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2674. 匿名 2022/10/28(金) 13:51:12
>>2617
うん、確かに和田義盛は「求めすぎたのでは?」って言われてますよね。ただし、吾妻鑑の記述では
義盛は3月8日に実朝と謁見して息子たちの処分を聞き、その日は異議を唱えることもなく退出していたようです。
ところが翌日の9日になると一族98人を引き連れて御所に押し掛けるという暴挙に出ているんですよね。まるで人がかわったように。
ちなみに吾妻鑑には義盛が実朝に述べた言葉も記されているようです。
「北条義時の言動があまりにも酷いゆえに、私のところの若い者達が、詳しい理由を問いただすために武装して向かおうと話し合っております。私が何度も諫めたのですが相手にされません」
要するに、和田一族の中で血気盛んな若手の行動を義盛は抑える事ができなかった、という記述です。
ただし「明月記」によると、義盛は、自分が「泉ちかひらの乱」の首謀者であるとの風説が流れ、義盛は実朝に弁明、許しを得たものの、御所での密議を耳にし、自分に対する嫌疑が晴れていないことを知り、挙兵を決意。とあります。+10
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