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373. 匿名 2020/08/15(土) 09:21:47
>>81
15です。
うちの祖父はなんとか生き残りましたが、同じ班?とは10人も生き残れなかったそうです。
祖父は運良く外務省の方と同じく班になり、その人に「ロシアは国に返すと言っているけど、現状は帰れない。だから、少しでも長く生きて苦境から解放される日まであなたはロシア語を覚えなさい。」と言われて必死にロシア語を覚えて、捕虜とロシア兵との通訳になり強制労働から備品担当の比較的体に楽な仕事になったそうですよ。
それで、少しでも、班にごはんを回そうとしたり、したけど、強制労働で弱っていく人ににごはんをあげたくても、ロシアからの食料供給は滞ることが多くごはんを食べられない日が何日も続くことがあったしそうです。
祖父は兄弟が多くて10歳で家族と離れて満洲の親戚の家で働いていたので、「いままで辛かったから、せめて日本に帰って死にたい!」と思って頑張って25歳で日本に戻ってきましたが、共産党員なんじゃないかとしばらく公安の管理下に置かれ、仕事に着くの大変だったと話していました。
結局、共産党のみんな平等!なんて嘘と言うのを知っているので、共産党大っ嫌いって言ってました+212
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611. 匿名 2020/08/15(土) 10:22:07
>>373
お祖父さん、帰還できたんですね!貴重な生の声ですね。ありがとうございます。
帰ってきてからの苦労も想像できるものではないけれど帰還して家族と再開できたことは本当に良かったです。
私の祖父は北朝鮮に送られてしまった時点でもう帰還の可能性はゼロだったんですね。父が生まれて数日後に出兵してそのまま帰ることなく戦死(病死)しました。
忘れてはいけない過去だと思います。+128
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