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718. 匿名 2019/09/26(木) 14:45:55
戦国時代、キリシタン大名たちが宣教師や欧米人との間で奴隷貿易を行っていた。
日本人の若い娘50人が火薬1樽だったそうだ。子供を含め、老若男女、沢山の日本人が奴隷として売られていった。
その数、50万人以上と言われている。(当時の日本の総人口は、1200万人前後)
「キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし」
「行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。
ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている」(秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録より)
1555年の教会の記録によれば、ポルトガル人は多数の日本人の奴隷の少女を買い取り性的な目的でポルトガルに連れ帰っていた。
国王セバスティアン1世は日本人の奴隷交易が大規模なものへと成長してきたため、カトリック教会への改宗に悪影響が出ることを懸念して1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した。
これを知り、豊臣秀吉は激怒し、キリスト教の宣教師イエズス会の準管区長ガスパール・コエリョに対して詰問する。
「予(=秀吉)は、商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。」
「よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。
予はそれに費やした銀子を支払う。」
この答えに激怒し、バテレン追放令を発布。
バテレン追放令は11カ条から成り、十条で日本人を南蛮に売り渡す(奴隷売買)ことを禁止している。
日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した1540年代末頃からはじまったと考えられている。
16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している
「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」
「 全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか。」(天正遣欧少年使節団の手記より)
天草の乱で有名な天草四郎、彼もまた奴隷貿易を行っていた。
余談ながら…
高山右近、大友宗瞬などキリシタン大名たちは神社仏閣を破壊し焼いていた。
島原半島を支配していたキリシタン大名・有馬晴信、彼の庇護下にある宣教師たちは日本の寺院の仏像を破壊し、仏教徒の目の前で放火した。また、キリシタンと僧侶 の間に争いが起きると、晴信は、僧侶を処刑すると脅し財産を没収した。
領民はこれを聞いて震え上がり、たちまち千人を超える人々が改宗したという。晴信は宣教師の求めに応じて、領民から少年少女を取り上げ、インド副王に奴隷として送る、ということまでしている。+19
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723. 匿名 2019/09/26(木) 14:57:22
>>718
そういえば、南蛮船で売られて行く女性の場面が昔の時代劇にはあったよ。
事実だったんだね。+15
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751. 匿名 2019/09/26(木) 16:42:23
>>718
結局はキリシタン大名たち宣教師が日本にやりに来た事って
日本を奴隷化する為だったんだよね。
東南アジアやインドのように自分達の植民地にしたかった。
そういうのが織田信長がサイキック能力があったために
全部バレてキリスト教を禁止したっていうのがあるらしいよね。
インドや東南アジアも、向こうの初めは友好関係を結びたいって言葉を
信じて陸に上がらせたら、気が付いたら武力で無理やり
植民地にさせられていたっていうのが真実らしいよね。
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