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9557. 匿名 2024/04/30(火) 09:38:00
>>9367
「春の夜の夢」 第二話
「俺は……」
伊黒さんは手のひらに目を落とし、握ったり開いたりしている。
そんなはずはない。だって伊黒さんは無限城で……
一瞬、私の記憶の方が夢だったのではないかと記憶を辿ったけれど、あの日のことを思い出すだけで胸が苦しくなり呼吸も早くなる。
あれは絶対に夢などではない。
一日中泣き暮らした記憶も、まだ鮮烈なのだから。
それなら、目の前にいる人は?
私たちの当惑に気づかない様子の伊黒さんが顔を上げた。
「鏑丸は無事だったんだな。鬼はどうなった」
鬼?無限城のこと?
「……鬼は全て殲滅しました」
なるべく冷静に伝えたつもりだが、顔から血の気が引いているのが自分でもわかった。
伊黒さんの眉毛がぴくりと上がった。
顎に手を当ててしばらく考え込んでいた伊黒さんが険しい顔で口を開いた。
「がる子、悪いが鏑丸と二人にしてくれないか」
私は、先ほど目にしたものが信じられなくて自室で呆然としていた。鏑丸くんが伊黒さんを見間違えるわけがない。あれは間違いなく伊黒さんだった。
けれど、なぜ…?
いくら考えても答えは出ない。
伊黒さんは鏑丸くんと一緒に書斎に入っていった。
その部屋にはたくさんの本と「鬼殺隊記録」という伊黒さんが任務のたびに書いていた鬼殺に関する記録がある。
お部屋の中は私が手をつけるわけにはいかず、全てそのままになっていた。
私はじっとしていられず、家の中をうろうろと歩きまわった。
食事やお床の準備はどうしたら良いのだろうか。いや、そもそも幽霊ではないのか。
その日、伊黒さんは一晩中書斎から出てこず、私もまんじりともせずに朝を迎えた。
「おはよう」
翌朝、書斎から出てきた伊黒さんは少し目が充血していたけれど以前と変わらない落ち着いた雰囲気だった。
「あの…」
何が起こっているのか聞きたい。
なんと聞いたら不躾ではないか言葉を探していたら、伊黒さんの方が先に口を開いた。
「心配しなくていい。鏑丸から何があったのか聞いた。おそらくは……」
言いかけた言葉を「いや、なんでもない」と小さな呟きで打ち消し、伊黒さんは私の瞳を見つめた。
「とにかく俺は幽霊などではない。ほら」
差し出された手にそっと触れると温かくて、心臓が小さく跳ねた。鏑丸くんも、訴えかけるような目で首を上下に振っている。
私も眠れない夜の中で一つの結論を出していた。どんな話でも伊黒さんの言葉を信じる。この数ヶ月の奈落の底のような日々よりは数倍ましだ。それにこの人は本物だと私の中から何かが訴えている。
「お腹空いていませんか?良ければお吸い物を用意しますね」
「頼む」
私は箪笥から久しぶりに割烹着を取り出し、台所に立った。
続く+29
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9561. 匿名 2024/04/30(火) 10:16:28
>>9557
ありがとうございます✨+19
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9580. 匿名 2024/04/30(火) 12:05:06
>>2086柱稽古
>>9557
「春の夜の夢」 第三話
朝食を終えた伊黒さんは、熱いほうじ茶が入った湯呑みを両手で包んでいた。飲まなくても香りを楽しめるようにと毎回じっくりと焙煎している。久しぶりに手順を考えながら作業をしていると、指先まで血が通っていくようだった。
「鬼がいない世の中というのが、にわかには信じられないな」
伊黒さんが庭に目をやった。
一時期は巻き藁や打ち込み用の立木などが置かれていたが、それらが撤去された今、庭は本来の美しさを取り戻している。
一番目立つところに枝ぶりのいい松があって、対極には桜の大木もあり、昨日から咲き始めた桜はいくつか花の数を増やしている。すこし離れた池では鏑丸くんが水浴びをしていた。
目を細めてそれを見ていた伊黒さんに問いかけられた。
「君は初めて会った日のことを覚えているか?」
「もちろんです。強烈でしたから」
私が初めて隠さんに連れられて、この屋敷を訪れたとき、いくら家の中を探しても伊黒さんは見つからなかった。
「ちゃんといてくれって言ったのに」とぼやく隠さんの後ろから「どこを探しているんだ」と鋭い声が飛んできた。
松の木に寝そべり、人差し指をこちらに向けた伊黒さんは「俺は女は信用しない。今すぐ連れて帰れ」と、にべもなく言った。
隠さんが囁いた。
「無理そうだったら辞めてもいい。ネチネチといびられて何人も辞めているんだ」
「いらないというのに、お前たちが端女を送り込んでくるからだろう」
驚いた…この方は耳もいいのか。「柱おっかねぇなぁ」と、首をすくめた隠さんは「そんじゃ、つぎの任務があるんで」と早々に帰っていった。
「懐かしいですね」
「君もすぐにここを出ていくと思った」
確かに苦手な人もいるのだろう。でも……
「私、言葉はきついけれど言われた通りに待っていてくれた伊黒さんは悪い人ではないと思ったんです」
伊黒さんは「ほう」と息を漏らした。
「それに間違ったことを言われたことはないですし」
伊黒さんは小柄だけれども圧倒的な威圧感があり、下手なことを言うと鋭い眼光に射抜かれながらネチネチと叱責される。
指摘の内容は確かに細かいけれど、適切だった。しかし慣れないとやはり萎縮してしまうのだろう。
私も一般隊士や隠が蛇に睨まれた蛙のようになっているのを見たことがある。
ただ、伊黒さんの名誉のために言うと怖いと言われているのは仕方のないことでもあった。
全ての柱と一部の隊士は一日中絶え間なく気を張り巡らせている。それは全集中の呼吸常中といって、これができる隊士は格段に強いと仲良くなった隠さんに教えてもらった。
全集中常中は常時臨戦体制と言い換えてもよく、触れたら切れそうな雰囲気を身にまとっており、それが近寄りがたさもにつながる。
鬼殺隊は常に死と隣り合わせだ。
肉体の限界まで鍛錬を重ねている伊黒さんでさえ、過去に一週間ほど意識が戻らずに命が危ぶまれるような怪我をすることがあった。
柱ですらそうなのだから、一般隊士は薄氷を踏むような思いで任務に備えていただろう。
最終決戦に備えて、全隊士に柱稽古の招集がかかった。
柱稽古で伊黒さんは、次から次へとくる隊士を機械のように捌いているように見えたが、それだけではなかった。
担当は太刀筋の矯正だったが、伊黒さんの真骨頂はその観察力と分析力だと思う。
伊黒さんは人の弱点を見つけるのが得意だった。
一度手合わせをすると相手の弱点が分かるようで、そこをネチネチと徹底的に攻める。
嫌なところばかり突いてくると愚痴を言う隊士もいたが、私の目には隊士たちが各々の弱点を克服して日に日に強くなっているように見えた。
どこまで伝わっていたかはわからないが、伊黒さんの厳しい言葉の裏には「誰にも死んでほしくない」という想いが垣間見えた。
庭一つとっても思い出がありすぎる。ありし日のことを思い出しながら、こっそり袖で目頭をおさえた。
続く
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