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2208. 匿名 2021/06/01(火) 21:01:49
>>2197
それは、おそらく無理だったかもね・・・
というのは、烈公が水戸藩主になる直前に、水戸では次の世継ぎを誰にするかで、一揉めあった。
藩主の長男が亡くなり、その弟(のちの烈公)にするか、それとも将軍家斉の息子の一人を養子として迎えて、幕府との関係を強化して水戸藩の安定化を図るかで割れた。
前者を推したグループが天狗党のルーツで、後者を推したグループが書生党のルーツ。
結果的に烈公の藩主就任が実現し、天狗党(のルーツ)が勝った形になった。
その時から、実は藩内では二派の争いがくすぶっていた。
結果的に、水戸家は初代の徳川頼房以来、一度も断絶することなく一本の血筋で続く事になったけど、藩内の内紛の芽がそこで芽生えてしまったわけで。
しかし、烈公も単なるイケイケ攘夷論者ではないし、そのブレーンの東湖も軽率な人物ではなかったのは重要だと思う。
烈公はただの異人嫌いではなく、横浜から英字新聞を取り寄せて翻訳させ、西洋事情も調べてもいたし。
要は、彼らを祭り上げている側が、彼らをご本尊にして暴れてしまったという事だと思う。+36
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