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389. 匿名 2021/11/27(土) 12:53:37
宮中の女性が着用した中国風の「乙姫さま」のような装束が、いつ日本風の「十二単」になったのか、実はよくわかっていない。文献をたどると平安中期、清少納言や紫式部の活躍した時代に変化したと思われている。
「十二」というのは、「十二分に」という言葉があるように、「たくさん」を意味するもので、平安時代には20枚以上重ねて歩行が困難であったという話も残っている。その時代には貴人に仕える女房が着る装束ということで「女房装束」と呼ばれていた。
また、江戸時代が終わるまでは、女性が公の場で儀式に参加する機会が少なく、一定の着付け方法が定められたのは、大正の即位礼のとき。ここで「五衣唐衣裳」という名称も定まった。
さらに、江戸時代までの日本のカイコが出す糸で仕立てた十二単の重さは、明治以降のフランス種の3分の1の重量、いまよりはずっと軽かったと思われる。現在の絹糸は太く重いので、立って長時間の儀式をする「立礼」の実情に合わせ、五衣を「比翼仕立」(襟袖裾の見える部分のみ5枚重ね)にして軽量化を図っている。
Discover Japan より 長文ごめんなさいリンク拒否された。
この軽い糸の蚕は、絶滅したんでしょうか。
確かに厚地の絹織物は、重いです。+24
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390. 匿名 2021/11/27(土) 13:10:12
>>389
国内の養蚕場が最盛期には1960もあったのに今ではたったの7つと聞きました。辞めてしまった中に軽い絹糸の生産者さんがいらしたのでしょうか。新潟県の米農家の廃業が著しく11000軒あったのが6700軒になったとか聴くと天皇家がこの2つを重要視してきた意味を深く感じました。生産者さんに感謝しなくちゃ。+30
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