月15日、南アフリカの作家で探検家のマイケル・デリンガーが発見した"巨大な足跡"です。
    南アフリカと同国の北東に位置するスワジランドの国境近くに位置するムプルージで、彼は"足跡"を発見しました。
    この人里離れた山中の岩に、全長120センチにも及ぶ、指が5本ある足跡の化石が刻まれていたというのです。
    そして彼は驚愕しながらも、その足跡をあらゆる角度から映像におさめ、動画投稿サイトYouTubeに発表しました。
    そして調査の結果、この"足跡"がついた花崗岩(かこうがん)が形成されたのは、なんと約2億年~30億年前だということが判明。
    ということは、この足跡は少なくとも2億年前のものだということになります。
    人類が誕生したとされるのが、約700万年前です。
    その遥か昔、2億年も前にこの地球上に、巨人族が存在していたということです。
    もし、この足跡が"本物"だとしたら、持ち主の身長は約7.5メートルとも想定されています。
    にわかには信じ難い話ではありますが、今からおよそ2億5000万年ほど前には、この地球には"恐竜"という名の巨大生物が誕生しました。
    巨人の足跡が"少なくとも2億年前"という部分と合致するわけです。
    巨人滅亡の謎が解明されるのが楽しみですね。


    +2

    -0

  • 766. 匿名 2016/04/27(水) 21:15:51 

    >>764
    謎がどんどん深まりますね。
    ローマ支局・・・・
    本土から逃れた隠れキリシタン達が関係しているのかもしれませんね。

    +2

    -0

  • 767. 匿名 2016/04/27(水) 22:45:20 

    >>765
    北欧神話でも巨人族がいくつかありましたね。きっと存在していたのでしょう…*☆*(・ω・)*☆*

    >>766
    波照間島の南にかつては島で海に沈んだ場所があったとか…?
    今は何も無いですけどね~
    ずーーっと南にフィリピンの“ナガ”って町がありますけど。“ナガ”って…

    +3

    -0

  • 768. 匿名 2016/04/28(木) 02:53:54 

    >>767
    “ナガ”・・・
    ナーガ=蛇ですね。
    なにか意味がありそうです。

    +2

    -0

  • 769. 匿名 2016/04/28(木) 05:01:36 

    >>765
    巨人じゃなくて単に私たちが小人なだけだったりして

    +4

    -0

  • 770. 匿名 2016/04/28(木) 05:54:20 

    次のトピは立たないのですか?

    +4

    -0

  • 771. 匿名 2016/04/28(木) 05:56:44 

    >>765
    アバターみたいなのがいたかも

    +4

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  • 772. 匿名 2016/04/28(木) 06:25:06 

    >>686
    ピラミッドってアトランティス?

    +4

    -0

  • 773. 匿名 2016/04/28(木) 06:32:22 

    +3

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  • 774. 匿名 2016/04/28(木) 06:33:28 

    >>768
    ナーガ族にまつわる土地なんでしょうか
    ラピタ人とナーガ族の関係は?…気になります

    >>769
    どの人種が主観なのでしょうね…
    ピグミーと呼ばれる民族だと日本人も亜巨人族になります(^^)
    ピグミー (Pygmy、侮蔑的用語とする向きあり) は特に身長の低い(平均1.5メートル未満)特徴を持つ、アフリカの赤道付近の熱帯雨林に住む狩猟採集民である。中央アフリカ全体の熱帯雨林を生活拠点としている。人種学的にはネグリロ(Negrilo)と呼ばれる

    東南アジアなどに住むネグリトと呼ばれる集団も、ネグリロと同じように極めて低身長であるため、アフリカから遠く離れているものの同じ集団と考えられたことがある。現在は遺伝学的に近縁でない事がわかっており、それらはオーストラロイドに属するとされる

    もっと人種の事が知りたくなりました

    +2

    -0

  • 775. 匿名 2016/04/28(木) 06:34:28 

    +4

    -0

  • 776. 匿名 2016/04/28(木) 06:36:04 

    +3

    -0

  • 777. 匿名 2016/04/28(木) 06:38:37 

    +3

    -0

  • 778. 匿名 2016/04/28(木) 07:05:12 

    +3

    -0

  • 779. 匿名 2016/04/28(木) 08:34:24 

    >>777 おめでとうございます(笑)

    先日ブラタモリ「沖縄・首里城」で、
    “比良”とは上り、“坂”とは下りを意味し、日本の古語だと現地の方が言われてました
    『黄泉比良坂』とは黄泉へ通じる角度を持つ道ということになります

    ピラミッドは異空間へ行く階段なのかもしれません
    (・ω・)

    +4

    -0

  • 780. 匿名 2016/04/28(木) 08:48:43 

    キリスト教が科学の発達を遅らせた?

    +3

    -0

  • 781. 匿名 2016/04/28(木) 10:48:09 

    残りあと少しになってきましたね(;_;)前の歴史ミステリートピも最後まで勉強しながら見ていました!皆様カキコありがとうございます(^0^)最後まで楽しみにしております

    +2

    -0

  • 782. 匿名 2016/04/28(木) 11:42:25 

    >>780
    「アレクサンドリア図書館」の破壊や紀元前にすでにあった地動説にもとづいたアナログコンピュータ「アンティキティラ島の機械」。
    このような後世に残す知識をキリスト教は、隠蔽して認めなかったり、破壊している歴史があるように思うのです。
    特に4~5世紀あたりにかけて。地動説を暴力によって衰退させたことは、人類にとって大きな損失を招いたのではないだろうしょうか?
    実際、ローマ教皇がガリレオの地動説を認めたのは、西暦1992年だすからね。

    +1

    -0

  • 783. 匿名 2016/04/28(木) 11:54:39 

    縄文人

    9万年前頃、アフリカに残っていた原人の中から最初の新人であるフルリ人が誕生しました。
    地球がビュルム氷期にあった頃、アフリカを出発したフルリ人は各地に拡散しエジプト人、メルッハ人、エチオピア人、ヒッタイト人およびヨーロッパではクロマニヨン人になりました。
    またスンダ大陸は、大変住みよい環境であったため、新人がここに集まりました。
    そして土着したドラヴィダ人をはじめとするネグロイドや古モンゴロイドが独自の進化を遂げ、農業・漁業や金属文化が始まり、次第に高度な文明を築き、都市生活を営むようになっていきました。
    そこでは、数千年以上もの長い間人類の【先史文明】が営まれ、世界各地に植民地を持つ都市国家が栄えていたといいます。
    【オロッコ人】
    1万3千年頃前に、ワジャック人と先住していたヒッタイト人の混血によってセレベス島のマカッサル周辺で生まれた5000人の群れ。
    オロッコ人たちは地球の温暖化によってシベリア・バイカル湖周辺に移動していましたが、その中の600人のグループはオホーツク海のイヌイット(エスキモー)となり、別の600人のグループは1万2500年前頃
    日本列島へ渡来して縄文人になりました。

    【ワジャック人】・・・後のハワイ人
    1万5千年前頃、マレー海域においてドライダ人から生まれました。

    【ヒッタイト】
    5万年前頃、アラビア半島において、メルッハ人の系統から生まれた新モンゴロイド。

    【チュルク】
    2万円前頃、アラビア半島で、ヒッタイトから生まれた新モンゴロイド。

    【シュメール人】
    1万8千年前頃、スンダ大陸のバリー、ジャワ、スマトラ辺りでフルリ人の系統から生まれた古モンゴロイド。
    ビュルム氷期中のスンダ大陸において【先史文明】を築いたのがこのシュメール人。
    彼らはビュルム氷期の終焉時に起こった大洪水の危機を乗り切って、文明遺産を引き継いだ。
    この時、指導的役割を果たしたのは、シュメール人の王族・ナーガ族でした。
    この人々は日本の長髄彦になります。

    【ツングース】
    8千年前頃のバイカル湖周辺で、オロッコ人とアーリア人との混血によって生まれた新モンゴロイド。アイヌとも呼ばれ、蒙古班がない。

    +2

    -0

  • 784. 匿名 2016/04/28(木) 11:58:12 

    続き

    1万2千年前、ビュルム氷期の終焉時に地球上で【大洪水】が起こりスンダ大陸の【前文明】が海没しました。スンダ大陸は姿を消し現在のようなインドネシアの島々が形成されました。
    シュメール人が率いる人々は、エブス人の船によって脱出し、東南アジア・メコン河の中・下流域に移動して住み着いたようです。
    彼らは協力して先史文明の再建に努めタイ北東部のコラート高原で彩文土器と青銅器を製造し、イモ栽培を中心とするバンチェン文化の基礎を築いていきました。

    【エブス人】
    1万5千年前頃、セレベス島マカッサル周辺において、ヒクソス人の系統から生まれた新モンゴロイド。

    【ヒクソス人】
    3万年前頃、アラビア半島において、メルッハ人の系統から生まれた新モンゴロイド。

    【港川人】
    1万2千年前頃、【大洪水】が起こる直前に、セレベス島中部でエブス人とワジャック人との混血によって生まれた新モンゴロド。
    彼らは、【大洪水】が起こったとき、セレベス島海域から黒潮ルートに沿って北上し、沖縄から九州大隈半島にかけて新石器文化を携えて上陸、西日本を本拠とする縄文人となり、その後、1万1千年後以後、彼らは
    姶良郡から宮崎県日向地方や熊本県阿蘇地方などへ拡散していきました。

    縄文時代、長野県尖石遺跡周辺で生活していたオロッコ人は八ヶ岳から産出する黒曜石を加工し、関東、東海、能登半島越前、越中、越後から近畿地方などにかけて頻繁に交易していました。
    さらに、アワ、ヒエ、キビなどの雑穀栽培にも本格的に踏み出していました。
    そのため、他と比べて非常に裕福になったオロッコ人の集団内で縄文後期4000~3800年前頃から階級の分化が起こり、同じオロッコ人の集団内部の人々や先住民である旧人と混血した古モンゴロイドの人々を農耕奴隷として使役するようになりました。
    と、いっても、それはまだ一地域内の部分的な事態であったため、明確に階級社会による国家が成立するまでには至りませんでした。

    【ダーリ人】
    10万年前頃、スンダ大陸の旧人であるソロ人が移動して、黄河流域周辺で非定住の狩猟採取生活を営むようになり、ダーリ人と呼ばれる旧石器人となりましたが、そのダーリ人の一部がマンモスを追って移動し、シベリアから沿海州を経て、1万9千年前頃、当時は陸続きであった日本列島へ渡来し日本海周辺の旧石器文化圏を形成し【黒曜石文化】を担っていましたがやがてオロッコ人が引き継ぎました。また、栃木県の那須高原一帯長野県の塩尻湖周辺および八ヶ岳山麓一帯ではオロッコじんとダーリ人の両者は混血して古モンゴロイドとなり、縄文人文化の担い手になっていきました。
    やがて,3800年前頃、オロッコ人の集団は環境の寒冷化に促されて移動を始め農耕に適した地を求めて千曲川や信濃川流域へといじゅうしていきました。
    そのため、尖石遺跡の営みは間もなく無くなったが、この時、一部のオロッコ人グループは海路を辿って出雲を経て周芳湖(山口県旧熊毛郡の諏訪湖)地方へと移動していきました。
    そして、先住していた同族のコロニー(周芳湖西岸の用田遺跡周辺)に参入しています。

    +1

    -0

  • 785. 匿名 2016/04/28(木) 12:06:01 

    縄文人と弥生人

    ビュルム氷河期の終末期、約1万2千年前の大洪水直前にバイカル湖西方にいたオロッコ人(オロチョン)が日本列島に移動して縄文人となりました。
    1万2千年前頃は、温暖化していくなかで、急激な戻り寒冷期がありました。
    ヤンガー・ドライアスと呼ばれている現象です。
    北アメリカにあった巨大な氷河湖(氷河が溶けて出来た水が堰き止められて形成された湖)が崩壊して、大量の淡水が一気に海に流れ込んだ結果海流が乱されて地球規模の熱の移動が滞ったのです。
    中近東ではこの時の寒冷化によって採取できる食物が減りそれを補うために農業技術が進歩したと考えられています。
    当時、オロッコ人の交易従事者たちは、約9メートルの丸木舟を横に2艘つないで帆を張り、舵をつけて盛んに航海していたようです。
    まだエジプト文明より遙か以前のことです。
    奥州津軽(青森県)の荒吐五王(安倍氏・秋田氏)の歴史を伝える『東日流外三郡誌』は、オロッコ人(狩猟民)のことを岩木山周辺にいたアソベ族(阿蘇部族)としています。
    三内丸山で使用した黒曜石は、和田峠や霧ヶ峰(八ヶ岳連峰)及び佐渡島などからもたらされました。
    糸魚川文化圏からはヒスイの原石や加工品黒曜石などを運び帰りにはサケ・コンブ・毛皮などを持ち帰りました。
    琥珀などは東北でも産出していましたが一部シベリアからも輸入していました。
    古代東北には餅鉄という純度の高い磁性に富んだ磁鉄鉱石を使用した製鉄法があって、明神平でも3600年前頃のカキ殻の付着した鉄滓が出土するといいます。
    タタラ製鉄以前の縄文製鉄があったと考えられています。
    縄文人は、風の強いところを選んで盆状の野焼炉を造り、餅鉄とカキ殻を入れて火をかけ、還元鉄を取り出していたらしい。
    これでヤジリや釣り針を作っていたようです。
    ほとんど不純物を含んでいない純粋な素晴らしいものでした。
    正倉院にある「舞草」銘の無装刀は、日本刀のルーツとされていますが岩手県一ノ瀬の舞川近くの「餅鉄」が発祥の地とされています。

    三内丸山遺跡で6本柱の大型建物が出土しましたが、もともとは直径1メートルもある栗の大木柱の建物でした。
    当時は海上航海者への標識として機能していました。
    大型掘立柱建物の6本柱は3本ずつ2列に並んでいて、北東から南西方向へ軸線を揃えながら並行しています。
    これが「夏至の日の出」「冬至の日没」を見るラインとなっていることから、太陽の運行や天文・季節の基準を知る施設の役割を持っていたと考えられています。
    海上からよく見える灯台機能も持っていたようです。
    柱間の距離が4・2メートルと35センチの倍数となっていて、当時すでに縄文尺が存在し、35センチが1尺でありました。
    これらの巨木技術は、造船でも大いに活用され、遠洋航海を可能にしていたようです。

    日本列島に最初に渡来した縄文人の人口は、5000人に満たない数でした。
    港川人が2000人、アエタ族800人、オロッコ人600人、アイヌ人800人です。
    すべてドラヴィダ人の血を引いているといいます。
    1万1千年前、港川人が沖縄を経て鹿児島へと上陸し、日向や阿蘇などの各地に広がり、縄文人になっていきました。
    阿蘇カルデラ北辺山頂にある【押戸石】と呼ばれるヒエログリフ(神聖絵文字)を刻んだ古代祭祀遺跡が港川人が造った【シュメール文明のモニュメント】であって、他にも飛鳥の【酒船石】に似た【宇宙図岩】は、ユダヤ民族の秘儀といわれるカバラの生命の樹(セフィロト)すなわち神的属性の図を立体的(4次元的)に岩全体に刻まれています。
    さらにBC6000年頃、彼らが奈良の地に渡来し、胡沼の畔に竪穴式住居をたて定住しコロニーをつくりました。
    現在の【奈良盆地】は、その頃は盆地ではなく琵琶湖ほどの大きな湖だったといいます。
    その中に半島的にわずかに見えていたのが 三輪山とか大和三山(畝傍山・天の香具山・耳成山)でした。
    現在の間氷期よりも気温が高く、彼らは採取だけでなく、根菜やヒエ・アワビ・キビなどの雑穀栽培を行い、併せて狩猟・漁労などで生活していたようです。
    当時、三輪山周辺にピラミッド・巨石文化の遺跡が多く存在し、これは港川人たちが三輪山を御神体(アニミズム信仰)として崇拝していたからと思われます。

    +2

    -0

  • 786. 匿名 2016/04/28(木) 12:09:08 

    続き

    三輪山と天の香具山(人工的に造った聖地)を含む大和三山の関係は丁度二等辺三角形を形作っています。
    三輪山と畝傍山を結ぶ線が冬至の【日の入り】に当たる線になっています。
    そういう点で、縄文人というのは、【日の出・日の入り】といった天体観測を非常に詳しくやっていたようです。
    彼らの信仰というのは当時世界共通に巡っていた太陽信仰=蛇信仰なるものでした。
    鬼界カルデラの大爆発の後、生き延びた彼らは、メソポタミアへ向かい最古の文明とされるシュメール文明を担ったと考えられます。

    3500年前頃、フェニキア人、エブス人、ヒッタイト人らが タルシシ船で渡来し国東半島へ製鉄基地を築いて『殷文化圏』に鉄製品を供給し始めました。
    続いて3100年前、国東半島重藤の製鉄基地が発展して殷の東表国となり彼らフェニキア人らは宇佐八幡を都とし、タルシシ船の船長エビス王家のクルタシロス1世を初代王として東表国(豊日国)を建てました。日本書紀上、日本初の天皇とされる神武天皇の前に既に1000年間も続いていた天の王朝でした。

    弥生時代前期(約3000年前頃)になると、最初に出雲の簸川・日野川辺りから【タタラ製鉄】文化を持つヒッタイト人たちがやってきました。
    彼らは利根川支流・日川に沈殿し、川底に黒い帯となっていた砂鉄を採取してタタラ製鉄を行い、鍛鉄によって初代の神器となった宝剣を製作現存する鹿島神宮の【奥宮】後方にある石磐(要石)の上に安置しました。
    後代の神宮に祭られた鉄剣は2代目で、現在も神宝として大切に保存されています。
    因みに、鹿島神宮の要石は表面が凹型で、棒状の石柱が地中深く埋まっています。
    かつて水戸藩主の徳川光圀公が近習に掘らせましたが、掘っても掘っても底に達しないので遂にあきらめたと伝えられています。
    要石は一対ということで、もう一つを探すと、隣接する香取神宮奥宮の要石がこれに対比すると判明し、こちらは凸型の石柱でやはり地中深く埋まっていました。
    こうしたことから霞ヶ浦の神栖地域鹿嶋トライアングル(鹿島神宮・香取神宮・息栖神社)は超古代から開発された縄文人の聖地だったと考えられます。
    3社は、夏至の日の出線などの聖方位レイラインで結ばれた三角形を形作っているのです。
    ここは、ゼロ磁場らしい。ゼロ磁場とは、ふたつの同じ大きさの電磁力の磁界が、正反対(+-)の方向に向いたときに磁界が消えてゼロになるポイントのことです。
    実際にはふたつのエネルギーが二つの方向から常に加えられておりエネルギーがなくなったわけではなく、巨大なエネルギーが潜んでいると考えられています。
    多くの人が【気】(波動エネルギー)を求めて訪れるそうです。
    こうして約3000年前頃、ヒッタイト人たちが金属文化をもたらしましたが、同時に彼らとともに移住してきた農耕民の苗族たちは、常陸・下総をはじめ関東・東北地方の先住民(縄文人・オロッコ人など)を征服・教化し水田稲作農業の弥生文化を根付かせ拡散していったものと思われます。

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  • 787. 匿名 2016/04/28(木) 12:10:07 

    続き

    時代は下って、BC50年頃、ユダヤ人ガド族300名が対馬中央部の小船越のアマテル(天照)神社、領域より渡来しました。彼らは、鹿島灘にある明石海岸の大鳥居近くに上陸して椿神社(祭神は猿田彦命)を建て、猿田などにコロニーをつくりました。
    そうして、この地を常陸国の高天原と称し、はるばるシルクロードを東遷してきた天孫族(ウガヤ王朝族)が天降った(上陸地の砂浜に船を接岸し、浅い海に下り立ったことを【海(あま)降った】と表現した)聖地として【常陸の高天原】と呼称するようになったのです。
    記紀にいう【天孫降臨】説話は、これより始まったものと思われます。
    天照大神は、BC1060年頃、建国された【ウラルトゥ王国】の初代王アマテル(天照)神【アマテルノカミ】が本来の呼び名でした。

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  • 788. 匿名 2016/04/28(木) 12:15:19 

    カタカムナ文化を活かす

    上古代に於いては、どの民族でも未だ国家の形成は見られず部族単位の小集団によって社会が形成されていました。
    どの民族も神という概念は存在しませんでした。
    ほかの動物のように腕力もなく、走るに遅く、牙もなく身を守る堅い皮膚も持たなかった遠い先祖たちは只々、鋭い五感と第六感を働かせて、天災や外敵の来襲を素早く察知して、集団の力でこれに対処するほかに道はありませんでした。
    そして、特に優れた判断力と直観力を備えた人に部族の安全を託し、これを「ヲサ」として崇め、その指図に心から服従したのです。
    カタカムナのヲサたちは、やがて高い電位を持つ土地で男女が対向して念ずることによって、宇宙の響きに直結するヒラメキが得られることを悟り、これをアマウツシと称しました。
    そして高い電位(電気的な位置エネルギー)を持つ土地をイヤシロチといいました。
    彼らは、この目に見えない大いなる力(イヤシロチの電位、マグマ・エネルギー)に対し、ひたすらにれ、敬い、平伏す心を持って、只々部族の安全を守るためのヒラメキを求めたようです。

    カタカムナ人とは、縄文時代に日本列島に渡来したシュメール人でありヒエログリフ(岩文字)を書いた人がメソポタミアのウル人となり混血を繰り返しヘブライ人、サカ人月氏、秦人のなかに存在し、日本列島に渡来した後、賀茂氏、物部氏などになって一万年も前から祖先から伝え聞いた叡智を【先代旧事本紀大政経】に属して【カタカナム文献】を著したと考えます。
    サンカは、秦人の一部もなっていますので彼らが密かに後世に伝えたものだと思います。

    カタカムナ人が捉えた【物質】【生命体】【時間】【空間】を書いてみます。

    物質世界と精神世界は一体のもので、宇宙のすべてのモノの始まりが素粒子で、その集合体としての宇宙の気が凝集して目に見えない核をつくり、これが宇宙球を創り、万物万象の元になっていて、それをカムナという目に見えない力が支配しているとしています。

    素粒子のマリと呼ばれるカム(目に見えないチカラが無限に広がる世界)無元量で、このマリから電気、磁気、力、時、空間の5つの素量ができるといいます。
    そしてこの中の電気、磁気、力の3つの素量からできるモコロという素粒子から物質や生命体が創られていること、イノチは5つの素量の粒子が変遷し連帯するものといいます。
    ココロ(心)とは、思念のあるマリからできた物質であると言っています。
    即ち、宇宙空間に実在するものも、精神や思念、心などの見えないものもすべては究極の超微粒子=素粒子の働きでありその存在の仕方によるものであることが理解されています。
    カタカムナも量子力学も、物質世界は目に見えない精神世界(潜象世界)との2重構造になっていて、心はその見えない部分であるオーラ(気)にあると言います。

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  • 789. 匿名 2016/04/28(木) 12:18:27 

    続き

    では、その生命エネルギー体であるオーラ(気)の構造はどうなっているのかを見ると、原子核を元にしているといいます。
    素粒子が回転しながら結合して中性子、陽子、電子ができ中性子と陽子が回転しながら結合して原子核がつくられます。
    この原子核に電子が結合して物質化するのですが電子が結合せず物質化していない原子核だけが回転しながら結合を繰り返して物質化せずに物質との2重構造をつくっているものがオーラと呼ばれるものであると言います。
    【心】は脳にあるのではなく、このオーラにあり、脳はそのプログラム(指令)に従って働くコンピューターのようなものと考えることが適正なようです。
    なので、思考や言葉は波動によって現実をゆっくり変えていきます。
    ネガティブの言葉癖のある人は、ネガティブな人生を引き付けポジティブな言葉癖はポジティブな現実を引き寄せ易いと思われます。
    物事を肯定的に捉え、前向きに行動していくうちに、オーラ自体がゆっくり変わっていきます。

    時間と空間は、相互いに転換し、電気・磁気・力などの集積した素粒子に正進したり反転すという循環を常に続け、膨張したり収縮したりしかもその逆性が共存していると捉えています。
    日本人は【間がもてない】と云って時間を【間】「マ」と表現します。
    また【土間】や【すき間】などのように空間も【間】「マ」と表現します。
    これは、古代人が原子を【マ】とし、その微分化された素粒子を【マリ】と云ったことからきているようです。
    カタカムナ人によれば、【空間】は、何もないのではなく【マリ】で出来たものということになります。
    死というのは、肉体の滅亡ではなく、物質(肉体)から生命エネルギー(オーラ・気・魂)が離れた状態を指していると考えられるようになっていますし、カタカムナの人たちもそう捉えていました。 
    カタカムナも最先端の科学者もこの点では同じ答えを導き出しあらゆる物質には生命エネルギー体が宿り、心があるといいます。
    その生命体は生物の方が強く大きく働いており石などの無機質なものは弱いことも明らかにしています。
    カタカムナ文献では鉱物ほどモコロの内の生命系が少ないといっています。

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  • 790. 匿名 2016/04/28(木) 12:23:28 

    西郷さんは南海人

    天の王朝(東表国・豊日国・金官加羅国) とはBC800年頃、タルシシ船でコーサラ国を経て九州に東表国を建てた日本最古の王朝。
    エビス王クルタシロス(首露王)のエビス王朝ですがクルタはタルシシ船支配者の意味。
    エビスはエレサレムのエブス人です。エブス人もオッフル人も紅海とアラビア海の海人でした。
    のち邪馬壱国に敗れるまで、九州全域を1000年間支配し、譲った後、朝鮮半島の弁辰地域の金海を飛地として支配し駕洛国・金官加羅といわれ、その王家は金氏と中臣氏になりました。
    この王家は【記紀】では孝昭、孝安、孝霊、孝元、開花とつづき、後の倭の五王に至ります。
    この王家から金氏が分離して【新羅】をたてます。

    BC1300年以降、殷墟にトウテツ文様の青銅器が現れ、国東半島から東洋一の製鉄遺跡が発見され、付近には多数のトウテツ文様青銅器が発掘されました。
    エルサレムのエビス人は、フェニキアやエジプト人と共に船団を率いてマレー半島を廻って山東半島まで到達し、その後、北九州国東半島に到達し、香春山の銅鉱石を採集し製鉄基地をたてて、殷の青銅の原料にしたのです。
    国東や出雲は一年間にこの人々が採集した鉱石を神無月に集め、フェニキア船によって出荷する航海基地でした。
    ゆえに日本列島最古の縄文王朝は【エビスの命】を祖王とするエブス人の王家なのでした。
    薩摩国に伝わる【伊集院文書】はイシン→イジュイン族の史書であって西郷隆盛らは伊集院一族の末であり、島津は元来、エブス・イシン人の伊集院王家の水夫長であったとなっています。島津の旗印は南十字星で、この人々が南海族であることを示すといいます。


    国東半島にはエビス王家の蛇神信仰を伝えるトウベウ(東表)信仰とともに扶余のオモタル神(獅子頭大鷲神のニンフルサグ)を伝える犬神信仰が共存します。
    ここでは獅子頭を犬によって表すのですが宇佐八幡の秘儀として、盲目の僧が歌う一座経に、この犬神信仰が残されています。後の犬神人は、このシャーマンですが中国の盤古説話も同じ系統に属します。
    サカ族の族長シャカが、バラモン教を借りて仏教をつくると、仏教はサカ族の間に急激に浸透し、旧来の犬神信仰に代わるのです。
    しかし今日でも八幡神社のあるところには犬神信仰があり、それとともに蛇シャーマンのトウベウ信仰が隠されて残っていて、例えば滋賀県犬上郡は、もと犬神郡と書き犬神信仰の中心地でした。エジプトのスフィンクスなども犬神ですが、犬戎とは獅子頭有翼のニンフルサグ神の一族であることを示しています。

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  • 791. 匿名 2016/04/28(木) 12:25:15 

    続き

    BC1013年、バビロンのイシン国の末期に、フェニキア人のマカン(海の国)がウラルトゥと共にアッシリアと戦い、その結果、アッシリア王シャルマネサル2世の攻撃でイシン(殷の本国)が滅んだため、番韓のヤードゥは海からインドに逃れ、ウラルトゥは北方ヴァン湖周辺に退きシャキイ族(カルデア人・穢族)は南下して後に宛の徐氏になりました。
    この時、カルデア人は、アッシリア軍に捕らえられていたイシン王族・子叔箕シャを奪い返し遥々航海して渤海に至り、遼東半島に上陸して国を建て【奇子朝鮮】と名付けました。
    【奇子朝鮮】は金姓で太陽神の金牛をトーテムとすイシン末のアラム族です。この後、アッシリアに抵抗して亡命した海の国カルデラ人(サカ族・穢族)の昔姓王家が扶余国を月氏族で朴姓のアメニギ氏が辰国をたてて三国が擁立しました。
    衛満朝鮮によって箕子朝鮮が滅亡した後、南海系穢族の王アグリイサトは扶余前期王朝に合流し、やがて強力になり扶余後期王朝になり、東明王と称しました。
    そのため、月氏+ウラルトゥ王朝、シルクロード系の前期王朝は、・エゾの地へ移動し東扶余を建て、その子孫に仇台が出て九州に渡来して神武天皇になりました。

    【神武王朝】と【天の王朝(考安王朝)】とは対立した王朝で、しかも考安は長髄彦(ながすねひこ)と同盟して神武と戦ったと津軽半島に伝わった【東日流外三郡誌】に記されています。

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  • 792. 匿名 2016/04/28(木) 12:30:05 

    倭人

    倭人のことが初めて書かれた、山海経、海内北経は【葢国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。】と記しています。
    葢国とは、穢(カイ)国と考えられますが、倭という民族は、北は高句麗領域から、南は日本列島に至るまで大きく広がっていたのです。
    そして、そのうちの楽浪海中の倭人が、時折、楽浪郡か燕を訪れて挨拶していたことになります(漢書地理志、燕地)。
    燕は箕子朝鮮のことです。

    魏志鮮卑伝には、【鮮卑王、檀石槐が烏侯秦水までやって来たが、川に魚が見えるのに捕えることができない。
    汗人が魚を捕えるのに巧みであると聞き、東方に軍を出して汗国を討ち、千余家を捕えて烏侯秦水のほとりに移住させ、魚を捕えて食料不足をしのいだ。
    今に至るまで、烏侯秦水の付近には汗人数百戸が住んでいる。】という注が見られます。
    この汗人は干人(呉人)とも、干(カン)は呉の別表現とされ、呉越は干越と表記されています。
    時代は後漢の霊帝、倭国大乱の頃。
    後漢書では、この汗人が倭人に置き換えられているのです。
    中国、春秋時代の後半、長江河口部には「呉」という国が栄え、南方の「越」や西方の「楚」 北方「斉」と激しく対立していました。
    長江河口部北方、呉の領域に干という地名が存在したようです。
    これは【呉越同舟】で知られる「呉」の国のことです。

    そもそも神武時代には未だ朝鮮人も日本人も存在せず、朝鮮半島南部と九州とはワンセットの文化圏でした。
    『隋書』百済伝は【百済の人には新羅、高句麗、倭などが雑っていてまた中国人もいる】と記されています。
    これより先、朝鮮半島には、ツングース、オロチョン、モンゴロイド、チュルク族など、穢族や伯族、韓(三韓族)、倭人(北倭)がいました。
    このうちの北倭と扶余族=ウラルトゥ(ウガヤ)人=神武が共同して、百済を建国したのです。
    現皇室の祖、神武たちは船に乗って、朝鮮から北九州へ渡来し、邪馬壱国を建てたのです。
    【日本書紀】は道臣命が神武軍団の指揮官として大来目(おおくめ)を率いていたと記していますが、大来目とはメコン流域のクメール人のことです。
    倭人とは秦の始皇帝に追われ、東北(満州)に移動して「北倭」となり扶余族に率いられて九州に渡来。日本列島の先住民や「南倭」と混血し近畿の秦王国とも合流して日本列島全体に拡散していったのです。

    神武天皇というのは、中国東北(満州)から朝鮮半島を経て南下した扶余族の
    タケミカヅチのことです。その神武天皇率いる扶余族は北倭人であり、
    3世紀初頭に南倭人(東表国・先王朝、天の王朝)と戦い、博多近辺に伊都国を建てました。
    卑弥呼は神武の妻であり、実家はユダヤ系亡命者である公孫氏でした。
    その公孫氏の建てた国が日向・西都原(さいとばる)であり、卑弥呼は都をここに移して統治しました。

    神武天皇というのは、中国東北(満州)から朝鮮半島を経て南下した扶余族のタケミカヅチのことです。
    その神武天皇率いる扶余族は北倭人であり、3世紀初頭に南倭人(東表国・先王朝、天の王朝)と戦い、博多近辺に伊都国を建てました。
    卑弥呼は神武の妻であり、実家はユダヤ系亡命者である公孫氏でした。
    その公孫氏の建てた国が日向・西都原(さいとばる)であり、卑弥呼は都をここに移して統治しました。

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  • 793. 匿名 2016/04/28(木) 17:58:33 

    日本人のルーツの詳細が判ってきましたね(^o^)
    素晴らしいです

    トピが閉じる日はまた週末だし、ゴールデンウイークなので大幅に伸びたら良いのにな
    *☆*(・ω・)*☆*

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  • 794. 匿名 2016/04/28(木) 19:48:29 

    >>793
    前回もでしたが終わりが近づくと寂しいですね。
    最後まで付き合って頂きありがとうございますm(__)m

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  • 795. 匿名 2016/04/28(木) 23:26:31 

    >>794
    いつも教えて頂き感謝してますm(_ _)m
    トピが閉じた後の喪失感が辛いです

    トピのお題『超古代文明』
    アトランティスはメキシコ湾だと思っています
    中米には“エル”がつく地名が異常に多いです。きっとエル神の地だと思います
    また、アトラスが立つ地の果ての向こうの大洋には島があり、ニュクス(夜)の娘達とされるヘスペリデスが、ゴルゴン族の傍らで黄金の林檎を守っているとされる…この島は日本ではないでしょうか
    京都の下鴨神社『御蔭祭』…御蔭とは光の古語だとされますが、その当て字はどう見ても影を示しています。夜を信仰していた時代があったのではないか?ゴルゴンはナーガ族…となると黄金の実は日本にありそうなのです

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  • 796. 匿名 2016/04/29(金) 04:50:41 

    >>792
    む、むずかし…

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  • 797. 匿名 2016/04/29(金) 09:00:52 

    >>785
    黄金の実・・・
    黄金の林檎(おうごんのりんご)は、さまざまな国や民族に伝承される民話や説話の果実である。

    よく見られるのは、醜怪な敵役が隠したり盗んだりした黄金の林檎を、ヘーラクレースやファト・フルモス(英語版)といった英雄が取り戻すという主題である。あるいは北欧神話のように、黄金の林檎は神の食べ物、また不死の源として描かれている。

    印欧語で"Apple"は果実全般を指す語である。「黄金の林檎」という語も、必ずしも現代で言う林檎を指すわけではなく、「黄金の林檎」と同一視されるのは他の果実であることが多い。

    とあります。
    ギリシア神話では「3つの黄金の林檎」の話が、ギリシア神話に登場している。狩人のアタランテーがヒッポメノスを相手に争ったとき、ヒッポメノスは黄金の林檎を使ってアタランテーの気を逸らし、彼女に勝つことができたという。
    アタランテーとアトランティス関係あるのでしょうか?

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  • 798. 匿名 2016/04/29(金) 09:03:05 

    >>796
    すみません・・・

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  • 799. 匿名 2016/04/29(金) 09:51:13 

    扶余族

    日本人のルーツ、ウガヤ王朝はアッカド人とラガッシュ人(フツリ人とウル人の混血)の連合部族でこの王朝が後にウラルトゥ国を建てました。
    アッカド人の出自に関して最も有力な推測は、BC4000年以降のハラフ高地に自然銅を運んだカスピ海周辺の人々だと考えられます。
    ハラフ文化は、東はヴァン湖から西は地中海におよびその年代はBC5000年の末と推定されます。

    アッカドのサルゴン王朝は、BC3000年頃のアッカド人の民族移動の後BC2360年頃、バビロンを支配しましたがBC2190年から2120年にかけグート人がシュメールからアッカド人を追放し、その時に、アッカド人と共にインダス渓谷に亡命したウルの月神の一族がチベットに於いて月氏になりました。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    ウラルトゥ王国を建てた後、スキタイやアッシリア系印欧語族に追われ、キンメリ人やチュルク人と共にバクトリアに逃れ、さらに華北に移動し、ここで秦に伐たれたため、満州に入って扶余国の前期王朝を建てました。
    そして穢王アグリイサシが扶余と合体して自ら東明王になって後期王朝を建てました。
    この時、前期王朝は東扶余に移り、後に扶余王仇台は公孫氏と同盟して南下し、馬韓の帯方、いまの京城に伯済国を建てましたが公孫度の娘、卑弥呼を娶って公孫氏に帯方の地を譲り、北九州に上陸して伊都国を建てました。
    仇台は伯済国では百済の始祖仇首になり、伊都国ではイワレヒコ、後の神武になりました。

    後期王朝はインドから一旦河南省の宛に入り、そこから満州へ来た穢族です。
    この人々はウルのカルデア人のことです。BC1530年、ヒッタイトがハムラビ王朝を倒した後、カッシート人王朝ができたため、バビロニアを 【カルドウニアシス】と呼び後世【カルデア】と呼んだのです。ウンマ王ルーガルザグギシとグート人の王シャルラク に始まり、バビロニアのカッシート王朝となり、さらにそのカッシート人がバンヂャップに入って後期ヴェーダ時代に、インド十六王朝のなかのクル国になった後、カルデラ人の子孫のプール族と合体してガンガ流域に移り、ベトナムの文郎国を経て中国大陸の河南省に移民した国家です。
    BC1000年紀のインドは、ガンジス流域を中心にして十六王朝があってカッシート人を中心とする月神王朝とアラビア海の海商を中心とする日神王朝系に分かれていました。
    月神王統は、カッシート人の亡命者が主流なので中国史の大月氏と同じルーツから二分したものです。
    月神王統の諸国からマガダ国が次第に頭角を表してついにインドに統一王朝を建てましたがマガダ国力を支えたのは、この地のインド最大の製鉄地域でした。
    マガダの製鉄はヴォラテイアという漂白の民によってなされていたといいますが彼らは、サカ族系であったといいます。
    また東の方、メナム河の流域に、ドバラヴァティというモン族の国家があり吐火羅あるいは堕羅と書かれ、モン族は自らタラインと称していました。
    この吐火羅人は、月氏系ですが、この月氏は、中国史の月氏ではなくインドから入った月神王朝、すなわちカッシート人の子孫のクル族のことです。
    インドネシアで発見された銅鼓には月氏の絵があって、これはインドの月氏であったようです。
    インドに入ったカッシート人とサカ族は、それぞれクル国とプール国をたてて合流し、のちにメナム流域のモン族を支配した吐火羅国をたて、さらにベトナムで文郎国をたてた後、阿南省の南陽に植民して製鉄基地をたてたと考えられます。
    マガダの都は、ガヤで、中国では、これを伽耶と書き、これが朝鮮の駕洛諸国の語源になったらしい。
    十六王朝の時代に、サカ族は、アソカ国をたて、コーサラ国では釈迦を生みさらに、マガダ国の製鉄部族になりました。


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  • 800. 匿名 2016/04/29(金) 09:53:25 

    続き

    国史のニギハヤヒノ命である穢国の王、アグリナロシはプール族の王でした。
    アグリはインドの製塩カーストのアグリアーを意味します。

    ------「通典」の穢伝より------

    穢人はその性質が慎み深く誠実で、貪欲なところが少なく、恥というものを知っている。

    衣服は男女ともみな円い襟をつけ、男子は広さ数寸の銀花をつけて飾りにしている。

    穢人の習俗では、山川を重んじ、山にも川にもそれぞれ邑落ごとの区域というものが

    あって、みだりに立ち入ることが出来ない。同族内では婚姻せず、タブーが多い。

    病気にかかったり、死者が出たりすると忌み嫌って、すぐさま旧い居宅を棄て、新しいのを

    作る。麻を栽培して養蚕し、綿・布を作ることを知っている。星宿をうかがうことに聡く、その

    年が豊作かどうかを予め知っている。珠玉を宝物としない。また虎を祭祀してこれを神とし

    ている。穢人の邑落、相互の間で侵犯することがあれば、直ちにその双方を罰して

    生口・牛馬を取り立てるが、これを「責禍」(虎神様のお咎め)と称している。盗みをする者

    は少ない。矛は三丈もの長さがあって、時には数人でこの矛を持ち、巧みに歩戦する。

    かの有名な【楽浪の壇弓】というのは穢の地で産出されたものである。


    穢族または国史のニギハヤヒ一族には、青い目の人々もいたらしい。
    平安時代から村はずれに天部、余部などという部落があって元来は天の王朝の人々の部落でした。
    新羅の奈良王朝を破って百済人が平安王朝を建てた時その圧制の下で家を捨てた人々が、この地に次々と入り込んできました。
    山形県の余目も最果ての余部と考えられますがここには青い目の人々が多いのです。
    あらゆる文化が辺境に、辺境にと逃れるように、天部の純粋の形態は東北地方に残ったようです。
    天の王朝一族は、ニギハヤヒ族の他、東表国・金官国の中臣族、公孫燕・邪馬壱国の大伴族などもありますが、このような青い目の人もいたかもしれません。

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  • 801. 匿名 2016/04/29(金) 09:59:35 

    二大王朝 秦王国 倭国

    秦始皇帝に焚書坑儒で生き埋めにされた孔子・孟子の末裔、ガド族・猿田彦命らは始皇帝末裔、シメオン族大国主命らに神聖な神殿を徹底的に破壊されました。
    平原遺跡から世界最大の鏡などが39面、その他80面位の鏡が出土しましたがそれらが粉々に砕かれていました。
    そうしたなかで伊勢国が滅びて委奴国が建てられ族長である大国主命が金印をもらったようです。
    【かんのわのなのこくおう】というのは【かんの委奴の国の王】という意味で人偏は付いていない。
    (倭ではない)すなわち、伊勢国が滅んで委奴国に変わり、この委奴国を滅ぼして登場するのが神武であり、その神武が築いた国が伊都国でした。その神武らが委奴国の大国主命を射殺していく話が【記紀】では国譲りとなって書かれたとうのが真相と思われます。

    神武に討たれた大国主命の末裔・ユダヤ系シメオン族らが奈良盆地に東遷し先住していた東?国のガド族猿田彦らを滅ぼして建てたのが秦王国(ユダヤ王国)です。
    その中心であるシメオン族が女子しか生まれず婿養子をもらったためにレビ族王家に変わって、そのなかで出てきたのがアメタリシヒコという天子で、隋に「日出でる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」という国書を渡し【対等な交渉を望む】ということをやった人物でした。
    アメタリシヒコの父の時代6世紀頃、秦王国の分国が中国地方に【文身国(後の播磨国・吉備王国)】を建て関東地方に【扶桑国】として建てた鹿島神宮。
    この扶桑国の王の末裔が、壬申の乱の後、藤原不比等の系譜につながります。

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  • 802. 匿名 2016/04/29(金) 10:02:48 

    続き

    神武のルーツ、ウガヤ王朝はアッカド人とラガッシュ人(フツリ人とウル人の混血)の連合部族で、アルメニアに、ウラルトゥ国を建てました。
    ウラルトゥ王朝は、オリエントでアッシリア帝国と覇を争いキンメリ人と連合してシルクロードを東遷し、後に扶余王となって満州の地に君臨しソロモンとシバの女王の子、メネリケの子孫である大物主一族(公孫氏)と同盟して邪馬壱国を建て、さらに百済国を建てました。
    扶余には、月氏+ウラルトゥ王朝、シルクロード系の前期王朝とインド経由の穢国、南海系の後期王朝がありました。共に製鉄部族です。
    箕子朝鮮が滅亡した後、南海系穢族の王アグリイサトは扶余前期王朝に合流しやがて強力になり扶余後期王朝になり、東明王と称しました。
    そのため、月氏+ウラルトゥ王朝、シルクロード系の前期王朝は、・エゾの地へ移動し東扶余を建て、その子孫に仇台が出て九州に渡来して神武天皇になりました。
    朱蒙は東扶余(北扶余前期王朝)に追われて、北扶余後期王朝(穢国)の陜父らと共に卒本に逃れて高句麗をたて、北扶余後期王朝(穢国)を奪って高句麗国をたてました。
    このために陜父らは九州に亡命し多婆羅国をたてるのです。
    扶余王家は、167年頃、夫台が高句麗と戦い、その子仇台は、高句麗と和解し高句麗の養子になりその王族と化してケイ須といいました。
    後に自立し、公孫氏と同盟して、その宗女を娶り、公孫度は逆に扶余の王女を娶りました。
    公孫氏が南下して帯方郡を建てるとケイ須もその地に至って伯済国をたてた後に百済王仇首といいました。
    この仇首が伊都国王イワレヒコ・神武であり、その妃、卑弥呼は公孫度の宗女で日向にいました。
    高句麗は新大王の長子、発岐が公孫氏と同盟し涓奴部を率いて遼東に都したため、三子、延優らは輯安に移って新国をたてました。
    後に魏によって公孫氏が滅亡した時、発岐一族の旧国は新国に合流しました。
    扶余王家は仇台、位居、麻余と続き、依慮はその末王であり、百済の近肖古王になって鮮卑の慕容カイに討たれて亡命南下し、伊都国の王、祟神になりました。
    そして660年、新羅の協力を得た唐に敗れ、都の扶餘が陥落し滅亡します。
    その後、残存勢力が再興を図って倭国に救援を求めてきます。倭国は直ちにこれに応じ、水軍2万7千を派遣して戦いを挑む。663年、白村江の戦です。
    しかし、志空しく唐の水軍に敗れ、百済は完全に歴史から姿を消します。
    この時、九州の倭国・奈良の秦王国も新羅・唐勢力に敗れ、占領されたと考えられます。

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  • 803. 匿名 2016/04/29(金) 10:12:38 

    ユーラシアを移動してきた日本人

    約4万5千年前から1万年前は後期旧石器時代といいます。
    後期旧石器時代では、ユーラシア西部と東部の人々は同じような生活を送っていました。
    ユーラシアのステップ(草原)を駆け巡って同じ動物を狩り同じような気候の移り変わりに耐え忍んでいました。
    しかも、ユーラシア西部の集団も東部の集団も実はインドに到達した移動者をルーツにもっていました。
    後期旧石器時代が始まった4万5千年前頃、両集団はある程度接触しこの遠い昔の結びつきがミトコンドリアDNA系統のXという女系。
    Xの娘たちはインドで分かれて別の方角へ移動していきました。
    その内北西に向かった者が現在のヨーロッパ人になり北東へ進んでシベリアから陸橋を渡ってアラスカに達した者が現在のアメリカ先住民になりました。

    後期旧石器時代の人には新しいものを作り出す能力がありトナカイの群れを追ううちに入り込んだ凍てつくユーラシア北部でも、たちまち生活できるようになりました。
    トナカイは、どこまでも続くユーラシアのツンドラを移動していました。1000年の間、気候や環境が変化するつどトナカイはマンモスに代わり、マンモスは大きな角をもつ鹿に交替しまたトナカイに戻りました。


    日本人の起源は、約3万年以上前まで遡ることが証明されています。
    宮城県の薬莱山麓には旧石器遺跡があって、その遺物にはナイフ形石器、石斧があり隆線文土器、石刃なども出土しています。このように旧石器の中に土器が混じっていることから旧石器人と縄文人が同族であることが分かりました。
    ●3万年前~1万4千年前頃になると、石材は黒曜石、頁岩、サヌカイトなど、鋭い石の刃物に柄をつけた文化的な工具になっています。
    この頃の石器はヨーロッパの旧石器文化 と共通であって近隣国の中国大陸の文化に似ていないといいます。
    ヨーロッパからやって来て、日本列島で誕生した旧石器文化と考えられています。
    1万4千年前~1万2千年前頃になるとナイフ形石器が消え、細石刃が現れます。
    この石器は、日本列島で発生したものではなく、大陸からやって来た文化で、北欧から沿海州、そしてアラスカまで広がっています。
    北海道の渡島半島の美利河遺跡から墳墓が発見されビーズが7つほどでてきましたが、これはシベリアのものらしい。シベリア大陸の細石刃文化が海を渡って北海道に上陸したものと考えられています。
    石器時代には、日本列島に定着する種族が、アジア大陸だけではなくヨーロッパ大陸からも自由に交流し、渡来した人種もモンゴロイドだけではなかったようです。
    彼らは、寒気になると南方に大移動し、暖気になると北方に移動していたのでした。
    縄文時代になると日本列島は温暖となり孤島となり、様々な氏族がバイカル湖などから何回にも分けてアムール川を下りました。
    そして沿海州に集結したと思われます。またモンゴル高原を経て南方地方に散り、後、暖流によって筏や丸木舟によって流されて日本列島に到達したらしい。
    北方系はウラジオストクから筏などに物資や犬などを乗せて直接に日本海側に上陸したようです。
    秋田県平鹿郡山内村筏という所には筏隊山神社があって、その名残と思われます。
    羊の革袋をいくつも繋いだ筏であって、動物も乗せていたことがわかっています。
    これらは、ほとんど海流のままに辿り着いたようです。
    東シナ海から北上する黒潮の流れは九州にぶつかって日本海側と太平洋側に分かれます。対馬海流と日本海流です。
    ところが日本列島には北極海から南下してくる寒流があります。
    環日本海では沿海州沿いに南下するリマン海流があり、この流れは朝鮮半島の北側に沿って流れ対馬海流にぶつかります。
    したがって、仮にウラジオストクから対岸である日本列島に渡ろうとしても、まず朝鮮半島方面に流され、ついで日本側に流され、今度は対馬海流で北に流されます。
    そして、出雲・若狭・能登・佐渡・男鹿・渡島などに漂着します。

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  • 804. 匿名 2016/04/29(金) 10:13:00 

    続き

    したがって、朝鮮の北側と裏日本には秋田美人そっくりの人々が現在でも見出すことができるそうです。
    長身で透きとおる肌色の人々は北欧系に多い。
    ウラル山脈の東と西にはモンゴル人とアーリア人がいるので、古代のウラル山地の人々は、次第に混血してアーリア的モンゴル人もいたと考えられます。
    その一族が黒海の北側からカスピ海、ウラル海、バルハシ湖沿いの草原の道を越え、アルタイ山脈を越えてモンゴル高原に至る道をもっていました。
    その近くにバイカル湖があるから、おそらくアーリア的モンゴル人も縄文前期頃、アムール川を下り、ウスリー川を経て、ウラジオストクから日本海側に辿り着いたと思われます。
    それが秋田美人であり、古代に白鳥神(トーテム)をもつ氏族だったのではないか。
    3万年前から一万4千年前頃の旧石器文化は北欧から沿海州、そしてアラスカまで拡がっていたのでした。

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