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735. 匿名 2025/08/24(日) 22:12:17 [通報]
>>722
じつは南畝は、天明5年11月にはじめて登楼した吉原・松葉屋で番頭新造(花魁の身の回りの世話をする遊女)三穂崎にたちまち心を奪われ、雨続きの天候をおして通いつめ、半年あまりのちの天明6年7月に大枚をはたいて身請けしています。
番頭新造とはいえおそらく数年の年季を残していたと思われ、大きな出費であったにちがいありません。
南畝の経済状況からして、吉原の友人たちからの働きかけがあったか、親交のあった土山あたりからの援助があったかと想像されていますが、証拠が残っているわけではありません。+18
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758. 匿名 2025/08/24(日) 22:28:51 [通報]
>>735返信
南畝は身請けしてもらったけど、何を焦ってたの?田沼派がまずくなったから?+8
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今回のコラムのテーマは、南畝の狂歌集『狂歌才蔵集』に施された不自然さと時代の変化について。江戸文芸を研究する小林ふみ子先生が、読み解く。