ガールズちゃんねる
  • 9580. 匿名 2024/04/30(火) 12:05:06 

    >>2086柱稽古
    >>9557

    「春の夜の夢」 第三話

    朝食を終えた伊黒さんは、熱いほうじ茶が入った湯呑みを両手で包んでいた。飲まなくても香りを楽しめるようにと毎回じっくりと焙煎している。久しぶりに手順を考えながら作業をしていると、指先まで血が通っていくようだった。
    「鬼がいない世の中というのが、にわかには信じられないな」
    伊黒さんが庭に目をやった。
    一時期は巻き藁や打ち込み用の立木などが置かれていたが、それらが撤去された今、庭は本来の美しさを取り戻している。
    一番目立つところに枝ぶりのいい松があって、対極には桜の大木もあり、昨日から咲き始めた桜はいくつか花の数を増やしている。すこし離れた池では鏑丸くんが水浴びをしていた。
    目を細めてそれを見ていた伊黒さんに問いかけられた。
    「君は初めて会った日のことを覚えているか?」
    「もちろんです。強烈でしたから」
    私が初めて隠さんに連れられて、この屋敷を訪れたとき、いくら家の中を探しても伊黒さんは見つからなかった。
    「ちゃんといてくれって言ったのに」とぼやく隠さんの後ろから「どこを探しているんだ」と鋭い声が飛んできた。
    松の木に寝そべり、人差し指をこちらに向けた伊黒さんは「俺は女は信用しない。今すぐ連れて帰れ」と、にべもなく言った。
    隠さんが囁いた。
    「無理そうだったら辞めてもいい。ネチネチといびられて何人も辞めているんだ」
    「いらないというのに、お前たちが端女を送り込んでくるからだろう」
    驚いた…この方は耳もいいのか。「柱おっかねぇなぁ」と、首をすくめた隠さんは「そんじゃ、つぎの任務があるんで」と早々に帰っていった。

    「懐かしいですね」
    「君もすぐにここを出ていくと思った」
    確かに苦手な人もいるのだろう。でも……
    「私、言葉はきついけれど言われた通りに待っていてくれた伊黒さんは悪い人ではないと思ったんです」
    伊黒さんは「ほう」と息を漏らした。
    「それに間違ったことを言われたことはないですし」
    伊黒さんは小柄だけれども圧倒的な威圧感があり、下手なことを言うと鋭い眼光に射抜かれながらネチネチと叱責される。
    指摘の内容は確かに細かいけれど、適切だった。しかし慣れないとやはり萎縮してしまうのだろう。
    私も一般隊士や隠が蛇に睨まれた蛙のようになっているのを見たことがある。
    ただ、伊黒さんの名誉のために言うと怖いと言われているのは仕方のないことでもあった。
    全ての柱と一部の隊士は一日中絶え間なく気を張り巡らせている。それは全集中の呼吸常中といって、これができる隊士は格段に強いと仲良くなった隠さんに教えてもらった。
    全集中常中は常時臨戦体制と言い換えてもよく、触れたら切れそうな雰囲気を身にまとっており、それが近寄りがたさもにつながる。
    鬼殺隊は常に死と隣り合わせだ。
    肉体の限界まで鍛錬を重ねている伊黒さんでさえ、過去に一週間ほど意識が戻らずに命が危ぶまれるような怪我をすることがあった。
    柱ですらそうなのだから、一般隊士は薄氷を踏むような思いで任務に備えていただろう。

    最終決戦に備えて、全隊士に柱稽古の招集がかかった。
    柱稽古で伊黒さんは、次から次へとくる隊士を機械のように捌いているように見えたが、それだけではなかった。
    担当は太刀筋の矯正だったが、伊黒さんの真骨頂はその観察力と分析力だと思う。
    伊黒さんは人の弱点を見つけるのが得意だった。
    一度手合わせをすると相手の弱点が分かるようで、そこをネチネチと徹底的に攻める。
    嫌なところばかり突いてくると愚痴を言う隊士もいたが、私の目には隊士たちが各々の弱点を克服して日に日に強くなっているように見えた。
    どこまで伝わっていたかはわからないが、伊黒さんの厳しい言葉の裏には「誰にも死んでほしくない」という想いが垣間見えた。

    庭一つとっても思い出がありすぎる。ありし日のことを思い出しながら、こっそり袖で目頭をおさえた。

    続く

    +33

    -7

  • 9583. 匿名 2024/04/30(火) 12:18:46 

    >>9580
    一話目から読んでいます。原作軸の伊黒さんが本当に戻って来たようで引き込まれています。お庭の様子や出会い、柱稽古の様子など全てに伊黒さんらしさが溢れていて切なくなります。最後までお供させてください🐍

    +23

    -5

  • 9593. 匿名 2024/04/30(火) 12:58:53 

    >>9580
    読んでます。続きも楽しみです。

    +21

    -4

  • 9614. 匿名 2024/04/30(火) 14:01:53 

    >>9580
    伊黒さんのに対する考察が深くて、かっこいいなぁ、そうだなぁ…と改めて魅力を感じています🐍
    それにしてもこの伊黒さんは一体何なんだろう、と続きが気になります✨

    +26

    -4

  • 9763. 匿名 2024/04/30(火) 20:25:19 


    香水>>3160(香水×銀座ネタかぶりすみません。ほぼ結末までできていて修正できなさそうなのでこのまま落としてしまいます)
    耳打ち>>3202
    ⚠️好きな設定♾煎じ

    >>9580
    「春の夜の夢」 第四話

    翌日、私と伊黒さんは銀座にいた。この辺りには何度か来ていて、日本橋の丸善と伊東屋に寄り、銀座まで歩くというのが定番だった。
    伊黒さんは丸善で本を一冊買い、伊東屋で便箋を一通買っていた。
    ここ最近の銀座は新しいお店が次から次へとできていて、人と物が溢れている。前回来た時にはなかった煉瓦のビルができていて、若い女の子がたくさん出入りしていた。興味を惹かれて近づいてみると、ソーダファウンテンで一躍有名になった資生堂薬局の新しいビルだった。
    「気になるなら入ってみるか?」
    「いいんですか」
    中は化粧品店だった。並んでいたのは7色の白粉やガラスのボトルに入ったルビー色の化粧水。耳隠しにタイトスカートといった格好のモダンな女の子たちがあれこれと手に取っている。
    その中でも、ひときわ輝いている一角があった。金箔が貼られたガラスの小瓶がたくさん並んでいて、それ自体がキラキラしている。
    髪の毛を綺麗な夜会巻にした店員さんに声をかけられた。
    「これは私どもが作った初めての国産香水です。よかったらお試しになりますか」
    そう言うと、花椿、梅、藤、月見草と花の名前がつけられた小瓶の中から一つを選び、シュッと手首に吹きかけてくれた。静かに花開く香りだった。控えめだけれども凛としてそこに佇んでいるような。
    「手首でこうやって擦ったら、そのまま首につけるんですよ」
    店員さんに教えてもらって首筋にも香りを移した。
    「この香りは砂丘の彼方に太陽が沈む中で、花が咲く姿を香りで表したものなんです」と微笑みながら説明してくれる。

    私の中では香りといえば藤の花だった。
    夜間、伊黒さんが任務に出る時は「くれぐれも香を絶やさないように」と言われ、一晩中、藤の花の香を焚き、外出する時には香袋を持った。鬼殺隊が解散してからは香袋も不要になり、特別に何かの香りを身につけるということはなくなった。
    初めての香水の香りにうっとりとして話に聞き入っていたら、はっとした。この女性だらけの空間で伊黒さんは大丈夫なのか。
    あたりを見回すと、壁際で具合が悪そうな顔をしている。
    「すみません。連れが待っているので」
    と言って、伊黒さんの元に急いだ。
    「お待たせしました。出ましょう」
    建物を出ると、女の子の華やいだ声と化粧品の匂いが遠ざかり、路面電車が走る音や土っぽい匂いに包まれた。
    「あまり気にしなくていいのに。君は俺が本を選んでいる時には、長い時間待っているだろう」
    「それは、待つのが嫌ではないからですよ」
    私は伊黒さんが真剣に本を選んでいる姿が好きなのだ。思慮深い顔も、本に伸ばされる手も、ふとした時に目があって微笑んでくれる瞬間も。
    「それに、あんなところにいたら目立ってしまって仕方がないです」
    伊黒さんはその繊細な造形の顔立ちと憂いを帯びた雰囲気で人目を引く。実際さっきのお店でも、熱っぽい視線で伊黒さんを見ている女の子が数人いた。あと少しでもいたら、話しかけられていただろう。
    「さっき、香水のお試しをさせてもらいました」
    「ああ、見ていた。どれ」
    伊黒さんは私の手を取ってそのまま持ち上げ、顔に近づけた。一瞬、口付けをされるのかと思って腕に力が入った。
    「うん、悪くない」
    香りを確かめた手を下ろし、伊黒さんは何事もなかったかのように歩き出した。この日の午後は、歩くたびに香りがふわふわと揺れて顔が綻んだ。

    帰宅後、羽織を脱いでえもん掛けにかけ、塵を払っていると伊黒さんも部屋に入ってきた。
    「伊黒さんの羽織もかけましょうか」
    「ありがとう」
    伊黒さんは羽織を受け取るのに十分な距離からさらに近づき、少し屈んで首元に顔を寄せて、低い声で囁いた。
    「まだ匂いが残っている」
    その夜は布団に入ってからも耳に残った声が離れなくてなかなか眠れなかった。

    続く

    +28

    -4