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503. 匿名 2016/04/05(火) 18:56:42
続き
古代では東洋、ことに中国とインドで、早くから製鉄技術が高い水準に達し、西洋をはるかに凌駕していたと言われている。
中国では、すでに紀元前から鋳鉄が製造されており、鋳鉄を精錬して脱炭し錬鉄に変える二段階法(間接法)が発展した。
また炭素の多い鋳鉄に炭素の少ない錬鉄を溶け合わせて鋼にする技術も生まれた。
一方ヨーロッパで二段階法が始まったのは十五、六世紀で、高炉法の出現により初めて実現したことを考えれば、こうした中国、インドの製鉄技術は驚くべき先進性をもっていることが分かる。
龍一族が通った場所と、優れた製鉄技術を有する場所が一致する。
日本でも、自然風による露天蹈鞴という方法で弥生中期から古墳時代中期まで製鉄が行われていたと考えられているが、こういう原始的な方法では遺構は残らないので証明が難しい。
神話と製鉄の関係を見ると、『日本書紀』の天石窟(あまのいわや)の段の一書にアマノハブキという手鞴(てふいご)が出てくる。
真弓常忠氏はこの天石窟の話を、銅鐸による祭祀が行われなくなり、鏡による招祷儀礼の行われた時代の反映であると考え、三世紀のことと推定している。
製鉄と龍蛇伝説
龍蛇にまつわる伝説が多く残されている出雲・三輪・諏訪・常陸はいずれも製鉄と関係が深い。
出雲は砂鉄の豊富な地で、『出雲国風土記』で大国主命の説話が多く語られる地域は、出雲でも最も砂鉄の多い所である。
特に須佐之男が降臨した鳥髪山は出雲最大の産鉄地である。
遺跡から、出雲では弥生時代中後期には製鉄が始まっていたと考えられている。
大国主命の子の阿遅志貴高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)が、名の通り鋤(すき)を象徴していること、大国主命の別名・大穴持の「穴」を、砂鉄を含む「鉄穴(かな)山」と考え、大国主命を製鉄の神とする説もある。
三輪山麓の金屋遺跡の発掘によって、弥生時代にここで製鉄が行われたのは確かである。
『古事記』の大物主の丹塗矢(にぬりや)型神婚説話に出てくる勢夜陀多良比売(せやたたらひめ)と娘の富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ)の名前に「蹈鞴(たたら)」が含まれていることも多くの研究者が指摘する事である。
建御名方神は、別名南方刀美(みなかたとみ)とも言い、諏訪神社は古くより南宮と呼ばれる。
『梁塵秘抄』に「南宮の本山は、信濃国とぞ承る。さぞ申す。美濃には中の宮。伊賀国には稚き児の宮」とある。
美濃の仲山金山彦神社と伊賀の敢国神社の「南宮」に共通するのは、製鉄の神を祀るということであり、南宮とは、製鉄炉を取り囲む四本の押し立て柱のうちで南方の柱を最も神聖視することによるのではないかという。
松本平一帯は砂鉄の豊穣な産出地であり、ミシャグチ神を降ろす「湛(たたえ)神事」の御宝は「鉄鐸」である。
また『諏方大明神画詞』で「洩矢は鉄輪を持してあらそひ、明神は藤の枝を取りて是を伏し給ふ」とあり、洩矢神が鉄器を用いていた。(吉野裕子氏によれば「藤」は蛇を象徴するという)
もともとの洩矢神も製鉄の神で、砂鉄の豊富な諏訪に、また製鉄技術を持つ建御名方神が出雲から入ってきたのであろう。
『常陸国風土記』には、若松の浜の鉄を採って剣を造ったとし、ここは鹿島の神の山で禁足地であると記す。
若松の浦は、製鉄を行った遺跡がいくつか発見されている。
以上より、龍一族とは製鉄の一族であることが言えよう。
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