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【プロ】好きなピッチャー【野球】

335コメント2017/10/25(水) 23:41

  • 158. 匿名 2017/10/08(日) 19:21:49 

    パイオニア野茂英雄

    当時近鉄は仰木監督退任から鈴木監督に。
    鈴木は野茂の調整法だけでなく、野茂にひたすら走りこむことを要求し
    野茂独自の練習を否定。
    慣れない調整方法や練習方法の変更の影響か、野茂は鈴木就任の翌年(1994年)、右肩の故障などで成績が低迷して入団から続けていた最多勝と最多奪三振のタイトルを逃してしまう。

    契約更改で任意引退書にサイン

    タイトルを逃した1994年の年末、契約更改に臨んだ野茂は複数年契約や代理人交渉を球団に要求する。当時ではこれらは通例にない要求だったため球団は拒否し、交渉は紛糾した。
    過去にも球団から「キミ(野茂)のことはエースとして扱っていない」と言われるなど関係が良くなかったこともあり、野茂は1995年、任意引退という形でメジャー挑戦を明らかにした。

    マスコミとプロ野球界からのバッシング

    メジャー挑戦を表明した野茂を待っていたのは、応援ではなくバッシングだった。
    新聞や球団、プロ野球OBなどから「態度が悪い」「既に肩は壊れてる」「メジャーで通用するわけがない」「すぐに逃げて帰ってくる」「勘違いで自意識過剰」「生意気」などと散々に批判されることに。

    野茂はそれらの批判に対して一言も反論せず、沈黙を貫いたまま黙々とメジャーからの契約を待ち続けた。

    ドジャースへ入団
    メジャー挑戦表明から一ヶ月経った1995年2月8日、野茂はロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結んだが年俸は近鉄時代の1億4000万円から980万円のマイナー契約。「みんなに憧れられる選手になりたい。自分はこれから続く人(メジャー挑戦)のためにも失敗は出来ない」
    メジャー初年度の野茂は奪三振のタイトルを獲得し大活躍し、新人王に選ばれた。
    「トルネード投法」で奪三振を取りまくる野茂に野球ファンも熱狂しNOMOマニアという言葉まで生まれた。その後も活躍を続けてドジャースとレッドソックスでノーヒットノーランを達成。メジャー史上4人しか達成してない両リーグでのノーヒットノーラン達成者となる。2008年に引退。
    野茂は自ら立ち上げた「NOMOベースボールクラブ」などを通して野球の裾野を広げる努力を続けている。

    大バッシングを受けながらも先駆者として覚悟を持ってメジャーに挑戦し結果を出して道を切り開いた野茂を尊敬してる。

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