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1465. 匿名 2025/11/25(火) 10:32:47 [通報]
>>1378
「遊王 徳川家斉」(岡崎守恭 文春新書)に家斉の父一橋治済と母お富の方
のなれそめについて詳しくかかれておりますが、どうも若き日の治済
(当時は20代前半)が上様(家治)の側に仕える美しい奥女中を見初め、
上様の許可を得て側室にしたーという単純なラブストーリーでは
なさそうです。
・お富の方がたいした容姿じゃないと書かれた記録もある
(たいした容姿じゃないといっても、美女が多い大奥では
突出したレベルの美女じゃなかったーということだと
思いますが。
さすがに不美人を将軍のお中ろうにはしないでしょう。
お中ろうは将軍の側室候補となることが多いので)
・お富の方の容姿より彼女の係累が重要。
お富の方の実家は田沼意次と親しい。
彼女は田沼のツテで大奥にあがったらしい
・お富の方の父は旗本の岩本正利。
紀州藩から吉宗について幕臣となった200俵の旗本。
(田沼家ももともとは紀州藩から吉宗についてきて幕臣に
なった)
母は大奥の実力者だった御年寄梅田に仕えていた。
梅田はお富の方の母をかわいがり、養女にしてとりもった
上で岩本家に嫁がせた
・お富の方は大奥を退職して一橋家に入り、家斉を産んだ。
お富の方は幼い家斉をつれて大奥にしばしば挨拶にいっていた
らしい。
(男子禁制の大奥だが、9歳以下の男子は出入りできた。
また御三家や御三卿の当主や子弟は将軍の親族であり、
大奥に出入りできた)
そのため大奥のお局さまたちは家斉贔屓となって
いたらしい。
後に家斉が将軍の養子になることが決まったのも
大奥のお局さまたちのバックアップがあったかららしい。
お富の方は一橋治済の子を何人も産んでおり、治済お気に入りの
側室であったことは間違いありません。
治済は若くして正室をなくしておりますが、その後継室を迎えて
いない。
お富の方が一橋邸で正室に準ずるような扱いをうけていたか
どうかはわかりませんが、大事にはされていたようです。
ただし策略家の一橋治済がお富の方を側室に迎えたのは、好いた惚れた
だけが理由ではなかったようです。
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