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10311. 匿名 2024/05/01(水) 21:17:46
>>660あくまで提案
>>4899新婚旅行
>>9763
「春の夜の夢」 第五話
今、わたしは列車に乗っている。
隣では伊黒さんが先日、銀座で買った本を読んでいる。
昨日「何かしたいことはないか」と唐突に聞かれ「そうですね。強いていえば、少し遠くに行ってみたいです」と答え、今に至る。
柱には各々の担当区域がある。
鬼の出現は神出鬼没なので、夜間は担当区域を離れることはほとんどなかった。
東京を離れるのは久しぶりだった。
熱海行きの列車に乗った時から、少し違和感があった。
なんというか、車両全体が浮き足だっているのだ。
その理由は、走り始めてから話しかけてきた隣の席の女性の一言でわかった。
「あなた方も新婚旅行ですか?うちもなんです」
尾崎紅葉の金色夜叉が一世を風靡してから観光人気が高まった熱海は、いつの間にか新婚旅行のメッカになっていた。
熱海駅を降りてからも、しきりに話しかけられる。
「新婚さんですか?良い旅を」
「旦那さん、これ奥さんにおすすめですよ」
その度に曖昧に笑ったり否定したりしていたけれど、宿に着く頃には少し疲れていた。
宿泊台帳を受け取って、記入しようとソファに腰掛けた伊黒さんが、驚くことを言った。
「がる子。あくまで提案だが、きりが無いからここにいる間は、俺たちの関係をあえて否定しなくてもいいのではないか?」
「え?でも、そうすると伊黒さんと夫婦だと思われてしまいますが」
自分で声に出した『夫婦』という言葉が妙に生々しくて、顔が熱くなった。
「そうだな。だが、さっきから君の反応は道ならぬ恋をしているようにしか見えないが、それは良いのか」
笑いを含んだ目で見つめられて、ドギマギした。
「それは……よくないです」
「そんな誤解を振り撒くくらいなら、礼の一つでも言っておけば良い」
「それに……」と伊黒さんは視線を落として付け加えた。
「あまり否定されるのも悲しい」
「……わかりました」
「では、これで出しておく」
にっこりと笑った伊黒さんは万年筆を台帳に走らせた。
『伊黒 小芭内
がる子』
続く
+29
-3
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10323. 匿名 2024/05/01(水) 21:28:53
>>10311
私ギャラリーなのに最後の名前見て照れながらジタバタしてしまった😇+23
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10335. 匿名 2024/05/01(水) 21:37:31
>>10311
読んでます♡お話から漂ってくるあたたかくて優しい雰囲気が大好きです。
+20
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10464. 匿名 2024/05/01(水) 23:13:03
>>1214花篝
>>4162もう少しだけ一緒にいたい
>>657推しと夜更かし
>>1224ひとりにしないで
⚠️プラトニックのつもりですが、どちら解釈でも良いので🐚つけておきます
>>10311
「春の夜の夢」 第六話
夫婦とみなされることを受け入れてしまってからは、格段に過ごしやすくなった。私の方は返事をするたびに頬に熱が上がってくるけれど、伊黒さんは声をかけられても「ありがとう」とさらりと受け流していた。そして、ゆでだこのようになっている私を見て笑っている。私はどんな理由でも伊黒さんが笑っているのが嬉しかった。
昼の混雑を避けて、私たちは陽が落ちてから外に出た。宿からほど近いところに桜の名所があるらしい。道の左右に篝火が焚かれ、桜が白く浮かび上がっている。先はどこまでも続いていて終わりが見えない。幽玄なその雰囲気は、足を踏み入れるのを躊躇わせた。
「桜は静かに準備をして、一気に咲き誇って花を散らす。見事なものだ」
伊黒さんの声を聞きながら見つめる先で、花は惜しみなく花びらを散らしていて、怖いくらい綺麗だった。
台帳にあのように書いたから当然といえば当然だが、部屋に二組ぴったりと敷かれた夜具には面食らってしまった。
こんな距離で寝られるわけがない。
「あの……あまりお見苦しい寝姿をお見せするわけにいかないので、私は隣で寝ます」
慌てて隣の間に移動させようと布団にかけた手を、そっと制された。
「俺は全然気にしないが」
「いえ、私が気にしますので」
「言い換えよう。俺がきみにいて欲しいんだ」
伊黒さんに見つめられると強く反論できない。
重なった手を握り直された。
浴衣の袖からのぞく手首が骨っぽい。すぐ隣から石鹸の良い匂いと熱を感じる。
「でも……」
「一人にしないで欲しいと言っても?」
畳み掛けるような言葉に胸が詰まった。
「……そんなこと言うの、ずるいです」
私の方が言いたい。
一人にしないで……
一人にしないで……
一人にしないで……
私を置いていかないで。
伊黒さんに会えなくなってから、何度声に出したか分からない。
気づいたら伊黒さんの胸に引き寄せられていた。
「君は我慢しすぎだ」
優しく背中にまわされた腕も、硬い胸板も、腕にサラサラ触れる髪も全部が愛しくて、幸せで泣きたくなった。
以前はあんなに夜明けを待ち侘びていたのに、朝が来なければいいと思った。
翌朝、目が覚めて起きあがろうとしたら、腰に回された腕が私を布団の中に連れ戻し、掠れた声が耳に響いた。
「もう少し……もう少しだけ一緒にいたい」
続く
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