-
258. 匿名 2014/12/21(日) 11:52:34
村西とおるパート⑤ね。
> 書かれる本人は自分のありのままを忠実に書いてくれる書き手を選ぶのは当然の選択でございます。
「殉愛」に関しては最初から嫌なイメージを受けていました。
新聞の広告のコピーに百田尚樹さまが「これまでで最高の傑作、こんな作品はもう一生書けない」といった文字が躍るのを読んだ時、作家とあるべき人間が、よくもこんな軽薄なコピーを書いて平気でいられる、と不快に感じたのでございます。
作家に限らずモノを創る人間は今日より明日、を目指して努力を続ける生き物でございます。
チャップリンは「今までで一番の作品は」と問われて「ネクスト・ワン」と答えました。
次の作品こそ自分のベストだ、という思いがあればこそ創作意欲が湧くのでございます。
これが自分にとっての最高の作品、と思った瞬間、モノを創る人間の生命は失われてしまいます。
ネクスト・ワンはモノを創る人間の原動力、業のようなものでございます。
それを百田尚樹さまは「これが最高で、もう書けない」とやったのでございます。
どこまで「売らんかな」に臆面もないのか、と実に嫌な感じがしたのでございます。
そしてそうまでして売り込む「殉愛」なる小説にも疑問を抱いたのでございます。
まず主人公のさくらさまが出会ってから死別するまで、一度もたかじんさまと「性交渉」をもったことが無い、と言われることに疑問を持ちました。
病気を患ったとはいえ、大人の男と女が愛し合って共に生活をしていて「性交渉」がなかったとはニワカには信じられない話でございました。
あまりヨタを飛ばすもんじゃない、と呆れました。
別の意図があって、さくらさまはそのようなことを言われているに違いない、と受け止めました。
いずれその謎の意図は明らかになるものと考えておりますが、たとえそれが事実であっても大人の女が「性交渉」が無かったことを根拠に「殉愛」を語るなんて、胡散臭さ以外の何ものでもない話でございます。+92
-0
削除すべき不適切なコメントとして通報しますか?
いいえ
通報する