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629. 匿名 2016/04/15(金) 11:39:01
続き
エラムには数多くのフルリ人が関与していた記録が残されており、 ヒッタイト帝国と交流があった事が分かっています。
フルリ人は、メソポタミアのシュメールとアッカドからアナトリアとヒッタイト王国までの間の広いエリアを支配していました。
フルリが、アーリア人かインド・ヨーロッパ語族起源であったと考えられます。
エラム各地にフルリ人が移住しており、エラムの諸都市にはフルリ人の王を頂く都市が多数出ていて彼らの王たちはインド・ヨーロッパ語族の名前をもっていました。
そして、彼らの軍隊と騎兵用語は、インド・ヨーロッパ語族から生じています。
フルリ人は、文化的、宗教的にヒッタイト人に影響を与え、ヒッタイトの神話が、フルリに由来することも解ってきました。
紀元前1300年、大規模な移住と侵略の圧力の中で、フルリは自らの王国の北東の部分へ退き、バン湖の近くで彼らの新しい首都を創出して、彼らの王国をウルアルトゥ(アララト)と呼びました。
スキタイ・サカ族とは、約6000年前、今のトルクメニア地方に興ったナマヅカ文化という彩文土器文化の担い手で、牧畜と農耕を営む遊牧民のルーツともいうべき複合民族でした。
ナマヅカ彩文土器文化が熟成期を迎えた頃、アムダリヤ上流のバタフシャン産ラピスラズリを商い、羊トーテムのサカ族と牛トーテムの月氏の隊商が、馬や船などによって旅を続けバビロンの【スサ】から【ウル】に入りました。
出典:image.space.rakuten.co.jp
やがて、ナマヅカの彩文土器文化は、サカ族によって東西に運ばれ、イラン高原に於ける【プロト・エラム文化】に大きな影響を与えました。
ラピスラズリが、ハラッパ文化以前のコト・デイジ遺跡から発見されていることからサカ族がインダス文明の原形をつくっていたことが分かっています。
またイラン高原文化を受容したナマヅカ文化が黄河流域のヤンシャオ文化あるいはカラスク文化となりました。
約5100年前には、イエニセイ河上流とアルタイ地方にアフナシェヴァ文化と呼ばれる青銅器文明が起こりました。
この文化の担い手はクルガン人でしたが、その高塚墳墓の板石には、カラスク文化と中国のトーテツ文様に似た【鷹と人面像】が刻まれていて、クルガン人は、すでに車輪付き馬車を使用していました。
彼らはコーカサス地方に侵入して黒海に進み、インド・ゲルマン的特徴の混合文化が生まれ、このアーリア人こそ、後にインド・ヨーロッパ語族となった人々 とおもわれます。
同じ頃、小麦が、ドナウ河流域とライン河流域、および黒海の西海岸一帯と南ロシア全域に広がり、5000年前頃には、小麦からパンを作る文化が、ヨーロッパ全域を覆いました。
クルガンとは、日本列島や朝鮮半島に見られる古墳と同種と考えられます。
この古墳文化は、アジアからアナトリア、東ヨーロッパ~スカンジナビア半島までユーラシア大陸全体にありました。
同様にインド・ヨーロッパ言語もユーラシアからヨーロッパにかけて広がっています。
即ち、クルガンを建設し、人々がインド・ヨーロッパ語族のルーツであると考えられます。
彼らは後に、壇君教団グループと番韓(海の国交易商人・マカン人)の主力
となりました。
彼らはユーロポイドと考えられます。
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