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121. 匿名 2021/10/31(日) 02:37:45
>>115
まず劉備の目標はあくまでも荊州奪還であって呉の殲滅などではない
それから関羽の仇討ちは士気を高めるためと戦後の呉との外交をにらんでの大義名分に過ぎない。目的はあくまでも旧領回復
そして政局というなら、劉備政権(蜀漢)にとっては荊州は蜀の地より大事なくらい重要。
なぜなら劉備政権は漢を簒奪した魏を倒して漢を再興するというのが国是でありそれによって人心をまとめてる。
で、魏を倒すためには地理的に荊州が必要不可欠(実際、荊州を失った状態だから諸葛亮の北伐もことごとく失敗してる)
だから荊州を諦めるという姿勢は国是を放棄したと捉えられて人心は離れかねない。
配下も軍も荊州奪還の強硬論が主流だから、劉備の意思うんぬんだけでもない+0
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137. 匿名 2021/10/31(日) 08:26:19
>>121
劉備が東征した理由は関羽の仇討ちで夷陵の戦いは劉備の独断です。
正史では「先主は孫権が関羽を襲撃したのを怒り、東征に向かわんとし」(先主伝)「先主が帝位についたのち、東方の孫権を征討して関羽の仇を討とうとしたとき」(法正伝)「『…関羽の劉備に対する関係は、道義では君臣ですが、恩愛では父子です。関羽が殺されても彼のために軍をおこして敵に報復できないならば、最後まで恩愛を貫くというたてまえからいって不完全となりましょう』」(劉曄伝)とあり同時代人や陳寿からは関羽の仇討と捉えられていたことが分かる。
楊戯の『季漢輔臣賛』では、指揮官(『蜀書』では「領軍」、『呉書』では「護軍」「大督」)に任命されていた馮習が「敵を軽んじたため、国家に損失を与え」「災難は一人から生まれ、広大な影響を与えた」と評されている。+1
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