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35. 匿名 2025/11/29(土) 17:23:31 [通報]
>>25
小野田寛郎さんが91歳で亡くなってから1週間がたった。じつは、私の父は、小野田さんの手記のゴーストライターとなり、『週刊現代』に「わがルバング島の30年戦争」(のちに講談社から出版された)を連載した。
世間が小野田さんの帰還に大騒ぎをしているのは知っていたが、まさか父親が手記を代筆しているとは知らなかった。もとより「最後の日本兵」と言われてもピンと来なかった。
父は手記を書くために、小野田さんと共同生活をしていた
小野田さんは世間が騒いでいるような人ではなかったということだ。戦争がどうのこうの、帝国軍人がどうのこうのという話は抜きにして、私には単なる「気が小さいおじさん」にしか思えなかった。
この夜、私は小野田さんと一緒に風呂に入り、彼の背中を流しながら話をした。私はおそるおそる聞いた。「小野田さん、戦争が終わったのを知っていたんですか?」
すると、小野田さんは、なにかに怯えているような目つきになり、「そうだ」とぽつりと言った。
私はこのとき、ただ、「やっぱり」と思っただけだった。
それから、小野田さんは湯船につかりながら、突然、持っていた銃の話をしてくれた。「坊主、銃というのはこうやって構えて、こうやって撃つんだ」みたいな話だった。
あとから知ったが、小野田さんは戦後、ルバング島で生き残った仲間と住民を襲い、食料を奪いながら生きてきた。村人を何人か射殺している。銃は肌身離さず持っていた。だから、戦争が終わっていたのを知っていても、報復が恐くてジャングルを出られなかった。ただ、最後に残った仲間の小塚一等兵がフィリピン警察軍に殺されたので、観念したのだろう。
(つまり、元上官の任務解除命令、フィリピン軍に投降などの一連の儀式は、フィクションの上に成りたっていたと言える)
いまから40年も前の話で、当時の私は、小野田さんが話したことの意味はよくわからなかった。
ただ、いま亡くなられて思うのは、「戦争は人の運命を狂わせる」ということだけだ。いまだに、日本は首相の靖国参拝問題などで、半世紀以上前の戦争を引きずっている。
小野田さんが亡くなってから、ネットに書き込まれた若い世代の意見を読んだ。
また、彼を戦前の強い日本人、誇り高き軍人の象徴と捉えている識者の追悼コメントや追悼記事も読んだ。そうして、なぜかしっくりこない気持ちを、今日も抱えている。+14
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小野田寛郎さんが91歳で亡くなってから1週間がたった。じつは、私の父・津田信は、1974年に小野田寛郎さんがルバング島から帰還したとき、小説を一時的に書かなくなって、『週刊現代』などの週刊誌のアンカー