ガールズちゃんねる

身内の人に戦争の話を聞いた事ありますか?

370コメント2014/08/16(土) 15:05

  • 1. 匿名 2014/08/05(火) 14:12:42 

    先日、沖縄旅行に行った時、ひめゆりの塔に行き、元ひめゆり学徒隊だった
    方の話を聞く事ができました。
    戦争の話はかなり衝撃的な話で、戦争の知らない私達の為に、一生懸命に話
    しをしてくれる姿に心打たれました。

    その時に、私は自分の祖父や祖母からちゃんと戦争の話を聞いていなかったな
    …と思いました。しかし、両祖父母はすでに他界している為、もう話しを聞く
    ことは出来ません。

    皆さんは身内の人から戦争の話を聞いたことありますか?

    +284

    -2

  • 2. 匿名 2014/08/05(火) 14:13:55 

    +81

    -10

  • 3. 匿名 2014/08/05(火) 14:15:28 

    私の祖父は亡くなった友人を思い出して悲しくなると言う理由から戦争の話は一切しませんでした。

    +262

    -5

  • 4. 匿名 2014/08/05(火) 14:15:47 

    うちの祖母が、家の隣に爆弾が落ちたとかは言ってた

    +107

    -7

  • 5. 匿名 2014/08/05(火) 14:16:07 

    おばあちゃんに。
    大阪のメインストリートと言われる所で将棋弾という爆弾に被爆した人たちが川の水で火を消してたんやで。って。
    今では考えられない、想像もできないような光景です。

    あんたたちは素晴らしい時代なんやから、いっぱい外に出て友達と遊びや!
    って笑って言ってくれる、日本の激動の時代を過ごしたおばあちゃん、おじいちゃんを誇りに思います。

    +443

    -4

  • 6. 匿名 2014/08/05(火) 14:16:12 

    叔父は訓練はしてたみたいですが終戦迎えギリギリ助かったみたいです。

    +158

    -4

  • 7. 匿名 2014/08/05(火) 14:16:40 

    はい。
    両祖父から兵隊だった頃の話を聞きました。

    祖母からは、女子供ばかりで
    どう生き抜いてきたのかを聞きました。

    +178

    -4

  • 9. 匿名 2014/08/05(火) 14:17:46 

    学校ではしょっちゅう戦争の授業がありましたが。

    ひいおじいちゃんからは すこしだけ聞きました。

    赤紙?というのがきて、
    3時間歩いて検査に行ったけど
    肺の持病のせいで 兵隊に行けなかったと。

    それくらいです…

    ひいおじいちゃんが戦争に行ってたら
    私はこの世にいなかったかも。


    今はあまり戦争の悲惨さを語られてないような気がします。

    若い子にも戦争の悲惨さを聞いてもらいたい。

    +240

    -2

  • 10. 匿名 2014/08/05(火) 14:18:09 

    小学生の頃、地元のお年寄りの戦争体験を聞くと言う授業が数回ありました。
    全小中学校でこういった平和教育をしっかり行って欲しいと思います。

    +237

    -6

  • 11. 匿名 2014/08/05(火) 14:18:15 

    うちの祖父は頻繁に話してますが、言い方が今の若い連中はどうとかこうとか愚痴るために出して使うのでまともに誰も聞いていませんでした
    セールスに来た人とかにも話してる
    ちゃんと話したいとかではないんだろうね

    +20

    -91

  • 12. 匿名 2014/08/05(火) 14:18:16 

    祖父が兵隊をまとめる隊長?でシベリアや中国に行ったらしく、よく話してくれていたように思いますが、私が途中で泣いてしまうので最後まで聞いたことはなかったかも

    +141

    -4

  • 13. 匿名 2014/08/05(火) 14:18:38 

    私のお爺ちゃんは身体が弱く結核を患っていたので戦争には行けなかったとお婆ちゃんに聞いた事がある。

    +104

    -3

  • 14. 匿名 2014/08/05(火) 14:19:03 

    祖父に聞いた事があります。

    終戦後
    シベリアで捕虜になって
    沢山の仲間が亡くなった…と
    聞きました。

    +210

    -2

  • 15. 匿名 2014/08/05(火) 14:19:13 

    父が79歳なので、たまに話を聞きます。
    経験した本人は、戦争の映画・漫画・ドラマなどは大嫌いだそうです。

    話を聞く度、戦争のない時代に生まれて良かったと思います。

    +181

    -0

  • 16. 匿名 2014/08/05(火) 14:19:39 

    祖父から捕虜になったけど、すぐに終戦を迎え解放されたと聞きました。
    沖縄出身の祖母は、夜でも空が明るいと(サーチライトとか)空襲を思い出して怖いと今でも言ってます。

    +178

    -3

  • 17. 匿名 2014/08/05(火) 14:19:47 

    長崎で、祖母は被爆者ですがあまり話してなかったかも

    +74

    -1

  • 18. 匿名 2014/08/05(火) 14:20:00 

    8
    もう少し日本語勉強してから書き込めバカチョォーン!

    +87

    -39

  • 19. 匿名 2014/08/05(火) 14:20:25 

    祖父は戦争で目を負傷したそうです。
    それぐらいしか聞かなかったなぁ。

    +43

    -3

  • 20. 匿名 2014/08/05(火) 14:20:40 

    父も今は亡き母も戦時中には生まれてました。
    確か10才前後だったかな?
    父は東京に住んでいたので、親と離れ新潟に疎開したそうです。
    長くなるので割愛しますが、いろいろな話を聞きました。

    そんな父も78才です。
    戦争体験者がいなくなったら教訓を聞けなくなり、また戦争という間違いが起こりそうで怖いですね…。

    +165

    -5

  • 21. 匿名 2014/08/05(火) 14:20:56 

    小学生の時 夏休みの宿題で戦争について調べるか誰かに話を聞くという課題があり、祖父が兵士として戦争にいっていたので話を聞いた覚えがあります。
    身内だとなおさら重く感じてしまいましたが、本当によく戻ってきてくれたなと思います。
    祖母や父はどんな気持だったんだろう・・って思いました

    今はもう祖父は亡くなりましたが、忘れられない思い出です
    自分は祖父に比べたらまだ全然苦労も努力もしていないなと思っています

    +94

    -2

  • 22. 匿名 2014/08/05(火) 14:21:59 

    祖父が被爆者です。
    友達が目の前で亡くなり祖父自身も体中にガラスがささったまま大阪へやってきたそうです。思い出すからかな❔戦争の話は一切しなかったけど私達が中学生くらいになった頃ちゃんと見せておきたいと広島、長崎、沖縄へ連れて行ってくれました。
    今も健在です。

    +202

    -0

  • 23. 匿名 2014/08/05(火) 14:22:55 

    祖父に東京大空の話を聞きました。
    炎が凄すぎて夜でも新聞が読めるくらいだったと。
    あと、祖父は病気で戦地に行くことはなかったんだけど、
    友達が何人も犠牲になって「自分だけ助かって・・・」って
    申し訳無さそうに話してたっけなぁ・・・

    +133

    -0

  • 24. 匿名 2014/08/05(火) 14:23:40 

    あります
    私は皆さんの嫌いな在日です
    戦争中にひいおじいちゃんが日本に連れて来られておばあちゃんもそのあと来たそうです。
    家族ごとに住んでいたそうです。
    その時小学生で終戦後日本人にたくさん優しくしてもらったそうです。
    学校に通っていなかったおばあちゃんを見兼ねて小学校の先生が手続から何からしてくれて読み書きができるようになったそうです。
    嫌なこともあったけどそれは戦争だから仕方ないと言っていて、優しい人がたくさんいたと教えてくれました。

    +413

    -30

  • 25. 匿名 2014/08/05(火) 14:23:45 

    祖母がように話していた

    水を大切にせなあかんよ
    ばあちゃんは満州におった時に一番困ったんが水なんよ
    毎日毎日歩いて水を汲みに行ったんよ
    だから、水を出しっぱなしにしてるのを見ると悲しくなるんよ

    という話が忘れられません

    +346

    -1

  • 26. 匿名 2014/08/05(火) 14:24:06 

    曾祖父が戦地で曾祖母と祖母に宛てた手紙を見せてもらったことがあります。敵軍が近くまで攻めてきていて、もうダメかもしれないということや、まだ幼かった祖母を心配する内容で、涙無しでは読むことが出来ませんでした。

    +175

    -0

  • 27. 匿名 2014/08/05(火) 14:24:22 

    いつもほんとに優しい
    うちのおばぁちゃん
    戦争の話をすると本当に怒るし
    悲しい顔をする。
    いろんな話も大事だけど
    その表情が一番のメッセージだと思う。
    絶対にしてはいけないことですよね。

    +217

    -1

  • 28. 匿名 2014/08/05(火) 14:24:34 

    祖父が海兵さんだった。
    間一髪、船から海に飛び込んで
    爆撃避けたらしい。
    祖母は広島住みで、ただ原爆からは
    離れてたので
    遠くからキノコ雲を見たとか。
    これ聞くと、自分が今存在してるのって
    奇跡なんだなと感じる。

    +214

    -3

  • 29. 匿名 2014/08/05(火) 14:24:39 

    戦後の食料不足の話なら聞いたことあります。
    印象深いのは、ウサギの耳を食べながら歩いてた母を見て、となりのおばさんが「ぎゃ」って驚いてたとのこと。
    本人は何を食べてたのかは覚えてないけど「その時あたし、ウサギの耳を食べてたらしいのよ」って。焼いたら食べれるのかな、とかいろいろ考えさせられました。

    +104

    -1

  • 30. 匿名 2014/08/05(火) 14:24:46 

    私は祖父が若くして戦死してるのですが、私はもちろん生まれてなかった為話を聞く事もできませんでした。中学生の時に修学旅行でひめゆりの塔に行ったり、経験者の方の話を聞いてすごく勉強になったのと、戦争に興味を持つようになりました。

    +70

    -2

  • 31. 匿名 2014/08/05(火) 14:25:45 

    話は聞いたことないけど
    ひぃおじいちゃんが右手親指がありません。
    おばあちゃんからは「戦争でなくなった」としか聞けませんでした。

    +93

    -2

  • 32. 匿名 2014/08/05(火) 14:26:33 

    近所の人が出兵するので見送りに行った時、当時子供だった母は
    「もし○○さん(出兵する人)が死んだらどうするの」と何気なく聞いてしまった。
    周囲は驚いて勇ましげなムードが白けかけてしまい(そりゃそうだ)、母は祖母に家へ引っ張り込まれて「めったな事を言うな」と叱られたそうな。

    +82

    -0

  • 33. 匿名 2014/08/05(火) 14:27:10 

    祖母がよく話していました。
    「ごめんねぇ、こんな話ばっかり。つい止まらなくなっちゃって…」って、
    涙を拭きながら話していました。

    祖母に聞いた戦時中の話もこころに残っているけど、
    戦後に子供時代を過ごした母の話も、切ないです。

    昔は、今じゃ考えられないようなことが当たり前に起こっていたんですよね…
    ほんの数十年でこうも変わるのかと、本当に驚きます。

    +140

    -2

  • 34. 匿名 2014/08/05(火) 14:27:17 

    5さん
    焼夷弾です。
    あたりを火の海にして焼き払う目的で使われるもの

    +92

    -2

  • 35. 匿名 2014/08/05(火) 14:28:08 

    生きてたら100歳ぐらいになってる
    母方の祖母から戦争の話たまに聞いてた。

    東京の世田谷に住んでたから、けっこう大変だったみたい←祖母は、生きてた頃のハチ公も見てる。
    一番、衝撃的だったのは…
    壁に手付けたら、手にはびっしりとウジ虫が付いていた…
    今の日本で、祖母達が経験した様な戦争が起きたら
    みんな正気で居られないよね…



    +170

    -2

  • 36. 匿名 2014/08/05(火) 14:30:12 

    祖父母は教師だったので、戦争に行かなくてすんだそうです。
    でも朝鮮に日本語を教えに行ってたとかなんとか。

    母からは都会から疎開してきた親子と一緒に住んでいた話を聞いたりしました。

    +50

    -3

  • 37. 匿名 2014/08/05(火) 14:30:14 

    祖父は
    右手の人差し指が銃で撃たれて
    ありません。
    今でも寝言でロシア語話したりします。
    なんとも言えない気持ちになる。

    +196

    -0

  • 38. 匿名 2014/08/05(火) 14:30:18 

    爺ちゃんに聞いた話。

    わたしの故郷の過疎地の漁村に海軍の通信部隊がいた。沖の小さい島に無線施設があったんで。
    本土空襲が始まった頃に、米軍の偵察機が年中飛び交うようになった。
    一機だけでくる偵察機はたちの悪いやつも居て、帰りに牛を撃ったり役場を撃ったりした。
    町のみんなは何とかしてくれ!って海軍に言った。なんでも性能のいい漁船は「徴用」されたそうで
    補償はあるようでないようなあやふやなもの。
    しかも一部の兵隊は酒場で飲んだくれて偉そうにしてたんで反感は潜在的にあった。

    その通信部隊は徴用した漁船に機関銃を乗っけていつも偉そうに出港していく。
    ある日、米軍の一機だけきたタチの悪い偵察機が海水浴してる小学生に機銃掃射していった。
    町のひとはついにキレて、「何とかしてくれ!」って海軍の駐留隊に言った。
    翌日、ついに漁船に乗っけた機銃で海軍の兵隊さん達は米軍機を撃った。
    米軍機は「ん?なんかいるのか?あれ機銃ついてんの?軍?」あとはもう凄惨なミンチでスプラッタ。。
    掃除が大変だったそうな。。

    その後、町ではその話はなかったことになった。終戦直後のトンネル工事での死者は幽霊話になって
    語り継がれたのに、その兵隊さんたちの話は、追い詰めた町のみんなも後ろめたかったのか
    きれいさっぱりと「無かったこと」にされたそうな。。

    +47

    -14

  • 39. 匿名 2014/08/05(火) 14:30:31 

    私の祖母は満州にいました。
    ロシア兵がやってきて、
    喉仏をさわって、女だとわかると
    みんな連れていかれたと言っていました。、

    小さかった祖母は第一便で日本に帰国できたけど、
    カチカチに凍った死体を踏み越えて港まで行ったと
    言っていました。

    +132

    -0

  • 40. 匿名 2014/08/05(火) 14:30:50 

    5の意味がよくわからなかったけど、焼夷弾ね、納得

    +30

    -3

  • 41. 匿名 2014/08/05(火) 14:31:50 

    沖縄は激戦区。
    私のおばあちゃんは弟をおんぶしながら
    逃げていたそうで
    激しい光の後で 背中が軽くなり
    振り返ると 弟の顔が吹き飛んでいたそうです。

    +214

    -1

  • 42. 匿名 2014/08/05(火) 14:32:32 

    長崎で、祖母は被爆者ですがあまり話してなかったかも

    +42

    -2

  • 43. 匿名 2014/08/05(火) 14:32:38 

    祖父が兵隊をまとめる隊長?でシベリアや中国に行ったらしく、よく話してくれていたように思いますが、私が途中で泣いてしまうので最後まで聞いたことはなかったかも

    +11

    -4

  • 44. 匿名 2014/08/05(火) 14:32:49 

    アメリカ兵がチョコやコーラくれたり
    遊んでくれたらしい
    北海道だけど…

    +64

    -1

  • 45. 匿名 2014/08/05(火) 14:34:26 

    夫がそういうのに興味あるらしく、86の祖父の家に遊びに行っては話を聞いている。

    義祖父曰く、永遠の0に出てくる隊員の衣装の色は間違い!なんだと。

    +92

    -3

  • 46. 匿名 2014/08/05(火) 14:34:43 

    24の続きです
    それから土建屋で働いていて独立する時も読み書きができなかったひいおじいちゃんに色々してくれた方もたくさんいたんですよ。
    今でもその村に住んでいるんですが、おばあちゃんは近所の人と仲良しでおばあちゃんお手製の韓国料理パーティーしたり韓流ドラマの貸し借りしたり仲良しです

    戦争中に住んでいたバラックから逃がしてくれた人の中に日本人もいて感謝していました


    確かに変な韓国人いるから最初はみんな警戒していたそうです
    それもわかっていたからおばあちゃん達は何もかもきちんとして不快に思われないように生きて行かなくちゃ!と生きて来たようです。
    それで周りの人たちとも仲良くなりました。

    +152

    -15

  • 47. 匿名 2014/08/05(火) 14:34:59 

    うちのじいちゃんまだ10代のころ
    死ぬ気で戦闘機に乗り込もうとした2日前に戦争が終わったと言っていた。友人は帰ってこなかったって、自分だけ残ったことが悔やまれるって泣いてた

    +118

    -0

  • 48. 匿名 2014/08/05(火) 14:36:00 

    私の祖父は広島で原爆投下の瞬間を見たと話してくれました。
    「あっ」と思った瞬間に祖父は全身を大火傷、隣にいた友人は吹き飛ばされたガラスが全身に刺さり亡くなっていたそうです。
    祖父の体にはその時の火傷のあとが未だに残っています。
    毎年夏になると、小学生の息子と娘と一緒にその話を聞いてます。
    戦争の悲惨さを身をもって経験した人からの話が聞けるのは子供にとってすごく貴重なことだと思います。
    祖父は「こうやって原爆の恐ろしさや戦争の経験を話すのは自分達で終わりにしたい。戦争なんか二度とするものじゃない」と涙ながらに話します。
    毎年家族で原爆投下の時間には手を合わせて平和を祈ってます。

    長文失礼しました

    +242

    -2

  • 49. 匿名 2014/08/05(火) 14:37:01 

    昔の人って凄いよね、尊敬しなきゃ。
    自分たちはこんな幸せな環境で
    生きていられる。
    昔があるから今があるんだね。
    もっともっと知らなくちゃいけないことだよ

    +242

    -1

  • 50. 匿名 2014/08/05(火) 14:40:17 

    特攻隊が、お国のために…っていってたイメージあったけど、実際は、皆母親のことを思ってばかりいたらしい。

    +193

    -2

  • 51. 匿名 2014/08/05(火) 14:41:52 

    終戦を聞いたとき、祖父は九州だったらしいけど、やったーとか悔しいとかそういう気持ちより、これからどうすっぺーて気持ちの方が強かったと言っていた。

    +41

    -2

  • 52. 匿名 2014/08/05(火) 14:41:54 

    祖父が、シベリアに連れて行かれたそうです。とても苦労したらしいのですが、祖父は少しユーモアを交えて話してくれていました。
    ロシア語を話せるふりしてタモリのようにデタラメ話したらロシア兵に気に入られとか笑

    でもいつも最後は「温かいご飯が食べれるのは本当に幸せなこと」と言っていました。

    祖父が、食べ物を残したとこは見たことがありませんでした。
    亡くなる直前も少し痴呆の症状がでていましたが一粒残さず食べていました。


    +170

    -1

  • 53. 匿名 2014/08/05(火) 14:42:16 

    祖父は「大東亜戦争」と刻印された懐中時計を持っていました。
    祖母の話によると、その戦争で手柄を立てた人しかもらえなかったようなのですが、
    戦争での手柄=今でいう殺人です。。
    孫の私に何かを話してくれることは決してありませんでした。

    +108

    -3

  • 54. 匿名 2014/08/05(火) 14:42:56 

    知り合いのおばあさんの話しだけど、爆弾が落ちると砂埃で鼻や口が詰まって窒息死してしまうんだよと。
    あと空襲があった後は電柱とかに吹き飛ばされた死体がぶら下がっていて棒で落とすとか。
    あちこちに手やら足やらが落ちていて数メートルおきに道端に山にして少しガソリンを掛けて燃やすんだよと。
    燃料も少ししかないから燃やすのに時間が掛かる、その道は今もあんまり通りたくないと言っていました。

    +99

    -1

  • 55. 匿名 2014/08/05(火) 14:43:06 

    年齢が分かってしまいますが、亡くなった父です。
    17才で志願して満州に行きました。帰国した時は脚を負傷し、10年入院生活をしてました。母と結婚し、私が産まれた時は、まさか、子供が持てると、思っていなかったー。と、泣いたそうです。
    随分前ですが、戦友の方が
    父に会いに来てましたが、
    暗い、重い話しはしてなかった気がします。

    辛すぎる経験なのでしょう。


    先日、家を壊す時、ボロボロの千人針の布。沢山の方の名前が書かれた日の丸の旗が出てきました。
    父だけではないと思いますが、この年齢の方で、昭和天皇に対して、いい印象を持っていない方もいるのも事実です。

    +140

    -5

  • 56. 匿名 2014/08/05(火) 14:43:53 

    中学生の時学校の課題で3人の方に体験談を聞いたんだけど空襲は花火みたいで綺麗らしい
    本人たちは真面目なんだけど不謹慎と言う人もいそうだから発表はしなかったけど

    +30

    -12

  • 57. 匿名 2014/08/05(火) 14:44:08 

    祖父が30歳で戦死しています。祖母が苦労しながらも一生懸命子育てをしてくれたおかげで今の私が居るのでとても感謝しています。祖母は今97歳なので会うときは楽しく会話するように心掛けていますが、内心は今のうちに祖父の事を色々聞いておきたい。でも暗い話になると祖母に申し訳ないので聞けないでいます。

    +74

    -0

  • 58. 匿名 2014/08/05(火) 14:45:23 

    天皇陛下万歳って言っていた人たちがまだ生きているんだよね
    時代の変化について行けたのかな?

    +24

    -19

  • 59. 匿名 2014/08/05(火) 14:48:38 

    24
    ホント嘘つきだな白丁

    +11

    -34

  • 60. 匿名 2014/08/05(火) 14:48:51 

    父の話です。もう亡くなりましたが、
    60近くで私が生まれ、お爺ちゃんみたいに優しい父でした。

    南方の最前線で、弾が腕に当たって膿み、
    設備の整っていない野戦病院で切断して、
    奇跡的に日本に帰ってこれたそうです。

    酔うと戦争中の事を思いだして時々泣いてました。

    +78

    -1

  • 61. 匿名 2014/08/05(火) 14:48:53 

    うちのおじいちゃんは満州に
    行っていたようです。

    中国人は残虐だと言っていました。

    塀の上に殺した日本兵の首を並べていたらしいです。

    +112

    -10

  • 62. 匿名 2014/08/05(火) 14:48:57 

    戦争を経験していない人の数の方が多くなり
    いずれは戦争を経験したことのある人が一人もいなくなる時代が来るんですよね。

    だからこそ大切なのは戦争があったということを忘れないで後世に残し平和である大切さを伝えていくことだと思います。

    私の祖父は12歳の時に終戦を迎えました。
    爆弾が落とされる中、みんなで森の中に逃げた
    と聞きました。それはそれは怖かった。と。

    日本人として、唯一の被爆国に生まれた者として死ぬまでに一度は原爆ドームに行きたいと考えています。

    +84

    -3

  • 63. 匿名 2014/08/05(火) 14:49:13 

    おばあちゃんが一人でテレビも何もない家で自分の下の世話しながら暮らしている。
    私たちからしたら、暇じゃないの?とか思うけど、戦争を経験しているからこそ、3食食べられて雨風しのげていつでも喉を潤せる今が幸せだといっていました。
    焼夷弾や防空壕の話を小さいときは何も思わずきいていたけど、親になっていまの有り難みがよくわかる。
    子供たちにも伝えていきたいです。

    +42

    -2

  • 64. 匿名 2014/08/05(火) 14:50:12 

    ばあちゃんの話。

    空襲があってお母ちゃん(ひいばあちゃん)と逃げた。
    たくさんの人が橋の下に避難した。
    その時、防空壕に逃げようと言われたけど、ひいばあちゃんと子供だったばあちゃんはここで死ぬからもういいと言って皆と防空壕へは行かなかった。
    防空壕に行った人たちはみんな死んでしまったらしい。

    戦争下で生き延びるって正解の選択肢はないんだなと強烈に思った。

    +136

    -1

  • 65. 匿名 2014/08/05(火) 14:50:15 

    大正生まれのじぃちゃんは、戦争で足の指なくなった。何の戦争なのかわからないけど
    それ以外は戦争の話聞いたことなかった

    +22

    -0

  • 66. 匿名 2014/08/05(火) 14:50:53 

    ばあちゃんとじいちゃん。

    じいちゃんは身長が足りないのと持病のおかげ?せい?で鉄砲を作ってた。

    ばあちゃんは当時だとお嬢様だったらしく、朝鮮で暮らしてたらしい。あ、在日じゃないよ、純日本人。

    それで終戦してたら金目のものは全部置いてきて、女だと襲われたり売られたりするから、髪の毛を坊主にして、家族で逃げるように朝鮮引き上げて日本に戻ってきたらしい。

    私が聞く頃にはばあちゃん軽い認知症だったから詳しくは聞いたことないけど。

    ただ、絶対に戦争するもんじゃないってそれだけは認知症進んでも、ふとした時に呟いてた。

    +98

    -0

  • 67. 匿名 2014/08/05(火) 14:50:57 

    46
    朝鮮進駐軍のがやったことは忘れないからな
    このクズが!

    +14

    -44

  • 68. 匿名 2014/08/05(火) 14:51:35 

    他界した祖父は当時某国立大学の農学部の学生だったらしい。満州で測量していたそうで、実際には兵隊には行ってません。
    田舎ですが家が貧しく、ご飯がまともに食べれなかったと泣いていました。それ以外は何も話さずでした。

    +18

    -2

  • 69. 匿名 2014/08/05(火) 14:51:40 

    ばぁちゃんに聞いたことあります。
    本当に悲しい思いしかない、なので思い出して話したく無いとキッパリ言われました。
    優しいばぁちゃんのあの苦い表情は忘れられないな。

    +56

    -1

  • 70. 匿名 2014/08/05(火) 14:52:02 

    61
    ねえ
    日本人が中国人殺してるのはスルー?

    +14

    -86

  • 71. 匿名 2014/08/05(火) 14:52:05 

    祖父は戦死していて、私の父は当時赤ちゃんだった為、記憶が全くなく、祖母は話してくれた事はなかったですね。今私も大人になったし、祖母が生きていれば話が聞けたのになって思う事があります。
    今年、永遠の0を見に行って祖父の事、戦争の事を考えさせられました。実話ではないけど、私には色々と感じるものがありました。
    『この空に願う未来』というキャッチコピーも響きました。二度と戦争なんてしちゃダメですね。

    +37

    -1

  • 72. 匿名 2014/08/05(火) 14:52:30 

    志村うしろーじゃないけどうちの祖父は敵に狙われてたところに
    仲間に「〇〇後ろー!」って叫ばれて命が助かったらしい

    +80

    -0

  • 73. 匿名 2014/08/05(火) 14:52:38 

    ちゃんとは聞いたことはなかったけど、
    祖父は足に銃に打たれた跡があったな。もう、何十年も前に亡くなったけど、そのことは忘れられないな。

    +35

    -0

  • 74. 匿名 2014/08/05(火) 14:53:02 

    祖母がよく話してくれました。
    戦争に負けて女は犯されるから五分刈りにして胸にさらし巻いて男装して、満州から命からがら逃げて船に乗って帰国した時の話とか色々
    たった60年前の出来事なんて平和な今の日本じゃ想像できないことだけど戦争は絶対にやっちゃいけないね。

    +101

    -1

  • 75. 匿名 2014/08/05(火) 14:53:21 

    おばあちゃんが満州で農耕開拓させられてたんだけど、
    戦争が始まって危険が及ぶからみんなで移動して逃げてたんだって。
    でも途中で食べる物がなくなって、おばあちゃんの妹も死んじゃって、
    一番下の妹まで死なせたくないから中国人の夫婦に預けて育ててもらったって言ってた。
    おばあちゃんの産んだ子どもも死んでしまったし、そうするしかなかったって。

    +60

    -2

  • 76. 匿名 2014/08/05(火) 14:53:37 

    私のおばあちゃんは群馬県住みでそこから遠くの広島のキノコ雲が見えたって言ってました…
    核怖い…

    +55

    -12

  • 77. 匿名 2014/08/05(火) 14:54:06 

    祖母から聞いた事あるけど、ド田舎の農家だから悲壮感0だったw

    ・米軍の飛行機が頭上を飛んでる中、米と野菜作ってた。
    ・玉音放送は聴いたけど、何言ってるかさっぱりわからなかった。
      「たぶん戦争に負けたんだな…」と何となく思ったぐらい。
    ・元々自分で食料作ってたから、戦後の食糧不足なんて関係なし。

    +75

    -5

  • 78. 匿名 2014/08/05(火) 14:54:23 

    それだけ怪我してるってことは相手の国の人はもっと怪我したり死んだりしてるってことですよね
    やっぱり戦争って絶対だめ

    +41

    -10

  • 79. 匿名 2014/08/05(火) 14:54:54 

    このトピどんどん伸ばすべきトピ

    +117

    -1

  • 80. 匿名 2014/08/05(火) 14:55:03 

    母方の親戚から聞きました。
    祖母のいとこは広島の原爆直下で亡くなったらしく、跡形もなく唯一ベルトのバックルだけが
    落ちていたそうです。前日まで体調不良で会社を休んでいたけれど、当日は無理をして会社にいってしまい…
    あの時どうして休ませなかったんだろうと皆大泣きだったそうです。

    核爆弾いらない。世界からなくなってほしい。

    +144

    -0

  • 81. 匿名 2014/08/05(火) 14:55:21 

    75
    そういうのって大概優しい中国人に育てられてますよ

    +52

    -5

  • 82. 匿名 2014/08/05(火) 14:56:45 

    74
    日本が負けたんだからやり返せってやつですね
    怖い。

    +22

    -5

  • 83. 匿名 2014/08/05(火) 14:57:14 

    75
    餓死させるよりはね…
    赤ちゃんの鳴き声で敵に見つかるって周りに言われるから辛いよね…

    +70

    -2

  • 84. 匿名 2014/08/05(火) 14:58:18 

    70
    戦闘員と非戦闘員を一緒にするなチョン

    +25

    -13

  • 85. 匿名 2014/08/05(火) 15:00:18 

    70さん
    歴史的根拠がない虐殺事件のことですか?

    +44

    -8

  • 86. 匿名 2014/08/05(火) 15:00:42 

    母が幼い頃、
    アメリカの兵隊さんから
    チョコレートを 貰って、
    いまだに忘れられないほどの 甘く美味しい味
    だったと。

    たぶん、終戦頃の話ですが
    その頃は、食糧難もあって いまだにあの味は忘れられないと
    良くってます。







    +29

    -2

  • 87. 匿名 2014/08/05(火) 15:04:18 

    70

    日本人は死体を切り刻んで並べたり、馬で引き回したりしません。

    +87

    -22

  • 88. 匿名 2014/08/05(火) 15:05:40 

    うちの実家に高校生くらい?の男の子の遺影があって祖父に聞いたら、祖父のお兄さんで戦争に行って亡くなったそうです。
    祖父は小さかったのであまり覚えてないって言ってました。

    それを聞いたのが高校に入ってからだったので、同じくらいの年の人が戦争に行っていて亡くなってるのは衝撃的でした

    +53

    -0

  • 89. 匿名 2014/08/05(火) 15:05:58 

    私の祖父母の家は、防空壕に行けるようにと壁に穴がありました。
    祖父母の兄弟は、サイレンが鳴ってたのに「大丈夫だろう」と外に出て爆撃にあい、亡くなったそうです。

    近所は、声をなくして機械で声を出してるおじいちゃんがいました。
    戦争に言って、喉を鉄砲で撃たれたと話していました。

    今、37ですが、私が小さな頃はまわりに戦争経験者がたくさんいたけど、本当に減ってきましたね。
    受け継いでいかないといけないと思います。

    +81

    -2

  • 90. 匿名 2014/08/05(火) 15:07:33 

    今は亡き祖父祖母
    父母です

    父は現在80才
    戦争中は北九州市にいました
    あの日視界が悪くて、原爆を積んだ
    戦闘機は長崎に行き、それを投下…
    もし、あの日北九州市がれていたら
    父も私もそして私の子供達もこの世に
    存在しなかったかもしれません
    子供だった父は戦争に恐怖を感じていなかったらしく
    落ちている戦闘機の部品や、がれきの中から
    金目のものを物色して、売っていたそうです

    同じ頃、現在78才の母は福岡市にいました
    こちらも空襲で、母の住んでいた町のすぐ近くが
    焼け野原になったそうです
    防空壕代わりに銀行の地下室に逃げ込んだ人々は
    そのまま火にのまれてしまいました
    やけどを負った人々は水を求め、川に飛び込み
    川は死体で埋まったそうです
    何日もそのままになっていた死体、それは凄まじいものだったそうです

    なので、私の父母は戦火をくぐり抜け生きてきました
    戦争で死んでも、おかしくない状況を生きてきました
    この時期になると、実際に私は戦争にあっていないのですが、こうして私が生まれてこれた奇跡を不思議に思います

    +70

    -2

  • 91. 匿名 2014/08/05(火) 15:07:44 

    83
    でも結果的にいい中国人に育ててもらってよかったって言ってたよ。
    そのあと中国人の男の人と結婚して日本に来たらしいんだけど、
    その夫婦は泣きながら送ってくれたって言ってた。

    +91

    -2

  • 92. 匿名 2014/08/05(火) 15:07:52 

    101歳で亡くなったおじいちゃんは、戦争で撃たれて肩に銃弾が入ったままでした。たまにしか会えなかったけど親戚が集まるといつも戦争の話をしていたな。もっとまじめに聞いてあげれば良かったと少し後悔が残ります。おじいちゃんが亡くなった時、棺に千人針をいれていました。

    +73

    -1

  • 93. 匿名 2014/08/05(火) 15:08:27 

    長崎出身で、ひぃおじいちゃんを戦争で亡くしています。でも、詳しい話しは聞いた事ありません。生きていたら本人から聞かされていたのかもしれませんが‥

    身内ではないですが、長崎は毎年8/9の原爆投下の日が登校日で、被爆者の方から話を聞く機会があります。沢山の写真や生々しい傷痕、残酷な話を聞いてきました。
    今は、長崎を離れていますが、今も8/9は平和記念式典を見ながら、11:02には子供達も一緒に黙祷をしています。

    +52

    -0

  • 95. 匿名 2014/08/05(火) 15:10:55 

    祖父は親戚が集まれば戦時中の話を面白おかしく話をてました。
    でも年に何度かはうなされてたし、本人や回りが思う以上に辛い経験でトラウマだったんだと思う。

    +57

    -0

  • 96. 匿名 2014/08/05(火) 15:11:22 

    叔母が、低身長なのは戦時中の栄養不足での妊娠のせいだって話してた。
    母は戦後生まれなので、叔母よりだいぶ大きい。

    老人ホームで働いていた時、思い出すとつらいから話さないって人と、大変な時代だったからこそ若い人に知ってほしいって話してくれる人といた。

    +56

    -1

  • 97. 匿名 2014/08/05(火) 15:11:24 

    年齢が分かってしまいますが、亡くなった父です。
    17才で志願して満州に行きました。帰国した時は脚を負傷し、10年入院生活をしてました。母と結婚し、私が産まれた時は、まさか、子供が持てると、思っていなかったー。と、泣いたそうです。
    随分前ですが、戦友の方が
    父に会いに来てましたが、
    暗い、重い話しはしてなかった気がします。

    辛すぎる経験なのでしょう。


    先日、家を壊す時、ボロボロの千人針の布。沢山の方の名前が書かれた日の丸の旗が出てきました。
    父だけではないと思いますが、この年齢の方で、昭和天皇に対して、いい印象を持っていない方もいるのも事実です。

    +9

    -3

  • 98. 匿名 2014/08/05(火) 15:13:06 

    8

    聞いただけじゃなくてちゃんと調べて下さい。
    従軍慰安婦については強制連行はありませんでした。きちんと雇われた慰安婦です。当時の将軍より高い給料を貰って自分の買いたい服や物を買っていました。ピクニックの写真もあります。決定的な証拠は1944年(戦時中)にアメリカ人に書かれた資料もあります。従軍慰安婦は戦後、自虐史観が流行った時に「従軍慰安婦」という本を書いた人(←後に嘘とバレた)と河野さんと朝日新聞によってつくられたファンタジーです。

    南京大虐殺については南京事件はありましたが、南京大虐殺はありませんでした。当時、20万人しかいなかったのに、どうやって30万人殺せるのですか?
    また、日本は共同研究しようと中国に言ってますが、中国は無視してます。完全に捏造です。

    +133

    -13

  • 99. 匿名 2014/08/05(火) 15:13:51 

    私の祖母は、戦時中より今の時代の方が暮らしづらいとよく言っています。

    +11

    -3

  • 100. 匿名 2014/08/05(火) 15:14:04 

    母方の私の祖母は、着物を持って京都駅前近くから山科のほうまで食料に替えてもらいに行ったらしい。
    足元見られて、嫁入りのときに親が持たせてくれた何着もの上等の着物が少量の芋にしかならなかったらしい。
    その農家の子供が、食べ飽きた蒸かし芋を土塀に塗りつけるのを見て。芋のこびりついたその壁を削って持って帰りたいと思ったそうだ。

    +33

    -0

  • 101. 匿名 2014/08/05(火) 15:15:01 

    >94

    朝鮮民族は戦時中「日本国民」だった事をお忘れなく。

    +16

    -19

  • 102. 匿名 2014/08/05(火) 15:17:02 

    78
    もっとってことはないでしょ

    +4

    -2

  • 103. 匿名 2014/08/05(火) 15:18:05 

    叔母(母の妹)はベビーブーム世代なんだが。上二人には何かと口うるさい両親が、末っ子の叔母には甘かったらしい。幼い頃に何度か栄養失調でヒキツケ起こしたから。勉強できないのも仕方ない、と。

    +8

    -2

  • 104. 匿名 2014/08/05(火) 15:21:59 

    沖縄に旅行行った時、ホテルに隣接されてる銭湯で地元のおばぁが、昔は海に爆弾がいっぱいあったから誰も海には入らなかったって言ってた。今でも怖くて海には行けないって言ってたな。

    +28

    -0

  • 105. 匿名 2014/08/05(火) 15:22:58 

    沖縄です。
    祖父は戦争の事は思い出したくないと言って話を聞いたことはありません。
    戦争して良かった事なんてひとつもなかったって良く言ってたな。

    祖母は負傷した人の看護や手当をするお手伝いをしていたそうです。
    傷口に湧いた蛆をピンセットやお箸でつまんだり、ご遺体を運んだりと・・・
    食べ物がなくて常にひもじかったから、食べ物と水は無駄にしたら罰があたる
    って言ってたけど、肉は食べられなかったです。
    戦時、目の当たりにした光景がずっと残っていたそうです。
    おととし亡くなりましたが、もっと聞いておけばよかったな。

    +67

    -1

  • 106. 匿名 2014/08/05(火) 15:23:08 


    沖縄の話です

    名護からアメリカ兵に上陸され
    県民はみんなで糸満の方へ逃げてたそうです
    防空壕も県民が作らされ軍の人が使うからと
    壕の中にすら入れてもらえませんでした

    歴史の教科書にも載ってませんが
    村々の部落ごとに沖縄の方言をしゃべったりすると
    スパイだと疑われ戦車で人々を並べて
    ひき殺すんです
    ただ、日本語もわからないだけでです…

    戦地に行きお国のためなら
    とあの当時はそういう考えだったとは
    思いますが…
    なぜ、スパイでもない県民を
    ひき殺したり刀で刺したりと
    ひどいものです

    日本の歴史・沖縄の戦争の悲惨さを
    ちゃんと語ってほしいです

    +115

    -5

  • 107. 匿名 2014/08/05(火) 15:25:55 

    子供の時に祖父に戦争の話を聞いた
    手帳に当時のことを書き記してあって、夢中で敵を撃ったか刺したかとか書いてあった…
    祖父の目の下に1円玉位のアザみたいなのがあって、それは敵に銃で撃たれた痕だとか…
    とてもリアルで恐ろしかった

    +28

    -0

  • 108. 匿名 2014/08/05(火) 15:26:14 

    鹿児島の祖母が海辺で魚拾ってたら、米軍機がきて銃弾を撃ってきたと…
    たった一人の女に何十発とゲームのように無駄に撃ってきてすごい低空飛行だったらい。
    怪我はなかったらしいけど、ほんとに恐かったしほんとに腹立たしかったと言ってました。


    +75

    -2

  • 109. 匿名 2014/08/05(火) 15:27:48 

    84
    中国人はチョンじゃないよw
    使い方わからないのになにやってんのw

    +28

    -4

  • 110. 匿名 2014/08/05(火) 15:30:05 

    85
    日本人は中国人に何もしてないのに日本人だけ怪我させられたり殺されたりしたってこと?
    ここで怪我したりしてる人は日本人同士で喧嘩でもしてたの?

    +6

    -21

  • 111. 匿名 2014/08/05(火) 15:30:44 

    広島、長崎の原爆投下で日本の戦争は終わりました。
    広島、長崎
    勿論、シベリア、満州、ジャワ島等でも沢山の大切な命の犠牲の上で、私達は日本という国に生きているんですよね。

    本当にありがとうございます。

    +63

    -5

  • 112. 匿名 2014/08/05(火) 15:31:19 

    戦争の話、と言うか戦後の話。旧制中学の剣道の顧問?だった祖父は、教えちゃいけなくなった。

    +11

    -0

  • 113. 匿名 2014/08/05(火) 15:31:35 

    うちの祖父は公務員だったので、戦争に行ってませんので、なかなか聞く機会はありませんでしたが子供の頃、平和授業の授業があり実体験はかなり聞きました。
    大人になって地元じゃない人に聞いても、そんなに熱心にはやってなかったと…。大人になって調べてみたら地元がポツダム宣言を受信した場所で武器工場があったとか…。

    戦争の話でとても心に残っているのは、戦争中友人のおばあちゃん(当時お嬢様)が靴を買いに銀座に行ったら兵隊さんに「贅沢は敵だ!非国民!」って怒られたそうです。
    悲惨な話が多い中、当時の空気の読めてないおばあちゃんの話にクスッとしてしまいました。

    今は靴なんてすぐ買いに行ける平和に感謝しています。

    +25

    -5

  • 114. 匿名 2014/08/05(火) 15:32:14 

    日本人なら

    「 戦争を知らない人の 靖国問題 」は 必読書だよね。
    易しく解りやすく書いて下さってある。
    日本人なら買って読むべき。

    あと、戦後の問題で
    なぜ在日外国人をのさばらせたか
    「 在日外国人 田中宏」
    「せんせい あのね 鹿島和夫」
    この人達が 外国人達を如何にのさばらせて行ったか判る。
    但し、書店で買うと変に売上を上げて誤解をまねくから

    古本屋さんかネットで中古で買ってね♪。.:*・゜

    +21

    -10

  • 115. 匿名 2014/08/05(火) 15:33:06 

    千人針って、シラミの巣になって大変だったらしいね。

    +2

    -10

  • 116. 匿名 2014/08/05(火) 15:35:01 

    ネットの動画でも凄く色々勉強出来るわよ。

    +7

    -4

  • 117. 匿名 2014/08/05(火) 15:36:00 

    母の叔父さんは、ボルネオ島で戦死しました。
    送り出す時に掲げた寄せ書き入りの日の丸の旗を
    見せてもらいましたが涙が溢れて来ました。
    叔父さんの戦死の一報が届いても
    汽車が通るたびに叔父さんが帰ってくるのではないかと思ったそうです。

    +48

    -0

  • 118. 匿名 2014/08/05(火) 15:40:04 

    父は小学校の先生は出兵され、なくなった方が三人続いたと。
    雀を食していたらしいです。
    戦争反対。

    +21

    -0

  • 119. 匿名 2014/08/05(火) 15:40:22 

    私の祖父母は当時 神奈川県の箱根に住んでたけど、昔は今以上に山深くて、上から民家が見えなかったのか爆撃とかは体験していないそうです。祖父は女学生さんにミシンを教えていたそうです。

    +17

    -1

  • 120. 匿名 2014/08/05(火) 15:40:53 

    近年までの 今でも残っている白人達の 黒人差別を知ると

    大東亜戦争が本当だと思う。

    命を掛けて護ってくれたのは 日本だけではなく
    アジアの有色民族達を護ってくれた。

    +60

    -3

  • 121. 匿名 2014/08/05(火) 15:43:42 

    母の叔父さんは、ボルネオ島で戦死しました。
    送り出す時に掲げた寄せ書き入りの日の丸の旗を
    見せてもらいましたが涙が溢れて来ました。
    叔父さんの戦死の一報が届いても
    汽車が通るたびに叔父さんが帰ってくるのではないかと思ったそうです。

    +11

    -1

  • 122. 匿名 2014/08/05(火) 15:44:07 

    うちのじいちゃんは頭が良かったので
    サイパン?でモールス信号?を
    送る部隊だったらしい(・・;)

    生きていた頃はよく、
    庭のウッドデッキに寝転びながら
    戦争の話をしてもらってました。

    +29

    -3

  • 123. 匿名 2014/08/05(火) 15:44:59 

    101は何でマイナスなの?
    少なくても終戦まで朝鮮は日本だったのだから、日本国民でしょ。

    +23

    -10

  • 124. 匿名 2014/08/05(火) 15:45:19 

    うちの祖父はぎりぎり出兵前に終戦を迎えたそうです。
    しかし、田舎にもかかわらず戦闘機が来てあちこち銃撃していったそうで、少し前まで近所に銃撃の弾の跡が残ってました。

    沖縄旅行に行った時糸満豪の中で体験者の話しを聞いて嗚咽するほど泣きました。今でも豪の中の天井に鍋とかが爆風でめり込んだままだったり…
    惨すぎるけど残して語り継がれてほしい。
    絶対忘れちゃいけない。

    今色々と大東亜戦争の真実が解明されてきているし、私達が学校で教えられてきた戦争が実は違うもので、敗戦国の日本が悪者に仕立て上げられた歴史だったとか。
    南京大虐殺や百人斬りとか慰安婦…捏造で日本人はとっても清く優しく誇り高い兵士が多かった。

    YouTubeでも今色々真実が簡単に見れますし、こんな時代に生きてる自分達が今幸せに生きてる事は、あのときの戦争で命を捧げてこの国を守ってくれた英霊の方々や生き残って支えてくれた日本人のお陰だと感謝しなければ。

    +99

    -4

  • 125. 匿名 2014/08/05(火) 15:45:46 

    うちの祖父は、船舶関係の仕事をしてたので、海軍さんの上層部とご昵懇で、美味しい思いをいっぱいしてるそうだ。
    女房子供はヒモジイ思いをしていたが、自分だけ、夜な夜なドンチャン♪。

    +9

    -24

  • 126. 匿名 2014/08/05(火) 15:47:09 

    両親とも大兄弟の末っ子なので、両方の祖父母が亡くなる頃は私はまだ小学低学年でしたので、話は聞けませんでした。
    今生きていたらたくさん話を聞いてみたいです。
    でも病院の待合室でお年寄りが昔の事や、在日韓国人の話をしているのを聞くと聞き入ってしまいます。
    韓国人は昔も今もネチネチしつこいとみんなが話していたので、私もなるほどねと思った事もあります。

    +33

    -6

  • 127. 匿名 2014/08/05(火) 15:48:52 

    大叔父を五人戦地に捧げた家系です。
    一人はあの硫黄島で戦死です。

    当時の社会状況ではやはりアメリカにハメられて
    仕方がなかったと思います。

    命を掛けて闘って下さった方々に
    心から感謝をしています。

    +82

    -2

  • 128. 匿名 2014/08/05(火) 15:53:12 

    私の祖母は、弾丸がすぐ横を通り命があるのが不思議なくらいな経験をしたようです。ものすごく怖い思いをしたので思い出すのが辛いらしく話したがらないと母が言っていました。

    +20

    -2

  • 129. 匿名 2014/08/05(火) 15:55:26 

    祖母が、赤ちゃんをおんぶしている女の人が居て、赤ちゃんだけ撃ち殺されていたのを見たって言ってた。
    もう20年くらい前に聞いた話だけど、今も覚えてる。

    +45

    -0

  • 130. 匿名 2014/08/05(火) 15:57:25 

    90過ぎのおじいちゃん、戦闘機とかを製造する工場にいたらしい。
    お盆に泊まりに行って一緒にお酒飲むんだけど、たまに戦争の話を聞かせてくれる。
    なんか話してるうちにおじいちゃん泣いちゃって。
    大変な時代を生きてきたんだろうなって思うと、私も一緒に泣いちゃう。

    +51

    -0

  • 131. 匿名 2014/08/05(火) 15:57:52 

    祖父は軍医でした
    聞いても祖父は戦争の話はしたがりませんでした
    亡くなった後に従軍手帳と軍隊衛生学の手帳と戦争時代の写真を形見でもらいました
    子供達にはこれを見せながら戦争についてたまに話します

    +36

    -2

  • 132. 匿名 2014/08/05(火) 15:59:03 

    祖父が零戦の整備士で、ビルマに出兵してた時の話を良くしてくれました。
    整備士だったため、前線には行かずに無事帰って来れた事、戦友を荼毘に付す仕事が1番辛い仕事だったと…
    自分の子供達にも、話継がなければと思っています。

    +28

    -0

  • 133. 匿名 2014/08/05(火) 16:08:57 

    祖母が元気な時に祖父は優しくて子供が大好きで、いつも子供と遊んでくれて。雀を獲って
    食べたと聞いた。戦争の事は聞けなかったけど、手紙を読んだ。残してきた家族の事が
    気にかかると書いてあり。一緒に年取るまで生きたかったろうな、と涙がこぼれた。
    原爆の日いつもテレビで見てお祈りしてます。

    +26

    -0

  • 134. 匿名 2014/08/05(火) 16:10:47 

    特攻隊だった祖父はよく私に戦前や戦時中の事を話してくれました。
    次々と散っていく戦友達。飛行機の故障で特攻出来ず戻ってくると教官にクズと罵られ殴られた事。よくしてくれた料理上手な食堂のおばさんの事。8月16日に特攻する予定が寸前の玉音放送。自分だけが生き残ってしまった意識。
    まだ祖父が健在なので去年祖父と一緒に靖国へ行ってきました。
    私に子供が生まれて絶対息子にも同じ事を話したいと言った祖父の表情が今も忘れられません。

    +67

    -0

  • 135. 匿名 2014/08/05(火) 16:13:52 

    最近はないけど、昔はよく話してくれました。
    祖母が東京に来たときも靖国にお詣りに行きたいというので一緒に行きました。そこで祖母がぽつんと『お兄さん、みほちゃんと来ました』って呟いたとき、涙が出てきてしまいました。
    祖母のお兄さんはビルマに行ったきりです。
    骨つぼには石ころ一つだったそうです。

    +77

    -0

  • 136. 匿名 2014/08/05(火) 16:14:29 

    現在89の祖父から聞いたのは

    戦争中
    空軍で戦闘機の整備士をしていて、どんどん物資が不足して
    燃料を片道しか入れられなかった事
    飛び立った戦闘機も、人も帰ってこないって気づいてるなかで
    自分よりうんと年下の戦闘員がこそっと「(祖父の名前)さん、私帰れますかね」と聞いてきて
    「(戦闘員の名前)さん、燃料は片道しか入ってへん」って正直に答えたと言う話

    戦後
    祖父の故郷は兵庫だったので帰るのに勤務地から空腹の中、一週間はかかった
    兵庫に着いても、仕事もないし食べる事が難しくて闇市で仲良くなった朝鮮人に
    自分は国に帰るからと、水銀を譲ってもらいそれを売ってどうにかして
    生き延びた、みんな性別も年齢も分からないくらい痩せ細っていた話

    私の祖父も戦争中の話はあまりしたがらないです

    +53

    -1

  • 137. 匿名 2014/08/05(火) 16:17:36 

    両親の祖父が太平洋戦争に召集されて戦争を経験しています。
    母親の実家には当時のリュックやヘルメットなどがまだ置いてあります。
    父親は当時4歳だったのですが、防空壕に必死に逃げ込んだ事を鮮明に覚えているそうです。

    中には爆撃で命は助かったものの、腕や足を亡くし周りからの差別が酷く、自殺した方もいたとか。

    +38

    -0

  • 138. 匿名 2014/08/05(火) 16:18:35 

    うちのおじいちゃんは戦争に駆り出されて片目負傷して帰ってきた。
    戦争そのものの話は聞いたことがない、あまり話したくないらしい。

    +17

    -0

  • 139. 匿名 2014/08/05(火) 16:20:25 

    子供のころははだしのゲンや強制連行の話を聞かされた記憶があるが子供心に嘘だと思っていた。
    韓国も中国も子供のころから嫌いだった、ハングル文字も気持ち悪いとしか思えなかった。今もそうです。

    +53

    -12

  • 140. 匿名 2014/08/05(火) 16:21:34 

    読んでいて涙が溢れてきました。
    つらいけど目を背けていてはいけない、過ちを繰り返さないためにちゃんと知りたいと思いました。

    私の祖父は戦後もしばらく、シベリアに捕虜として抑留されていました。

    極寒の地で着るものも食べるものも満足に与えられずに、強制労働をさせられていました。

    食べられるものはなんでも食べたと言っていました。

    蛇や虫なんて豪華なもんで、何もない時は松の木の皮を剥いで食べていたと言っていました。

    寒いので生き物すらあまり居なかったそうです。

    酔っ払うと少しだけロシア語も話していました。

    鬼畜米英と口汚く罵ったりもしていました。

    同じ村からシベリアに抑留していた人たちのほとんどが凍死したり餓死したりして、帰ってこれた人はほとんど居なかったらしく、あまり戦争の話は好んではしてくれませんでした。

    祖父も祖母も亡くなった今、もう誰からも聞くことができません。


    +54

    -1

  • 141. 匿名 2014/08/05(火) 16:23:15 

    戦争の話に、事実でないことを書いたり、日本語が不自由な方は書き込まないでくださいね。

    +48

    -9

  • 142. 匿名 2014/08/05(火) 16:25:41 

    祖父に聞いたことあります。
    今は映画館や、デパートが建っている場所に死体がゴロゴロころがっていたっていってましたね。
    恐ろしいです。

    +24

    -0

  • 143. 匿名 2014/08/05(火) 16:27:44 

    125

    敗戦してるのに、そんな余裕ないでしょ。
    戦時中でない話ですか?
    それとも、またでっち上げですか?

    +5

    -2

  • 144. 匿名 2014/08/05(火) 16:35:47 

    亡くなった祖父は、幼い頃の怪我が原因で、片目が見えませんでした。
    身体障害者ということで徴兵されませんでしたが、ある日兵隊さんに呼ばれ、個室で
    「こんなに良い体格してるのにもったいない!!!」と言われ、何度も何度も竹刀で体を叩かれたそうです。

    +52

    -0

  • 145. 匿名 2014/08/05(火) 16:51:03 

    父は集団疎開をしていたそうです。主食は小さなサツマイモでいつもひもじかったそう。
    焼夷弾が落ちてくるとき、まるで雨が降っているような、サーッという音がするんだとか。それが空中で爆発?して、樹脂みたいなものが四方八方に飛び散り、木造家屋の街並みを火の海にしたそうです。

    予科練に行こうかというときに終戦。
    お父さん(私の祖父)と、防空壕で暮らし、畑をつくり自給自足。
    ときには、まるで「火垂るの墓」のお兄ちゃんのように、近所の畑に盗みに行ったこともあるそうです。

    戦争なんて、もう二度としてはならないですね。

    +52

    -0

  • 146. 匿名 2014/08/05(火) 16:56:41 

    祖母の沖縄戦の戦後の生き別れた兄弟の話です。
    祖母は7歳、弟は4歳で二人は戦争孤児(両親、親戚が戦死し身元引き取り人がいない)でした。
    別々の施設に預けられその後、連絡が途絶えてしまい
    祖母は施設に預けられた弟のことを
    戦後70年探して、去年、弟さんらしき人が見つかりました。が、その人は五年前に他界していました。
    その人の髭剃りの毛からDNA鑑定をして
    正真正銘の姉弟だったことがわかりました。
    祖母は見つかって良かったけど生きているうちに会いたかったと言って泣いていました。
    弟さんも祖母を探していたらしいです。
    探せなかった原因の一つに、祖母と別の施設になった後に名前を変えられていたことと
    自分の出身地を覚えていなかったことが大きかったらしいです。
    祖母は今も戦死した親兄弟の骨が見つかって欲しいと嘆いています。
    戦争は終わっても、祖母にとっては本当の意味では終わってないんだと切なくなります、

    +85

    -0

  • 147. 匿名 2014/08/05(火) 16:58:51 

    124です。

    ごめんなさい。百人斬りは日中戦争だったかな…
    これも捏造ですが、つい熱くなって間違えてしまいましたm(__)m

    +9

    -3

  • 148. 匿名 2014/08/05(火) 17:07:33 

    祖母に聞いたら、あまり覚えてないと言われました。
    祖母のお姉ちゃんには少し教えてもらいました。
    空襲の時どう逃げて、そのあとどんな生活していたなど・・・
    焼夷弾が落ちてくる中走って逃げて、途中で防空壕の入り口の一つが爆弾で壊れたり
    怖い思いをしていたので、きっとおばあちゃんは思い出したくないのかなって思いました。

    当時は砂糖が不足していたのでサッカリンで代用したり
    終戦後はあちこちでサトウキビを植えていたそうです。
    数年前まで名残でサトウキビを作っている人が近所に居たそうですが
    今ではもう作ってないそうです。

    +20

    -1

  • 149. 匿名 2014/08/05(火) 17:07:56 

    今は亡き父親は、6才のころ東京大空襲を経験してます。ちょうど今では東京タワーが建っているあたりに住んでいたそうです。当時は何もないとこで、平屋の家が立ち並ぶとこでした。空から降ってくる爆弾は、雨が降り注ぐような光景だったそうです。雨のように見えるくらいの大量の爆弾が落とされたんですね。
    アメリカ兵に、ギブミーチョコレート!と言うと、トラックに乗ってる彼らは沢山のチョコレートを投げてくれたそうです。ハイシーチョコだったみたいですよ。相当嬉かったらしく、その話は良くしてました

    +27

    -0

  • 150. 匿名 2014/08/05(火) 17:10:42 

    フィリピンルパング島から29年ぶりに日本に帰還した小野田寛郎さんが従軍慰安婦について月刊正論に寄稿されてました。

    私が見た従軍慰安婦の正体    正論1月号

    首相の靖国神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。

     戦後六十年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。

     私たちは、憲兵に集金の用件を話してまず仕事を済ませた。日が暮れていたので「お茶っぴき」(客の無い遊女)が大勢出てきて、経営者と私たちの雑談に入ろうとしてきたが追い払われた。そこには内地人も鮮人も中国人もいた(現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった当時は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である)。
     群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。料金は女性の出身地によって上中下がある。また、利用時間も兵士は外出の門限が日没までだから日中に限られるが、下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用出来る。料金も階級の上の方が割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることになる。

     半島出身者に「コチョ(伍長─下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長─兵士)か」、「精神決めてトットと上がれネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。

    「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。こんなことで騒がれては、被害者はむしろ高い料金を払った兵士と軍の方ではないのか。
    小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」
    小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」www4.airnet.ne.jp

    小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」私が見た従軍慰安婦の正体「正論」一月号より 首相の靖国神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様...


    +66

    -3

  • 151. 匿名 2014/08/05(火) 17:12:01 

    物心ついたときには母方の祖父母は他界していたので母から聞きました。

    祖父は志願し、戦争に行きました。
    捕虜になり、シベリアで働かされました。
    祖母はその頃お腹に赤ちゃんがいて、祖父に会えないまま産みました。
    そして祖母は赤ちゃんと満州に渡りました。
    母乳が出ず、赤ちゃんは道の途中で栄養失調で祖母に抱かれたまま亡くなりました。母の姉でした。
    祖父は母の姉を見ることは出来ませんでした。
    しばらくして祖父が帰ってきて、母が産まれました。

    何もできずに亡くなる我が子を抱いていた祖母はどんなに悲しかったんだろうと思います。
    子供好きだった祖母に私の息子を見せてあげたかったです。
    昔の女性は強いですね。

    +56

    -1

  • 152. 匿名 2014/08/05(火) 17:12:03 

    150 貴重なお話なのでちょっと長いけど読んでみて下さい。

    +31

    -3

  • 153. 匿名 2014/08/05(火) 17:12:59 

    看護師です。
    私が新人だった頃には(十数年前)戦時中の話をよくしてくれるお爺ちゃん患者さんが沢山いましたが、今はほとんどいなくなってしまいました。
    戦争を知っている方がいなくなってしまっても戦争の恐ろしさは語り継いで欲しいです。

    +37

    -3

  • 154. 匿名 2014/08/05(火) 17:13:40 

    夫の祖母が被爆者です。
    死体の中を歩き、身体にもウジが湧いたと言っていました。
    3.11の震災で、津波にのまれた後の街を見て、被曝した時の記憶が蘇り気分が悪くなったと言っていました。
    戦争は、絶対にダメです。命をかけて犠牲になった方達の為にも。

    +63

    -0

  • 155. 匿名 2014/08/05(火) 17:21:22 

    98さん
    歴史を学び研究している者です。
    現在、その問題についての学会の意見は
    「南京大虐殺については20〜30万人の主張は無理矢理すぎる、だが「無い」と断定するのもまた無理矢理」となっています。

    +16

    -7

  • 156. 匿名 2014/08/05(火) 17:29:37 

    皆さんの話を聞いて、心が痛みます。

    私の祖父は28歳ぐらいの時に沖縄戦に行き、一緒に戦った戦友はほとんど亡くなったらしいです。
    私が高校生の頃から毎日のように戦争の話をしてたけど、また始まった…とうんざりしてあまり真剣に聞かなかった。
    もう少し真面目に聞いてあげれば良かった…と少し後悔してます。

    若くしてお国のため命かけて戦った仲間のためにも長生きしなきゃと言ってた祖父…
    数年前に98歳で亡くなりました。

    今さらだけど、おじいちゃん、ありがとう!!

    +55

    -0

  • 157. 匿名 2014/08/05(火) 17:29:46 

    私の祖父は海兵でした。
    お尻に銃弾の後があり、小さい頃一緒にお風呂入る度にお尻の傷見せてもらってその時の話を聞いてました。貫通したので大事に至らなかったようですが、すごい傷だったのを覚えてます。最後はやはり海に飛び込んですごい距離を泳いで助かったと聞きました。泳げないひとも沢山いたし、途中で力尽きたりと壮絶だったようです。子供すぎてちゃんと覚えてないですが、その時の話をしている時の悲しそうな祖父の顔は今でも覚えてます。

    +36

    -0

  • 158. 匿名 2014/08/05(火) 17:30:29 

    こういった話を後世に残していくことは大切ですね
    少しイライラしたくらいで相手に「死ね」とか言う子供が増えないためにも

    +87

    -0

  • 159. 匿名 2014/08/05(火) 17:32:25 

    実際戦艦ヤマトに乗ってた方からお話聞きました。
    戦争に行かれた方々はすごく立派です

    +32

    -3

  • 160. 匿名 2014/08/05(火) 17:43:00 

    亡くなった祖父から聞いたことがあります。

    祖父は海兵隊として派遣され、空爆をうけた地域の人達を舟で避難させていました。
    ところが、祖父が乗っていた舟が攻撃に遭い舟が大破、祖父は重傷を負いながらも破片を浮き輪かわりにして住民の人達を岸まで運んでいました。

    祖父の右ひざの裏にはその時にうけた傷が生々しく残っていました。ひざ裏に腸が浮き出たような痕でそれだけでも幼いながらにゾッとしました。

    因みに母は防空壕にかくれていた経験があったそうです。

    トピずれですが、この時期どこのテレビ局(NHK以外)も戦争ドラマや戦争についての番組を放映していない年があったように思います。
    正直、風化されるのではと怖くなりました。
    確かに目をそむけたくなることばかりですが、戦争を知らない日本人が増えていく中、二度と同じあやまちを繰り返さないためにも戦争の恐ろしさをちゃんと知るべきだと感じました。

    +58

    -1

  • 161. 匿名 2014/08/05(火) 17:44:44 

    小さい頃祖父に聞いた事があります。確か中国に出兵して(小さい頃なので場所はうろ覚えです)、祖父は軍のえらいさんに気に入られてたようなんですが、えらいさんにこっそり貰った羊羹を、仲間達に布団の中でこっそり廻して分けて、みんなで泣きながら食べたと言っていました。

    +32

    -0

  • 162. 匿名 2014/08/05(火) 17:46:19 

    161です

    祖父は涙を流しながら、その話を聞かせてくれました。
    子どもながらに、とても悲しい気持ちになったのを覚えています。

    +20

    -0

  • 163. 匿名 2014/08/05(火) 17:51:36 

    広島、長崎の原爆投下で日本の戦争は終わりました。
    広島、長崎
    勿論、シベリア、満州、ジャワ島等でも沢山の大切な命の犠牲の上で、私達は日本という国に生きているんですよね。

    本当にありがとうございます。

    +24

    -3

  • 164. 匿名 2014/08/05(火) 17:57:43 

    私の祖母の兄弟姉妹、両親親戚などは、すべて原爆のピカで亡くなりました。
    祖母は祖父と結婚して鹿児島にいたおかげで原爆に遭わなかったそうです。

    父は9歳で終戦を迎えました。
    あと10年早く生まれてたら、特攻隊にもってかれてたかもしれない。
    父はあまり戦時中のことを話しません。
    学校であまり楽しい思い出がなかったみたいです。

    夫の祖父が満州に出征していたそうで、亡くなる前に自費出版で手記を遺していました。
    読んでたら、ものすごいことばかりで、ドラマとかのは甘すぎるって思いました。
    壮絶でした・・・
    そして、運って大事なんだと思いました。

    +39

    -1

  • 165. 匿名 2014/08/05(火) 18:00:16 

    何で125がマイナス?
    大臣や軍のトップ、軍需産業関係者も平等に飢えてたとでも?

    +6

    -4

  • 166. 匿名 2014/08/05(火) 18:21:06 

    身内じゃないけど、介護施設の利用者さんから。
    広島で原爆が落ちたあとは皮膚がただれてびよーんと垂れ下がってた、川には水を飲もうと人が集まり、そのまま川で死んで、川には死体だらけ。地獄だったって。

    +28

    -0

  • 167. 匿名 2014/08/05(火) 18:22:29 

    日本の事ではありませんが...
    私の義理の父はイラン人です。
    夜中に何度も夢で戦争を思い出し、うなされて泣き叫んでました。

    今色々な所で内戦とか戦争ありますよね。中には自分たちの欲の為にしてる人もいっぱいいると思いますが、苦しんでる人の方がいっぱいいます。

    内戦や戦争がない世界になりますように。

    +67

    -1

  • 168. 匿名 2014/08/05(火) 18:33:59 

    ひいおじいちゃんが戦争に行きました
    銃を撃つひとのとなりで弾を渡す役割だったって言ってました。

    +8

    -0

  • 169. 匿名 2014/08/05(火) 18:39:07 

    亡き祖父は徴兵されて満州に行ったそうです。詳しくは聞いてないんですが、病気になって日本に帰還したそうで、私の知る祖父は熱心な仏教徒でした。もっとたくさん話を聞いておけば良かったです…

    +13

    -0

  • 170. 匿名 2014/08/05(火) 18:41:54 

    母が空襲の話をよくします。住んでいるところが昔からの工業地域なのですが、戦時中は軍需工場がたくさんあったらしく、アメリカ軍の艦砲射撃を受けて何千人と死んだ、と聞きました。

    +12

    -0

  • 171. 匿名 2014/08/05(火) 18:44:40 

    原爆が投下された8月6日、
    山口県の島から広島の空が赤く燃えてキノコ雲が見えたと
    祖母から聞きました。
    私は、広島生まれの広島育ちです。
    小学生の頃は原爆の日に登校して、
    全校生徒で黙祷し、原爆を体験された方から色々な話を聞いて育ちました。
    明日は広島の原爆の日です。
    二度とこんな酷くて悲しい戦争が起こりませんように…

    +44

    -0

  • 172. 匿名 2014/08/05(火) 18:45:07 

    亡くなった祖母は爆弾が次々落ちる中、大事なお人形を取りに行ったと言っていました。そして曾祖父は戦時中の事故で頭蓋骨にぽっかり穴が空いていたと母に聞きました。

    +16

    -0

  • 173. 匿名 2014/08/05(火) 18:47:52 

    祖母は、田舎の山中育ちなので、飛行機から銀紙が降ってきた(なぜかは分かりません)くらいで、ほぼ戦争には無縁みたいでした。実家が食堂を営んでいて、砂糖や卵も支給されていたので、食べ物に困ったこともないとか。

    一方、義父は農家だったけど食べ物がなくて、畑のトマトなどをこっそり取って食べていたそう。

    義叔父は長崎の被爆経験者で、亡くなるまで原爆資料館には足を運ばなかったそうです。あの時の臭いを思い出すからと。

    住んでいた場所、職業、年齢などで、降りかかったものがだいぶ違うんだと感じました。

    +31

    -0

  • 174. 匿名 2014/08/05(火) 18:49:40 

    父方の祖父が海軍軍人だった。

    横浜から艦に乗る直前で結核になって
    降ろされて、終戦を迎えた。

    結果的に戦争に参加してなかったので、
    これはこれで良かったのかもしれない。

    +9

    -1

  • 175. 匿名 2014/08/05(火) 18:49:44 

    祖父から聞きました。
    最初は飛行機で物資を運ぶ役割を担っていた話。そして、1945年8月特攻隊に志願して、出動を待っているときに終戦になった話。
    1日でもずれていたら、私はこの世にいなかったんだなと思うと、言い表せない感情でいっぱいになりました。

    +22

    -0

  • 176. 匿名 2014/08/05(火) 19:11:53 

    沖縄出身です
    母方の祖父は13歳でパラオに出稼ぎに行き、祖母は兄弟をみな感染症で亡くしたそうです
    この話は母から聞いたので又聞きなんですが

    父方の祖父は対馬丸の一個後の船に乗ってて、無事疎開に成功し、祖母もカナダから日本へ帰り鹿児島に疎開したそうですが、死体が転がっている道を無我夢中に走ったと聞きました

    やはり戦争と言うものは悲惨で、二度と起こしてはならないものだと思います。だからこそ、政府には戦争で解決するのでは無く外交力で日本の国益をしっかり守って欲しいです
    戦争は外交の末の失敗ですから(>_<)

    +40

    -0

  • 177. 匿名 2014/08/05(火) 19:13:08 

    昔の男の子は日本男児としての意志がハッキリしていて言葉遣いも丁寧で親に対しての尊敬を
    持っていった。

    今の10代はどこかナヨナヨしてるんだよなぁ~

    +33

    -5

  • 178. 匿名 2014/08/05(火) 19:18:46 

    長崎出身だから小中高と平和学習があったし、平和大使として友達が国連に行ったこともあった。
    夏休みの登校日は原爆が落ちた8/9と終戦記念日の8/15だったし、原爆が落ちた時間にはどこでもサイレンが鳴って皆黙祷してた。
    長崎を出て、当たり前だと思ってた登校日やサイレンの音、その他沢山の教えてもらってきたことを知らない人が多い事に驚いて悲しくなったな。。。

    祖父は戦争に行ってたけど、戦争の話を聞いたことはなかった。多分思い出したくないのと辛い話を聞かせたくなかったからだよって母が言ってたけど…。あと絶対お肉を食べなかったのも戦争で亡くなった人たちを思い出すからじゃないかって。
    当時長崎市内に住んでた伯父からも戦争の話は聞く事がなかったけど、同じ理由だったのかな。

    長くなってすみません。
    平和学習を受けたことが無い方、是非長崎・広島・沖縄・鹿児島知覧などを訪れてほしいです。

    +33

    -1

  • 179. 匿名 2014/08/05(火) 19:18:55 

    85歳のおばあちゃんは学校でなぎなたの訓練してたって言っていました。
    B29が上空を飛んでいるのをよく見たとも言っていました。
    麦ごはんばかりで白いご飯はほとんど食べられなかったそうです。
    空襲があった時10代で肺炎で入院中していて家族皆が防空壕に隠れる中病院にひとりだったのがとても心細かったと言っていました。

    +13

    -0

  • 180. 匿名 2014/08/05(火) 19:37:06 

    ここに書いたら恐らくマイナスされる話をたくさん聞きました。戦争は全てを狂わせる。

    +25

    -2

  • 181. 匿名 2014/08/05(火) 19:42:36 

    亡くなった祖母から、原爆にあったときの話を何度も聞きました。子供の時は、怖くて悲しい話だと思っていましたが、祖母が亡くなった今、聞いておいてよかったと思います。

    +15

    -1

  • 182. 匿名 2014/08/05(火) 19:47:57 

    お盆の時期に今は亡き祖母に戦争の話を、よく聞きました。西宮に住んでいた祖母は戦争も西宮に住んでいて、神戸から尼崎辺りに大規模な空襲があり命からがら逃げた話をよく聞きました。西宮が舞台になっている火垂るの墓とまさに同じでした。祖母からは食べ物は粗末にするなと口酸っぱく言われた事を今も覚えています。子供を持った今は子供と一緒に火垂るの墓を観てこれは本当にあった事なんだよ、と教えています。

    +19

    -0

  • 183. 匿名 2014/08/05(火) 19:49:41 

    あります。
    父母ともに 彼らが幼少の頃終戦を迎えたので 幼い記憶ながら 防空壕に手をつないで走ってげていったとか 頭の上を飛行機が飛んでたとかいろいろ聞きました。
    二人とも田舎の方だったので 疎開等の話はきけませんでした。
    食べ物がすくなくて困ったとか 父が幼心に感じたことを いっぱい話してくれました。
    そこから 広島長崎の原爆の話もいろいろ教えてくれて 文献もいっぱい見せてくれました。
    幼心に 原爆が落ちた瞬間の人の影 が残った写真はとても衝撃的でした。
    そして一番思ったのは 大好きだった父に辛い思いをさせた戦争を憎いと思いました。
    父はもういませんが 父が一番言いたかったのは
    「戦争なんて繰り返したらいけないと後世に伝えるのが大事なんだよ」ということのような気がして 我が子達にもしっかり伝え教えました。

    +25

    -1

  • 184. 匿名 2014/08/05(火) 19:55:14 

    昨年 父母に聞き あまりのリアルさに夢まで見た。 今年その大切な父は天に召されいません。

    +16

    -0

  • 185. 、 2014/08/05(火) 19:55:33 

    祖母が女学生時代、空襲警報が鳴り防空壕へ走る途中、転んでしまい、上を見上げると、B29に乗った米兵と目が合ったそうです。死を覚悟したそうですが、その米兵は打つことなく飛んで行ったと。鬼畜米兵である前に、一人の人間として、目の前の子どもを殺すことはできなかったのではないかと話していました。

    +54

    -2

  • 186. 匿名 2014/08/05(火) 19:58:34 

    小学生だった父に聞きました、庭の防空壕に逃げた話、家に爆弾落とされた話、怖くて防空壕から逃げた人が爆弾落とされて吹っ飛んだ話、登下校中に空襲来るとドブのような側溝に隠れた話、等々
    戦争はなくなってほしい

    +23

    -0

  • 187. 匿名 2014/08/05(火) 20:00:51 

    あります。
    祖父が戦地に行ってました。祖父は喘息持ちで調子が悪くなって途中で帰国することになったそうなのですが、その後祖父がいた部隊は全滅したそうです。
    もし祖父の体調が悪くならなかったら今、私はいないんだと思うと感慨深いです。
    また祖父の弟さんは戦後シベリアで捕えられていてスプーン一本持って生き延びたという話を聞きました。

    +22

    -2

  • 188. 匿名 2014/08/05(火) 20:08:39 

    周りの家に次々と赤紙が届き、男達が亡くなってく。
    祖母は次は夫に赤紙が来るんだと怯えながら、近所の人に千人針を縫って貰いに回ったそうです。
    ところが終戦になるまで、祖父には赤紙が届かず仕舞いでした。
    お父さんは忘れられたんや…と祖母が話してました。

    +24

    -1

  • 189. 匿名 2014/08/05(火) 20:11:59 

    父方の祖父は、沖縄にて米軍と戦っていました。
    通信兵だったので前線に行くことは少なく、それで自分は助かったと言っていました。
    毎年8月になると必ず沖縄に行き、慰霊祭に参加していました。平和公園の戦没者が刻まれた石碑の前で何年経っても涙が出てきてしまうと。
    母方の祖父は満州にてソ連と戦っていました。
    圧倒的に物量が違うので「勝てるわけがない」と痛感したようです。そのあと、捕虜にされシベリアン抑留にて極寒の地獄を体験したと。今でも、ロシア関係のTVは見たがりません。
    二人の祖父は各自「何があっても戦争はしてはだめだ。他国がどれだけ挑発してきても我慢だ」と言っています。

    いま、戦争体験者が少なくなっていき、昔の教訓が風化しているような気がしてなりません。

    私は二人の祖父が生きて戦争から帰ってきたので、この世に生まれてくることが出来ました。

    戦後70年経ちますが、どうか先人たちの経験を無駄にせず日本がよい方向に向かっていけることを願います。

    +31

    -1

  • 190. 匿名 2014/08/05(火) 20:15:41 

    うちのばあちゃんは兵隊さんたちの手当をする看護婦でした。近年ひどい震災がいくつもあり、まるで戦争みたいなんて比喩する方もいますが、「戦争はあんなものじゃねぇ」と苦い顔をして言っていました。シラミ、ウジ、泥水があればいいほう。地獄だったと。

    +33

    -0

  • 191. 匿名 2014/08/05(火) 20:22:32 

    亡くなった祖父が言っていた話を祖母から聞きました。

    通信兵だったので、最前線ではなかったようですが、食べ物が無くて人を食べれないかと考えたりとか、お米を炊くにも水が無かったから死体の血で炊いたとか…

    戦争が終わり何とか日本に帰ってきてからも、精神的にちょっと参ってしまったらしく、一日中池でボーッと釣糸をたらしていたそうです。

    +29

    -3

  • 192. 匿名 2014/08/05(火) 20:26:07 

    19年前に亡くなった祖父が沖縄とアメリカのハーフでした。日本は絶対に負けると分かっていて16歳の時にアメリカに志願し自分の家族を助けるために色々スパイ行為をしたと聞いていました。私から見てひいおばあちゃんは沖縄の人でその息子が私の祖父、うまく説明できないのですが片方沖縄、片方アメリカ人でその子供の中で長男にあたる祖父以外の兄弟は日本人寄りで母ともに日本人とみなされ顔や体格がアメリカ人そのものだった祖父ほどの待遇はなかったって。かといってアメリカ人である夫を武器に生き延びるために必死になっていたら村八分にされ石を投げつけられたり家を燃やされたり戦争の前に迫害されそうになったと色々聞かされました。アメリカ兵のはからいで船に一家かくまってもらいアメリカに渡り全員生き延びることができたって。でも、母の兄弟や親戚やいとこは日本人であるためにすべて沖縄で死んだって…。うまく説明できないのですが。祖父は退役し、沖縄にリタイアし住みました。祖父は戦争中、山奥で食べられるものを探しに出たときにアメリカ兵に捕まり、おまえは日本人か?アメリカ人か?と尋問され、とっさにアメリカ人と答え助かった場所に戻り、あの日に日本人であることを隠し日本人を見捨て自分が生きるためにアメリカ人になり沢山殺してしまったという場所にも行ってずっと土下座して地面に頭をつけて謝り続けていたそうです。長年苛まれ死ぬまで死ぬ瞬間まで地獄に行きたくない、死ぬのが怖いと言っていました。祖父は生まれ変われることができるならきちんと日本人に生まれ変わりたいと言っていました。

    +58

    -3

  • 193. 匿名 2014/08/05(火) 20:28:20 

    私の祖父は20代前半に戦争でどこか小さな島を占領しに行ったそうです。何隻かの小さい船に乗り換えて、島に上陸する直前に砲撃を受け、一緒にいた戦友が何人も亡くなってしまったそうです。
    一旦退避して、数日後に向かうことに。
    その数日後に終戦となり、帰ってこれたそうです。現在、91歳でこの話を語り継ぎたいという思いはあるそうですが、
    どこの部隊で、上官が誰なのかさえも思い出せないので、語り部ができないと残念がっています。
    戦争体験記の冊子のようなものは
    自主制作で作ったみたいですがやはり、なに部隊か等不明です。
    この時期になると、何とか思い出せるように協力できればなぁと思ってしまいます。
    将来、同じような辛い思いをしないためにも
    戦争を体験された方々の話をもっとたくさんの方が聞くべきだなぁと
    最近になって改めて思います。

    長くなって申し訳ないです。

    +13

    -1

  • 194. 匿名 2014/08/05(火) 20:34:16 

    祖父は、四国在住でしたが、1945年8月6日の8時に広島駅で友人と待ち合わせしていました。
    でも、祖父は急用が出来て遅れて行くことになったそうです。(祖父はある意味強運だなと思いました。)そして、原爆が投下され、友人だけが被爆しました。何日か経ち、友人を探しに広島の被爆地を歩いたみたいです。
    友人は、その後、年内に白血病で亡くなったそうで、いつもその話をするときはとても
    悲しそうでした。
    しかし、私の祖父も82歳になるまで幸い
    病気ひとつしたことなかったのですが、
    82歳になったある日、急変して心停止、そのまま亡くなりました。なにも持病が無く、死因を
    調べてもらったら、なんと死因は白血病。
    原爆が直接死因になるとは100%は
    言えないですが、やはり原爆が原因だと
    思ってしまいます。
    70年以上経った今でもこうやって戦争や原爆が
    当時の人々を苦しめてるのだなと改めて実感
    しました。
    長文失礼しました。

    +43

    -1

  • 195. 匿名 2014/08/05(火) 20:44:03 

    両親、親戚、みな被爆者です。祖父、叔母が原爆で亡くなりました。

    口を揃えて言うには、辛すぎて当時の話をしたくないと言います。
    ただ「地獄だった」と言います。

    明日は広島の原爆の日です。
    8月6日 8時15分

    皆様、平和を祈って黙祷をしてくださいませんか?

    +62

    -0

  • 196. 匿名 2014/08/05(火) 20:44:06 

    祖父母は年齢からしてまだ子供だったから、きっと疎開してたと思うけど戦争の話は聞いたことありません。
    でも、祖父が薩摩芋が嫌いだと知って、子供の時に何で?と訊いたら戦争で薩摩芋ばかり食べていたから嫌いだと。
    とても印象に残ってる。私は好き嫌いはなく、毎日美味しい食べ物が食べられることに感謝しようとあらためて思った。

    +17

    -0

  • 197. 匿名 2014/08/05(火) 20:48:50 

    おじいちゃんが小さい頃
    お国の為に死ぬのは名誉
    自分も将来はそうなるのが目標だったと
    語っていました。

    +8

    -4

  • 198. 匿名 2014/08/05(火) 20:57:31 

    現在90才の母
    竹槍訓練がお腹減るだけでこんなんでB29落とせるか!と心の中で思っていたと話してます
    防空壕には爆弾墜ちたら蒸し焼きになるから入らなかったとも…
    母の実家は非国民と言われててて、赤紙がきまくって、村長の家にはきてなかったとか…
    敗戦の天皇陛下のラジオ放送聞いて大人は泣いてたけど自分は嬉しくて踊りたいくらいだったんだって

    リアルだと思いました

    +44

    -0

  • 199. 匿名 2014/08/05(火) 20:58:49 

    祖父が陸兵だったらしく、よく話をしてくれます。
    15才で日本を離れ、満州に行った時が1番記憶が鮮明であると言います。
    日本に帰ってきて間もなく、次の配属は特攻だと知らされた時、国のために自分は死ぬんだと誇らしい気持ちなのに、なぜだか涙が止まらなかったそうです。
    でも出発の数日前に終戦となり、国のために何も出来なかったことと、共に戦った戦友の死を今でも悔やんでばかりだといつも言っています。。。
    91才になりましたが、毎年地元の戦死した人々の慰霊祭に出席し、会長もしています。
    去年そこを一緒に訪れた時も「戦争に行った人間がワシ一人になったとしても、ワシは死ぬまでこの慰霊碑の前で手を合わせ続ける」と言っていて、私自身も胸が締め付けられる思いでした。。。

    +38

    -0

  • 200. 匿名 2014/08/05(火) 21:00:28 

    去年92歳で、亡くなった祖父。
    何枚もある写真の中で、若いおじいちゃんの隣には、同じように若い友人達5人が。
    みんな死んじゃった。生き残ったのは俺だけ。
    こいつは、満州…こいつは…。

    隣で仲良しのひとが笑ってる。
    側に大切なひとがよりそっている。
    決して、当たり前じゃない幸せなことに、なぜ気づけないのか…なぜ、人が人を殺し合う愚かなことがなくならないのか。願わくば、すべての人に平和を。

    +49

    -1

  • 201. 匿名 2014/08/05(火) 21:11:15 

    ずっと広島に住んでます。
    父方母方、両方の祖父母が被爆してます。

    母方の祖父は、何日か後に海軍として出征予定でしたが、終戦し行かずに済みました。
    仲間は手旗信号が覚えられず、自殺した方もいたそうです。
    父方の祖母のお兄さんは全身火傷で亡くなりました。

    だけど、祖父母は、わたし達には言葉を選びながら、あまり話したくなさそうに話します。
    他人には消して話しません。
    あんな、悲惨な現場は思い出したくないからだそうです。
    だから、学生に語っている方を見たら、凄いなぁと感じます。

    +20

    -0

  • 202. 匿名 2014/08/05(火) 21:15:12 

    祖父から聞いた話ですが、祖父の従兄弟が特攻隊員だったみたいです。
    ですが怖くなり敵には突っ込まず海に突っ込んで命からがら助かったみたいです。
    そうゆう人が何人もいたみたいです。
    そしてまもなく終戦を迎えたとか…。
    この話を聞いた時、色々考えさせられました。

    +28

    -0

  • 203. 匿名 2014/08/05(火) 21:16:08 

    亡くなった祖父から聞きました。
    もう何年も前に聞いているため正確ではありませんが、祖父はシベリアで捕虜として捕まったそうです。
    シベリアから無事生きて日本へ戻ってきて、数年前の管さんが総理大臣のときに無事にシベリアから戻ってきたから?と表彰状をもらっていました。
    祖父が亡くなった今でもその表彰状は祖父の家にあります。

    詳しい話はあまり聞けないまま亡くなってしまいましたがみなさんの話を聞いて、シベリアで捕虜として捕まった人達の多くが亡くなってしまっていて祖父が無事に帰って来られたのは奇跡に近いことだったのかなと思いました。
    祖父が亡くなる前、入院している祖父を訪ねると「鉄砲で襲われる」「殺される」などベッドの上で言っていましたがきっと戦争のときの辛い思いが出てきたのかな…。

    +31

    -1

  • 204. 匿名 2014/08/05(火) 21:20:55 

    母方の祖父が出征する際の日章旗の寄せ書きや、千人針を見せてもらったことがあります。
    日章旗は墨がボタッと落ちたもので、いわゆる“書き損じ”なため、残っていましたが、実際に持って出征したほうは、大陸からの帰国のときに、捨てるよう言われて持って帰れませんでした。

    大叔父(祖父の弟)は、19才、終戦の日に内地で戦病死しました。
    小さな集落(字くらいの規模)の、一番若い戦没者です。
    曾祖母の代理で、幼い母がバスを乗り継ぎ慰霊祭によく出席したそうです。

    父方祖父は海軍兵で、大和を見たこともあるとか。
    幼い父に語った話として、父がよく言うのは
    「天皇陛下万歳なんて、言って死ぬやつはおらん。みんな『お母さん』とか身内の名前を呼ぶ。
    戦地で被弾している中、『天皇陛下万歳』言って倒れたやつが隣にいたが、後の点呼の時にはしれっと横に整列しとった」
    だったとか。

    +30

    -0

  • 205. 匿名 2014/08/05(火) 21:33:05 

    祖母は、長崎でゼロ戦を作っていました。
    祖父は、外国で兵隊として戦っていました。
    私が聞いたのはこれだけです。
    苦しかったとか、その時の想いも含めて、もう少し詳しく聞いておけばよかった‥

    +8

    -1

  • 206. 匿名 2014/08/05(火) 21:38:40 

    知り合いのおじいさんは特攻隊だったそうです。
    燃料が片道分しかないと分かって飛び立ったあの日の事は今でも忘れられないと言っていました。仲間もたくさん亡くなったんだよと今でも泣きながら話してくれます。
    満州にも行った事があり、現地の人達は優しかったと言っていました。爆撃が飛び交う中、モールス信号で情報をやりとりしていたとの事です。

    +22

    -0

  • 207. 匿名 2014/08/05(火) 21:39:31 

    死んだ祖父が、戦争で肩とかを打たれて致命傷は外れてたけど、死んだフリをしてなんとか助かったらしい。
    祖父は、とっさに強く死にたくないと思ったらしい。
    その後、なんとか生き延びて祖母と出会って結婚して私の父が生まれた。
    祖父が、死んだフリしてなかったら自分は生まれてこなかったんだと考えると本当に奇跡だと思った。

    +35

    -0

  • 208. 匿名 2014/08/05(火) 21:42:01 

    おじいちゃんは
    特攻隊のみなさんが飛び立つ飛行場で
    無線師をやっていたそうです。

    目の前で友人が爆弾で亡くなった話や
    自分が戦争で出発した時の話など
    当時の日の丸の国旗に寄せ書きをした物を
    見せてくれながら
    よく話をしてくれます。

    おばあちゃんは
    長崎で原子爆弾で被爆しています。

    溶けたガラス瓶を保管していて
    時々 当時の話を
    オブラートに包むように話てくれます。

    被爆三世なので
    祖父母から聞いた話を
    子どもたちにもしっかり話
    平和の大切さを教えていきたいと思っています。

    +26

    -0

  • 209. 匿名 2014/08/05(火) 21:42:03 

    母は76歳になりますが、戦争体験しています。
    家が焼けてしまい東京から徳島に疎開した話しなど、色々聞きました。
    主人の祖父は戦争で命を落としました。

    +7

    -1

  • 210. 匿名 2014/08/05(火) 21:46:20 

    母方の祖父は体が弱く出兵できず、祖母と満州に疎開したらしい。そこで祖父がマラリアに感染し、大変だった時に現地の人がそれはそれは優しくしてくれ、薬も優先的に分けてくれたと。(当時の)中国の人はとても親切だったと良く話してくれました。
    祖母はその当時の満州を懐かしみ、台湾へ旅行に行ってました。満州は変わっちゃったみたいだからと。

    父方の祖父は炭鉱で働いていた為、赤紙は来なかったと聞いてます。

    私の両親は戦後産まれなので、両方の祖父母が無事だったおかげで、私が産まれ、子ども達にも会えました。

    戦争反対!

    +27

    -0

  • 211. 匿名 2014/08/05(火) 21:47:51 

    祖父が陸軍の近衛兵でした。
    その時に乗っていた馬が大変祖父に懐いていて、従順で賢い立派な馬でとても大切にしていたそうです。
    戦禍の混乱で離れてしまった時、その馬が焼夷弾を受けて歩くのもやっとな大怪我を負っていたにも関わらず、瀕死の状態で祖父を探して見つけ出してくれたと言っていました。
    でも、大空襲の中で致命傷を負った馬を助けてあげられる余裕がないのと、助かる見込みが殆ど無いのにこれ以上苦しませる訳に行かないと言う事で、祖父が自ら殺したそうです。
    祖父は既に他界していますが、やりきれなくてその馬の名前がずっと忘れられなかったと話していました。
    他にも、防空壕の中で亡くなった方の遺体を回収する仕事をしたり、そう言った話を沢山聞きました。
    そんな時代を生き抜いて来た祖父を本当に凄いと思いますし、今自分が生きている事が奇跡に思います。

    +36

    -1

  • 212. 匿名 2014/08/05(火) 21:50:22 


    県民の4人に1人が亡くなった
    唯一の地上戦だった沖縄からです。
    わたしの祖父母、必ず家族を
    2人以上は亡くしています。

    祖母は臨月だったお腹を抱え、
    子供5名と義理の両親を連れて逃げ回り、
    爆弾が遠くで聞こえる森の中で出産。
    結局、赤ちゃんを餓死させてしまい、
    現実を受け入れられずミイラになるまで
    抱いて逃げていたそうです。
    夫(祖父)は戦死…。

    癒しの楽園・観光地で人気の沖縄ですが、
    どうかこんな地獄の島だったことも
    知ってください。
    南部には平和資料館もあります。
    是非、遊ぶだけでなく、
    こういった所にも立ち寄ってください。
    お願いします。

    +81

    -1

  • 213. 匿名 2014/08/05(火) 21:55:42 

    祖父がパイロットで真珠湾攻撃に行きました
    だからパール・ハーバーという映画は見られなかった
    その約一年後、ビルマ沖で追撃され飛行機ごと海に沈みました。遺骨が無いのでお墓の中はからっぽです

    +31

    -0

  • 214. 匿名 2014/08/05(火) 21:55:52 

    祖母は海辺で竹槍でアメリカ兵を追い払う?練習をしたと言っていました。

    祖母は認知症なのですが、昔の話には反応するけど、すごく怒ります。
    よほど辛かったのでしょう。歴史は繰り返されるといいますが、戦争だけは繰り返したくない。

    +26

    -0

  • 215. 匿名 2014/08/05(火) 21:56:47 

    祖母は街には食料が無いから田舎のお百姓さんのところへ行って着物や帯、簪や櫛など高価なものとお米を換えてもらっていたそうです。良い人もいれば足元を見てくる人もいたそうで。事あるごとに『だから百姓は嫌いだ!』(もちろん助けてもらった人もお百姓さんなんですが)と言います。

    +20

    -2

  • 216. 匿名 2014/08/05(火) 21:57:11 

    私のおじいちゃんは知る人ぞ知る陸軍中野学校で、戦争中スパイをしてたから何回も死にそうだったと話してくれました(*_*)もっと話を聞いて語り継ぎたかったなぁ

    +14

    -1

  • 217. 匿名 2014/08/05(火) 21:59:07 

    この間、母と仏壇の整理をしていたら、小さな遺影が出てきました。その人は、私の祖母の従兄で、十代で戦死されたそうです。今は亡くなった祖母の遺影の横に置いてあります。本当に感謝してます。

    YouTubeで『特攻隊の遺書』を是非観て下さい。涙が止まりませんでした。私より遥かに若い青年が、自分の為じゃなく、家族の為に命を全うする姿、まだ青年なのに、考え方が大人で、強い精神力をもっていると思いました。戦争は絶対忘れてはいけないし、してはいけないです。
    くだらない番組は良いから、もっと戦争の事をTVで放送して欲しいですね。

    +51

    -0

  • 218. 匿名 2014/08/05(火) 22:00:28 

    当方、広島。
    祖母の話。当時19歳。

    疎開先の山口県で、広島にピカドンが落ちたと聞き、旦那(私から見たら祖父)、両親(祖父母両方の)が広島市内に住んでいたので心配になり、電車で向かうも、線路が壊れていたため、途中で電車が止まっていた。
    原爆が落ちて3日後だったらしいんですが、その道中は鳩の死骸や壊れた電車の中で倒れている人たち、川の中で死んでいる人たち、異様な光景だったそう。
    ようやくの思いで家があった付近に着くと、木の板に祖父の字で「○○小学校に疎開している」と書かれていたので、さらに数時間かけて遠い○○小学校まで歩き、そこも怪我した人たちで溢れかえっていて、探しまくってようやく祖父に会えて話を聞けば、両親は、家の下敷きになって焼かれてしまったとのこと。

    祖母は泣きながら話をしてくれましたが、祖父の口からは絶対に教えてもらえなかった。
    目の前で起きたことを話すにはあまりにも残酷だったんだろうと思う。

    +31

    -0

  • 219. 匿名 2014/08/05(火) 22:01:14 

    日本が原爆落とされて白旗挙げたとき、ロシアはここぞとばかりに樺太を乗っ取ったから大嫌いだと祖母の口癖。

    +44

    -0

  • 220. 匿名 2014/08/05(火) 22:02:31 

    私はないです
    機会があれば身内と言わずに聞いてみたいと思うのですが…残念ながら周りに経験者の方はいません。
    本当に経験した方がいなくなってしまう前に、聞いて、知りたいです。

    +11

    -2

  • 221. 匿名 2014/08/05(火) 22:03:16 

    私の両祖父共に戦争に行っています。
    特に母方の祖父は太平洋戦争の激戦地に従軍し、船で移動中に敵の戦艦に沈められましたが、何とか船の木片につかまり、鰹節をかじって一昼夜海に浮かんで生き延びたそうです。
    もしそこで力尽きてたら私の母は生まれてませんし、当然私も生まれてきません
    背中に砲弾の破片を無数に浴びて、機関銃で沢山の部下を失って終戦を迎えました。
    必死に生き抜いて、両親を育ててくれた両祖父母にはいつまでも感謝をしています

    +19

    -0

  • 222. 匿名 2014/08/05(火) 22:04:33 

    私は幼稚園のときから今は亡き祖父から戦争の話をきかされてました。
    満州の想像を絶する寒さや、船の中で伝染病が発生したくさん亡くなったこと、一緒に戦った親友の話など。。その話を聞くたびに、幼いながらに、おじいちゃんが必死に戦って生き残ったから、私がいるんだなと思ったのを覚えています。
    おじいちゃんの不思議な体験として、移動の船のなかで寝ていたとき、横で寝ていた戦友が夢枕にたち「先に行くな」と言ったので、目覚めたら友人は息を引き取っていたという話をききました。不思議なのことはあまり信じないのですが、この話は信じています。

    +20

    -1

  • 223. 匿名 2014/08/05(火) 22:08:41 

    曽祖父が原爆で亡くなりました
    祖母は県北から歩いて広島まで行き、遺体を探しましたが目を覆いたくなるような光景が広がっていておそろしくて目を瞑ってずっと涙が止まらなかったそうです。遺体も見つからずまた歩いて帰ってきたそうです。

    +12

    -0

  • 224. 匿名 2014/08/05(火) 22:10:40 

    こうしてみると戦後ってそんなに昔でもないんだなと改めて思う

    +65

    -0

  • 225. 匿名 2014/08/05(火) 22:17:20 

    母方の祖父が86歳で健在です。
    戦争当時15.16歳で、人間魚雷の特攻隊として訓練してたようです。
    人間魚雷といっても、小さいボートに爆弾をつんでアメリカの船に突撃するだけで、船にたどり着くまでに撃たれるにきまってるやんとわかってたらしいです。
    祖父は香川の田舎出身なので、実際に危険な目にはあったことがなく当時の話は楽しそうに話してくれました。
    でも訓練で、食事は3分以内にしないとだめで、みんなお腹を壊してたとか、食べれなかったらバットでお尻を殴られたとか聞きました。

    祖母も香川で、小学生だったので学校の校庭に防空壕用の穴を掘ったり、竹槍でつく練習はしてたと聞いたことがあります。

    父方の祖父はわたしの生まれる前に亡くなってますが、明治生まれで戦争が終わったとき30台後半くらいだったそうです。
    昔、満州事変に関する賞状や、あとは勲章なども何個か見ました。中尉だったみたいで、田舎では白馬に乗ってたらしいです!
    ほんといまでは考えられない話ばかりですね。

    ついこの間、戦争についてのドキュメンタリーを見たのでちょうど戦争について考えてたところでした。

    +15

    -2

  • 226. 匿名 2014/08/05(火) 22:22:18 

    今はもう認知症になってしまった祖母ですが、もっと元気だった頃テレビのニュースで慰安婦のニュースが流れた時に、この人らあは大嘘つきや!って怒っていたことがありました。あの時にもっともっと話を聞いておけばよかった。

    +40

    -3

  • 227. 匿名 2014/08/05(火) 22:22:51 

    じぃちゃんは戦中に地雷を踏んで、片足の膝から下が吹き飛んでしまった。
    義足を付けていたんだけど、優しいじいちゃんのあるべき足がない事が恐ろしくて、義足を外す所はどうしても見れなかった。
    人を殺す為に地雷が埋めらるという事が現実にあったという事も恐ろしかった。

    片足なくして死にかけてまで何で戦わなきゃいけないのか?
    不意をついて人を殺す道具が存在する必要なんてあるのか?
    理解できない。
    子ども達にはそんな思いさせたくない。
    戦争なんてあるべきじゃない。

    +39

    -1

  • 228. 匿名 2014/08/05(火) 22:26:30 

    小さい頃おばあちゃんに「戦争は悪いことだと思わなかったの?」って聞いたことある

    周りが皆戦争戦争騒いでたから特におかしいことだとも悪いことだとも思わなかったって言ってて、子供ながらに集団心理って怖いな…と感じたのを覚えてる

    +26

    -2

  • 229. 匿名 2014/08/05(火) 22:28:08 

    戦争に行った父方の祖父には
    一度も聞いた事がありません。
    思い出したくなかったのでしょう。
    母方の祖父は、体に不自由があった為
    戦争には行かなかったんだと祖父からではなく
    祖母から聞いた事があります。
    戦争に行かなけば それはそれは周りから
    冷たい目で見られたそうです。

    戦争に行っても行かなくても
    思い出したくもない 悲しい辛い思い出なんだと
    思います。

    +21

    -0

  • 230. 匿名 2014/08/05(火) 22:32:12 

    祖父は戦争当時大学受験?を控えた学生だったらしく、大好きな文学の道に進みたかったらしいが、文系だと戦争に駆り出されると曽祖母に言われて医学の道に進んだそうな。

    医者になってから船医として船に乗って働いていたそうだが、夜中に亡くなった兵隊さんの遺体を海に投げ捨てる水音が今でも耳に残っているそう。

    +26

    -0

  • 231. 匿名 2014/08/05(火) 22:33:45 

    今は穏やかな熊本の空、アメリカの飛行機が飛んでいた。
    夜は光が漏れないように電灯に布を被せ、殆ど薄暗い中家族でわずかな食料を分け合って食べていたそう。
    祖母の話を聞いたら、今の時代のありがたみをひしひしと感じるし、絶対に戦争を繰り返してはいけないと強く思います。

    +22

    -0

  • 232. 匿名 2014/08/05(火) 22:33:59 

    今は無き祖父が出兵したときの看板が未だにある。
    「祝○○○○君出兵おめでとう」と書いてありちゃんと飾ってます。赤紙も見せてもらいましたまだあると思います。

    祖父は戦争にカメラを持って行ってて写真を沢山撮ってました。脚にゲートルを巻き機関銃を担いでキメてるものや、川の中を部隊の人達が順をなして歩いてる写真など、でも詳しくは話してくれなかったような気がする。

    +14

    -0

  • 233. Blue Leopard(青柳麗央) 2014/08/05(火) 22:38:35  ID:2eSZHzPdp6 

    亡くなった祖父は、赤紙が来る前に結核にかかって、兵役を免れたそうです。そしてその当時祖父を看病していた若き看護師の祖母と出会い、結婚し、父が生まれたそうです。

    ひとつ何かが違っていたら、自分は生まれて来なかったのだな、と思うと、戦争が何世代にも渡って影響している事がわかります。

    +17

    -0

  • 234. 匿名 2014/08/05(火) 22:41:49 

    父方の祖父はジャワ島近辺の島へ兵隊として行ったという。祖父がいた島の隣の島が集中攻撃受けて大勢兵隊が亡くなったから自分も危ないと思ったが、祖父がいた島はアメリカ兵にはスルーされたため何もなく過ぎた。だけど、その島へ着くまでの船が魚雷攻撃されて危なかったこともあったという。

    その間、祖母は故郷で子供4人(伯母と叔父3人)を育てながら義父母(曾祖父母)と過ごしていた。おそらく義姉妹も何人かいた(祖父には姉と妹が3人ずついた)だろう。その故郷も空襲に遭った。曾祖母が逃げ遅れて爆撃をうけ数日後に亡くなった。それまで祖母が看病したという。

    祖父がそのことを知ったのは、戦後に帰還した時だっただろう。自分の母親が亡くなったと知った時は辛かっただろうなあ。そのためか、その後生まれた娘(叔母)に曾祖母の名前に「子」を付けた名前にしていた。
    それから5年後ぐらいに私の父親が生まれた。

    太平洋戦争始まる前の6年前に祖父母が結婚した。すでに祖父はジャワ島にいたから、祖母が親戚の女性と一緒にジャワ島へ向かったという。祖母は当時18歳。太平洋戦争始まる前にジャワ島から引き揚げたという。その時点で4人目(父親の三兄)を妊娠中だったという。
    祖母にとっては結婚10年ぐらいは一番大変だったと思う。

    +8

    -2

  • 235. 匿名 2014/08/05(火) 22:43:26 

    あります。と言うよりも、田舎で各家庭に取り付けられている、防災無線が鳴る度、祖母がうずくまり、頭を抱えていた。祖母曰く、頭さえ吹き飛ばされなければ、命は助かるとの事。つまり、腕や脚の一本ちぎれてもと話していた。とにかく、祖母がその姿勢になる度に、父がこう言っていた。「もう、戦争は終わったんだよ。平和な日本になったんだよ」と。でも、祖母はいつまでも、震えていた。戦争は、助かった人にも、一生の傷を心に刻むんだと、思い知りました。

    +38

    -0

  • 236. 匿名 2014/08/05(火) 22:44:33 

    私の祖父は
    満州に現地の食料調達関連に行ってたみたいです。
    祖父は代々八百屋だったので。
    でも満州から帰ってきたら、
    残してきた奥さん、子供たち三人は、原爆で亡くなっていました。

    あの広島の原爆の日、平和記念公園近くに墓地があったらしく、四人で墓参りに行っていたみたいです。
    私が小さい頃、仏壇の引き出しで優しい顔の奥さん、楽しそうな子供たちの写真を見つけて、いたたまれない気持ちになりした。(私は、祖父と祖父の後妻との間に産まれた父の子ですが、この後妻がとんでもなく鬼嫁で祖父は不幸せそうでした。)
    祖父は亡くなりましたが、ぼけても、平和記念公園に行くと涙を流していました。
    今は天国で亡くなってしまった前の家族と幸せにやっていると思います。

    +18

    -1

  • 237. 匿名 2014/08/05(火) 22:47:08 

    私の父は8歳の時に、住んでいた街が大規模な空襲に合いました。火の海と化した街中から郊外へ、家族みんな必死で逃げたそうです。途中、焼夷弾の直撃を受けて燃えて亡くなった人達の姿を数え切れないほど見てしまった。また爆弾の炸裂する音など、耐えきれない恐怖を感じた父は、空襲後一年間位は今で言うPTSDの状態で外に出ることも出来なくなったそうです。こういう話は祖母が母に語ったものです。父本人は、今でも当時のことを思い出すのが辛くて戦争の時の話はほとんどしません。ただ、「死んでるのは(人は)だいたい、(何人か)かたまって(まとまって)死んでたな…」と呟くように言っていたのを聞いた位です。
    ベトナム帰還兵のようなPTSDの症状が今だに現れる父です。子供の頃はそんな父が怖かったのですが、今となっては可哀想で仕方ありません。

    +17

    -1

  • 238. 匿名 2014/08/05(火) 22:51:00 

    子供の頃からよく祖父母から戦時中のお話しを聞いてました。そして戦争に出征する時に撮ったおじいちゃんの写真が子供ながらに凄く偉大に感じました。おじいちゃんは歩兵隊で中国の方へ行きましたが、自分の仲間達と毎日「必ず生きて帰ろう!」と話していたそうですが、叶わなかった方が多く、その言葉を交わした仲間が次々と亡くなって、穴を掘ってその中へ何体も泣きながら埋めたと涙を流しながら話していました。凄く自分も胸が痛かったのを覚えてます。今はもう亡くなりお話しは聞けませんが、去年おじいちゃんの軍歴証明書を申請してそれを大事に保管してます。戦争を経験してない私だからこそ、おじいちゃん達に聞いたお話しや資料、写真など後世に大切に語り継いでいきたいです。


    +19

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  • 239.   2014/08/05(火) 22:51:28  ID:cIuHIVy3AF 

    父方の祖父は私が物心ついた頃にはちょっとボケてきてて、いつも戦争の時の話をしてました。
    祖父は大陸にわたり、前線で鉄砲を持っていて、でも敵とはいえ人を打つのが嫌で空に向かって打ちながら、大声で「逃げろー!!」と日本語で叫んでいたそうです。

    まだ当時の状況とか考えられなかった私はただそうなんだぁって思ってたけど、いま考えたらおじいちゃんは戦時中の懺悔をしてたのかな?って。
    どんなに自分が嫌でも、命令に逆らえないのが戦争!
    絶対に嫌だと思いつつ、もしかしたら人を打ってしまって、そのことを美しい思い出に塗り替えてるのかなぁって思う。

    たとえおじいちゃんがいま生きてても蒸し返して聞くべきことじゃないと思うけど。


    戦争は絶対に起こしてはいけないと思う。どうしても戦争したいなら、決めた本人が前線行けやって思う。

    +19

    -2

  • 240. 匿名 2014/08/05(火) 22:53:19 

    母方の祖父はシベリアに行っていて日本に帰って来て兄嫁が迎えに来てくれたときに持ってきてくれたタケノコご飯を食べて泣きじゃくったそうです。

    母方の祖母は多摩地域に住んでいて東京大空襲の時、焼夷弾がそばに落ちてきたんだけど不発だったから助かったといってました。

    父方の祖父は東京で働いていて東京大空襲の日、アパートの屋根を突き破って焼夷弾がトイレの穴に嵌まって破裂して文字通りヤケクソとなり(汚くてすいません)、友人と飯田橋のお堀の土手に寝そべり東京の街が燃えていくのを眺めていたそうです。

    父方の祖母は栃木に居たんですが機銃掃射に、襲われ必死に走って走って石橋の下に隠れて震えていたそうです。

    小さい頃はあまり祖母たちはそういう話もしてくれなくて、祖父たちも私が幼い内に亡くなってしまったので祖父の話は全て両親から聞きました。

    でも最近母方の祖母はポツリポツリ、と戦争の話をしてくれるようになって祖母がどんなに辛い思いをして、苦しい時代を生き抜いてきたのかと考えると泣けてきて、平和な毎日が送れるというのはどんなに幸せな事か、若い世代の私達こそ伝えていかなきゃと、考えてます。

    長文、すみませんでした。

    +22

    -0

  • 241. 匿名 2014/08/05(火) 22:56:35 

    3年前に他界した祖父は、戦時中にヘルメットに流れ弾が当たって、耳の聴こえが悪くなっていました。祖父の所属していた部隊は、祖父が熱で休んでいるときに他の皆は死んだそうです。もしその時、祖父が熱で寝込んでなかったら、私はこの世にいませんでした。直接聞いてはいませんが、戦地では人を殺したそうです。優しい祖父だったので、とても信じられません。特攻隊の子達が最期に家族に宛てて書いた手紙を読むと居た堪れない気持ちになります。
    戦争は残酷ですね。
    文明社会に生きている私達は、絶対に戦争をやめるべきです!

    +31

    -0

  • 242. 匿名 2014/08/05(火) 23:00:16 

    このあいだの青山さんのアンカーはよかったよ!
    ぼやきくっくり | 「アンカー」400回!旧海軍司令部壕訪問&69年ぶりに翻った少将旗&大田實少将ご子息インタビュー
    ぼやきくっくり | 「アンカー」400回!旧海軍司令部壕訪問&69年ぶりに翻った少将旗&大田實少将ご子息インタビューkukkuri.jpn.org

    ぼやきくっくり | 「アンカー」400回!旧海軍司令部壕訪問&69年ぶりに翻った少将旗&大田實少将ご子息インタビューぼやきくっくり日本人は今、世界一、自分の国の歴史を知らない人たちになっている。自分の国の歴史を知らない人が、何で「国民」なのか。日本人の歴...

    +6

    -2

  • 243. 匿名 2014/08/05(火) 23:01:10 

    祖父母が子供の頃沖縄戦体験者でしたので教えてくれました。


    家の近くにも爆弾が落とされて畑に大きな穴が何個も開いたこと、
    米軍の攻撃は夕方には終わるので夜に当時中学生くらいの年齢だった祖父が南部から首里まで歩いて物質を届けたりしていたようです。
    見つからないように遠回りに山を越えて、靴を履くと万が一無人の偵察機なんかに見つかる可能性などあるのでわらじや素足だったと言っていたように記憶しています。
    そして攻撃が始まる朝までには帰るように動いていたようです。

    祖父母は民間人でしたので、南部は危ないから北部へ船で移動したり、また南部に戻ったりしたそうですが、終戦になる前くらいに北部か南部の海から米軍の艦隊であろう船が2~3重にも巻いていたのを見たそうです。


    捕虜になるときも体の震えが止まらずにあれほど怖かった時はなかったと言っていました。
    捕虜の収容所では顔を泥で塗りたくって女だとばれないように過ごしていたそうです、祖父母達は怖い体験はしていますが、生きていたこと、だからこそ私がここにいることを感謝しないといけないですね・・。

    日本は戦争をしない国だと信じていますが、中国の挑発的な態度がすごく迷惑です!
    沖縄は対岸の島だという意識を持たないと、巻き込まれる恐れがあるんじゃないかと、不安になります。。

    +28

    -2

  • 244. 匿名 2014/08/05(火) 23:01:18 

    おじいちゃんから聞きました。一緒に新宿の都庁の中にある戦争体験の展示室にも行きました。満州に行った人の体験記もあります。
    屋根のないトロッコみたいな電車で何日も揺られながら帰ってきたみたいです。子供が熱を出したり、病気になってしまったりちゃんと生きて帰れなかった子もたくさんいたみたいです。
    命はほんとうに大切ですよね。

    +13

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  • 245. 匿名 2014/08/05(火) 23:04:36 

    今は亡き祖父のお話。

    祖父自身は空軍希望だったのですが身長が足りなくて海軍に回されたとのこと。

    岡山空襲で24歳の前妻が亡くなった。当日、前妻をおんぶし線路伝いに岡山から津山まで帰ったと言ってました。

    前妻との間に娘が1人。後に母の母(祖母)と結婚し、五人の子宝に恵まれ、100歳近くまで生きて数年前に持病が悪化し亡くなりました。

    希望していた空軍に配属されていたら特攻部隊に配属されていたのかなとか色々考えていたらゾッとします。

    +14

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  • 246. 匿名 2014/08/05(火) 23:06:12 

    約一年前位、熊本県の宇土市周辺で、無線の点検中、誤った内容が放送されたと、地方ニュースで流れていました。それが何と、敵が襲撃して来ると言う、信じられない内容でした。でもそれ以上に、衝撃だったのはこんな話です。戦争を知らない世代は、「敵は、何者か?誰なのか?」と、問い合わせがあったそうです。それに対して、実際に戦争を体験した世代は、「敵はどの方角から、来ているのか?」だったそうです。また、皆が右往左往する中、戦争体験者の方達は、一心に上空を睨みながら、機微に行動されていたと、報道されていました。長くなり、またトピずれかもしれませんが、とても印象に残っています。

    +36

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  • 247. 匿名 2014/08/05(火) 23:07:03 

    4年前に亡くなった祖母、3年に亡くなった祖父は満州に渡り苦労したようです。祖母はロシア軍から逃れる為にトイレに身を隠し後一歩のところで助かったと言っていました。今になって思うのは、もう少しきちんと戦争の話を聞いておけば、と。        

    +11

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  • 248. 匿名 2014/08/05(火) 23:09:51 

    沖縄出身です。

    おじいちゃんは元々5人兄弟。
    戦争で3人の兄弟を亡くしました。

    地元の戦争を知らない人達に
    体験談をお伝えする仕事をしていますが
    戦争の話をする度に涙を流しています。

    兄が兵隊として戦死し、
    弟の務める工場に空爆が落ち
    おじいちゃん自身も、
    間一髪で弾が当たらなかった事。
    アメリカ兵に見つかって殺されそうになり
    命からがら逃げた事。

    多くの人が亡くなってこの日本を守ろうと
    戦死した多くの方々がいて
    今の平和な私たちの生活がある。

    尊敬と感謝しかありません。

    +26

    -0

  • 249. 匿名 2014/08/05(火) 23:11:09 

    小さい頃は子守唄のように聞かされていましたが、つい最近、被爆した祖母に改めてお願いをして話を聞きました。まだ小さい自分の子供たちにきちんと伝えていけるように…被爆者3世・4世として知っておかなければいけない事実だと思っています。

    +9

    -0

  • 250. 匿名 2014/08/05(火) 23:14:36 

    祖母が小さい時爆弾を落とされた場所の火を消してたら、
    米軍ヘリが来て、祖母は井戸の側で死んだふりして薄目で見ていたそうです。そのヘリに乗っていた米兵は拳銃を持って上から祖母を見てたそうです。

    その祖母が亡くなる前に『ばぁちゃんは戦争で学校に行けなかったから、ちゃんと学校にいきなさいね』と言う言葉が最後でした。
    一生忘れられない言葉です。

    +19

    -0

  • 251. 匿名 2014/08/05(火) 23:16:02 

    もう亡くなりましたが祖母から昔聞きました。
    戦争中に、中国へ渡っていたと。
    長男、次男を亡くしているのですが、あまり詳しくは聞いていません。
    ちゃんと聞いておけば良かった…

    +8

    -0

  • 252. 匿名 2014/08/05(火) 23:22:52 

    トピズレですが私の住んでいる地域の護国神社の敷地内には、戦争でなくなった方の遺品や手紙が寄付されていて、お参りに行ったときは必ず見学して帰ります。血だらけのお守りやはちまき、二十歳の子が母親に宛てた遺書…涙なしには見れないです。戦争で犠牲になった方のためにも今の日本がより良い国になるように私たちが頑張らないと行けないと思っています。

    +39

    -0

  • 253. 匿名 2014/08/05(火) 23:26:47 

    70。同志よ。今こそ報復の時アルよ。琉球を取り戻すアルよ。日米同盟恐くないアルよ。

    +1

    -24

  • 254. 匿名 2014/08/05(火) 23:31:54 

    祖父が兵隊としてビルマへ行っていました。
    大砲を撃ちまくったのが原因で片耳は難聴になり、
    すぐそばで手榴弾が爆発して胸に大怪我をしたそうです。

    また、仲間が攻撃を受けて亡くなった時、
    彼の小指の先を切り落として持ち帰ったそうです。
    終戦後、その人の実家に届けに行ったら
    泣いて喜んでくれたと言っていました。

    +31

    -0

  • 255. 匿名 2014/08/05(火) 23:34:37 

    祖父はなんだかんだで10年近く戦争に行っていた。

    でもあまり自分からその話をしなかった。

    私が小学生の時、母に「どうしておじいちゃんは戦争の話をしてくれないの?」と聞くと、

    「おじいちゃんは自分が戦争で沢山人を殺したってことを、孫のあなた達に話したくないんだと思うよ。」

    と、母が少し困った顔で言ってた。

    戦争の話って言うと原爆とか捕虜とか被害にあった話の方がよく聞くけど、実際祖父が生き延びて帰ってくるまでの間に、数えきれないほどの人を殺してきたんだと思う。

    そんな話を自分の孫に聞かせたいはずがないんだ…と、その時初めて気づいた。

    +52

    -1

  • 256. 匿名 2014/08/05(火) 23:35:54 

    祖母から聞いた話
    戦後闇市を仕切ってたのは朝鮮人だと。
    だから駅前の一等地にパチ屋があったりするんだと(不法占拠で)
    日本人とのいざこざも絶えなかったとか。
    今よりももっと差別されてたから何か事件があると(例えば火事があったら放火だと決めつけて)朝鮮人のせいにしてリンチしたり・・・だからって今朝鮮人がしてることをお互い様だねって許せるかっていうとそんなわけにはいかないけど。戦争って文化も誇りも人間の尊厳も何もかも無にするから二度と起こらないようにしないとねってこの時期になると祖母は言います

    +28

    -0

  • 257. 匿名 2014/08/05(火) 23:39:03 

    94歳の祖父に、最近改めて聞きました。
    当時の階級バッジ(?)みたいな物や手紙、終戦後に船から降りたときに支給された物が書かれた紙等、色々見せてくれました。
    でも、本当はあまり思い出したくないような事を言っていました。

    +15

    -0

  • 258. 匿名 2014/08/05(火) 23:40:15 

    今は亡き祖母がよく話してくれました。中国、フィリピンと医療隊員として従軍したそうです。戦局が悪くなりアメリカの攻撃の手が迫ってると、患者を背負い目立たないよう白衣をその辺の雑草で草木染めし、即席の迷彩服をまとい、とにかく逃げたと言っていました。終戦もフィリピンの山奥で迎えたものの、極限状態に信じられずアメリカのデマかとおもい二ヶ月ほど山からおりてこなかったそうです。食料もなく蛇や虫なんでも食べたといっていました。
    捕虜となりボロボロになって帰国。搬送船からおりたときに、アメリカ兵と腕を組む日本人女性達を見て、命をかけて従軍し日本のためだったのに…と、なんとも言えない気持ちになったといっていました。

    +26

    -0

  • 259. 匿名 2014/08/05(火) 23:47:05 

    おばあちゃんは2年前に亡くなりましたが、よく戦争の話聞かせてくれました。

    東京大空襲はまさに火の海で、そこらじゅうに死体や肉片があったと。
    8人兄弟の長女だったおばあちゃんが、弟や妹を連れてバケツをもって1日中歩き、やっとの思いで水やおにぎりをもらいにいったそうです。
    あんな空襲に遭っても両親と兄弟一人も欠けることがなかったのは奇跡だと、よく言っていました。

    そんなおばあちゃんがいたからこそ、自分がいると思うと感謝しかありません。
    ちょうど今日、おばあちゃんの命日なので色々と思い出し、コメントさせてもらいました。

    +38

    -0

  • 260. 匿名 2014/08/05(火) 23:53:43 

    祖母は、元々福岡の出身で、女学校卒です。その当時の友達と、再会を約束して、その子は長崎へと、嫁いだそうです。だから、あの長崎の原爆投下の日が、「忘れられない」と、言っていました。階段を上がった先にある窓から、はっきりと、見た事の無い異様な雲を、目撃したそうです。祖母が嫁いだ、熊本県天草の島からも、はっきりと。とにかく、「これは大変な爆弾が落とされたんだ、その空の下に、あの子が、いる。それなのに」と、祖母は言っていました。「いわゆる、キノコ雲がこんなに、離れた距離からも、見えたからね。これはもう、物凄い爆弾に違いないって」と、涙ながらに話す祖母を、私は忘れません。また祖母は、それ以来その階段を登れず、「途中で足がすくむの。二階へは、行けない。いや、思い出すから行きたくない」とも、話していました。祖母は、数年前に他界しましたが、戦後五十年経っても、記憶は鮮明だったみたいです。長くなりましたが、今私達こそが、戦争の悲惨さ、命の尊さと大切さのバトンを引き継ぎ、次世代へと、繋ぐ必要があると思います。決して、戦争を美化しないように、しなければならないと思っています。長文失礼しました。

    +36

    -1

  • 261. 匿名 2014/08/05(火) 23:54:13 

    私は関東生まれ関東育ちですが母と母の一族が沖縄出身です。

    曾祖父は出兵で満州へ行き帰らぬ人に。
    曾祖母が一般市民。
    防空壕で日本兵に、生まれて数ヶ月の子供(祖父の兄弟)を殺せと言われたそうです。
    殺せないなら防空壕から出ていけと。

    実際に殺せなくて、必死に逃げ回ったそうです。
    ですが、生き残るために赤ちゃんを殺さざるをえなかった人も居て、それを見たこともあると言っていたそうです。
    数年前に100歳を越えて(正確な年齢は資料が無くて不明)亡くなりました。

    祖父はまだ学生で、竹槍を持たされたそうです。
    気がついたら海岸で浮かんでいたそうです。
    上空では爆撃機が、動いた物を上から狙って撃っていたと。
    ただひたすら動かないで死んだふりをするしか無かった。
    その後どの様にして捕まったのか覚えて無いけれど、学生だったから助かったと言っていたそうです。


    祖母も学生でした。
    無理やり看護学生の様な事をさせられたらしいです。


    どれも、経験者は直接私には話しませんでした。
    母親は話して貰った事があったので、母親から聞きました。


    ひめゆりの塔には、小学生の頃に祖父母に連れられて行きました。
    祖父母は、その場に居るのも辛そうな表情でした。

    犠牲者として刻まれてる、母の旧姓と同じ名字は、恐らく血縁なのだろう、と聞きました。


    ちなみに母親は沖縄が日本への返還前と返還後の節目の時代を経験しています。
    防空壕の中には当時も遺骨がそのままだったりということも多かったとか。

    今では有名な沖縄の方言も『学校で方言禁止』だった。
    『日本人になれ』という教育だったみたいです。
    これは余り公になっていない様ですが。


    沖縄に親戚居て良いねって言われてきました。
    ですが、観光気分で~という感じには正直なりませんし、複雑です。
    本土で育ったからこそ、ちゃんと歴史を知りなさいと言われます。

    親族が生き延びてくれたから今の私が、母が居る。
    実際に母の親戚となると男性は圧倒的に少ない。


    私も母のように伝える立場なんだと思っています。

    +38

    -1

  • 262. 匿名 2014/08/05(火) 23:56:34 

    祖父は年齢が低かったので、戦闘機(飛行機)の工場にいて作ってたと言っていました。

    +3

    -1

  • 263. 匿名 2014/08/05(火) 23:58:20 

    身内ではありませんが、数年前大阪から九州へのフェリーに乗っていた時、たまたま話をしたお爺さんが毎年、鹿児島の知覧で行われる慰霊祭に参加していて今年も向かってる所だ、、自分は特攻隊の生き残りで仲間がどんどん死んでいく中、自分だけが生き残り申し訳ない気持ちでずっと生きてきたと涙ながらに話てくれて、知覧の特攻会館に行ってほしい!との言葉が印象的でテレビなどで特攻隊の方達の存在は知っていたものの平和ぼけしてる私は現実的に感じておらず衝撃的なお話でしたが見ず知らずの若かった私に貴重なお話をして下さったお爺さんに感謝しています。
    その2年後鹿児島の知覧会館に約束通り行きました。涙が止まりませんでした。。
    今の若い方達にもぜひ行ってもらいたいです。

    +44

    -0

  • 264. 匿名 2014/08/05(火) 23:59:40 

    今は亡き祖父に聞きました。
    ロシアで捕虜になった時の話でした。
    祖父は幸い身体が丈夫だったらしく、過酷な労働と栄養失調で倒れていく戦友たちにご飯を分けてあげたりもしたそうです。
    当たり前ですが、祖父が帰ってこれなかったら私もこの世に産まれなかった…本当に戦争って恐ろしい。

    +24

    -0

  • 265. 匿名 2014/08/06(水) 00:00:19 

    私の両親は広島出身で母方の曾祖母、父方の祖父、叔父が原爆で亡くなり、二人の祖母はそれぞれ肉親を探す為に被爆しました。父方の祖母は祖父を見つけてリアカーでひいて家まで連れて帰り祖父は家で次の日に亡くなったそうです。母方の祖母は曾祖母を見つけることができなかったそうでその日のことは母にもほとんど話してくれなかったそうです。

    父方の叔父はフィリピンで亡くなったそうで、戦後父が働き始めた時にとても親切にしてくださる方がいて不思議に思い理由を聞いたら「君と同じ名字の人に戦時中お世話になったから気になって」とのことで話しをよく聞いたら叔父本人のことだったそうです。

    私も戦時中のことを本人からはほとんど聞けなかったのですが、両親から伝え聞くだけで涙が止まりません。戦争は普通の家族をバラバラにしてしまいます。

    +24

    -0

  • 266. 匿名 2014/08/06(水) 00:06:57 

    母方の祖父は軍事工場で働いていたから、兵隊に行くことがなかった。祖父は持病ないし、体も標準体型なのになぜ兵隊に行かなかったのだろう?と私の母親が思っていた。後から軍事工場勤務だったためと知った。

    祖母は竹槍訓練していて、最初に妊娠した子を流産してしまったという。

    祖父母は当時、神戸にいたから神戸空襲に遭った。住んでいた家を一瞬で爆撃されたという。祖母にはまだ10代の弟や妹が数人いた(数年前から祖母一家は神戸に移り住んでいた)から、そんな中みんな無事だったのは奇跡だったなあと思う。その後、故郷へ戻ったという。

    戦争がなかったら、流産した子も無事生まれていたかもしれない。だが、祖母はその後妊娠した娘を3歳になるかどうかのぐらいに亡くした。戦後まもない生まれで食糧が充実してなかったからかも。

    祖母はその後、私の母親含め5人の子供を出産した。5人の子供は入院したことがほとんどないぐらい健康体。

    +15

    -0

  • 267. 匿名 2014/08/06(水) 00:10:14 

    祖父に聞きました。
    東京で車を運転している時にアメリカ軍が戦闘機?ですぐ上までやってきて、近くから銃で打たれたらしいです。でも祖父達が渡される銃の玉は5つしかなく、到底太刀打ちできるようなものではなかったらしいです。
    それを聞きながらその時の様子を想像しその恐ろしい光景が信じられない思いと、自分達の時代は平和すぎて人がおかしくなっていくんじゃないかと思いました。
    私は祖父に戦争で体験したことを話したほうが良いと進めましたが皆さんと同じように、思い出したくなく、話すのも嫌とのことでした。

    +13

    -0

  • 268. 匿名 2014/08/06(水) 00:11:40 

    じいちゃんから聞いた…

    でもじいちゃんは戦争に行ってないから、とにかく終戦後の食糧難で苦労したみたい。
    じいちゃんはまだ小学生くらいで、毎日お腹がすいてたまらなかったらしい。
    だから今でもじいちゃんはご飯つぶ一つも残さない。
    本当に辛かったんだと思う。
    ひもじいって…。

    +18

    -0

  • 269. 匿名 2014/08/06(水) 00:12:17 

    祖父が軍医でした
    戦争の話は全くしてくれませんでした
    祖父が亡くなり3年前に祖母が亡くなった時
    いろいろ整理していたら
    戦時中の祖父からのハガキが出てきたので
    祖母の大切な物と思い棺桶に入れておきました
    ハガキと共に祖父の名前の書いた旗との写真など
    沢山出てきて家族みんなで
    その時の祖父の気持ち、祖母の気持ちを考えたら
    すごく泣けてきました。
    きっと私達に話さなかったのは
    戦時中に子供を二人亡くしてるので
    祖父母共に家族を守れなかった
    っていう気持ちが大きかったのかも…

    +21

    -0

  • 270. 匿名 2014/08/06(水) 00:13:06 

    母親は昭和20年の秋に満州で生まれた。
    満州というと、満蒙開拓団が思い出されると思うが、母親の家は裕福だった。父(祖父)が満鉄の幹部だったからだ。
    ハルピンの日本人街に大きな西洋式の屋敷を構え、祖父は運転手付の車、母親の兄姉たちは馬車で学校に通う。教師たちすら叔母たちにペコペコしていたらしい。
    朝鮮人の婆やと姐や、中国人のメイドたち、ロシア人のコック…、祖父祖母は毎夜夜会に出掛けて行く。

    帝国軍将校たちが邸宅を訪れて、その将校のほうが祖父に頭を下げる…。

    戦争をやってることは知ってたけど、ハルピンは平和で、日本人、朝鮮人、中国人、ロシア人みんな仲良く暮らしていた。

    朝鮮人、中国人を差別している人も確かにいたし、ワルガキは朝鮮人、中国人を苛める子もいた。

    それを見た祖父は叔母叔父に「人間は平等です。今はやむなく戦時下にあり、戦ってはいるが、ここに共にある人々を罵り苛めることは、人として最もやってはいけない。我々日本人は亜細亜のために戦っているのです。皆で仲良く生きるためなのです。あなたがたは、我が家にいる使用人たちに感謝こそすれ、見下したり、冷たい態度を取ることは許されません。我が家の為に働いて下さってるのですから」と、言い聞かされていたそうだ。

    現に屋敷の使用人たちは屋敷内に住まい、日本人の使用人と同じ待遇だった。お菓子や食べ物も叔母たちと変わらなかったそうな。

    そして、終戦。事態は180度変わった。

    祖父は、中国軍に捕らえられてしまい。乳飲み子の母親と4人の姉兄たちをかかえ、それまで御婆日傘だった祖母は途方にくれた。
    しかし、救いの手は差しのべられた。雇われていた元使用人たちが、自ら祖父を救ってくれたのだ。
    「この人は日本人だが、素晴らしい人なのだ。我々に日本人と同じ待遇を与え、慈悲深い人だ。奥様方どもどもに日本に帰してやってくれ」
    奇跡的に祖父は祖母たちの元に帰った。

    しかし、預貯金はもちろん、ありとあらゆる宝飾品や調度品、屋敷もそのままに祖父祖母叔母はリュックを背負い、祖母が乳飲み子の母親をだき、叔母は両手に叔父たちを連れ、逃避行がはじまった。

    叔母は16歳で美しかったので、わからないように男の格好をしていた。

    行く先々で中国人が子供を売ってくれと言ってくる。叔父たちは働き手に丁度いいかららしい。乳飲み子の母親は子供のいない夫婦が譲れと何人も来たと。小さな子供は引き揚げる途中で死んでしまうのにと言われていた。
    祖母は「栄養失調や病気で死んでも日本に連れてかえる!!」と頑として聞かなかったと。

    奇跡は再びおこる。なんと家族一同一人も死なずに引き揚げて来られた。

    祖父は無一文になり、満鉄という仕事も無くなったが、先見性があり「これから日本人は欧米化する。肉を食べる。男が足りないから女性が働く。肉屋と総菜屋をやれば儲かる!!」と突然言い出した。

    祖父の実家は庄屋だった家系で、土地と開業資金を工面した祖父は商売を始めた。

    昭和30年代、物心ついた母親の記憶は、街中で街頭テレビより早くテレビを買い、洗濯機、オーブンもある自宅。英語やお花を習う自分。
    すでに商売を軌道にのせ、会社にし、総菜や調味料を作る工場も経営する祖父。

    1980年代叔父が中国出張したとき、自分たちが住んだ屋敷を見に行ったら、そのままにあったけど、中を細かく仕切られて中国人の集合住宅になっていた。
    なんか悲しかったそうだ。

    もう、祖父祖母叔母叔父たちも亡くなってしまった。唯一残った母親は自分のルーツとかに全く興味なく。
    なんだか残念。

    旧満州の資料や番組を見ると思わず見入る。
    もしかして、まだ、祖父の屋敷があるのかな…とか。

    満州は幸せな国だったのよ

    叔母の言葉は忘れない。

    +41

    -0

  • 271. 匿名 2014/08/06(水) 00:20:39 

    男達から追いかけられて逃げ回ってた、と聞いた。
    聞いた当時は、ばあちゃんそんなモテモテだったの?なんて笑ってたけど、違うんだよね…
    はだしのゲンでも、ゲンのお姉さんがアメリカ兵に犯されるシーンがあったのを思い出してぞっとした。

    +26

    -1

  • 272. 匿名 2014/08/06(水) 00:25:44 

    身内ではないけど、探偵ナイトスクープの
    レイテ島からのハガキ。
    これは、現代の戦争を知らない日本人みんなに見て欲しいぐらいの神回です。

    依頼文だけで局長が涙を流す感動ネタ登場「探偵!ナイトスクープ」/2011年1月7日放送 ABC動画倶楽部 朝日放送 - YouTube
    依頼文だけで局長が涙を流す感動ネタ登場「探偵!ナイトスクープ」/2011年1月7日放送 ABC動画倶楽部 朝日放送 - YouTubewww.youtube.com

    1:05 「カラスが盗ったゴルフボールの行方」 たむらけんじ探偵 http://youtu.be/cSnf4wvJSM8?t=1m5s 16:09 「レイテ島からの葉書」 田村裕探偵 http://youtu.be/cSnf4wvJSM8?t=16m9s 32:34 「変身ベルトを探して!」 石田靖探偵 http...

    +17

    -1

  • 273. 匿名 2014/08/06(水) 00:36:15 

    もう亡くなった祖父ですが特攻隊に選ばれて
    出発しようとしたその時戦争が終わった為無事に帰ってこれたと父から聞きました。
    あのとき行ってたら私は生まれなかったんだろうなぁ…

    +17

    -2

  • 274. 匿名 2014/08/06(水) 00:38:20 

    270さん

    わたしの祖父も満州で生まれて、満鉄で働いていました。結構裕福でトイレは水洗トイレだったとのこと。
    スケートを楽しむ写真などが残っていました。
    終戦後は、同じく無一文で引き揚げてきたみたいです。

    もしかすると、祖父同士知り合いかもしれませんね!

    +22

    -2

  • 275. 匿名 2014/08/06(水) 00:39:43 

    マイナス覚悟で怖い話を。
    義母が青山で、山の手大空襲を体験しています。
    表参道には焼夷弾で焼けただれた死体がゴロゴロしていて、今のみずほ銀行前の石灯籠に沿うようにして積み重ねられていたそうです。
    今でも灯籠に死体の脂から出た染みが付いているので、思い出さないようなるべく地下を通るそうです。

    +21

    -2

  • 276. 匿名 2014/08/06(水) 00:40:02 

    祖父の兄弟6人中、2人が戦争で亡くなりました。シベリアでロシア軍に強制労働をさせられ、遺骨もありません。
    「靖国神社には国のために戦った人が祀られてるっていうけど、権力者たちが勝手に祀っておがんでるだけだ。自分たちは絶対に死ななくていい立場なんだから。」
    と、靖国神社参拝を批判する祖父は、戦争当時は15歳で、国のための戦争に疑問を持っていなかったそうです。特攻隊の訓練中に終戦となり、助かりました。

    +12

    -2

  • 277. 匿名 2014/08/06(水) 00:42:24 

    直接聞いたことないけど、父が祖父から聞いた話し。

    祖父の周りを今の天皇がちょこまかと走り回っていたらしい。
    死ぬとき「天皇ばんざーい!!」なんて誰も言ってなかった。
    みんな、「お母さーん」か奥さん、子供の名前を叫んでたって。

    ちなみに母方の祖父は海兵として船に乗る予定だったが、乗る前に終戦。
    乗ってたら確実に死んでたって…

    +13

    -0

  • 278. 匿名 2014/08/06(水) 00:49:01 

    中学の担任の先生は、父親を沖縄戦で亡くなったと聞いた。先生が1歳の頃だった。父親は先生を生まれて間もない時しか見ずに来たと思われる。先生自身も父親の顔を知らないと言っていた。

    高校の修学旅行で沖縄に行き、そこで沖縄戦で亡くなった人の墓標を見た。その中に先生の父親の名前だと思われる人もあった。同じ名字の人3人いたからどの人か特定はできなかったが。「あなたの次男(先生には兄がいるから
    )は、いい教師になっていますよ。」と祈った。

    昭和10年代後半生まれは、先生のような境遇の人が多いだろうと思う。


    患者さんから聞いた話だが、患者自身は昭和22年生まれだが、父親が戦争で片足なくした(切断しなければならない怪我したと思われる)という。それでも、一生懸命働いてくれた(片足でミシンしていたことも)のが印象的と今でもよく言っている。

    +13

    -1

  • 279. 匿名 2014/08/06(水) 00:51:31 

    どんな光景も慣れれば日常ですよ
    天災も戦争も大差ありません
    311も太平洋戦争も同じでやんす

    +0

    -31

  • 280. 匿名 2014/08/06(水) 00:51:52 

    祖父は兄を3人戦争(特攻隊)で亡くしている。本人は戦争へ出兵されるギリギリで終戦になった。
    兄へ赤紙がきた時「お国のため」と兄は気丈だったようだが両親は出発の前夜まで泣きどおしだったらしい。そらそうだよね、まだ10代の若者だもの。
    祖父は学校へ通っていたが当時は毎朝の朝礼で昭和天皇のお言葉をラジオで聞かされていたと。
    そんな祖父は写真家になって日本中の戦後の写真を撮りました。
    この現代だって世界中で内戦が起こってる。世界大戦を経て人類はまだ愚かな武力での戦いしか出来ないのか・・・

    +16

    -0

  • 281. 匿名 2014/08/06(水) 00:52:14 

    駐在で台湾に住んでいます。こちらに来てから「私は元日本人です!」とニコニコ話しかけてくれるお年寄りに何人か出会いました。
    幼い頃隣に住んでいた日本人の奥さんにとても可愛がってもらったとか、仲良くしていた日本人家族が戦後台湾を去る時に泣く泣くお別れしたとか、流暢な日本語で沢山話してくれました。
    東日本大震災直後に乗ったタクシー運転手のおじさんは、「うちの寝たきりの母が日本が復興するまでご飯は食べないって言って困ってるんだよ。」って呟いて、そんなことしなくていいのに、タクシー代までまけてくれて、涙が出て来てしまいました。
    そして、今は亡き私の祖父も日本統治時代の台湾に仕事でよく行っていたそうで、台湾での楽しかった思い出をよく話してくれていました。台湾で撮った写真を見せると「おじいちゃんもまた行きたい。」と涙ぐんでいたものです。
    祖父に沢山の楽しい思い出をくれた台湾、東日本大震災の時にも温かすぎる程の支援を沢山送ってくれた台湾の皆さんに恩返しがしたいといつも思っています。

    +35

    -1

  • 282. 匿名 2014/08/06(水) 01:02:53 

    62さん
    日本は唯一の被爆国ではないそうですよ。
    ウイグルでは核実験が46回行われたそうです。
    数十万人死亡しているそうです。

    +5

    -9

  • 283. 匿名 2014/08/06(水) 01:02:54 

    祖父と祖母が沖縄戦を生き抜いた人です。
    当時祖母の旦那さんだった方は戦死して、祖父と結婚したんだという話だけは、父伝に聞きましたが
    本人達は戦時中の事を話したくないと、自分自身の子供達(私の父や兄弟達)へも話さないで居るので、敢えて聞かないで居ます。
    父は13才まで$紙幣を使って居たみたい。

    +8

    -0

  • 284. 匿名 2014/08/06(水) 01:04:58 

    広島の近くのある島に住んでいた祖母は、
    原爆の時、広島の方が真っ赤だったと言っていた。
    あと、自分も若い頃、今の人達の様に綺麗な服を着てみたかった、
    鮮やかな服を着て、好きなお化粧をし、そういう娘時代を送ってみたかった、
    だから、私達の世代が羨ましいと思う、と。

    祖父も祖母も基本、戦争の事は話したがらなかった。
    それくらい辛い思い出なのだと思う。

    祖父達の世代の方々の辛い経験の上に、
    今の便利な生活が成り立っていると思うと、何とも言えない気持ちになる。

    +21

    -0

  • 285. 匿名 2014/08/06(水) 01:21:56 

    私のおじいちゃんは韓国人です。

    韓国で奥さん子どもたちと暮らしていましたが、日本兵に急に日本に連れて来られたそうです。
    母国に帰ることは許されず、のちに知り合った日本人の私のおばあちゃんと結婚しました。

    私が物心つく頃からもう2年に一度くらい
    韓国の奥さん子どもたちに会いに行ってました。

    母国に帰ることはせず、5年前亡くなりました。
    おじいちゃんは穏やかで
    日本人に対する恨みなどは一切口にしたことはありませんでした。

    この話も
    母から聞きました。
    おじいちゃんは苦労したんだよ。と。

    +29

    -12

  • 286. 匿名 2014/08/06(水) 01:22:37 

    このトピを見たら、食べ物が大量に捨てられて行く現代の現実に、いつか罰が当たるんじゃないかって怖くなる。

    自分ももちろんだけど、娘にも残さず食べる子になって欲しい。

    集団的自衛権の問題で日本もいざという時には戦争ができる国になったけど、それより何より世界中の全ての国が、戦争は絶対にしないって言う憲法を作る世の中になるように祈ってます。

    +26

    -1

  • 287. 匿名 2014/08/06(水) 01:23:39 

    間接的にだけど、うちの父(50代)が祖母(80代)からいろいろ聞かされてたらしい。
    父曰く、芋ばっかり食べてたとか、たまに出る卵がご馳走だったとか、そんな話ばかりでウンザリだと。
    でも、こんなことも言っていた。「うちのオフクロ、米艦載機に追いかけられて、機銃掃射されたらしい。
    どうやら当てる気はなかったみたいなんだけど、もし弾があたってたら、オフクロも俺も、
    それにお前もこの世にいないんだよな。」って・・・ちょっと、いやかなり怖くなりました。

    +12

    -0

  • 288. 匿名 2014/08/06(水) 01:27:36 

    祖母が北方領土出身です。
    日本が戦争で負けて北方領土からの
    立ち退きを余儀無くされ
    家族も離れ離れのまま
    命だけでも助かればと
    着の身着のまま本土へ逃げてきたそうです。
    船で揺られ、降りる時は衛生の為に
    シラミなどの殺虫剤のようなものを
    振りかけられたそう。
    そして祖母の父親は仕事があるので
    樺太にとどまりましたが
    最後は兵隊に撃ち殺されました。
    祖母も今だに自分の家や家族を
    探す夢を見るそうです。

    長文失礼致しました。

    +20

    -0

  • 289. 匿名 2014/08/06(水) 01:30:54 

    30代半ばだけど小さいころはご老人は戦争の話ばかりとよく聞いてなかったです
    なので覚えているのはわずかだけ・・
    もっとよく聞いとけばよかったと思います

    +9

    -0

  • 290. 匿名 2014/08/06(水) 01:40:39 

    長崎市在住の主人の義母から。小さかったけど、兄弟を原爆で亡くしたそうです。深くは語りませんが原爆の恐ろしさを教えてくれました。見た事ないから想像しかできないけど。でも日本人の清い所はアメリカの悪口言わない所。韓国人に爪の垢飲ませたいけど、爪の垢位じゃあの民族分からないでしょうね。過去の悲しみとして、戒めているところに敬意表します!

    +27

    -3

  • 291. 匿名 2014/08/06(水) 01:44:33 

    戦争前にハワイに移民として移住した親戚の話です
    戦争が始まって移民の日本人はアメリカ人に差別され日本人の苗字からアメリカの苗字や名前に変えた日本人もいたそうですが、私の親戚は日本人として誇りを持っていたのでどんなに辛い思いをしても変えなかったそうです

    +18

    -0

  • 292. 匿名 2014/08/06(水) 01:48:44 

    祖母が母親と学校に非難してた時、
    これどうぞって中学生くらいの男のこ2人が、かやくご飯が入ったパックを2つ置いてくれたんだって。
    母親がいいよ、あなた達が食べなさいって言ったら
    僕ら何処かでまた貰ってきますからって去っていったんだって。
    かやくご飯が出るとその話しをいつも祖母はしてます。

    +19

    -0

  • 293. 匿名 2014/08/06(水) 01:57:21 

    祖父は、台湾で負傷して、肋骨を2本抜いてしまったと亡くなって、から知りました。


    知り合のおばあちゃんは、長崎の女学校の頃、原爆で亡くなった方の火葬作業中の休憩で食べた。おにぎりが、美味しかったと言うってしまった。

    生きるのにみんな必死だったのが、痛感します。

    +7

    -1

  • 294. 匿名 2014/08/06(水) 02:00:13 

    戦後食べるの物も無く、それでも子供達にはひもじい思いをさせないため
    祖母の両親は歯を食いしばって畑を耕しお米を作ってくれたって。
    だから今でもお米は一粒も残せないって話してたな。
    今も飢餓で苦しんでる国テレビで映ったりしてるけど、日本も同じだったんやでって。
    今の日本があるのは曾祖父や曾祖母のおかげなんやでって話してくれました。

    +19

    -0

  • 295. 匿名 2014/08/06(水) 02:10:54 

    ばーちゃんから、撃墜された米軍機を見に行った話を聞いたとき、「そんなもの見に行くなよ…」と思ってたけど、2ちゃんのこのトピと同じ趣旨のスレで同じ場所に見に行った人の話が偶然載っててビックリした。

    どちらかと言えば、伊勢湾台風の方が大変みたいだったようで、生まれて間もない母を浸水から守るのが大変だったらしい。

    ちょっとのことで、自分が生まれなくなるんだから、命は大事にしないといけないと思った。

    +12

    -0

  • 296. 匿名 2014/08/06(水) 02:11:33 

    身内じゃぁ無いけど、満州から引き上げの時に日本に帰っても生活出来るかわからないとの理由で、乳飲み子の自分の子供を海に捨て帰ったと、聞いた時は、愕然でした。お腹痛めて産んだ子供を捨てる(殺す)同性として、軽蔑してしまったです。


    戦争終わってもその後も戦争の延長なんだって思ったです。

    +3

    -17

  • 297. 匿名 2014/08/06(水) 02:18:04 

    281の補足です。
    元日本人だと話かけてきてくれたおじいさん達、日本人として生まれ教育を受けてきたのに、戦後突然今日からあなた達は日本人ではありませんと言われた時の衝撃がいかに大きかったか、日本というお母さんにある日突然捨てられた捨て子のような気持ちだったと語っておられました。
    日本国内だけでなく、ここにも戦争の被害者がいるのだということをずっと考えたこともなく生きてきたことを恥ずかしく、そしてもし自分がその立場だったらととても切ない気持ちになりました。
    台湾に旅行に来られる皆さん、歴史的背景を学んでから来られると、とても有意義な旅を送ることができると思います。
    東日本大震災の時、なぜ台湾があれほどまでに手を差し伸べてくれたか、ネットで調べたり、本を読んだりしてから是非是非遊びに来て下さい。

    +21

    -0

  • 298. 匿名 2014/08/06(水) 02:28:27 

    銃で撃たれ体に残った弾を、物資が不足していたので麻酔なしの手術で取り出したらしい。
    じいちゃんスゲエって子供心に思いました。

    東京に行くときは必ず靖国神社に参ってたようです。
    子供の頃は靖国神社の意味が分からなかったけれど、
    大人になった色々勉強して、
    じいちゃんにとって大事な場所だったんだなあと分かりました。

    +18

    -0

  • 299. 匿名 2014/08/06(水) 02:39:10 

    父が祖父から聞いた話ですが、夜の闇の中、喉が渇いて地面の水たまりの水を飲んだそう。
    朝になって見たら、そこは水たまりではなく、死人の血の海だったという話。
    歴史の授業で習ったシベリア出兵にも行ったと聞いて、そんなに遠い昔の話ではなかったんだと思った。
    足に銃弾の痕があるとか、栄養失調でやせ細っていたとか言う話も聞いたことがあります。

    +15

    -0

  • 300. 匿名 2014/08/06(水) 02:39:59 

    私の亡くなった祖父は、フィリピン沖に行ったようで、何十隻とあった船の中で、生還したのは祖父が乗っていた船のみだったそう。祖父の入所していた老人ホームの部屋には、赤紙と軍服を着て友人と撮った写真か、飾ってありました。

    +10

    -0

  • 301. 匿名 2014/08/06(水) 02:54:13 

    55です。
    追記失礼します。
    トピずれになりますが、
    私達家族は父が、傷慰軍人と、いう事で国から恩給というものを支給され生活していました。聞いた事がある方もいるかもしれませんね。


    父に、限らず、志願してまで戦争に行ったのですから、
    右思想だったはずです。

    しかし、父は引き揚げてから、左、共産主義に
    傾倒していったようです。

    右足、骨盤下が大きくえぐれ、10年間に及ぶ入院生活で
    考えが、変わっていったのかもしれません。

    1度だけ、天皇陛下なんか・・

    と、言っていたのを思い出しました。

    戦争で人は変わり、人生を壊し、一体なんだったのでしょうか?
    どんな意味があったのか?

    父は日本という国に失望していたのか、

    右から左、それが答えだったのかもしれません。

    +14

    -5

  • 302. 匿名 2014/08/06(水) 03:05:39 

    55です。
    追記失礼します。
    トピずれになりますが、
    私達家族は父が、傷慰軍人と、いう事で国から恩給というものを支給され生活していました。聞いた事がある方もいるかもしれませんね。


    父に、限らず、志願してまで戦争に行ったのですから、
    右思想だったはずです。

    しかし、父は引き揚げてから、左、共産主義に
    傾倒していったようです。

    右足、骨盤下が大きくえぐれ、10年間に及ぶ入院生活で
    考えが、変わっていったのかもしれません。

    1度だけ、天皇陛下なんか・・

    と、言っていたのを思い出しました。

    戦争で人は変わり、人生を壊し、一体なんだったのでしょうか?
    どんな意味があったのか?

    父は日本という国に失望していたのか、

    右から左、それが答えだったのかもしれません。

    +7

    -2

  • 303. 匿名 2014/08/06(水) 03:08:06 

    夫の祖父が手記を綴っている。また直接話を聞いたことがある。
    祖父は永遠の0で出てきた特攻機の整備をしていた。またその後シベリア抑留され、過酷な状況から奇跡的に帰還出来たが、帰還出来た人達はその後就職なども困難で、生活するのに苦労したとのこと。
    シベリア抑留時の話はとてもここには書ききれないものがあります。
    手記も色褪せて来ているので、データー化したいと考えています。

    +22

    -3

  • 304. 匿名 2014/08/06(水) 03:21:29 

    祖母の話です。
    幼児だったオバをおんぶして、空襲の火の海を逃げ惑い、やっと見つけた防空壕に入ろうとしたら、誰かの声が
    「防空壕に入るな、死ぬぞー」
    思わず入るの躊躇したら、その瞬間直撃弾が防空壕を直撃。
    中に避難されてた方々は全員、お亡くなりになったそうです。
    アメリカは原寸大の日本の町を再現して、どうすれば合理的に大勢殺せるか検証して、焼夷弾にたどりついたそうです。
    考えもやってることも、ガス室のホロコーストといっしょ。
    日本は風船爆弾だものね。
    戦争は悲劇だ。

    +38

    -0

  • 305. 匿名 2014/08/06(水) 03:26:17 

    祖父が軍医でした。シナ、今の中国を縦に一回半まわったと言っていました。いつも言ってたのは、慰安婦なんか無かったと。夜行軍で歩き続けるとき怪我をした軍人は皆に迷惑かけないように口に銃口をいれて、自殺してたこと。その時最後は皆お母さーんと言って死んだそうです。戦地の病院は、赤十字のようなマークをつけているのに、アメリカはねらって病院を飛行機でうってくるから酷いと言ってました。
    戦地で敵に銃口をつきつけられたり、赤痢になったり何度も死にかけたそうです。いろんな話を聞かせてくれた祖父も亡くなりました。もっと話を聞かせてもらいたかったです。

    +39

    -2

  • 306. 匿名 2014/08/06(水) 03:32:23 

    小中学の夏休みの登校日にある平和授業が当時は嫌だった。
    それは、体育館でカーテンを締め切って真っ暗な中、悲惨な映像をみたりしたこともあって、子供心に戦争は怖い、恐怖心が先行して目を背けてしまっていた気がする。

    今の平和授業、教育ってどうなのかな?
    以前、学生が長崎か広島で体験談を聞く授業か何かで暴言を吐いたニュースがあったと思うが…

    成長し、大人になるにつれ、ニュースをちゃんと見たり、戦争体験談や手記を見聞きして、ようやく平和についてちゃんと考えられるようになったと思う。

    物事をきちんと理解して、判断でき、自分の意見を持てるようになってからも、戦争について学んだり考える必要があると思う。

    +23

    -0

  • 307. 匿名 2014/08/06(水) 03:33:15 

    おばあちゃんに聞いたことあります。
    小学生の時聞き取り授業とかあったなぁ。

    きょうはヒロシマ原爆投下のひですね。
    こういうトピが採用されるだけでも少し嬉しく思います。

    命にたいする悲しいニュースが多いので。

    +36

    -0

  • 308. 匿名 2014/08/06(水) 03:43:16 

    90さんのお話のように
    わたしの祖母も子供の頃福岡市で空襲に遇い、すぐそばの銀行に爆弾が落ちてその建物の地下で沢山の方が亡くなったと聞きました。ドーンと物凄い音がして体が浮いたそうです。
    地下で蒸し焼き状態だったのか、なんとも言えない匂いがしてきてそれが今でも忘れられないと言っていました。

    +18

    -0

  • 309. 匿名 2014/08/06(水) 04:30:00 

    被爆二世です。
    お父さんは助かりましたが、お婆ちゃんが亡くなりました。
    広島に住んでた頃は原爆記念日、終戦記念日、言えるのが当たり前だと思っていましたが、広島から他県へ出ると、言えない人の多さに残念な気持ちになったのと、それが当たり前みたいな世の中になってきているんだと。
    昔は原爆記念日に近付くと、テレビも平和学習出来る内容をたくさんやってました。最近はめっきり減りましたよね、仕方ないことなのかもしれませんが。
    あと何十年かしたら戦争を知らない人の世代になります。
    でも、ずっと忘れてはならない語り継いでいかなくてはならない出来事です、戦争は。
    時間の流れで風化していくのもいけないなと思っています。

    +21

    -1

  • 310. 匿名 2014/08/06(水) 04:46:56 

    祖母に聞いたら「思い出したくない。」と言われた。
    宿題出来なくて白紙で提出しちゃったな。
    そのまま、書けばそれもまた戦争の悲しい現実となったのに。

    祖父は浮気+ギャンブルで会わなかったし。

    でも認知症が出始める前まではお友達の家の跡地へ毎年行ってたよ。
    爆弾落とされて亡くなったと聞いてる。

    +14

    -0

  • 311. 匿名 2014/08/06(水) 05:24:03 

    わたしの祖父はまだ兵隊になれる年齢ではなかったのですが、9歳で自ら志願して兵隊になったそうです。足には銃痕がありました。
    戦地で亡くなられた方の遺体を一ヶ所に集め、夜中はそこで見張りもしていたそうです。死後硬直などで遺体が突然起き上がる事などもあってそれを元に戻す(真っ直ぐに寝せる)事もしていたとか。
    わたしは祖父が9歳で自ら志願して行ったと聞いた当時は、そんなに戦争に行きたかったのかなと不思議でしたが、そうではなく、そういう気持ちになるような教育をされていたんですよね。。。生きて帰って来てくれてありがとうと感謝しかありません。
    曾祖父は2度の戦争を経験し、戦地での写真が 残っています。
    写真の裏には祖母へと宛てたメッセージが記されてました。『○○、愛しい我が娘 』といった内容でした。
    曾祖父も祖父も戦争という厳しい時代を生き抜いたためか、とても忍耐強く贅沢は敵だという考えの持ち主でわたしの母やわたし達孫もそういった育てられ方をしました。今となってはとてもありがたいです。

    +18

    -0

  • 312. 匿名 2014/08/06(水) 05:38:54 

    当時2歳だった祖母が、火の海になって忘れられないって言ってた。
    こんな幼い子が覚えてるって、地獄だったんだなって思う……。
    戦争中はカボチャばかり食べてたから、祖母は未だにカボチャを食べると戦争を思い出すから、カボチャが嫌いです。

    +25

    -0

  • 313. 匿名 2014/08/06(水) 06:23:45 

    皆さんのように濃い話ではありませんが、
    祖父が終戦時の新聞を綺麗にとっています。
    ラジオでは勝ってる、また勝った、飛行機何機やっつけた!などの放送しかされずに
    戦時中苦しいながらも勝っていると思っていたのに
    翌日起きてからの新聞を見ると負けた‥本当に驚いたそうです。
    新聞の写真にうつる町並みはぐちゃぐちゃ、横書きの文字は全部逆さ。
    新聞の文字も古い日本語で書いてあり読み辛かったです。

    近い将来、戦争のことを知る人は日本からいなくなってしまいます。
    今のうちにたくさんお話を聞いて若い世代に伝えていかなければいけないなと感じました。

    +18

    -0

  • 314. 匿名 2014/08/06(水) 06:48:24 

    77と同じで祖父母とも田舎で何一つ苦労などしていないと聞かされた
    でも本当はつらいことがあってかくしているのかも

    +6

    -0

  • 315. 匿名 2014/08/06(水) 07:15:56 

    義父からたくさん聞きました(主人はかなり遅くにできた子供です)
    従軍中の楽しかった話や、シベリアで捕虜になってた頃、ドイツの娘さん(多分捕虜の方)といい感じだったとか、楽しかった思い出のみ話してくれます。シベリアで捕虜になるって、大勢亡くなったくらい大変だったのに…
    戦争は嫌だ、戦争は辛い、だけでなく、そんな中でも強く明るく誇りをもって生きたんだと感じさせてくれた義父に感謝しました。
    戦争はギリギリまで回避すべき外交手段ですが、当時開戦してなければ、日本は欧米の植民地になってたのは間違いないと思います。
    止むに止まれぬ開戦でした。
    なので「誇りをもって、命をはって国を守ってくださったんだ」という事は忘れてはダメだと思います。

    +25

    -1

  • 316. 匿名 2014/08/06(水) 07:43:30 

    祖父の兄が特攻隊でなくなりました。
    戦場から送られてきた手紙を見せてもらいました。
    当時兄は22歳。
    手紙には両親へ今まで育ててくれて感謝します、国にために誇りをもっている、国にために死ぬことをお許しください、どうかお元気でというようなことが書いてありました。
    わたしはいま23歳ですが、同じ年代の若者が戦場に死にに行ったなんて…本人、残された家族のことを考えたらどうにもやるせない気持ちでいっぱいになりました。
    上の人に手紙の内容を確認されていたそうなので、死にたくないなんて書けなかったと思います。
    そんなことを考えるとなみだが止まりません。

    +18

    -0

  • 317. 匿名 2014/08/06(水) 08:01:08 

    アラフォーなのに、曽祖父母からも、祖父母からも、親からも、一切聞いたことがありません。

    +4

    -1

  • 318. 匿名 2014/08/06(水) 08:02:34 

    父の20歳上の兄(伯父)から。

    父の実家の居間で食事をしていたら、空襲警報が。
    慌てて出ようとしたらその居間に爆弾が落下してきた。不発弾だったので大事には至らなかったそうです。

    この伯父は広島に原爆が落とされた数日後に、救助支援で広島へいったんです。多くは語れないというぐらいの地獄絵図だった…というのがリアルでしたね。

    +8

    -0

  • 319. 匿名 2014/08/06(水) 09:10:44 

    ひぃおじいちゃんが、実際の軍人でした!
    満州にいったりと、優秀な軍人だったみたい。
    でもひぃおじいちゃんから戦争の話をきいてたころはまだ私は小学一年生あたりで
    なにもわからず流してきいていたことを、本当に後悔。
    亡くなってしまって、いま大人になってから
    ちゃんと聞いておきたかった想いでいっぱい。
    逢いたいなぁ〜。

    +11

    -1

  • 320. 匿名 2014/08/06(水) 09:20:51 

    おばあちゃんの東京大空襲の話。
    落ちてくる焼夷弾を漠然ときれいだなって思ったって。
    風の吹いてる方向と逆に逃げて、なんとか生き延びたけど、翌朝炭になった人間がゴロゴロ転がっていたみたい。けど不思議とまったく怖くなかったって言ってた。
    都内に住んでる親戚が無事かどうか、とにかく歩いて探しに行ったら、偶然道でばったり遭遇したらしい!その親戚もおばあちゃん一家を探していたんだとか。
    あれは奇跡だったと言っているおばあちゃん。
    だからこそ私が今生きているんだて痛感しました。

    +14

    -0

  • 321. 匿名 2014/08/06(水) 09:47:57 

    祖父が激戦区にいたのですが、上官に殴られて鼓膜が破れ、怪我も酷かったので一旦
    治療に戻されてその間に戦争が終わったとか
    入院してなかったらもっと危険なところへ移動させられる予定だったみたいで、命拾いしたと言っていました

    祖父の家に遊びに行くたびに戦争の話をされて、小さい頃はまたかよー、と思っていましたが、大人になった今、祖父の青春時代はそれしかなかったのだと思うと切なくなります
    そして、今私が平和に暮らせるのは祖父やご先祖様、命がけで戦ってくれた方々のお陰なのだと感謝の念でいっぱいです

    +22

    -0

  • 322. 匿名 2014/08/06(水) 10:03:08 

    現在85歳の祖父です。私が小学生や中学生の頃に祖父は酔うと戦時中や戦後の話をしてくれました。祖父の一家は戦前からフィリピンに移住してドリアン等を栽培していたそうです。お手伝いさんがいて恵まれていたそうですが戦争が始まり高校生の年齢で兵隊に取られ、ジャングルで必死に戦ったそう。飢えをしのぐ為に仲間や敵の遺体の肉を焼いて食べたとまで話してくれました。敗戦後は一家で日本に帰ってきたのですが、もし日本が戦争に勝っていれば祖父の一家はフィリピンでは裕福な生活が続いていたはずと苦笑いしていました。祖父の兄弟達は帰国後に数回フィリピンに行き、住んでいた跡地を巡ったりしたそうですが祖父はかたくなに行きませんでした。そんな祖父は2年ほど前から認知症になり、今では会話も成り立ちません。もう少し、きちんと戦争の話を聞いて勉強させてもらえば良かったな…と今更思います。

    +9

    -0

  • 323. 匿名 2014/08/06(水) 10:16:21 

    父方のおじいちゃんから聞いたのは戦争と当時戦車に乗って訓練して、しくったら上から(戦車の構造がよくわかりませんが)上官が足蹴りしたみたい。靴も硬かったからいたすぎて出血した。

    +5

    -0

  • 324. 匿名 2014/08/06(水) 10:28:50 

    海軍だった曾祖父ちゃん。
    その頃からのお友達は戦艦大和が撃墜されたとき、沈んでいく船から必死に泳いで逃げ、数少ない生存者の一人になられたそうです。
    いつもお風呂を沸かしてくれていた曾祖父ちゃんは、薪をくべながら軍歌を歌っていました。
    私の兄に、よく戦争中の話をして涙を流していたみたいです。
    当時の貴重な話を聞ける機会はこの先無くなってしまいます。
    でも、10代や20代の若い方達が我が国を守ろうと必死で戦い、多くの方が戦死されたことを忘れてはいけないと思います。

    +22

    -0

  • 325. 匿名 2014/08/06(水) 10:33:36 

    このトピのびてほしい。
    もう少ししたら、ランク外になるのが悲しいな

    +27

    -0

  • 326. 匿名 2014/08/06(水) 10:35:26 

    海軍だった曾祖父ちゃん。
    その頃からのお友達は戦艦大和が撃墜されたとき、沈んでいく船から必死に泳いで逃げ、数少ない生存者の一人になられたそうです。
    いつもお風呂を沸かしてくれていた曾祖父ちゃんは、薪をくべながら軍歌を歌っていました。
    私の兄に、よく戦争中の話をして涙を流していたみたいです。
    当時の貴重な話を聞ける機会はこの先無くなってしまいます。
    でも、10代や20代の若い方達が我が国を守ろうと必死で戦い、多くの方が戦死されたことを忘れてはいけないと思います。

    +8

    -0

  • 327. 匿名 2014/08/06(水) 10:53:42 

    今、幼い頃に辛い思いをすると、トラウマになり
    うつ病などの原因になる、と言われ
    そういう方がたくさんいますが
    戦争中に子供だった方はどうだったんでしょうか。

    +9

    -0

  • 328. 匿名 2014/08/06(水) 11:00:06 

    全部読ませてもらいました。
    書いてくださった方ありがとう。
    このトピが流れても皆さんのおじいちゃんおばあちゃんたちの辛い体験、忘れず胸に刻んで行こうと思います。

    幼稚な争いや動機で、人を殺してしまう事件や
    小さな我が子を殺してしまう事件
    そんなニュースが毎日絶えない現代を
    当時の人が見たらどう思うのでしょうね
    悲しくて、情けないです。

    +22

    -0

  • 329. 匿名 2014/08/06(水) 11:05:38 

    何もかも規制規制で、少しでも衝撃的な映像や画像はご法度の日本で、戦争の悲惨さや現実は語りつぐだけでは後世に残せるはずがないと、祖父が言っていました。遺体や過激なものもありますが、現実から目を背けていては何も学べない。
    言葉だけではわからないのに、広島の原爆資料館の人形もグロいからと撤去です。こんなことをしていてはいずれ風化されます。悲しい。

    +24

    -0

  • 330. 匿名 2014/08/06(水) 11:08:34 

    327
    現代人は豆腐メンタルばっかり

    +7

    -3

  • 331. 匿名 2014/08/06(水) 11:15:52 

    こもトピは、常にトップに出てくるようにして欲しいですね。沢山の人がじっくり時間をかけて読めるようにしておいて欲しい。TVとかドラマとかじゃなくて、直接聞いた本当の言葉が詰まっていると思うので。

    99歳で亡くなった祖母から聞いた話し。
     ・農家だったから、家に帰ったら毎日手伝い
     ・学校帰りに野草をとって食べたのがおやつで、それがすごい嬉しかった
     ・農家とは言え食べ物には苦労してた
     ・戦争が終わって一番嬉しかった瞬間は、電気の明かりを抑制するためにつけてたカバーを外せたこと

    戦争の話しは嫌がってあまりしてくれなかったですが、学校の課題が出たときにだけ、日々の生活についてだけ教えてくれました。もう10年以上前の話しであまり覚えていないのが悔しい・・・

    私は会ったことのない祖父は、体つきとかもよかったのに、なんでだか徴兵の試験で引っかかってしまい、戦地にはいかなくてすんだそうです。

    戦争の時代を生きてきた父方母方の両祖父母は、みんな戦争とは別の形で亡くなっていきました。
    戦争を経験した時代からすれば、幸せな最期だったんだろうと思います。

    なんでも食べる祖母が唯一嫌いだった料理が「スイトン」でした。戦争中を思い出すからだそうです。
    スイトン大好き、食べたいと祖母に言ってた私が今では恥ずかしいですね。
    ごめんね、おばあちゃん。

    +9

    -0

  • 332. 匿名 2014/08/06(水) 11:18:39 

    私の祖父は兵隊となって戦争に行く事になった
    幼い頃、戦争について聞いてみたが何も答えてくれなかった
    戦地についても教えてくれはしなかったが馬を面倒を見ていたらしく

    馬はとても賢くて人にとても従順だから、大切にしなければならないよ~っとしか教えて貰えた

    余りにも凄惨な出来事だったから話すのも辛かったんだろうな…


    +9

    -0

  • 333. 匿名 2014/08/06(水) 11:42:32 

    317ですが、春にセスナでないと行けない、サイパンの離島にいきました。
    人種というか、見た目も私たちとは随分違う方ばかりの国で、マリンブルーの海は完全な南国です。

    その島に、スイサイドクリフ、という日本兵の方が沢山自殺されたという崖を見に行きました。

    ヤシの木と青い海に囲まれた南国の楽園に突然、日本にちなんだ石碑があらわれたのは大変唐突で、違和感がありました。

    その石碑には「青くてマリンブルーの海をみたらどうかここで一生懸命戦った自分たちを思いだして下さい」

    みたいなこと書いてありました。

    日本と距離は近いのですが、全てが日本とは想像できないほどかけ離れている国で、景色も気候も、食べ物も文化も、人種も全く日本と違う完全な異国です。そんな一見、日本に全く縁のないように見える国。

    そんな異国で国のために一生懸命戦ったのに敗戦していまい、その上誰も助けに来ず国に見捨てられた彼ら。石碑などもご家族がたてたとききました。

    とっても寂しく孤独だったんだろうなと思うと、彼らの無念を思うと、悲しくなりました。

    いまも思いだして泣いてしまいます。
    彼らがあの綺麗な海で、成仏されていることを願います。

    イデオロギーは何もありませんが、戦いに負けると、不幸しか残らないんだなと心が苦しくなりました。

    +11

    -0

  • 334. 匿名 2014/08/06(水) 11:46:49 

    常連のお客様ならよく戦時中の話する
    東京住みだったようで、本土空襲があって、親戚や従兄弟がどうしているか未だにわからない、当時幼くて親戚の名前もろくに覚えていなかったから探しようが無い、だから結婚式の時は誰も呼べなかったって言ってた

    +5

    -0

  • 335. 匿名 2014/08/06(水) 11:53:47 

    祖父の話です。
    ガダルカナル島へ行き、連合軍相手に後方から大砲を撃っていたそうです。

    本当に凄い戦いだったらしく、日本兵の死体がたくさんあって地獄のようだったそうです。食糧がなかなか入ってこず、餓死する人もたくさん居たと。
    飢えに耐えきれず人間の肉を食べてる姿を見たと。
    連合軍の捕虜になりたくないから銃や手榴弾での自殺する人もたくさん居たそうです。

    帰りの船で、祖父の乗った船の一つ前に来た船が攻撃され、皆死んで行くのを見たそうです。

    村から出兵した方は皆亡くなり、ガリガリの祖父だけが帰ってこれたそうです。

    アイツが悪かったからあんなにたくさん仲間が死んだんだ。と、ある日本の指揮官の名前を言っていました。

    祖父は3年前に亡くなり、もっと話を聞いておけばよかったです。

    +13

    -0

  • 336. 匿名 2014/08/06(水) 12:11:28 

    このトピみて泣きながらのお昼休み。・゜・(ノД`)・゜・。

    +9

    -0

  • 337. 匿名 2014/08/06(水) 12:13:17 

    我が家の祖父母の家に軍人さんの格好をした人達がズラりを飾ってありました。
    祖父も祖母も小学生時代に亡くなったので、話しの内容が理解出来ないままだったけれど…
    記憶が正しければ、特攻隊に息子を3人行かされたそうです。
    母にこの話しを聴くと、必ず怒ります。
    言いたくない程、辛かった思い出なんだろうと思います。

    +7

    -0

  • 338. 匿名 2014/08/06(水) 12:16:52 

    祖父や戦後当時物心画ついたばかりの父の話だが見事にアメリカ占拠下の洗脳教育に汚染されており、はひたすらあんな大国にケンカふっかけた日本がバカ、天皇のせいで大勢の国民が死に不幸になったとよくある自虐的歴史観でお話にならない。

    そんな祖父と父のおかげで二十歳くらいまでは日本がバカだと思っていたし。
    正しい歴史認識がないのなら、戦争の話も若い世代個ためにはならない。

    +7

    -3

  • 339. 匿名 2014/08/06(水) 12:17:22 

    戦争で出会った祖父と祖母。
    当時祖父は長崎へ徴兵された日本兵で、祖母は女学校で銃弾を作っていたそうです。
    終戦後、地元に帰る祖父にそのままついて行き結婚。
    祖父は戦争中銃弾を撃たれ、命は助かりましたが子供ができない体になりました。
    その後父を養子にもらい、今の私がいます。

    当時は珍しい大恋愛だったようで、祖父が亡くなってからも祖母はおじいちゃんが大好きです。
    戦争や苦労を二人で乗り越えずっと寄り添いあった祖父母夫婦を尊敬するし、今の私の命を与えてくれたことに感謝しています。

    私も祖父母夫婦のようになりたいといつも思っています。

    +11

    -0

  • 340. 匿名 2014/08/06(水) 12:23:28 

    亡くなった祖父が陸軍の軍人で千島へ行ってました。
    前線の方ではなく通信兵だったの事。まったく戦争の話はしませんでした。

    曾祖母は畑で作業中、B29の爆撃があったそうです。
    ギリギリで助かったらしいですが、曾祖母も竹槍の練習をしていたらしいです。
    田舎なので空襲は少なかったみたいですが、数十年前まで家の裏に防空壕がありました。
    近くの山には今でも防空壕の洞穴が残っています。

    +4

    -0

  • 341. 匿名 2014/08/06(水) 12:35:59 



    身内じゃないけど、駅のホームで電車待ってるときに隣にいたおばあちゃんが戦争の話をしてくれた

    当時おばあちゃんはまだ学生で若かったけど兵隊さんの面倒を見るために船に乗ってて、その船が襲撃されそうになったからみんなで海に飛び込んだって言ってた。

    戦争って男の人が行くイメージが強かったけど、若い女の子まで前線に送られることがあるって知った。

    +6

    -0

  • 342. 匿名 2014/08/06(水) 12:40:03 

    私の祖父は身体が弱く、戦争へは行かなかったようでしたが、人手が足りなかったのかついに病気の祖父までも特攻隊に選ばれてしまい、そのギリギリで終戦したと聞いた。
    もし祖父が特攻隊として出撃していたら私はこの世にいなかった。

    +7

    -0

  • 343. 匿名 2014/08/06(水) 12:54:43 

    海軍だった祖父、船に乗って戦地に行く前日の夜、消灯の時間で暗がりで聞こえてくるすすり泣きはには耐え難いものがあったと言ってました。
    当日の健康チェックの体温測定で、どうしても行きたくなかった祖父は、布団の中で必死で体温計を温めて熱があることにして休んだとのこと。

    後日、船に乗り込んだ人は全員亡くなったと聞いたらしいです。


    この話しを聞いて、薄情、裏切り者、とか思う人がいるかも知れません。ですが、こんな狂った世の中で、仮病を使ってでも生き残ってれくれた祖父に私は有り難さえ感じています。
    だって、それがなかったら、私は存在していないのですから。
    二度と起こってはいけないです。

    +18

    -1

  • 344. 匿名 2014/08/06(水) 13:09:47 

    南の国に戦争に行った祖父の話を聞きました。祖父はこんな所で死にたくない、と当時では非国民と言われるような考えで、ひたすらジャングルを逃げまくり捕虜になって日本に戻れたと言ってました。
    そのお陰で私も息子も今ここに生きていられます。

    +9

    -0

  • 345. 匿名 2014/08/06(水) 13:11:01 

    おじが戦地で亡くなってます。当時19歳。私の父とは一回り以上離れており、おじの記憶はほとんど無いそうですが、絵本を買ってもらった事がありとても嬉しかったと。
    戦争に送り出さなければならなかった祖母を思うと、19で行かなければならなかったおじを思うと本当に辛いです。
    遺骨もなく、亡くなったという事の知らせのみ。
    墓石にはいつ赤紙が来たとか、どこで訓練を受けてたとか書いてあります。
    誰も幸せになれない戦争なんて無くなればいい。

    +12

    -0

  • 346. 匿名 2014/08/06(水) 13:11:22 

    猟奇殺人だカニバリズムだと騒ぐけど本当に人食べてたからね。貧乏な国が戦争したらいけません。

    +0

    -7

  • 347. 匿名 2014/08/06(水) 13:14:56 

    された事は話すけど向こうでしてきた事は皆さん話さない。とても話せるようなことじゃないんだろうな。

    +8

    -1

  • 348. 匿名 2014/08/06(水) 13:25:47 

    何人も兵士を殺したと話してた。
    殺さなければ、祖父が殺されるから。

    慰安婦なんて居なかったと話していました。
    朝日新聞の捏造だと信じています。

    +19

    -1

  • 349. 匿名 2014/08/06(水) 13:37:44 

    母方の実家に焼夷弾が落されて、祖父が一生懸命消したというのを聞きました。

    +2

    -0

  • 350. 匿名 2014/08/06(水) 13:40:32 

    私も祖母から聞きました。
    祖母は職業軍人だった祖父について、満州にわたり、そこで終戦を迎えました。
    祖父はロシアに拘留され、祖母は2歳の伯父を連れて引き揚げることになったのですが、満州でのこと、朝鮮半島を縦断したときのこと、北朝鮮と韓国との国境38度線でのこと、どんなに大変だっただろうに、淡々と話してくれました。

    引き揚げ船で日本に帰ってきて、九州の港に着いて、原爆投下後の広島も通ったそうです。

    引き揚げ船で亡くなった人は、船から海に投げ捨てられる、自分は絶対に可愛い子どもをそんなことさせたくない!例え伯父が死んでも絶対に家に連れて帰る!と、背中にずっとおぶって帰ってきたそうです。

    幸い、その伯父は無事に生きて帰れましたが、家に帰りついた時には衰弱しきってたそう。
    祖父は終戦から何年もたってから、結核を患って病院船でロシアから帰ってきたそうです。

    祖父が帰ってこれなかったら、母も生まれてないし、当然私もいなかった。
    祖父は私が小さい時に亡くなりましたが、祖母は今年92歳で健在です。
    はじめてちゃんとこの話を聞いたときには、涙が出ました。祖母にとっての曾孫である、私の子どもたちにも、ぜひこの話を伝えていきたいと思ってます。

    +4

    -0

  • 351. 匿名 2014/08/06(水) 13:40:54 

    話をした事はありません。
    経験した人しか解らないから私から聞こうと思いません。ただ私に出来る事は二度と戦争はしない、日本にさせない事を誓い、今を生きています、私の家族、義家族を宝だと想い日々すごしています。

    +5

    -0

  • 352. 匿名 2014/08/06(水) 13:46:18 

    本当の祖父は戦争中、中国で死にました。
    その後祖母が再婚しました。なので本当の祖父には会ったことがありません。

    +7

    -0

  • 353. 匿名 2014/08/06(水) 13:49:47 

    第二次世界大戦の話ではありませんが、私の旦那は、独身時代 元自衛隊特殊部隊の隊員で自衛隊を退役し
    て、フランスの傭兵部隊を経て、その後1995年クロアチア傭兵部隊の一員として、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に参戦していました。最近になってようやく色々と話をしてくれますが、体中傷跡だらけで、右肩と左足に銃弾の摘出手術跡やら大きなナイフで切られた跡が背中やわき腹にあります。中で最も悲惨だったのは アフリカでの傭兵生活だそうで、十代の若者や子供も銃を持って戦っているので 子供ですら用人出来なかったそうです。昔の戦争に比べると兵器の性能が格段とよくなった分 殺傷能力が数段に高くなったそうです。それでも各地での紛争は アメリカやイスラエルが起こす戦争とは違い 武器も小型のものが多く
    ほとんどがゲリラ戦のような状態だったそうです。今でも夜中には よくうなされています。

    +9

    -0

  • 354. 匿名 2014/08/06(水) 13:58:24 

    祖母が昔の写真を出していた時に戦争の話しを少ししてくれた

    祖母のお兄さんが訓練所などでの写真を撮ったりしている写真だった
    かなり厳しい表情をしている写真ばかりかと思っていたが皆さんにこやかに笑って写真に写っていた
    写真に写る時だけは訓練の厳しさから現実から少しでも忘れるように写ってたいたのでは!?と考えたら悲しくも戦争はしてはならないと子供の頃に思った
    お兄さんは結核になって帰って来たが
    祖母は帰って来て貰えて嬉しかったと話してくれた

    祖父は兵隊になって帰って来て、もう亡くなってしまったが
    地元の神社に出兵慰霊俾に名前が彫ってある
    帰って来た人達は朱色で名前があり亡くなってしまった方は白い色で彫ってある
    生前、毎朝毎夕
    祖父は慰霊俾が出来た時から必ずお参りに行っていた
    私も地元へ帰ると祖父のお墓参りと慰霊俾にお参りへ行きます
    戦争をしない日本になりました
    だから平和が続く日本を続くようにしますと慰霊俾に向かって手を合わせています

    +9

    -0

  • 355. 匿名 2014/08/06(水) 13:58:46 

    表参道 みずほ銀行前の石燈籠。この石燈籠の周りでも多くの方が亡くなりました。
    この灯籠の台座には今でも焼夷弾で欠けた傷跡が残っています。ここも長らく血と脂が滲みこんで黒くなっていました。

    +14

    -0

  • 356. 匿名 2014/08/06(水) 14:02:38 

    祖父は飛行機乗りで特攻で亡くなり、もう1人の祖父はロシアで捕虜になったけど運転ができたから運転手として雇われて死なずに済んだみたい

    戦争は悲しみ、憎しみしかうまない。
    平和が一番です
    戦争で犠牲なった方たちがいることを絶対に忘れません。

    +9

    -0

  • 357. 匿名 2014/08/06(水) 14:19:09 

    ×将棋弾→○焼夷弾
    赤紙?→赤紙で正解です!
    小学校で習わないのかな?なんだか不安です。

    +7

    -1

  • 358. 匿名 2014/08/06(水) 14:37:46 

    このトピは本当に貴重ですね。

    私は今30代ですが、両親や姉や旦那身内のみならず、戦争と言う時代がほんの数十年前におきていた事、想像を絶するほどの現実が実際にあった事、なぜ知ろうとしない人が多いのか?

    はだしのゲンは酷いから規制かけるとか…そんなにオブラートに包んで目を背ける今には少し違和感を感じます。
    私自身戦争経験こそない世代だけど、ネットや書籍、現地の資料館など色々調べて微力ながら事実を少しでも知って伝えたいと勝手ながら思っています。

    旦那は、私がネット等で戦争の事を調べたり見たりしていると、「お前戦争マニアみたい(笑)」と馬鹿にしてきて滅茶苦茶腹がたちます。
    そんな風に思うのは日本人としてどうなの?と一人で悶々としている今日この頃…
    戦争の風化がすぐ隣で起きてると思うととても悲しい。

    +25

    -1

  • 359. 匿名 2014/08/06(水) 16:17:12 

    それだけではなく昔にも体の不自由な人や障がいがある人がいてその人の戦争体験はそれ以上の凄まじいものだったことも知ってほしいです。

    目の見えない人や子供、耳が聞こえない人や子供、足が不自由な老人、または大きな犬が真っ先にお国のために、何より天皇のために、と刷り込まれていてリュックを持たされ、ここに行けと言われたそうです。中身は火薬や爆弾とは知らされず、ここに行って渡したら名誉、英雄を与えるとまた家族や家に配給(ひとにぎりのお米)をやると…。衝撃を受けましたね。4歳の子におにぎりを持たせリュックを背負わせここに行くのよと母親が!祖母が!兄が!その日の夜、はじめて白いお米にありつけた。それもひとにぎりのお米。涙がとまらなかった。しばらくすると次の小さい兄弟に同じことをさせ、最後には中学生の長男にもさせリュックの中身は火薬や爆弾の臭いや重みで次々に小さい兄弟が減って帰らないことから死に行くことが分かってて嫌だというと母やまわりが非国民!とののしり、これまでの書き込みにあったような我が子の死を悲しむ余裕はなく、我が子を戦争に差し出さないと自分の身がなく生きるのに必死に必死にもがき、長男に冷たく突き放し食料をもらうために私もあとから(死に)行くからと言い聞かせて死なせたと。血の気がよだつ恐ろしい話でした。

    耳が聞こえない人は発音が悪く完全に発音ができないため、中国人やスパイと間違われ問答無用で撃ち殺されたそうです。道のど真ん中で。

    足が不自由な老人は逃げないように片方の足を切りとり、爆弾を背負わせリヤカーにのせて敵地に置き去り…。

    何ヶ月も草の根っこしか食べてないため発狂して死んだ赤ちゃんや我が子を殺して食べるお母さんがいたり早くに産気づいて生まれた赤ちゃんは泣き叫ぶため敵に見つかるからといってまわりが母子一緒に殺したりしたそうです。

    毎年夏になると戦争ドラマで見るような美談はありませんでした。

    アメリカ兵に見つかり、天皇ばんざ〜い!と自決やアメリカ兵に向かって死ぬ覚悟で反抗するのは作られた話だと言っていました。

    アメリカ兵や敵に見つかると死にたくない死にたくないと手をあげたり土下座したり泣き叫びながら拝んでお願いしますお願いしますと命乞いしていたと。それでも撃ち殺されたり火炎銃で焼き殺されたとか嗚咽あげながら語られました。

    毎年夏になると戦争ドラマやテレビをやるたびにテレビを消したり怒り狂いそうになるとも言っていました。

    +21

    -3

  • 360. 匿名 2014/08/06(水) 18:05:33 

    震災の時、戦時中に似てるって声があったけど
    祖母が戦時中はこんなもんじゃなかったってポツリ。
    戦争についてはあまり語らない祖母ですが
    原発の事についてアメリカが発言してるニュースを見て
    原爆落とした国が偉そうに、ほっといてくれ!って怒りを露わにしてた。

    +16

    -0

  • 361. 匿名 2014/08/06(水) 19:10:21 

    祖父の兄弟3人は戦争に召集され、私の祖父はビルマに行きました、大変な激戦区だったようで相手に撃たれ手を負傷、傷痍軍人になりました。
    戦争が終わりビルマからの引き揚げ船で鹿児島に着いたとき、お互い二度と生きて会えないと思った弟に鹿児島の港で会ったときは抱き合って泣いたそうです。
    もう一人の弟はとても出来が良く海軍に行き、戦艦に乗る程の優秀な人物であったのですが、戦艦は沈み帰らぬ人となりました。
    祖父は晩年、認知症になりました。私はおろか家族の顔は全く解らなくなりましたが、なぜか海軍で亡くなった弟の名前をいつも呼んでました。
    その時に凄く切なくなったのを思い出しました。
    コレ書いてても泣いてしまいます。
    祖父はあまり戦争のことを話したりしなかったけど、弟さんのことはやはり、忘れられないんだなと、そして私も家族や兄弟のことは大事にしなきゃと、心に決めました。

    +11

    -0

  • 362. 匿名 2014/08/06(水) 19:11:05 

    母から聞いた話。
    母は東京生まれ、戦時中に押入れの中で生まれたそうです。
    空襲のときに曽祖父が祖母へと「もう赤ん坊は捨てて行け!」と言ったそうですが、
    祖母は頑なに拒否したそう。
    当時、道端には赤ちゃんが沢山置き去りにされていたそうです。
    電球作りの工場を営んでいたため、祖父は徴兵されなかったと聞きました。

    +9

    -0

  • 363. 匿名 2014/08/06(水) 20:49:52 

    少しトピずれですがこういうトピこそガルチャンに居る若い人達にも読んで欲しいと思います

    +15

    -1

  • 364. 匿名 2014/08/06(水) 22:53:45 

    悲しいけれど、とっても意味のあるトピ。

    +11

    -0

  • 365. 匿名 2014/08/07(木) 00:19:45 

    いろいろ考えさせられるトピでした。
    いかに、今の日本が幸せなのか、普段無い物ねだりをしているのかを感じました。
    普通に生活出来るのが一番の幸せなんだなと改めて思いました。

    いつもの芸能人のトピ等も楽しいけれどこういうトピは本当に貴重です。
    決して忘れてはいけない過去の過ちです。

    +11

    -0

  • 366. 匿名 2014/08/07(木) 12:14:01 

    普段は無口でぶっきらぼうな、
    おじいちゃんの目から静かな涙がこぼれていた。

    小学校の宿題、おじいちゃんおばあちゃんから
    戦争の話を聞いて感想文を書くために聞きました。

    おじいちゃんは、自分よりも若い兵の青年が先に亡くなったこと
    その死体をずっと背負って歩き続けたこと
    空腹で餓死・衰弱死していく人が山ほどいたこと…
    途中からは、言葉を失い
    ただ静かに泣いていました

    おばあちゃんは、自分の母が目の前で
    空爆に直撃し下半身がふっとび、
    その母の足を探し、とびちった内臓を
    必死に掻き集めていたと…
    おばあちゃんは、ずっと泣きながら
    話してくれた。

    戦争は恐ろしいです。
    世界中の人が、平和に暮らせる日が来るように
    強く願い続け生きていきます。

    +9

    -0

  • 367. 匿名 2014/08/08(金) 15:42:30 

    20年近く昔に亡くなった曽祖父。半年に一度程度しか訪ねていなかったけど、いつも食事はみんなと別に居間で食べていた。しかめつらで強そうで、当時小学校低学年の私にはひどく怖い人だと思われた。
    そんな曽祖父を盆でも正月でも頻繁に訪ねてくる人がいた。2人で酒を飲んでいたり。
    祖母に聞くと、その人は曽祖父が戦争に行ってたときの部下なんだと。戦地に行った人にしかわからない何かがあったのだと思う。

    曽祖父は96で亡くなったが、遺骨は骨格標本のようにガッチリしていて焼き場の人に驚かれた。強そうな人だと思っていたが、本当に強かったのだろう。寡黙で私にとって優しい曽祖父では決してなかったが、彼が肉体的にもそして多分精神的にも強かったことで、私の一族の今がある。多分たくさんの人の犠牲の上だと思うが、それでも私は曽祖父に感謝したいと思う。

    長文失礼しました

    +4

    -0

  • 368. 匿名 2014/08/08(金) 15:46:11 

    104才の曽祖母がいるけど(存命)昭和天皇が崩御されたときやっと死んだか!あの狸が!と吐き捨てるように言った

    この人の中では昭和天皇崩御して始めて戦争が終わったんだなーと思った。

    +1

    -1

  • 369. 匿名 2014/08/12(火) 00:03:26 

    戦争の話を祖父からたくさん聞けなかったことを

    すごく後悔しています。

    祖父は亡くなるちょっと前まで戦友のお墓参りに行っていました。

    戦争体験者の方が身近にいらっしゃる方は是非とも耳を傾けて
    あげてほしいと思います。

    +2

    -0

  • 370. 匿名 2014/08/16(土) 15:05:16 

    横浜住みですが、先日、母から少し聞きました。
    東神奈川、横浜駅周辺は空襲で真っ黒焦げ状態で母の実家には防空壕があったらしい。
    祖父は海軍で広島から舩で出兵する予定が舩が故障して逃れたらしい。
    戦争が終わり祖父が戻ってきた時、軍隊なみに家族に命令して腹が立ったとも。。。

    +1

    -0

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