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16162. 匿名 2024/03/02(土) 11:07:18
>>16142
本能寺の東300mに南蛮寺があったようです。
当時の本能寺、南蛮寺は、共に広い敷地面積だったそうですから、お隣り同士の場所だったと言えそうです。
事件当日、南蛮寺にいた宣教師達は、本能寺の変を目撃したのではないかと推測します。キリスト教を保護していた信長が討たれたのですから、当然、そのことの経緯と詳細をバチカンへ報告しているでしょう。
バチカンに保管されていると思われる、日本からの報告資料を調べれば、事件のことがもう少しよく分かるのではないかと思います。
あっ、でも、バチカンは、信長が贈った安土城下町全景屏風絵も見つからないと言っているんでしたか。
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[南蛮寺]
京都における最初の南蛮寺は、織田信長が9歳の時に出来たようです。
(織田信長(1534年(天文3年)〜1582年(天正10年))
京都における最初の「南蛮寺」は、永禄12年(1543年)に建立され,年号を寺号とし「永禄寺」と称しました。「南蛮寺」の正式名称は「被昇天の聖母教会」
イエズス会の宣教師オルガンティノが指揮を取った「南蛮寺」の建設に当たっては「高山ダリオ(図書:ずしょ)」をはじめとする畿内のキリシタン有力者の協力と寄進が寄せられ、当時の日本に建てられた教会堂の中でも最大級の規模となりました。
天正15年(1587年)には、九州征伐を終えた「豊臣秀吉」は「バテレン追放令(宣教師追放令)」を出して、キリスト教弾圧を始めます。この「南蛮寺」もその時に破壊されてしまい、その後復興されることはありませんでした。
戦国末期永禄2年(1559年)、京都でのキリスト教布教が本格化し、永禄4年(1561年)にこの付近に礼拝堂が設置。数々の迫害に遭いつつも、信長の加護の下信者は増加。天正4年(1576年)には古くなった礼拝堂を再建。ミサも行われ、信者の間では珊太満利亜(サンタマリア)上人の寺とも呼ばれていました。
建物は木造瓦葺、3層楼閣風で木造瓦葺、3層楼閣風で、屋根は最上層が入母屋造、1、2層は寄棟造であったと伝えられています。
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[本能寺]
織田信長が明智光秀に襲われ自害・焼失した本能寺は現在地の寺町御池ではなく、
1582年(天正10)ごろは堀川四条の近くにあり寺域は東西150メートル、南北300メートル。
本能寺の変後、豊臣秀吉が現在地に再建。
https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=8&tourism_id=900
本能寺と南蛮寺
本能寺跡 | 今は跡形もない織田信長終焉の地(京都市中京区) | たびすたtabi-z.comこんにちは!ZIGです。 今回は本能寺跡を訪れたので紹介します。 本能寺と言えばもちろんあの「本能寺の変」の舞
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珊太満利亜上人の寺(さんたまりあしょうにんのてら)蛸薬師通りにある旧跡の碑です。「此付近南蛮寺跡」の石碑ですが、まさに、「南蛮寺」があったことを示しています。ご存知のように「南蛮寺」は日本におけるキリスト教の布教所の俗称です。「切利支丹寺」