【政界・芸能界】影武者って信じますか?
896コメント2016/09/25(日) 19:51
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412. 匿名 2016/08/27(土) 15:11:33
小和田金吉ー小和田恒の父方祖父
小和田恒 の父方祖父であり、
雅子の父方曽祖父である人物。
小和田金吉―小和田毅夫 ―小和田恒―小和田雅子、
と連なる。
『週刊現代』1993年1月30日号<小和田家家系図>
家系図で小和田恒 の兄弟姉妹ばかりに誌面を割き、
雅子曽祖父・小和田金吉─雅子祖父・小和田毅夫 周辺部分が何も記述されていないことに注目
出典:www.yuko2ch.net
小和田雅子を巡る家系図 母方江頭家の記述が
やたら細かいのに比し、父方小和田家については
ろくすっぽ情報がないことに注目。
但し金吉の人物像は不明な点が余りにも多い。
名前にしても「きんきち」なのか「かねきち」なのか「かねよし」なのか、実のところよく分からない。
いずれの読みであれ、小和田家が下級武士の出だとの
主張にはそぐわない名前である。
・新潟県村上市市報掲載・まさこ夫人の家系図(WebArchive)
・西日本大鑑による小和田氏系図
ttp://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-owada.html(リンク切れ)
※一説に小和田金吉は小和田道蔵匡利の三男と
伝えるが年代齟齬して審かならず、
仮に小和田兵五郎の三男の系に継ぐ。
おそらくは別流ならん歟。←つまり
「小和田金吉ってのは村上市の小和田本家とは
関係ないのでは?」という主張である。
小和田雅子が徳仁親王と婚約していた時期の
1993年4月17日には、小和田恒・優美子と雅子が
新潟県新潟市泉性寺に墓参しているが、
その写真に見られる墓石の奇妙さも
多くのスレ住民に指摘されている。
・1993年4月17日 新潟県新潟市の泉性寺へ
小和田恒・優美子・雅子が墓参り。
奇妙なことに古い墓石に新しい土台をつぎはぎしている。
・1993年4月17日 同上泉性寺墓参りのもう少し鮮明な画像。墓石左側面後ろ上部が大きく欠けていることも分かる
この墓については同県村上市西真寺から移したものという説もあるが、西真寺住職の話と大きく食い違う点もあり 、今もなお謎に満ちている。
墓石が新旧つぎはぎになっているのは、昭和五十五年(1980年)に小和田毅夫氏(=小和田恒の父)がこの泉性寺にある墓の台座だけをより良いものに直したと、『皇太子妃雅子さま』 (河原敏明著、講談社1993年4月)に記述がある。
正面墓石画像から「小和田匡利墓」と個人名であることが分かる。墓石側面には「明治七甲戌年 七月二十八日 永代経金一圓」と彫られている。なおこの小和田匡利が何者であるかは新潟県村上市の小和田本家も分からないということで、恒の父方家系は全く辿れない のが現実である。
父方先祖が辿れぬ馬の骨であれ、その子孫が真面目に公務を果たしていれば出自の怪しさなど気にも留められなかっただろう。
しかし「遊び過ぎ 」皇太子妃の評判が広まるにつけ、「出自の怪しい人間はこれだからやっぱり……」と断じられてもしょうがない状況であり、雅子夫人はその生ける実証となっている。
参考:【小和田毅夫 】
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