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2421. 匿名 2021/06/04(金) 21:29:53
水戸の門閥派と改革派の対立は斉昭が藩主になる時にはすでにあった
水戸家では8代斉脩が子供無く病弱であったため、その後に将軍家斉の子を押し付けられそうになった
家斉といえば53人もの子供を作った将軍
これはいわゆる押し付け養子で、幕府は財政を圧迫している家斉の子供たちを多くの藩に押し付けていた
幕府に迎合する門閥派は、斉脩には弟がいるがまともに生活のできない人間だから是非家斉の子供を養子にしたいと申し出た
これに憤慨した藤田東湖を中心とする改革派たちが斉脩死後、藩の禁を犯して無断で江戸へ急行し斉脩の弟を擁立するため奔走した
斉脩には遺言があり、弟にあとを継がせるとあったため弟が後を継いだ
この弟、門閥派たちに暗愚であるとされた人物こそ徳川斉昭+10
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2423. 匿名 2021/06/04(金) 21:37:16
>>2421
これがあったから斉昭が改革派を重んじるのも無理はない+11
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2426. 匿名 2021/06/04(金) 22:05:58
>>2421
そもそも将軍家が養子を押し付けてこなければ起こらなかったいざこざ
最初から斉昭を立てておけば、斉昭も改革派だけ贔屓にはしなかったかもしれない+8
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2446. 匿名 2021/06/05(土) 23:48:47
>>2421
斉昭が藩主に就任したとき、その誹謗中傷した家臣を呼び出して
「余はこのとおり、目も見えるし、手足も揃っておるぞ。」
とわざわざ言ったエピソードが残ってるね。
当然その家臣は冷遇されたけど、幕末と違って処刑されるなんてことはなかった。
斉昭兄の斉脩の遺書だけど、発見のタイミングが良すぎる&現物が残ってないので割と早くから捏造説があったけど、
遺書の内容に継嗣問題とは関係ない、葬儀は簡素にとか、諡号は何にとか、月命日は斉昭の得意な琵琶を弾いて弔ってほしいとかあるのと、
何より反対派がこの遺書発見で一切反論せず黙った、ということから実際にあったのだろうと言われている。
斉脩と斉昭は仲悪くなかったんだが、斉脩が周囲を気にする優しすぎる性格であったため、近臣に遺書を預けてた。
慶篤はこの伯父さんにちょっと似てる。それとも生まれながらの後継ぎってこうなるのか。+7
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