ガールズちゃんねる

身近な人から聞いた戦争の話

146コメント2015/08/31(月) 11:54

  • 1. 匿名 2015/08/14(金) 15:51:13 

    おじいちゃんやおばあちゃん、身近な人から聞いた戦争体験のお話はありますか?

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  • 2. 匿名 2015/08/14(金) 15:52:35 

    命令されて戦場に行った人や、被害にあった国民の話より
    命令した側の人の話が聞きたいな。

    +181

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  • 3. 匿名 2015/08/14(金) 15:52:41 

    身近な人から聞いた戦争の話

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    -5

  • 4. 匿名 2015/08/14(金) 15:52:46 

    +45

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  • 5. 匿名 2015/08/14(金) 15:56:07 

    もう死んじゃったおじいちゃん。

    テレビを見てちょっとうたた寝してる時、ひどく寝汗をかきながらうなされてた。

    「おじいちゃん、だいじょうぶ?どうした?」と聞いたら、「また、戦争で人を撃つ夢を見た」って。

    何度も何度も繰り返し、同じ夢を見るって。人を殺す夢を見るって。

    生きて帰ってきても、一生苦しめられているのだと思った。

    +414

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  • 6. 匿名 2015/08/14(金) 15:56:24 

    戦後、発展途上国だった日本が各国の援助で先進国にまでなった
    パンや物資を無料で配布され、なんとか生き延びたってことを聞いたことがある。

    +145

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  • 7. 匿名 2015/08/14(金) 15:57:42 

    じいさんから聞いた話
    「オヤジ(じーさん)のオヤジ(じーさんのお父さん)は戦地で逃げ回ってたから生き残った負けるが勝ちだたとえそれで殺されても人殺しをしなかった方が人間的に勝ちだと言っていたな」
    と言ってた
    会ったこともないひいじいさんの話だけど
    でも実際はそういう人はすぐ射殺されてたみたいだからひいじいさんよっぽど運が良かった

    +174

    -7

  • 8. 匿名 2015/08/14(金) 15:58:48 

    戦後の左翼史観で、指揮した軍人さん、戦争に行った兵隊さんたちは肩身が狭くなり
    貝のように心を閉ざしてしまわれました。

    犯罪者のような目で見られることを恐れてです、嘆かわしい国です本当に

    +155

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  • 9. 匿名 2015/08/14(金) 15:58:58 

    うちの 死んだ曾祖父ちゃん 朝鮮戦争で馬に乗ってたと
    耳にタコが出来るくらい聞かされた
    戦車じゃなくて馬に乗ってたんだね

    +124

    -4

  • 10. 匿名 2015/08/14(金) 15:59:22 

    6 戦後日本が発展途上国だってこと忘れてるひと多いよね。

    +126

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  • 11. 匿名 2015/08/14(金) 16:00:52 

    鹿児島県の鹿屋基地の資料館見にいったら、外に展示してある練習機に実際搭乗した事あるって言う神戸から来た年輩の男性がいた。

    まさか自分が乗った事のある機が飾ってあるなんてなぁー。自分は整備兵だったけど、パイロットの人はどうしたかなーと懐かしがっていた。

    展示物に実際乗った事がある人に会った事がなかったから驚いた。

    その方がカメラを持っていたので、その練習機と一緒に写してあげた。いい記念になれば良いな。

    +126

    -8

  • 12. 匿名 2015/08/14(金) 16:01:06 

    昔小学生のときに身近のおじいちゃんおばあちゃんに戦争の体験を聞いてくるって宿題があったなぁ
    うちは祖母が戦争経験していたので話を聞きました。
    そんな祖母は昨年88歳で亡くなりましたが…
    生き証人て貴重な存在ですね

    +167

    -2

  • 13. 匿名 2015/08/14(金) 16:01:29 

    あります。87歳の祖母が言っていました。
    戦争時代は米農家だと比較的食べ物には困らなかったそうです。
    女学校にも通っていましたが、戦争時代は飛行機の部品を作る工場にみんなで出向き、働いていたそうです。
    戦争が終わった日に、友達と温泉宿に行ってたそうで、日本が負けて戦争が終わったから、今からアメリカ兵がたくさん上陸するので、レイプされたら大変なので早く家に帰りなさい。
    と教えられ家に慌てて帰ったそうです。
    当時祖母は17歳でした。

    +174

    -1

  • 14. 匿名 2015/08/14(金) 16:01:43 

    さっきミヤネ屋で丸々戦争の話だったけど、
    今更ながら、色々知りたいと思った。
    正直今まで、しっかりと勉強したことなかったから。

    +195

    -1

  • 15. 匿名 2015/08/14(金) 16:03:31 

    聞いてはないけど昔の写真におじいちゃんが戦地の部屋で撮ったのかな?
    ベッドの後ろに剣や槍みたいなのが映っている写真がある。
    後おじいちゃんが銃を持った写真。
    場所は明らかに外国。
    後鳩が兵隊になる鳩兵のための鳩を飼っている写真もあったよ。

    +68

    -1

  • 16. 匿名 2015/08/14(金) 16:03:42 

    北方領土から逃げてきた叔父さんの話
    女の人は悲惨だったと言っていました

    +109

    -2

  • 17. 匿名 2015/08/14(金) 16:03:45 

    おじいちゃんは、消防士だったので戦地には行かず日本の地を守ったようです。火が回れば消化に駆け回ったそうです。
    戦地だけでなく、日本国内でも戦った兵士がいたんだなと思いました。

    +178

    -5

  • 18. 匿名 2015/08/14(金) 16:04:03 

    9
    其れは『騎兵隊』『騎兵』だからエリート部隊。ニューヨークなんかは今でも騎馬警官が居ます。

    +28

    -4

  • 19. 匿名 2015/08/14(金) 16:04:20 

    祖父はパイロットをしていたけど病気になり戦時中、地上での連絡?係に配属されたらしい。
    戦後母が生まれたので、もし祖父が戦時中病気じゃなかったら、私はこの世に居なかったかも知れない。

    +109

    -3

  • 20. 匿名 2015/08/14(金) 16:04:40 

    今年亡くなった祖母からききました。
    お母さんが赤ちゃんをおんぶしていて、赤ちゃんだけ銃で撃たれた場面だけは忘れないって言ってた

    +151

    -0

  • 21. 匿名 2015/08/14(金) 16:04:48 

    祖父から戦争の話を聞きました。
    特攻隊に志願して立派に死ぬと本人は思っていたらしいけどなかなか自分の出撃の番が回ってこないで毎日やきもきして、やっと出撃出来ると思ったら飛行機に不調が生じてやむ終えず引き返したら教官に臆病者と罵倒されながらボコボコに殴られたと。
    毎日死んでいく戦友達がうらやましくもあり同時にずっと怖かったと言っていました。
    8月19日に再び出撃の予定でしたが終戦し帰ってきて恋仲だった祖母と結婚したそうです。

    なんの因果か19日に私が出産予定日で祖父母にとって2人目のひ孫が生まれます。
    生まれてくる子供と上の子には祖父から聞いた話をしっかりと語り継ぎます

    +199

    -9

  • 22. 匿名 2015/08/14(金) 16:05:11 

    14
    私も見ました、無知な女子アナとかゲストとかいなくて、なかなか観やすかった。

    ミヤネ屋苦手だったけど、少し見直した。

    +124

    -4

  • 23. 匿名 2015/08/14(金) 16:05:13 

    うちに古い本棚に古い本がたくさん詰まってました。
    中に赤紙が挟まってました。
    戦地から送られたサソリの写真もありました。
    祖母に聞いたらこの家の親戚が戦争に行っていたそうで、そこから送ったものだそうです。
    本家なので、そのまま残っていたそうです。
    あとビルマで作った杖もうちにあります。

    +88

    -3

  • 24. 匿名 2015/08/14(金) 16:06:43 

    空襲警報が鳴っても、いつも通り大丈夫だろうと高を括って家で本を読んでいた祖父。
    寝転んで読んでいたら、本に穴が。空襲の弾が貫通したそうです。少しでもずれていたら…と今でも言っています。
    避難しなかった祖父も祖父ですが、日常が一瞬で変わってしまう戦争の恐ろしさ。
    今日ミヤネ屋の硫黄島の特集も見ていましたが、戦争は絶対ダメ!!!!

    +154

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  • 25. 匿名 2015/08/14(金) 16:07:57 

    山暮らしのじーちゃん、終戦間際とうとう山奥にも赤紙が届いて兵役検査を受けた。
    肺炎を患ったばかりで極度に痩せて体力がなく、検査ではねられ兵隊になれなかった。
    新婚だし、不謹慎だけどばーちゃん喜ぶと思ったら「ご近所に後ろ指さされる」と泣いたのでショック!

    +144

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  • 26. 匿名 2015/08/14(金) 16:08:26 

    弾が飛び交う中、どうしてもお爺ちゃんに会いたくて会いに行ったって言ってた。どうせ死ぬなら離れたくないって

    +139

    -2

  • 27. 匿名 2015/08/14(金) 16:09:29 

    私の祖母は空襲に遭い、家の中で家族とギュッと丸まって耐えていたそうです。
    外の様子が落ち着き、家の外に出ようとした歳、玄関の目の前に大きな不発弾が落ちていたそうです。
    もしそれが不発弾ではなかったら、まだ幼かった祖母は亡くなり、私もこの世に産まれなかったんだと思うと怖くなりましたし、運命って不思議だなと思いました。

    +133

    -4

  • 28. 匿名 2015/08/14(金) 16:10:02 

    祖母に聞きましたが、戦争当時配給された布はとても破れやすくあまり役に立たなかったそうです。
    しかし、ものがない時代、仕方なく使っていたそうです。
    けれど、もう裕福な時代になったせいか、祖母でもものを大事にしません…
    洋服とかすぐ捨てる…
    私の方が勿体無い勿体無いと言っています。

    +79

    -9

  • 29. 匿名 2015/08/14(金) 16:10:07 

    うちのおじいちゃんは
    特攻隊に選ばれて
    先に出撃していった仲間を見送ってたらしい
    笑顔の人が多かったらしい
    でも、内心怖かったと思うと言ってました。
    次は自分かと思うと頭に家族の事が思い浮かび
    夜も眠れなかったそうです。
    遺書を残して覚悟も決めたって時に
    日本が負けた事を聞いたみたい。
    日本負けで悔しいより
    ああ、帰れるのかと思ったけど
    生き残ってしまった…って罪悪感もあったそう。

    +160

    -2

  • 30. 匿名 2015/08/14(金) 16:12:02 

    海軍のモテ度は異常だったらしい
    うちの爺さん談

    +119

    -0

  • 31. 匿名 2015/08/14(金) 16:12:12 

    祖父母からたくさん聞いたけど、〆はいつも「絶対戦争はしちゃいけない」でした。

    +120

    -3

  • 32. 匿名 2015/08/14(金) 16:12:29 


    私もミヤネで見た。

    硫黄島で水と食料での餓えとの戦い

    アメリカ軍が防空壕に海水を流す

    水だと思い日本兵が飲む

    アメリカ軍が海水にガソリンを混ぜていた

    着火

    日本兵火だるま


    クズクズクズクズクズクズ

    +213

    -5

  • 33. 匿名 2015/08/14(金) 16:12:51 

    10年前に亡くなった祖母は特攻隊の志願兵だったそうです
    自分が出発することが決まっていた所で終戦になったそうです
    あまり戦争の話は話したくないのか本人から聞いたことなかったけど、この話だけは親から聞きました

    +33

    -6

  • 34. 匿名 2015/08/14(金) 16:12:57 

    うちの祖父はお腹に大きな銃弾痕があり、
    米兵に打たれたけど相打ちで相手は死んだといつも大手柄のように話していました。
    思い出したくないという人も居ればうちの祖父のような人も居ます。
    人それぞれですね。

    +106

    -7

  • 35. 匿名 2015/08/14(金) 16:13:05 

    祖母がバスケとか、やってたそうです。
    でも、英語を使っちゃダメなのでいろいろと今と違う言い方だったらしい。

    +31

    -1

  • 36. 匿名 2015/08/14(金) 16:13:17 

    うちの曾祖母は
    目が悪かったから戦争に行かなくてすんだらしい
    でも、近所の人からいろいろ言われて辛かったそうです。
    戦争は国民の心を歪ませる。

    +130

    -3

  • 37. 匿名 2015/08/14(金) 16:13:19 

    ある日学校から帰ると、私の英語の教科書をすらすら読んでいる祖父を発見。
    びっくりして「おじいちゃん英語読めるの?!なんで?!」と聞いたら「英語は戦争の時にな」とポツリと呟かれた。
    その後父に「あの人は10年くらいソ連の捕虜になっていたから、ロシア語もペラペラだよ」と教えられた。
    祖父からは何度も戦争の話は聞いていたし、ソ連にいたことも知っていたけど‥‥そこまで考えたことはなかった。
    まだまだ知らないことだらけなんだろうなと思った出来事でした。

    +168

    -2

  • 38. 匿名 2015/08/14(金) 16:13:39 

    シベリアでろくな食料も与えられず厳しい労働、
    次々仲間が亡くなって、自分たちで穴を掘り放り込んでいたそうです
    祖父も明日は我が身かと思っていたそう。

    そんな中終戦、帰りに北朝鮮を通ったそうな
    そこでも飢えに苦しみながらの道中だったそうで仲間の人は耐え切れず道端の毒草を食べ亡くなったそうです、
    祖父もその後倒れたそうなのですが現地の人が食糧をくれて助かったそうで
    親切な人がいてくれて自分は運が良かったんだと常々言ってました、

    +151

    -2

  • 39. 匿名 2015/08/14(金) 16:14:33 

    亡き、おじいちゃんやおばあちゃん言うには
    軍部が負け戦だと分かっててアメリカと戦争したこと。

    +90

    -2

  • 40. 匿名 2015/08/14(金) 16:15:06 

    亡くなった祖父がよく言ってな、、、

    共に過ごした、本当に本当に賢くて可愛い馬を置いて日本に帰る時は、涙が止まらなかったと。

    +196

    -4

  • 41. 匿名 2015/08/14(金) 16:17:23 

    30
    今も昔も海軍はエリートだもんね。

    +72

    -4

  • 42. 匿名 2015/08/14(金) 16:18:06 

    エリートだったらしいおじいちゃんは戦争の話をするが、
    もう一人のおじいちゃんは絶対戦争の話はしてくれなかった。
    軍歌も聞きたくないと言っていた。思い出したくないんだって。

    +126

    -2

  • 43. 匿名 2015/08/14(金) 16:18:35 

    夫の祖父は海軍で軍艦ヤマトの護衛艦に乗っていてヤマトが沈没される時に、その場にいたそうです。
    軍は何でも連帯責任で1人がミスをするとお尻を木の棒で叩かれたなど色々話してくれます。
    辛い経験をしただろうに、割と戦争の事をよく話すし、戦争の番組などを見たがります。
    どういう心境なのか分からないけど祖父は祖父なりに、ずっと傷を抱えて生きているんだろうなぁと思います。
    16歳の時の海軍姿の祖父の写真は立派な兵隊さんというよりは、まだあどけない田舎の少年が軍服を着ているという感じで、見ていて何だかせつなくなりました。当然ですが自分の夫にも顔立ちが似てるので余計に。

    +89

    -5

  • 44. 匿名 2015/08/14(金) 16:18:51 

    満州へ行った女性から、ソ連兵に追いかけられた話を聞きました。女性は乱暴されるので川に飛び込んだり、死に物狂いで逃げたと。

    +124

    -2

  • 45. 匿名 2015/08/14(金) 16:18:55 

    お爺ちゃんから、「テレビでやる「玉音放送」の誤った解釈が未だに釈然としない」と言い続けていたこと。
    お婆ちゃんは、この放送で、とにかく戦争が終わったんだ!と嬉しい気持ちがあったけれど、とても、笑顔を出せない状況もあった、と二人とも終戦を迎えるにあたって、とても複雑な気持ちを抱えていました。

    +69

    -0

  • 46. 匿名 2015/08/14(金) 16:19:20 

    学生時代、バイトの雇い主であるおばあちゃんから聞いた話。
    駅前の喫茶店で店の前には線路があるんだけど、戦争中は物資を運ぶ汽車を狙ってよく敵の攻撃を受けていたらしい。
    空爆で汽車が止まり、いつまた敵の戦闘機が飛んでくるかわからない真っ暗な中、女学校から徒歩で帰宅中に心配したお姉さんが迎えに来てくれた時は安心して涙が出たと線路を見つめながら話をしてくれた。
    自分が普段見慣れている場所でそんなことがあったなんて、話を聞くまで考えたこともなかった。

    +71

    -4

  • 47. 匿名 2015/08/14(金) 16:19:21 

    祖父から聞いた話。

    「天皇万歳なんて言って誰も死んでいかないんだ。
    おかあさーんって、泣きながら死んでいくんだ。
    戦争を二度としてはいけない」

    祖父は生きて帰ってきたけど、祖父の弟は戦死しています。

    体験した人の言葉は重たいですね。

    +229

    -1

  • 48. 匿名 2015/08/14(金) 16:20:21 

    原爆が落ちてしばらくして、祖父の兄が、黒文字の箇所だけが焼け焦げたポスターを、広島市内から持ち帰ってきたと言っていました。
    昨年亡くなった祖父、徴兵間際で病気が発覚して、戦地に赴くことはなかったそう。戦時下の大手術を乗り越え、長生きをして、私たち孫にたくさん思い出を作ってくれました。

    +77

    -1

  • 49. 匿名 2015/08/14(金) 16:28:58 

    引き上げのとき、女性はそれは大変だったみたいだね。
    竹林はるか遠く という実話の本を読んで
    朝鮮には一生行くまいと思いました。ロシア人も怖い。
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    中国では通州事件もあるし、大陸の人間の残虐性は日本人には理解できない。


    身近な人から聞いた戦争の話

    +39

    -8

  • 50. 匿名 2015/08/14(金) 16:32:19 

    先にケンカを仕掛けたのは日本なんだから
    相手の国を悪く言うなってじいちゃんが言ってた

    +28

    -28

  • 51. 匿名 2015/08/14(金) 16:36:10 

    うちの祖父母は戦争の話をしたことがなかったけど、祖母の葬儀の時に親戚のおばさんたちから少しだけ話を聞けました。
    父が遺品を整理していた時に、古い写真を発見したことがきっかけでした。
    写真は戦時中のもので、本家から兵隊に行く人が出たから親戚みんな集まって撮ったものだったらしいです。
    その頃の祖母はお母さん代わりをしていて、親戚の人たちはみんな祖母に育てられたと聞きました。
    写真で中央に写っていた人は軍服を着ていたので戦争に行った人だと思うのですが、どうなったのかは聞けませんでした…

    +31

    -0

  • 52. 匿名 2015/08/14(金) 16:36:12 

    5さんのコメントみて思ったけど、戦争を経験した老人は現代を普通に生きてるけど人を殺した人もいるんだね。現代じゃ犯罪者。当時は命令されて。

    なんか怖いよ。たった70年で真逆になる。下手すりゃ70年後また命令されて殺さなくてはならない時代がこないとも限らない。

    +110

    -8

  • 53. 匿名 2015/08/14(金) 16:36:18 

    亡くなったお父さんの子供の頃の話、母の子供の頃の話、お祖父さんの話、家族の話、いろいろ聞きましたが、戦争中の話は重くてなかなかこういうところでは語れません。

    遠い親戚の終戦後の話を一つ、教師をしておりました。教え子の女の子が学校で進駐軍に暴行されたそうです。助けようとしたそうですが、他先生たち駆けつけた警官に押さえつけられ助けられなかったと悔やんでいました。大人数の進駐軍に暴行された女の子は血だらけだったと...。当時は進駐軍の蛮行を止めることができなかったそうです。東京渋谷での出来事です。


    +64

    -3

  • 54. 匿名 2015/08/14(金) 16:38:29 

    私の恩師が戦争体験者の方から聞いた話だそうなので、トピズレになってしまうかもしれませんが…

    その人は空襲で焼け野原になった場所で、生存者を探していたそうです。
    すると焼けた家の中で、人がうずくまるようにして焼け死んでいるのを発見したと。
    その人を退かすと、その下には焼け焦げた赤ちゃんが居たそうです。
    きっとうずくまっていたのはお母さんで、必死に子供を守ろうとしたんだと思います。
    親子の最期を思うと、苦しくて堪りません。

    +114

    -2

  • 55. 匿名 2015/08/14(金) 16:38:38 

    95歳の祖母の話です。今は認知症になってしまいましたが、まだはっきりしている頃に話してくれました。
    隣町が空襲に襲われ、とにかく防空壕に急いでいたけれど、燃える町の炎が銀色のB29にうつり、うっすらとピンク色に。またそれが田んぼにうつり、何とも言えない風景だったと。
    それを見て必死の中でも美しいと見とれてしまったと聞きました。

    大叔父の話です。
    特攻隊として飛び立ちましたが機械トラブルで敵艦ではなく陸地に墜落。その際死を覚悟し「おかあちゃーん」と叫んだそうです。
    「天皇陛下万歳って言わないよ。皆」と後々言っていました。

    最後に祖母がしきりに「もう二度と戦争はこりごりだ。こんな思いはしたくないし、してほしくない。」
    重みがある言葉です。


    +116

    -1

  • 56. 匿名 2015/08/14(金) 16:39:11 

    長崎に原爆が落とされた日、爆風で吹き飛ばされたという、当時工場で働いていた親戚のおじさん。気絶して目が覚めた時、隣にさっきまで一緒に働いていた女性が血だらけで死んでいて、自身も肩あたりにガラス片がいっぱい刺さって大怪我をしたと聞きました。

    傷跡がいっぱいあって痛々しかったな。

    +91

    -1

  • 57. 匿名 2015/08/14(金) 16:40:12 

    長崎のおじさん。

    原爆投下のあと、友人を探しに探したら、もう判別がつかないくらいのただれ様で、死にたくない死にたくないって言いながら亡くなっていったそう。
    また、生き延びて子供を授かっても、原爆二世で差別を受けたとか。
    原爆投下は戦争終結のために必要だったという声もあるけど、一般市民を対象にしたのは絶対に間違いだと思う。

    +154

    -0

  • 58. 匿名 2015/08/14(金) 16:43:28 

    おじいちゃんは兵役経験をまったく話さない人だったけど
    テレビでアメリカの話題が放送されたときに一言
    「わしはアメリカが大嫌いだ。恩恵を受けたのは確かだが、大嫌いだ。」
    普段おとなしいおじいちゃんなので驚きました。
    口にしないだけで、この世代の方々は同じ思いなのかも。

    +119

    -1

  • 59. 匿名 2015/08/14(金) 16:45:31 

    祖父が海軍でよくサイパン島の話を聞かされました。文字はその当時のままカタカナで書いていました。

    +4

    -1

  • 60. 匿名 2015/08/14(金) 16:47:48 

    うちのおばあちゃんは子供のとき満州にいて、戦争のとき、お母さんが病気で14歳の時に亡くなってしまったと聞きました。その亡くなった日がおばあちゃんの14歳の誕生日の日で、誕生日なのに何もあげられなくてごめんね、あなたの誕生日がこんな日になってごめんね。って言って死んだと言ってた。それを聞いて、すごく悲しくて切なくて泣いてしまった。おばあちゃんの方がつらかったと思うから、つらかったことを思い出させてしまってごめんなさい、って思った。
    文書まとまってなくてすみません。

    +92

    -0

  • 61. 匿名 2015/08/14(金) 16:52:47 

    施設に務めています。認知症になって、昔の記憶が甦るのか、敵が来るぞーと椅子を盾にして銃をかまえる人、原爆で後遺症を患い、未だに苦しむ人、特攻隊に行くはずがギリギリで、終戦を迎えた人、色々です。私自身は祖父が満州から、引き上げて来たこと位しか知らず、聞こうともしませんでした。祖父が亡くなった今、聞いておけば良かったとしみじみ思います。

    +78

    -0

  • 62. 匿名 2015/08/14(金) 16:53:00 

    49さんの本の内容、簡単に教えてほしい。

    +20

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  • 63. 匿名 2015/08/14(金) 16:53:33 

    おばあちゃんが中国語を話せると初めて知ったとき、「え!ばあちゃんすごい!いいな~」と言ったんだけど、「すごくなんかないよ。なんの役にもたたない。」と言って悲しそうにしてたのが忘れられない。
    小さい頃、満州にいたからだそうで、あまり聞いちゃいけないような雰囲気だった、

    +100

    -1

  • 64. 匿名 2015/08/14(金) 16:55:33 

    旦那の祖父が去年亡くなった際、葬儀で骨を拾う時に戦時中に受けた弾丸が出てきました。
    みんな言葉が出なかった。
    昔の写真を見たら海軍で当時の人にしては背が高く男前で戦後は浮気三昧で奥さん(旦那の祖母)は苦労したそうな。

    +97

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  • 65. 匿名 2015/08/14(金) 17:01:13 

    「将軍様マンセーなんて言っている北朝鮮を見て、バカにしているけれど、戦争中の日本はあんな風だったよ」と祖母が言っていました。

    +137

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  • 66. 匿名 2015/08/14(金) 17:02:15 

    ダンナの母

    竹槍訓練してて、竹槍で飛行機を落とす気だったらしい(爆)( *´艸`)

    +11

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  • 67. 匿名 2015/08/14(金) 17:07:08 

    親戚のおばさんから聞いたのですが、当時砂糖が不足していたので自宅の畑で
    サトウキビを植えて黒砂糖を作っていたそうです。
    砂糖の代わりにズルチンを使ったりもしていたそうです。
    近所でもそういう人が多数いて数年前までは名残でサトウキビ育ててる人が居たそうです。

    +21

    -1

  • 68. 匿名 2015/08/14(金) 17:10:13 

    他の方も書いてますが、戦争に関することを聞いてくる宿題で、祖父から話を聞かせてもらったことがあります。
    シベリアで抑留されたときの壮絶な体験。悲しそうな祖父の表情は、ずっと忘れることはできません。

    10年前に他界した祖父は寡黙な人でしたが、優しかったなぁ。私、おじいちゃんっ子だったんです。泣けてきた…。

    +89

    -1

  • 69. 匿名 2015/08/14(金) 17:12:01 

    沖縄です。
    父方の曽祖母が未だに行方不明。
    祖母の男兄弟はみんな戦死。

    母方の祖父は少年兵で、見張りしてて気付いたらみんなやられてた。銃撃されながら、走って逃げた。当たった弾はまだ体に残ってる。
    祖母はひめゆり学徒に動員される直前、飛んできた爆弾の破片により重傷を負い、動員されずに済んだ。

    一家全滅がザラだったから、まだ運がいい方だった。
    私の地元は、民間人の死者が一番多かった地域で、約半数が戦死です。
    戦後は、米軍による犯罪が多発、でも米兵は罪に問われない。被害者は泣き寝入り。
    戦いが終わっても戦地の苦しみは終わらない。未だに。

    +113

    -1

  • 70. 匿名 2015/08/14(金) 17:17:05 

    空襲などの被害が無かった田舎なので、壮絶な体験談は無いけど食べる物が無くて毎日家族でケンカした様な話を祖母から聞いた。
    認知症が進んでいるけど、戦時中のひもじい生活は覚えているみたい。今はこんなにおかずが沢山あっていいねえって。

    +51

    -1

  • 71. 匿名 2015/08/14(金) 17:21:43 

    13さんがおっしゃってるように、戦争中もそれぞれの生活があったんだな、と最近しみじみ考えます。
    遥か昔に宿題で身近な人から悲惨な戦争中の話を聞くのがあって、祖父母に聞くと、夫婦の思い出話になって二人で懐かしそうに笑うんです。
    映画を見てるときに空襲警報がなって映画が中断されたらみんなクレームして逃げなかった話とか、防空壕で誰かがオナラして大爆笑だったとか、軍事工場の年一回の遠足とか、都内から田舎に買出しに行く苦労話とか。
    当時は悲惨な事しか想像できなかったから不思議だったけど、つい5年程前がバブルでモダンガールが流行っていたし玉音放送でよく映る映像では白いワンピースにパーマヘアの女性が皇居で泣いています。

    +19

    -4

  • 72. 匿名 2015/08/14(金) 17:23:12 

    記憶では無口でそんなことする人とは思えないんだけど、
    憲兵相手に「こんな戦争勝てるわけがない」と言って年がら年中喧嘩してたらしい祖父
    牢屋に入ることもなく終戦を迎えたらしいが
    近所の人か憲兵を捲いてくれたり匿ってくれたり、祖父のが死んでから知らされた。

    祖父の話を聞いてから、「あの時はそんな雰囲気ではなかった」という老人の言い訳が空々しく聞こえる。

    +13

    -7

  • 73. 匿名 2015/08/14(金) 17:29:56 

    71です。続き
    ここに書くのは不謹慎かもしれないですが、祖母が震災の時に呟いたことがあります。

    東北の人は大変な被害にあった。大切な人を亡くしたり財産も全てなくなって食べ物にも不自由してる。
    私達は苦しいし店から物がなくなってるけど東北に比べたら普通に暮らしているようなもの。戦争の時も被害が酷い人達がいた一方で、今みたいにみんながそれぞれの生活を続けてた。

    +30

    -0

  • 74. 匿名 2015/08/14(金) 17:31:03 

    8年くらい前に大叔母さんが亡くなって、出てきた遺品の中から軍服を着て玄関前に立つ男性の写真が見つかった。

    母に聞いたら、大叔母さんの御主人で赤紙が届いて戦地に赴く直前の写真だと。

    御主人は戦死して、その後大叔母さんは生涯1人暮らしをしていた。

    私は全くその話を聞いたことがなかったので大叔母さんはずっと独身だと思ってびっくりした。

    その写真はとても保存状態が良く、大叔母さんは御主人をとても愛していたんだなと切なくなった。

    +99

    -0

  • 75. 匿名 2015/08/14(金) 17:36:26 

    父方の本家は農家で、疎開者が持ち込む物とお米を交換してたらしい。
    ただ、軍に納める米もあるし、家族も12人の大家族、
    都会の人が思うほどは余裕なかったとか。

    祖母曰く、
    分けて貰う米の量に不満のある疎開者から、
    これは××の由来がある由緒正しい品物でなんちゃら〜と言われるのが辛かったらしい。
    正直、お宝や高価な着物があったところで、
    あのご時世のど田舎では換金もできず、おなかも膨れないし、と祖母は言ってました。

    戦争映画なんかでは田舎の農家は業突く張りの悪者に描かれることが多いですが、
    それはあくまで都会人目線、祖母のような立場からすると、
    なけなしの米を分けても、物の価値がわからない田舎者扱いしてくる疎開者だってたいがいだね、らしいです。

    +68

    -0

  • 76. 匿名 2015/08/14(金) 17:37:17 

    父の家は宮内庁の人達とちょっと縁のある家です。なので戦時中、祖父は近視がひどいのを理由に内地で砲術などの計算をする仕事に派遣されたそうです。
    コネで命が救われたのですが、祖父は当時大学で一番仲良かった人が外地(南アジアの激戦区。どこだったか忘れました)に派遣されてすぐに死んでしまったのを話してくれました。
    悲しそうな、不甲斐なさそうな、複雑な表情で話してくれたのを幼心に覚えています。

    そんな祖父も十数年前に亡くなったのですが、きっと天国でその友人と仲良くしていると私は信じています。

    +30

    -14

  • 77. 匿名 2015/08/14(金) 17:43:15 

    もう亡くなってしまったおじいちゃんも、戦地へと行った話をしてくれました。
    満州に行ったと言っていたけれど、向こうでは赤ちゃんが捨てられていて、泣いていたそう。お母さんが捨てて行ったんだろうと言ってた。かわいそうでしばらく抱っこしてあやしていたけれど、ずっとそうしているわけにもいかず、最後はその場に置いてきたと言っていた。

    +64

    -1

  • 78. 匿名 2015/08/14(金) 17:55:50 

    視力検査は一番ごまかしやすいから…。
    でもいよいよになってからは、
    視力が×な人も体格が悪い人も年齢規定オーバーの人も駆り出されたらしいから、
    そういうコネって当時一番嫌われたらしいね。

    助かった意味ではラッキーなことだけど、
    お祖父様ご本人は自分が情けなくもあったでしょうね。
    同窓のご友人だっておそらくは富裕層だったでしょうに派遣されてしまった。
    その方も内心複雑だったかもしれませんね。

    +50

    -4

  • 79. 匿名 2015/08/14(金) 18:31:58 

    老人ホームで働いてるんだが、利用者の人とかと話す時たまに戦争の話をしてくる人も良くいます。100歳のおばあちゃんは若くして旦那様を原爆で亡くした人とか寂しそうにしみじみと戦争はよくないと語ってくれます。

    +36

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  • 80. 匿名 2015/08/14(金) 18:42:53 

    沖縄戦を体験した祖父母
    沖縄本島地上戦が本格的に始まる前に久米島へ疎開しました。


    久米島で一番高い山から沖縄本島が見え爆弾でなのか空がオレンジに見えたそうです。

    +21

    -0

  • 81. 匿名 2015/08/14(金) 18:50:47 

    大叔父は終戦の前年にサイパンで玉砕しました。
    戦死後、曾祖父が連絡が取れなくなった息子の所在を問い合わせたところ、大叔父が内地の病院に収容されていると聞いた曾祖父(大叔父の父)と祖父(大叔父の兄)が病院に訪ねていったところ、当然ですが大叔父はいません。
    そこで、役場に問い合わせたところ、戦死していたことがわかったそうです。
    そのときの軍事郵便は現在も実家に保管されていて私も見ましたが、劣勢を国民に悟られて志気を低下させたくないという時代背景を考慮しても、大本営は国の為に戦った兵士に敬意の欠片も持っていないことに憤りを感じました。
    また、大叔父については、志願兵として入隊し、戦死したことしかわからず、どこの部隊に所属してどこで戦っていたのか全くわかりません。命を賭した結果がれではあんまりだと思うし、大叔父の足跡を覚えておきたいので近々軍人履歴原票を取り寄せようと思ってます。

    +47

    -0

  • 82. 匿名 2015/08/14(金) 19:01:01 

    もう亡くなったおばあちゃんの話ですが。

    戦争当時、おじいちゃんは戦地にいたので一人で赤ちゃん(母のお姉さん)を背負って「ごめんなさい、ごめんなさい」と言いながら沢山の死体をまたいで逃げ回ったそうです。
    まともにご飯も食べられず、母乳も出ないのでミルクだったそうですが、逃げ回って走ってる時にミルクをくれた親切なおばさんがいて、感謝してまた走り出したら後ろから爆音が聞こえ…振り向いたらもうそこは火の海になってた、と話していました。

    戦後、おじいちゃんもおばあちゃんもお互いにもう亡くなってるだろうと思っていたそうですが、おばあちゃんがラジオでおじいちゃんの名前を聞いて生きていることを知ったそうです。
    そして樺太から帰ってきて船から降りた所で偶然にもおじいちゃんに再会できたそう!
    当時は携帯どころか電話もないですから、すごい奇跡だったなぁと言っていました。
    それから燃え上がり、次女にあたる母とその下の弟を産んだとも言っていました。(笑)

    +92

    -2

  • 83. 匿名 2015/08/14(金) 19:07:01 

    ばあちゃんに聞いた話。
    昼ごはんの用意をしている時に空襲にあい、幼い妹や弟をおぶって家族で逃げた。
    爆撃が止み、家に戻ってみると跡形もなく家は焼けていて、先程昼ごはんの為に用意していた炊飯の鉄鍋が転がっていた。中を見るとお米が炊けていたと。

    +56

    -2

  • 84. 匿名 2015/08/14(金) 19:15:29 

    満州で軍隊だった祖父。
    亡くなってから母から聞いたのですが、
    おじいちゃんの背中には刀で切り込まれた痕があったそう。おじいちゃんはそれを家族にあまり見せたがらなかったとのこと。
    当然、孫の私達はそんなこと全く知らなかった。戦争の話、本人は話したくなかったかもしれないけど、今とはなっては聞いておくべきだったととても後悔してる。

    +34

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  • 85. 匿名 2015/08/14(金) 19:58:20 

    先程、特攻隊で亡くなったという大おじさん(祖父の兄)のお墓参りしてきました
    祖父が終戦時25才の為少なくとも26才以上で亡くなったのでしょう
    祖父は研修医だったので徴兵を免れましたが、原爆直後の広島を通過した際に、広島はひどかったくさかったと言っていました。結局祖父祖母は戦争の話はしたがらずあまり聞けませんでした。
    戦争を体験した高齢者の方々の話をもっと聞いておかなければいけないのでしょうが、やはり思い出される姿は辛そうで聞くこちらも心苦しいですよね

    +36

    -1

  • 86. 匿名 2015/08/14(金) 20:07:23 

    満州に2回、最後は南の島(レイテ?)と3回も出征した祖父。
    伍長さんとかだったそうで、ドラム缶風呂を沸かして上官から順番に入って、
    自分の番の時は二等兵とかの新兵さんが薪を足してくれたとか、
    そういうのんびりした話はよく聞かせてくれた。
    でも最後の南方から帰国した時は精神的にかなり参ってたようで、
    日がな一日何も話さずぼんやりとするのが半年くらい続いたらしい。
    今で言うPTSDとか鬱だったのかな?
    戦闘のこととかは祖母も私も全然聞いたことがない。
    そうとう修羅場だったんだろうな。

    当時の人としてはかなり背が高くて、
    肩幅もあって、隊の集合写真見たら一人だけラグビー選手みたいないい体格。
    祖父の葬儀の時は用意された棺桶に入らなくて、膝を曲げて納棺しなきゃいけなかったっけ。
    そんだけの体格だから3回も兵隊に取られるわけだよね。

    +40

    -0

  • 87. 匿名 2015/08/14(金) 20:20:02 

    上野に住んでた祖母が話してくれましたが、上野動物園の象の肉が配給されたことがあったそうです。祖母はかわいそうで食べられなかったと言っていました。

    +42

    -1

  • 88. 匿名 2015/08/14(金) 20:56:54 

    一人の祖父は警官だったためか日本国内で戦火から守っていたと幼いときに聞いた記憶が。
    嫁ぎ先の旦那の祖父は戦艦に乗っていたけど原爆の日はたまたま休みをもらえていて陸に上がって洗濯をしていたそうです。
    原爆の光を見たといってました。

    +17

    -3

  • 89. 匿名 2015/08/14(金) 21:04:49 

    私はとある事情で2度硫黄島に行ったことがあります。
    近しい方から聞いた話ではありませんが、
    火炎放射器で焼かれ、耳を失い、半身不随になり生き残った方のお話を聞きました。

    もう10年以上前ですが、硫黄島の医療壕には消毒液の臭いがしました。火薬の入った銃弾もそこらじゅうに散らばっていました。
    防空壕の中には日本兵の遺留品。
    目眩がするほどの暑さと硫黄の臭い。
    井戸水はなく、食べ物もない。
    サソリもムカデもいるから、噛まれたら痛いけどそれどころではない状況だったんでしょうね。

    霊感とかないのに、ある防空壕に近ずけないくらいの耳鳴りと頭痛と吐き気。
    元はすごく綺麗でのんびりとした土地だったと思うと辛いです。

    +56

    -2

  • 90. 匿名 2015/08/14(金) 21:04:57 

    うちの祖父は、戦争に行きたくなくわざと体にハンデを自らつけ戦争に行かずに済んだそうです。

    祖母は、教えてくれなく聞いても何にもあんなこと思い出したくないばかりでした。

    +26

    -2

  • 91. 匿名 2015/08/14(金) 21:08:33 

    もう戦争は絶対嫌だよ。
    みんなで憲法9条を守っていこうよ!

    +31

    -20

  • 92. 匿名 2015/08/14(金) 21:22:30 

    父方の祖父は先の大戦の時は既に30代後半だった上に家の跡取りだったので、国家総動員法が改正されてからの徴兵でした。
    徴兵が遅かったため召集されて内地にいるうちに終戦を迎え戦地には行かずに済みましたが、復員して帰ってきた時にはガリガリで骨と皮だけという状態だったそうです。
    家族は家中の食べ物をかき集め(田舎の農家だったので一般の家庭よりは若干の余裕があったようです)て祖父に食べさせ、曾祖父は祖父を湯治に行かせて療養させたとよく父が話してくれます。

    母方の祖父は海軍の二等兵として海南島に行ってました。そこで食べるものといえばバナナだけしかなく、来る日も来る日もバナナしか食べさせてもらえなかったそうです。
    復員してしばらくはバナナを見るのも嫌がったとか。
    一方自宅では、空襲の最中に生後数ヶ月の赤ん坊だった私の母を卓袱台の下に隠して上に座布団を被せて自宅に置き去りにし、母以外の家族は防空壕へ。という出来事があったらしく、
    母:あのとき置き去りにされたのよね(怒)
    祖母:だって仕方ないじゃない(笑)
    母:ひどいわ(怒)
    祖母:なんともなかったんだからいいじゃない(笑)
    なんてやりとりをよくしてました。たぶん祖母的には赤ん坊が泣いて他の人に迷惑が掛からないようにしたんだと思いますが…。

    +37

    -1

  • 93. 匿名 2015/08/14(金) 21:53:41 

    47さん、私の祖父は軍医でした。同じことを言ってましたよ。行軍する時、怪我したり歩けない人は足を引っ張ってはいけないと口に銃口を入れて自殺したそうです。その時に、皆天皇陛下万歳は言わずお母さーん!と言ってたそうです。

    +44

    -2

  • 94. 匿名 2015/08/14(金) 21:59:09 

    祖父は徴兵検査の時背が低くて免れたそうです。
    施設の利用者さんは海軍だった頃敵に襲われ船は沈没
    かなりの怪我を負い必死に泳いで近くの島へ逃げ、その後は徴兵されずに終戦を迎えたそうです。

    +17

    -0

  • 95. 匿名 2015/08/14(金) 22:01:48 

    戦場の野戦病院、赤十字の旗があるのに、アメリカ軍に空から撃たれたそうです。だから祖父はアメリカ軍も汚いことすると言ってました

    +52

    -0

  • 96. 匿名 2015/08/14(金) 22:19:11 

    数年前に死んだ祖母の弟(大叔父)は、北支戦線で食料もない状態で延々と行軍した話をよくしていた。
    食料調達は、中国人の民家(できるだけ裕福そうな家)に押し入って穀物や家畜を根こそぎ強奪・略奪するという話も聞いた。
    はっきりは言わなかったけど、武器持って集団で強奪なんだから、大叔父も中国人の民間人を殺してたんだと思うし、戦争はそうなんだと思う。
    怒りを覚えるのは、2chなんかに行くと、当時日本軍が略奪してるはずがないなんて臆面もなく発言してる奴らがいること。
    少し考えれば、当時の作戦に補給がなかったことなんて、すぐわかるはず。
    ネットが普及したのはいいが、そんなバカに発言権を与えると日本人は嘘つきだなんて言われて、結局は国益を損なうことを理解してくれ。

    +52

    -0

  • 97. 匿名 2015/08/14(金) 22:20:33 

    がるちゃん見ながらBBCラジオ聞いてます。今日はずっと阿部総理の戦争謝罪のスピーチについて流れてる。コメンテーターが、阿部の言葉は本当に心からのものか、または形だけなのだろうか、と議論してました。トピずれすみません。ちなみに広島の日はBBCで繰り返し広島の被災者の言葉や悲惨さを流してた。

    +12

    -4

  • 98. 匿名 2015/08/14(金) 22:34:56 

    私のおばあちゃんは、飛行機の製図を書いていました。お兄さんは、戦争に行き帰らぬ人となりました。
    その頃、二十代だったおばあちゃんは、空襲の際に化粧品をカバンに詰め込み、持って逃げました。しかし、走るのに重すぎて、途中で川に捨てたそうです。
    おばあちゃんにとって化粧品は本当に大切だったんだと思います。おしゃれもする時間なんてないし、せめてお化粧だけはって思ったのかな。なんて思います。
    それを諦めてまで逃げて、生き延びて、今こうして話してくれるおばあちゃんを誇りに思います。

    +31

    -0

  • 99. 匿名 2015/08/14(金) 23:24:37 

    がるちゃんで最初から最後まで
    しっかり読んだの初めてのです。

    私の祖父母は
    戦争の話全くしませんでした。
    ただただ思い出したくないと…。

    +27

    -1

  • 100. 匿名 2015/08/14(金) 23:57:13 

    おばあちゃんの話です。
    空襲警報のサイレンが鳴って、防空壕へ弟と走って避難する途中に空を飛んでいた敵の飛行機に見つかって銃口をこちらへ向けられた時は
    もうだめだ と思った瞬間があったらしいです。
    でも、自分たちがまだ子供だと思ったのかはわからないけど、相手は打たないで去ったらしいです。
    あの時もし打たれていたら…という話をしてくれたことがありました。

    +32

    -1

  • 101. 匿名 2015/08/15(土) 00:20:43 

    戦時中は指輪などの貴金属も持っていかれたと祖母は言ってました。
    戦争遂行のために庶民からそんな物まで調達してたんだから日本軍のやり方は徹底してたけど、資源大国のアメリカに勝てるわけないですよね。

    +22

    -1

  • 102. 匿名 2015/08/15(土) 00:32:48 

    良トピだと思います
    今日、今年85歳になる祖父から初めて戦争の話を聞きました
    15歳の4月に学校を卒業した祖父は
    相模原の軍事工場に行き、仕事をしていました
    新潟から上野に降り立つと一面焼け野原だったといっていました
    戦争で兵として戦うことがなかったからか、
    祖父の口から、感情的な言葉は聞けませんでした

    戦争を知らない世代が増えていくなかで、
    このような皆さんの身近な方の戦争体験を聞けることは
    とても貴重であり、大切なことだと思います

    +30

    -1

  • 103. 匿名 2015/08/15(土) 00:33:28 

    特攻隊にいて、自分は訓練中に戦争が終わったという話を、亡くなったおじいちゃんから聞いた。もっと詳しく話を聞いておけばよかったと今になって思う。

    +19

    -1

  • 104. 匿名 2015/08/15(土) 00:34:29 

    母方の祖父は戦争でサイパンや台湾などに行ったが、祖父は頭がよく字が上手かったため、書類を作成する任務にあたっていて(パソコンやワープロなんてない時代だから、字が上手な人が重宝されたそう)最前線で戦ったとかではなかったそうです。

    一方、父方の祖父は身体がもともと弱く、戦闘に耐えられないとのことで戦地から送り返され帰宅しましたが、周囲からの「お国のために奉公しない非国民」という声に非常に苦しんだそうです。

    +32

    -1

  • 105. 匿名 2015/08/15(土) 01:10:19 

    祖母は、広島で原爆にあった。爆心地から少し距離があったため、無事だった。投下した翌日から看護に行くのが1番辛かったらしい。死体は体育館のうらに山積みにされた。意識がない人が、サイレンのような音がしたとたん、死にものぐるいで出口まではっていったのが怖かったと言っていた。いつか一緒に資料館に行ったけど、途中で気持ち悪くなって退出した。
    もう一人の祖母も市内で被爆して、無事だったけど、誰もその話を聞いたことがない。差別され、結婚もできなくなると言われて、隠すために被爆手帳も持っていない。

    +34

    -1

  • 106. 匿名 2015/08/15(土) 01:11:22 

    知り合いのおじいさんから聞いた話。
    そのおじいさんいつも両鼻の穴に管入れて酸素ボンベみたいなのをキャリーにのせてひいて歩いてた。
    煙草は絶対に吸ったらだめだよってよく言われた。
    戦争で中国に行ったけど戦うか、それ以外はやる事がなくてひたすら煙草吸ってたら肺を悪くされたようです。ただひたすら煙草、煙草、煙草。想像したら凄い苛酷な毎日ですよね。これだけですが教科書には載らない貴重な話を伺えたと思いました。数年前に亡くなりました。

    +20

    -1

  • 107. 匿名 2015/08/15(土) 01:27:13 

    亡くなった祖父はビルマへ行かされました。
    ブーゲンビリアの花が赤く綺麗だったと話してくれた事は覚えている。

    +18

    -0

  • 108. 匿名 2015/08/15(土) 01:31:49 

    祖父は、戦争でラオスへ。たまたま飛行機の整備ができたから生き延びたらしい。祖父の弟は、特攻隊で知覧から飛んだ。遺影を見ながら、男前だろうと言っていた。いつか一緒に知覧に行こうと言いながら、私が大人になる前に祖父は、亡くなってしまった。私は大人になって、知覧に行くことはできたけど、できれば祖父と行きたかったなぁ。

    辛いことだから忘れられないというより、忘れてはならないと、戦友会の仲間とラオスに学校を立てに行ったりしていた。前向きで明るく力強く生きていた祖父を今改めて尊敬している。

    +38

    -0

  • 109. 匿名 2015/08/15(土) 01:37:17 

    母方の祖父は中国に戦争に行ってたのは確かですが、これまで家族にも滅多に戦争の話をしない人でした。
    それがある年の正月、親戚が大勢集まった中でめずらしくお酒をたくさん飲んで、戦争の話をし始めました。
    祖父は、中国を転戦して、洛陽の攻城戦で砲撃の至近弾にあい負傷し、海岸部の青島、その後長崎県の佐世保まで移送され、そこで終戦を迎えたとのことでした。
    そのとき私は洛陽というゲームでも出てくる知ってる地名が出てきたため、暢気に、その攻城戦は日本軍が何人で中国軍が何人だったの?と祖父に質問したけど、答えてくれなくて残念に思った記憶があります。
    でも考えてみれば、作戦中の軍の兵数なんて最高レベルの軍事機密だから、一兵卒が知ってるわけないですよね。(自分は平和な時代に生きてて自分の戦争はゲームの中だけだったと思い知らされました)
    祖父が詳細に自分の戦争の話をしたのは後にも先にもこの1回だけだったようです。母もこれほど詳しい戦争の話は聞いたことがない言っていました。その1年後、祖父は亡くなりました。
    印象に残ってるのは、祖父は近年の傍若無人とも威圧的ともいえる中国の行動、竹島とか、反日デモとかのニュースの感想を聞いても、絶対に中国人の悪口を言わなかったことです。
    祖父の死後、親戚たちとこのことを話題にしたことがあるのですが、戦時中の日本は中国人に対してどれほど酷いことをやってきたか、祖父はそれを現場で見てきたからこそ悪口を言えなかったのだろうと解釈しています。

    +25

    -0

  • 110. 匿名 2015/08/15(土) 02:06:34 

    今は亡くなってしまった祖父母に、子供の頃とか戦争の話をよく聞きました。子供なので、何も考えず「教えて!教えて!」と聞いていて、特に祖母は、
    「本当は思い出したくない」と言いいながら空襲の話や、その時見た事を話してくれてました。思い出したくないけど、孫が知りたがっているし、伝えなきゃ!という気持ちだったのかもしれません。思い出したらだいぶ悲惨な話もしていて、もし私が実際に見た事なら、やっぱり思い出して、トラウマになってしまうので話したくないだろうな。と思います。それと同じ気持ちだったかもしれないのに、話してくれた祖父母の話は忘れないようにしたいです。

    +21

    -0

  • 111. 匿名 2015/08/15(土) 02:30:05 

    旦那の特攻機に乗る気持ちわかるよ
    置いてかれるなら一緒に死にたい
    でもあのお話本当は愛人含め三人で乗ったらしいなんか美談っぽかったのがガッカリ

    +6

    -8

  • 112. 匿名 2015/08/15(土) 02:34:57 

    祖父の腕には名前の入れ墨があった。死んだ時自分と分かるように、特攻隊にいたけど出撃する前に戦争が終わった、とだけ聞いていたけど辛そうでそれ以上聞けなかった。亡くなってしまってからもっと直接祖父から聞くべきことだったなと痛感する。やっぱり授業とかで見聞きするだけでは戦争について知ることは出来ないと思うから

    +18

    -0

  • 113. 匿名 2015/08/15(土) 02:45:36 

    仲間の死体にえぐられたち○こを口に突っ込まれて見世物にされていたのを見て、アメリカ人を恨み何人も殺したけど、殺し終わったあととても虚無感が生まれて気持ち悪くなり吐いた
    昔祖父から聞きました
    祖父は戦争のことを全くといっていいほど話さなかったのですが、私が軽い気持ちで聞いてみたらとても真剣な面持ちで話してくれました
    自分の軽い気持ちが恥ずかしくなると同時に戦争は恐ろしいと思いました

    +34

    -1

  • 114. 匿名 2015/08/15(土) 03:25:37 

    戦後の話し
    祖父はまだ小学生だったらしいけど、ホント火垂るの墓のワンシーンにあったような...
    母親と高級な着物とか農家(百姓と言ってたけど)に持って行って品定めされて「ふん!こんなもんだね!」って芋を数個ゴロンって投げられたって

    だから祖父は芋が嫌いだった。その時の農家のおばさんの態度が強烈だったらしく「百姓」と言って嫌ってた(農家の方ごめんなさい)

    +28

    -2

  • 115. 匿名 2015/08/15(土) 05:01:46 

    75と114、合わせて読むと興味深いね。

    +13

    -1

  • 116. 匿名 2015/08/15(土) 05:09:13 

    父は鉄道学校の学生でした。
    朝方、通学のために、電車で隅田川を渡る時、川に空襲で亡くなられた方が浮いているのだそうです。

    女性は胸やお腹に脂肪があるからか仰向けに、男性はお尻の脂肪のためかうつ伏せに浮いているので、遠目にも、あぁあれは女の人だな、あれは男の人だなと分かるのだと言っていました。

    +21

    -1

  • 117. 匿名 2015/08/15(土) 06:08:20 

    背中に銃弾の傷痕がある祖父。
    まだ小さかった私は無邪気に
    「じーちゃんも人殺したの?」って聞いてしまった
    じーちゃんは急に切ないような悲しいような
    苦しいような感じになり
    「仕方なかった」と一言。
    小学校あがる前だったけどこの話は聞いちゃ駄目だ!と…
    それから2度と聞きませんでした
    ごめんね。じーちゃん…

    +45

    -0

  • 118. 匿名 2015/08/15(土) 06:14:42 

    こんなに悲惨な話がいっぱいのなかで、76が微妙にムカつく。

    +1

    -3

  • 119. 匿名 2015/08/15(土) 06:27:51 

    母方の父は母が産まれた事を戦地で聞いて
    そのままソ連に収容されて帰ってきませんでした
    乳飲み子を抱えた祖母は当時母子家庭では
    生きていけないと地元の組長さんの後妻に入った
    母だけ遺族年金が貰えるので名字はそのままで。
    妹弟5人産まれたけど母は15歳で風俗に売り飛ばされましたが逃げました
    遠く離れた場所で必死に働き父と出会い結婚
    私が産まれた頃には義父も組を解散してかたぎになり
    血は繋がってないけど初孫の私を沢山可愛がってくれた

    ソ連で死んだ本当の祖父。
    本当の祖父の血縁は私と弟が最後です
    いつも側で見ていてくれてるような気がします
    お墓を無縁墓にはしたくないので
    母が亡くなったら私と弟で永代供養するつもりです

    +17

    -0

  • 120. 匿名 2015/08/15(土) 06:56:29 

    広島出身なのに、祖父母ともに早くなくなってしまい(被爆者手帳はもっていたみたいですが直接原爆とは関係ないようです)、お話を聞く機会がありませんでした。いまは、こういう活動もしているのですね。

    広島の原爆被爆者の伝承者
    広島の原爆被爆者の伝承者
    広島の原爆被爆者の伝承者blog.japan-cities.net

    広島で、高齢化が進む原爆の被爆者に代わり、原爆の被爆体験を語り継ぐ活動が開始されました。二年半ほどの研修期間を経て「伝承者」として、広島の原爆被爆体験を語り継ぐものです。本年4月から活動を開始する広島の原爆被爆体験の伝承者に対し、広島市から委嘱状が...

    +11

    -0

  • 121. 匿名 2015/08/15(土) 08:13:11 

    中学生の頃、実際に戦争に行った方から、
    いろいろとお話を聞く機会があった。

    中でも一番強烈な印象だったのは、
    戦地で仲間を荼毘に付す情景だった。

    まきを組み、ガソリンをっけて火葬するのだけれど、
    火葬中、ちょうどスルメを焼く時のように、
    ご遺体がゆらゆら立ち上がってくるそうだ。

    それがまるで、
    「待ってくれ、置いていかないでくれ」
    と言っているようだった、という話だった。

    +17

    -0

  • 122. 匿名 2015/08/15(土) 09:21:14 

    亡くなった祖父はビルマに行って、隣の船が攻撃されて沈没したって話してくれたな。生きてるうちにもっといろんな話を聞いておけばよかったよ。
    先日祖父の写真を整理してたら、戦時中の写真がたくさん出てきて、昭和天皇や東条英機、陸軍少尉の写真が出てきてびっくりした!出征した人は皆持たされていたのかな?

    +17

    -0

  • 123. 匿名 2015/08/15(土) 10:34:27 

    もう十年前になくなった祖父ですが、当時20歳くらいの年で戦争にいきました。

    終戦後シベリア抑留で厳しい労働をさせられ、帰国した頃は身長172センチもあるのに体重は30キロほどになっていたそうです。
    栄養失調で髪もオレンジ色になってしまったそう

    +14

    -0

  • 124. 匿名 2015/08/15(土) 10:53:08 

    母方の祖父は所謂エリートで敵地に全く出向かなかった為、中国人を馬鹿にする発言が多く、アメリカ人を恨んでた。
    父が結婚の挨拶に行った時(父は阿部寛似)お前は中国人か、それとものアメ公か、アメ公の嫌な顔に似ている。信用ならん、戸籍をもってこい!と怒鳴ったり、新婚旅行でハリウッドに行ったら非国民だと騒いだそう。
    バカチョンカメラとアメ公は上から目線の癖に大したことを言わないが口癖でした。

    +11

    -1

  • 125. 匿名 2015/08/15(土) 11:28:53 

    私の祖父母は生まれも育ちも東海地方です。現在80代ですが空襲や飢餓の経験はないそうです。のんびりとした田舎だったそうで、周りにも戦争ムードはほとんどなかったんだとか。そんな感じだったので、広島・長崎の原爆被害も終戦もまったくピンと来なかったと聞きました。
    なので、戦後テレビが登場したころに初めて戦争の惨状を知って驚いたと言っていました。自分と同世代の子供が空襲から逃げ回っていたり、飢えに苦しんでいたり、親兄弟を亡くしていたりしたのを知って愕然としたそうです。同じ日本でもこれほどの環境の違いがあるのかと、信じられない気持ちだったみたいです。祖父は「戦争の苦しみを知らないが、それがいかに幸せなことだったか。毎日変化もなく、退屈なのがどれほど恵まれていたのかを思い知った」と言っています。

    +20

    -0

  • 126. 匿名 2015/08/15(土) 12:13:03 

    戦中、戦後の話を最後の機会だと話してくださる人が増えてきたように思います。

    70年も、心の中にじっと封印してきた事を話してくださるのですから、真摯に伺いたいです。

    流行とはいえ、アメリカのギャングや退廃した人達の真似事をしている若い人達にこそ、真摯に受け止め、己の姿を鏡で見てどう思うか問いたい。

    +7

    -0

  • 127. 匿名 2015/08/15(土) 12:35:39 

    もう17年前に90歳で死んだおじいちゃんは母が戦争のことを聞いても、当時の話はしたくないと言っていたそうです。おじいちゃんが死んだあと家を片付けてたらおじいちゃんが当時のことを詳しく書いてた日記?メモ?みたいなのが出てきました。当時戦地には行かず通訳?などをしていたみたいです。

    口に出したくないくらい辛く、けれど吐き出さないとやりきれい思いがあったのかなと思います。

    ミヤネ屋見ました。
    嫌いだったけど2時間全て戦争について取り上げたこと、ミヤネ屋やるじゃんって思いました。

    私にも子供が生まれ戦争というものの見方が以前とまた変わりました。戦争を見てきた人の話は生きてるうちに沢山聞いとくべきだと思います。

    +14

    -1

  • 128. 匿名 2015/08/15(土) 12:52:52 

    私も昔、祖母から少しですけど聞きました。
    アメリカ軍は、空襲を行う前により燃えやすくする為、
    ガソリンをまき散らしたそうです。

    当時、祖母の実家は大阪でお米屋さんをしていたのですが、
    大阪大空襲で全て焼け、街も焦土となって、
    建物は全部焼けて梅田からなんばが見渡せたそうです。

    今は祖母は86歳で言葉もうまく話せないので、もっと戦争の話を
    聞いておけば良かったと思います。

    +8

    -0

  • 129. 匿名 2015/08/15(土) 12:56:59 

    私の祖母は、戦時中、10歳くらいのときに、100円で家族のために、北朝鮮に売られたと言う話をよくしてくれました。
    軍用機に箱に入れられて、北朝鮮に連れて行かれて、兵隊さんたちのご飯の用意や洗濯など主にしていたと言っていました。祖母は12人兄弟の10番目で、昔は学校にも行けないし5歳くらいから働きにいくのは当たり前だったと言っていました。食事も炭を食べていたとか、おにぎり1個のために1ヶ月働きに出させられたとか、そのおにぎりは結局自分は食べれずに、家族で少しずつわけて食べたとか、今は平気で食べ物を残したり、捨てたりしてるのに、本当に自分達は恵まれた環境にいるんだなと思います。
    祖母は今でも食べ物にとても感謝して食べています。
    私の子供達にも祖母の話を伝えて、色々なことに感謝出来る子供に育ってほしいと思います。

    +21

    -0

  • 130. 匿名 2015/08/15(土) 13:06:19 

    私の祖父は零戦の整備士をしていました。

    自分は技術者だったから特攻隊に選ばれなかったけど、友人たちを乗せ見送る度とても辛かったと話していました。

    +16

    -1

  • 131. 匿名 2015/08/15(土) 13:12:38 

    78で亡くなった祖父は、戦争で腹部に鉄砲を3発撃たれたそうですが、運よく生きて帰って来れたみたいでした。
    お腹の傷を何度か見せてもらいました。
    祖父も祖母も戦時中は10代前半だったみたいでまだ結婚もしてなかったみたいなので、生きて帰ってくれなかったら、今の自分もいないんだなぁとしみじみ思いました。

    +16

    -0

  • 132. 匿名 2015/08/15(土) 13:20:17 

    亡くなったお祖父さん。
    捕虜でソ連に行ってた。同じ班の人を食べさせるため、夜中に抜け出して店や牧場に盗みに入り、牛を殺し牛乳や野菜を盗んで持って帰って、土(雪)の中に埋めて保存して班の皆で少しずつ食べて生き延びたって。
    生きるために必要な盗みで、俺の役目だったから班の人達を絶対に飢えさせないって、絶対に帰るって思ってたって。他の班までは余裕がなかったって。
    厳しくて情に熱い人だった。
    子や孫(私)には、どんな時代でも生きる力をつけてほしい、教養がないから勉強は教えられないけど。って言ってたな。

    +19

    -2

  • 133. 匿名 2015/08/15(土) 13:21:37 

    祖父は、私がサイパンやパラオに遊びに行ったことを話したときホントに苦々しい顔をしてました。
    戦時中祖父は、日本から若い男の人たちが本人には行き先も知らされないまま船に乗せられて出征していく姿をたくさん見送ったそう。彼らの行き先が激戦地の南方だったようで、今の若い人たちがリゾート気分でそういった場所へ遊びに行くことが理解できないみたい。あまり戦争の話をしたがらない祖父が、若い兵隊さんたちを次々と見送った話を突然涙ながらに話してくれたときは、とてもびっくりしました。
    天皇陛下の慰霊の旅を見ていても思いますが、ある年齢以上の人たちにとっては、南の島々は決して南国のリゾート地などではなく、ただただ苦い思い出の地なんですよね。

    +22

    -0

  • 134. 匿名 2015/08/15(土) 13:33:25 

    母方の祖父が海軍で位が高い人だったそうです
    満州で住み込みのお手伝いさん付きの大豪邸で暮らしていたとか
    「現地の人や日本人でも相手が女性だと
    粗暴で偉そうで酷い態度を取る日本の軍人も随分多かったけどね、
    うちのおじいちゃん(夫)はそれだけはしなかったんだよ」と祖母は少し誇らし気に言ってました
    敗戦で取るものも取り合えず日本に逃げて帰って、本当に一瞬で財産の全部を失くしたそうですが
    「それでも日本は負けて良かったんだよ」といつも繰り返してました
    自分の夫以外の軍人はとにかく威張ってて男尊女卑で暴力的で大嫌いだったそうです
    街中で軍人が突然民間人を殴りつけるなんて日常の光景だったそうで
    そういうのを見るのが嫌で嫌でたまらなかったと言ってました

    +12

    -0

  • 135. 匿名 2015/08/15(土) 13:42:39 

    ついこの前聞いた話だけど
    曾祖父が天皇陛下の側近の警備を行う「近衛師団」という所に所属していたらしいです。
    基本的に戦場には行かなかったのですが、終戦間近は人手不足で戦場へ駆り出されることに。その後は捕虜となり、無事に帰国しました。

    本人から詳しい話を聞いたことはなかったのですが、戦地へ行く前に近衛の友人と
    「靖国で会おう」という約束を交わしたそうです。残念ながらその友人は戦死しました。
    10年程前に、靖国に行く約束がやっと叶いました。


    3年前にもう曾祖父は亡くなりましたがもっと多くの話を聞きたかったな、と後悔しています。

    +4

    -1

  • 136. 匿名 2015/08/15(土) 14:17:26 

    視力が一番ごまかしやすかったとコメントありましたね。
    うちの母方の祖父が正に目が悪くて免れたと聞きました。
    私が生まれた年に亡くなってますけど
    戦後も会社を切り盛りして家はかなりいい暮らしぶりです。祖父にはお妾さんもいたらしい。写真は牛乳びんの底みたいな眼鏡だけど
    なんだかなあ~

    +1

    -0

  • 137. 匿名 2015/08/15(土) 14:18:10 

    最近、玉音放送が話題になっていた時、90歳のじいちゃんが何気に「俺は生で玉音放送聞けなかったんだ…」と呟いたら、母が「えっ?そうなの?お母さん(亡くなったばあちゃん)は、ひざまづいて工場で聞いたって言ってたよ。」と。

    じいちゃんが「俺は船にのって戦地に向かってたから、聞けなかった…」と。

    赤ちゃんの時から一緒に暮らして、初めてじいちゃんから聞いた戦争のはなし。
    しかも、戦争があの日終わらなかったらじいちゃんは戦地に…私は産まれていなかった。

    本当に考えさせられます。

    +9

    -1

  • 138. 匿名 2015/08/15(土) 15:03:15 

    祖父は長崎市出身。

    原爆が落ちた日、戦争に行っていたので助かりました。
    でも、当時結婚していた奥さんやお子さんは原爆で亡くなりました。

    戦後、私の祖母と出会い再婚し、いま、孫の私があります。

    +13

    -1

  • 139. 匿名 2015/08/15(土) 15:04:45 

    祖父から聞いた話。
    中国満州で鉄道を作っていた所、ロシア兵に捕まり捕虜に。真冬のシベリアで-50℃の中強制労働をし、運よく名簿のはじめの方に載っていたから帰ってこられた。(この辺はあまり詳しく聞いてないのですみません。)帰ってこられなかったら母は産まれてないし、私もこの世にいなかったんだなぁ。

    +7

    -0

  • 140. 匿名 2015/08/15(土) 15:43:03 

    オレは南の島にいたから、暑さには強いんだ!と豪語していたおじいちゃん。
    南の島では食べ物がなく、誰かが病気になってゲロを吐いたら、腹をすかした別の誰かがそのゲロを食ったそうです。
    笑い話みたいに話していたけど、相当悲惨な話。

    +9

    -3

  • 141. 匿名 2015/08/15(土) 15:58:59 

    私(48歳)の亡くなった大叔母さん(祖父の妹)は生きていれば100歳をゆうに超えてますが・・・
    生涯三回結婚してます。
    最初の旦那さんは戦地で亡くなり、その後旦那の弟と結婚させられ、その二回の旦那さんは病死したので、
    親戚から婿養子をもらい三回目の結婚しました。
    大叔母さんの子供達は五人いますが、父親が違っても皆仲が良いです。

    結婚は三回とも自分の意思ではなく、親や姑の言いつけでしたそうです。
    現代だと人権侵害ですよね。

    +5

    -0

  • 142. 匿名 2015/08/15(土) 19:08:41 

    私の大叔父は、20才を少し過ぎた頃に満州へ行き、死にました。
    ある日、曾祖母(大叔父の母)の家に戦死の知らせが届いただけで、どういう最期だったのか分からなかった。少しでも状況を知りたくて私の祖父(大叔父の兄)が戦後、戦地で一緒だった人を尋ね歩いたそうです。
    その結果分かったのは、通信兵だった大叔父はある夜一人で電信柱の様子を確認しに行ったまま戻ってこなかったということ。敵に襲われたのかもしれないし、もしかしたら何かの事故、例えば崖から落ちたとか、そういうことに遭遇したのかもしれないし、有り得ないかもしれないけど、戦争に嫌気が差して自ら死を選んだ可能性もゼロではない。本当の最期がどんなふうだったかは結局分からないまま。
    大叔父が出征した頃は終戦間近の戦況が悪いときで、赤紙で召集された後はいつ出征するか知る術がなく、曾祖母は見送りにもいけなかったそう。そんな中で出征して、一人で死んでいった大叔父が私には不憫に思えて、たまらない気持ちになります。会ったこともない人なのに、お墓参りの度に大叔父を思う気持ちが大きくなるのが最近本当に不思議。

    +7

    -0

  • 143. 匿名 2015/08/16(日) 00:47:08 

    祖父は戦艦大和の乗組員でしたが、沖縄特攻出撃前に「まだ死ぬには若い」と、下ろされたそうです。
    大和には思い入れがあるのか、祖父の自宅には直径2mぐらいの大和のプラモがガラスケースに入って飾ってありました。

    戦争の話は、たくさん教えてもらったのに当時は全く意味がわからず話が長いな、、としか思ってなかった自分が情けない。
    亡くなってしまったからもう何も聞けません。

    +5

    -0

  • 144. 匿名 2015/08/17(月) 08:12:32 

    まぁ公の場などでは特攻隊の話は感動、可哀想の連発だけど、確かに任命された事には可哀想だけど多くの特攻隊が撃ち落とされたとは別に多くの特攻隊が自ら海にわざと落ち泳いで逃げて今に生きている人がいる事も事実

    +0

    -0

  • 145. 匿名 2015/08/31(月) 11:53:09 

    私のひいおじいちゃんが,戦闘機に乗っていたんです。

    +0

    -0

  • 146. 匿名 2015/08/31(月) 11:54:53 

    私のひいおじいちゃんは、特攻隊だったんです。
    そして、20才で死んでしまいました。

    +0

    -0

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