戦争について実体験を聞いたことありますか?
1816コメント2018/07/01(日) 08:48
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1113. 匿名 2018/06/19(火) 18:29:37
田舎に集団疎開する時に、お母さんはオジャミ(ハギレを縫い合わせて作ったお手玉)の中に煎った小豆を入れて持たせてくれた。ひもじい時に食べなさいと。
疎開先で大空襲の知らせを聞き、母は祖母や疎開していない姉妹は死んだと思った。B21は何百機とやってきて、空を真っ赤に照らすほど爆撃して、夜なのに明るかった。
あなたのお母さんを空襲後に見かけた。生きてるよと近所の人から教えてもらった時は足がガタガタ震えた。
終戦後は戦地から引き揚げ者が汽車に鈴なりになって乗っていた。母はまだ高校生。一番上の姉の夫は南方の島から帰還した。
戦力を増やすために産めよ増やせよ(殖やせよ)の精神で、出征前に無理やり結婚することも少なくなかった。
息子は帰って来ないかもしれない。その前に一粒種をこさえて、その子供にお父さんお母さん、自分の奥さんや幼い兄弟姉妹を託そうとした。
結婚してから相手を好きになろうと努力した。
戦死した場合は、その兄弟と結婚(再婚)するケースも少なくなかった。
焼夷弾が当たって、首のない赤ちゃんをおんぶして逃げている人を見かけた。
お母さんは逃げるのに必死で赤ちゃんが亡くなっていることに気づいていない。
辺り一面火の海で、みんな川に飛び込んだ。
川にはたくさんの人が浮かんでいた。
助かった人に水をあげてはいけない。すぐ死ぬと言われてあげられなかった。
戦争で親をなくした孤児がたくさんいた。
手足を失って仕事ができない傷い軍人さん、年の暮れになると社会鍋で寄付をお願いしに街角に立つ風景が昭和にはあった。
父はしょうい軍人さんを見かけたら必ず多めのお金を差し上げてた。なかには詐欺もあったみたいだけど、父は日本のために頑張ってくださった方を大切にしないとと言ってた。
(50代半ばです。父は生きていたら92歳、母は健在で90歳です)+25
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