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385. 匿名 2023/10/28(土) 07:32:57
星野のコメントはこうだった。
「ひとつだけ。安倍晋三さんが上げられた“うちで踊ろう”の動画ですが、これまで様々な動画をアップして下さっている沢山の皆さんと同じ様に、僕自身にも所属事務所にも事前連絡や確認は、事後も含めて一切ありません」
なぜ邪推を招く、隙間だらけのコメントになったのか?
さて、批評を始めよう。まず最初に指摘しなければならないのは、ここだ。コメント内で星野は(主語は曖昧にぼやかされているのだが、おそらく)安倍首相サイドから「事前の連絡・確認も事後の連絡・確認もなかった」としているだけだ。つまりここは「(首相側から、直接的な)連絡はなかった」と述べているに過ぎない。
だから逆に、意地の悪い見方をすると、星野が「事前になにも知らなかった」とは書いていない、ことになる。「安倍首相が動画を投稿することを『事前に知らなかった』」とは、彼は一切書いていない。たまたまか、わざとか、書いてはいない。
それゆえ、たとえば以下のような可能性は、完全には排除できないことになる。
たとえば「以前、星野源やスタッフと安倍首相とその側近らが一同に会した機会に『どちらからともなく』首相が投稿したら面白いね、という話になっていた」とか。あるいは「第三者の仲介者が星野源と安倍首相の双方に『こんな企画になったら面白いよね』として、話を持ち掛けていた(しかし、実行される時期については、星野サイドは聞かされていなかった)」とか――。
とてつもなく大事な「この一言」が、なぜなかったのか?
このどちらの例も「実際にそんなことがあった」可能性はほとんどない、と僕は考える。だがしかし「絶対になかった」とは、言い切れない。星野が肝心の一言を発していないからだ。とても簡単な一言だ。
「首相があの動画投稿をすることは、自分は事前に一切知らなかった」
たったそれだけのことを、彼はここで明確に言うべきだった。事実の経緯が、そのとおりならば。とてもシンプルに、それだけをまず。
湧き出した疑念の数々や「そもそも」論
加えて、このような論旨で文を編んでしまったがゆえに「さらなる疑惑」が生まれてきた、という声すらある。文章上のレトリックで「隠そうとしている」だけで、本当に「あったこと」は、こうなんじゃないか?という、うがった見方だ。たとえば、こんなふうな経緯だったんじゃないか、とか。
星野は「安倍首相が動画を投稿することを『事前に知らなかった』」とは、一切書いていないわけだから、つまり「(なんらかの回路で)事前に知っていた」可能性がある――まあ、ごく普通に常識的に考えれば、一国の首相が「まったくの無断で」コラボ遊びに興じたと考えることのほうに、無理がある――という意見だ。
たとえば今回の騒動にかんして、立憲民主党の蓮舫参院議員は「極めて政治性の高い投稿なのに星野さんの事務所、ご本人には事前連絡がないという不見識に言葉を失いました」と述べている。これが「常識的な」反応というものだろう。
要するにあのコメントは、そこかしこで勘所がぼやかされているために「いろんなふうに読まれてしまう」悪文だった、と評するほかない。多様な解釈や「行間にあること」について、あらぬ深読みをされてもしょうがないようなもの、だったと言えよう。
さらに「そもそも論」として、こんな意見まであった。「なぜ星野源は、こんなコメントを発表する『必要』があったのか?」というものだ。たしかに、そこが一番不思議と言えば、不思議だ。そもそもの企画、彼の「うちで踊ろう」動画は、本人の意志のもと、フリー素材として提供されたものだ。「フリー素材だから、誰がどのように使っても自由」ということで、安倍首相が参加したくなるほど(?)多くの人々によって共有され、「コラボ」されて、ネット上に広がっていたものだ。
では「であるのに、なぜ」星野はわざわざ、前述のコメントを出さねばならなかったのか? その理由が「まったくわからない」という声だ。「誰がどのように使っても自由」なのだから、相手が総理大臣であろうが、「事前や事後の連絡や確認の有無」について、いまさら言及する必要はないはず。沈黙を貫けばいいだけの話。なのに「勝手に使っていいと言いながら、悪評が出てきたら、大急ぎで言い訳をする」というのはおかしいのではないか? そんなに安倍首相が嫌いなのか?――という意見だ。
たしかに「そもそも論」的には、そのように言われてしまってもしょうがない。なぜならば、このようにして「フリー素材」として公表してしまった以上「誰に使われても」それを止めることは難しいのだから。ゆえに「相手が総理大臣だったら」突然に言い訳をしてしまう、というのは、+2
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