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  • 473. 匿名 2025/10/25(土) 03:05:43  [通報]

    >>469
    あなたに身内が残っているか知らんけど、話する人間くらいいるでしょう? 
    その人やその人の身内や、近所を歩く道行く顔見知りでもいいよ、ハガキ一枚で戦争に行けと言える? 「私が行けるなら行くのにねえ、あなたは当然行くのでしょう?」と圧力かけてきなよ?

    自分が行かないのに人には強要するなんて非道じゃない?
    私が決定権ある人間なら兵役免除の人間は資産没収して戦費に回すよ?
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  • 476. 匿名 2025/10/25(土) 03:13:34  [通報]

    >>469
    先の大戦で日本軍の死者は軍人・軍属を合わせて約230万人にのぼる。ソ連は1360万人、ドイツは325万人と多数の死者が出たが、日本軍の死の内実は欧州戦線とは大きく異なる。死者の9割は1944年以降に絞られ、さらにその死の半数ほどが病死、とくに餓死が占めていたことが戦史研究からわかった。

    1945年8月15日の終戦までの8年間に、日本軍は軍属も含め約230万人がなくなった。

    「日本の戦況が急激に悪化したのは、1943年2月のガダルカナル島の撤退からです。前年6月のミッドウェー海戦で主力の機動部隊がやられました。その後、アメリカは空母や戦闘機などを急速に増加させ戦力を上げました。43年9月に決定された絶対国防圏も整備しきれないまま、44年6月、サイパン島が陥落します。もうここで事実上負けていたと言ってもいいでしょう」

    戦争ですから、多くの人は戦闘で命を落としたと考えるでしょう。でも、日本軍は1944年以降、戦病死者が多く、ある中国の連隊の史料では戦病死者が戦没者に占める割合は73.5%にもなりました。実際に全戦没者で見れば、この数字より多い可能性が高いです。その戦病死の中身も、栄養失調による餓死、あるいは栄養失調の果てにマラリアに感染というケースが多い。餓死の比率は61%や37%などの説があり、確定はしていません。ですが、おおむね半数が餓死者だったと言っていいでしょう」
    日本軍兵士の多くは餓死や自決、ときには「処置」も――死者からわかる戦争の実像 #戦争の記憶(Yahoo!ニュース オリジナル 特集)
    日本軍兵士の多くは餓死や自決、ときには「処置」も――死者からわかる戦争の実像 #戦争の記憶(Yahoo!ニュース オリジナル 特集)news.yahoo.co.jp

    先の大戦で日本軍の死者は軍人・軍属を合わせて約230万人にのぼる。ソ連は1360万人、ドイツは325万人と多数の死者が出たが、日本軍の死の内実は欧州戦線とは大きく異なる。死者の9割は1944年以降に


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  • 479. 匿名 2025/10/25(土) 03:21:11  [通報]

    >>469
    日本兵が飢えていたのは、補給路が途絶えたからだけではなく、そもそも兵士の命を重視していない軍の方針があった

    <日本にはどこか人間軽視の思想があって、その点が米国とは格段の落差があったと思います。そのことが犠牲を大きくしたものであらうと考えます>

    「これは戦闘機など航空機にも言えることで、アメリカは操縦席の回りを防弾板で手厚くガードしたり、燃料タンクの自動消火装置を装備したりしていた。パイロットの命を第一に考えての設計です。一方、日本の戦闘機は旋回性や速度など飛行性能を引き出すため、機体を軽量化し、重たい防弾板を排除。安全性を後回しにしたのです。だから、操縦の運動性能は高いけれど、被弾すると操縦士はやられてしまう。撃墜されることも多かったです」

    「『ブドウ糖だ』『元気が出る』といってヒロポン(覚醒剤)を与えていた疑いが強い。そうして興奮させた状態で『特攻』させた。そんな方法で、ベテランのパイロットさえ使い捨てにした。ひどい人命軽視です。一方、アメリカは戦闘機が撃ち落とされると、パラシュートで脱出した兵隊を潜水艦や艦船がレスキューし、最後の一人まで助ける。それを見ていた日本兵は、この差は何だろう、とショックを受けていた」

    さらにひどい実情もあった。「自決」だ。

    <「今日は体調がいいから先に行くぜ」と出ていった兵が、道の真中で自決していた。あとからこの道を(戦友が)通るから(自分の遺体を)始末してくれるとやったことだ。(中略)分隊の足手まといになることは彼の性格から許さなかったのだろう>
    目撃した人によれば、この兵士は小銃の引き金を足の親指で引いて自決を成し遂げたのだという。

    捕虜になるのであれば、自決する。それは本人の意思というより、上官から言われていたことでもありました

    <敵弾で戦死したと思われるのは三〇%程度。残り七割の日本兵は次のような比率で死んだと思う。六割 自殺(注射で殺してくれと頼んで楽にしてもらったものを含む)。一割 他殺(お前が捕虜になるなら殺すというもの)。一部 事故死(暴発死、対戦車戦闘訓練時の死等)>

    さらにひどかったのが「処置」だ。処置とは、上官の命令による傷病兵の殺害のことだ。

    「戦闘に敗れ、負傷した兵士は、捕まると捕虜になるおそれがありました。それを防止するために、上官は足手まといの兵士に自決を促し、応じなければ射殺、もしくは衛生兵などが殺害したのです。治療を装い、『これを注射すれば熱が下がる。元気が出る』とうそまでついて毒薬を飲ませたり、注射したりしました」

    「なぜこのような真似をしたのか。1941年1月8日に東条英機陸軍大臣が発した『戦陣訓』が大きな理由です。それは『生きて虜囚の辱めを受けず』と捕虜となることを禁じていたのです」
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  • 524. 匿名 2025/10/25(土) 13:35:42  [通報]

    >>469
    茶道裏千家前家元 大宗匠の千玄室
    誰もが納得できない思いを持って戦場へと向かっていった。  
    「気持ちは高ぶっていたが、心の中では戦争というものを呪っていた」

    1944年3月、配属されていた徳島海軍航空隊で、特攻隊が編成されると、志願した。

    練の休憩中、仲間たちは千さんの点てるお茶を楽しんだ。ある日、千さんが点てたお茶を隊員の1人が飲んで「生きて帰ってきたら、お前んとこの茶室で茶を飲ませてくれよ」と言った。
    「その瞬間、突き落とされたようになった。ああ、もう生きて帰れやへんのやと」。

    すると、戦後、俳優として活躍する西村晃がすっと立って、自分の故郷の方を見て「お母さーん」と叫んだ。他の隊員たちも同じように叫んだ。

    「みんなお母さんが恋人やった。もういっぺん、お母さんに抱いてもらいたい、頭をなでてもらいたい。あの頃を思い出すのは、もう嫌だ」

    「今そこで元気で話していたのが、出ていって亡くなる。運命は紙一重だとしみじみ思いました」

    戦場へと向かわせられた時期は終戦まであとわずか1年と8ヵ月であった。しかし、それは太平洋戦争のもっとも過酷な時期と重なり、悲劇性を演出することになってしまったのが彼らの死であった。

    大本営はサイパン陥落で敗戦をわかっていたのに特攻を強いた。
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  • 525. 匿名 2025/10/25(土) 13:46:34  [通報]

    >>469
    あなたが軍人になりたいのは立派だが、自分は行かないのに戦争準備をするのは、日本国民を地獄に送りつけるのと同じだ。どうして日本国民を地獄に落としたいんだ? 
    頼むから日本を大事に思ってくれ。
    日本国民を大事にしてくれ。


    フィリピンのルソン島に米軍が上陸を開始した。迎え撃った陸軍大将の山下奉文率いる第十四方面軍のなかに、後にダイエーを創業する中内㓛もいた。

    中内も理不尽なしごきにあった。
    「毎晩、ビンタで兵隊を鍛えるというんですね。目から火が出るほど殴られて、『ありがとうございます』と言う。
    教えてもらったことについては、ありがとうございますと言って、殴られたことに礼を言うわけです。そういう軍隊の表裏の陰惨なことがありますね」

    軍事訓練と鉄拳制裁の日々を過ごしていた1944年7月、フィリピンへと転戦となる。第十四方面軍隷下の混成五十八旅団の所属となり、ルソン島リンガエン湾の守備に就いた。

    1945年1月23日未明に玉砕命令が下されるが、その直後ゲリラ戦の命令が下される。
    玉砕は免れたが、まだ死線は越えていなかった。手榴弾の攻撃を受け、二の腕、大腿部に重傷を負う。

    出血のため急に力が抜け、崖の下まで滑り落ちていたが、幸い衛生兵が気づき、止血してもらうことができた。野戦病院に行けと言われ向かったが、病院は跡形もない。野戦病院を追いかける負傷者たちが集まっていた。顎のない兵隊もいた。
    「人間はよく生きているなと思いましたね」
    「気力も絶望もないですね。単に、生きておる、というだけですね」

    前の日に魚や酒の話をして、「内地に帰ったら遊びに来いや」と言っていた傷病兵が翌朝には亡くなっている。遺体を埋める気力もなく、本隊を追いかけた。

    「ひどいところでは、3メートルに1人ずつぐらい餓死状態のところがありました。だから弾に当たって死ぬよりも、餓死のほうが多かったんじゃないですか。栄養失調と餓死、それからマラリア、デング熱です」。

    「食糧はないのに自分はウジ虫に全身を食い尽くされそうだ。腐った肉を自分で切り取り一命は取りとめた」
    「アブラ虫、みみず、山ヒル……。食べられそうなものは何でも食う。靴の革に雨水を含ませ、かみしめたこともあった」
    「人間の限界を問う飢餓」

    昼下がりになると、どのみち死ぬのなら、早く死んだ方が楽だという考えになった者が手榴弾で自決をする「ドーン、ドーン」という音が聞こえた。

    降伏すれば治療を受けられ、食糧も豊富にあると書かれてもあった。だが当時の価値観では、捕虜になることはできなかった。

    信じているのは、明日がある、ということだけですね。寝て、目が覚めたら明日があるということだけで、そこから先のことは全然考えません。人間も極限まで行くと、思考は停止してしまいますね。いま今日があって、寝て目が覚めたら明日があって、横で話していた兵隊が冷たくなっておる、ということです。誰が生き延びていくか。生き抜き競争みたいなものですね。

    間もなく終戦となり、武装解除を受けた。
    「地獄の釜の蓋が取れたような感じ」がして、停止していた思考が動き出した。
    「ここまで生き延びてきたんだから、なんとか生き延びていこうという意欲だけですね。ここで死んでなるものかという意欲です。ここまで生き延びて、ここから先、死んでたまるかということですね」
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